あー……だりぃ。 大して力を使う仕事でもなかったんだが、俺も歳か? いや、認めん。 断じて、認めんぞ。 俺はまだ若い。 ヅラとは違う。 そんなことをボヤキながら、 「帰ぇったぞー…」 と我ながら疲れ切った声で言い、我が家の戸に手を掛けた。 手を掛けただけで止まったのは、突然目眩に襲われたからだ。 二日酔いでもねえのに目眩って、いよいよ危ねーな。 と思いながら俺は戸にもたれかかるようにして、目眩をやり過ごそうとした。 ――はずだった。 ここはどこなんだ? 異空間とやらには不本意ながら何度も連れこまれてきたが、ここは今までのどれとも違っていた。 まず、人がいる。 明らかに現実なんだと分かるほどの活気が、辺りには満ちている。 電気のついていない看板なんかに書かれたいかがわしげな文字からして、歓楽街なんだろうか。 しかし、ネオンらしいものがある割に、道を歩いている人の多くの服装は着物だ。 どうなってんだ、一体。 またハルヒのせいだろうなと思うと気が軽くなるのは、それなら長門が何とかしてくれるだろうと思えるからだ。 頼んだぜ、長門。 ため息を吐きながら髪に触れると、やけにふわふわしていた。 どうやら、変化したのは辺りの様子だけではなかったらしい。 よく見るまでもなく、着ている服も変わっている。 着物と洋服を合わせたような妙な服だ。 腰には木刀。 一体どんなところなんだ、ここは。 今の状況については、なんとなく察しがついていた。 SFなんかにあるよな。 気がつくと、他の誰かと入れ替わってたとか、そういう話が。 ただ、そういう時のセオリーとしては、一緒に車に轢かれたとか、一緒に階段から落ちたとか、つまりは誰かと一緒に危険な目に遭うという条件があったはずなのだが、俺にはそんな覚えはない。 というか、こんな天然パーマの知り合いもいないぞ。 一体俺は誰になってるんだ、と考え込んでいると、目の前の引き戸が開いた。 「銀ちゃん、そんなところで何やってるアル」 アルってまた古めかしい語尾だな、おい。 しかし、このチャイナ服姿の少女にはぴったりかもしれない。 で、銀ちゃんってのがこの身体の持ち主なのかね。 黙り込んでいる俺を訝しんだのか、彼女は顔を顰め、 「さっさと部屋に入るアル。今日の食事当番は銀ちゃんヨ。疲れたって言ったら明日の当番も銀ちゃんにしてやるアル」 理不尽にそう言い放った彼女に、俺は意を決して尋ねた。 「悪いんだが、俺は銀ちゃんとかいう奴じゃない」 俺にもわけが分かっていないんだが――と言おうとした俺に向かって彼女は怒鳴った。 「また記憶喪失アルかぁあああああ!!!」 怒鳴っただけならまだしも、蹴り飛ばされる。 そして俺の身体はいとも簡単に吹っ飛んだわけなんだが、俺の立っていた場所は二階であり、後ろにあったのはちゃちな木製の柵だけだ。 つまり俺は思いきりよく地面へとダイブした。 地面に着く前に失神出来たのは、幸運と言ってもいいくらいだろうな。 目を開けると、見慣れない天井が目に入った。 背中や腰がずきずきと痛むんだが、二階から落下したにしては異常なほど軽い痛みだろう。 以前落下したことがあるわけじゃないから断言は出来ないが。 「よっ……と」 手で支えながら上半身を起こすと、流石に節々が痛んだ。 「あ、銀さん、大丈夫ですか?」 声のした方へ目を向けると、眼鏡を掛けた俺と同い年くらいに見える奴が立っていた。 着てるのは……着物に袴か? どうやら、まだ妙な世界にいるらしい。 彼は俺の布団の横に腰を下ろしながら、古泉のとは違う、柔らかな苦笑を浮かべた。 「神楽ちゃんからいきなり、銀さんがまた記憶喪失になったって言われて、びっくりしたんですよ。僕が来たら、銀さんは地面にめりこんでたし」 いや、それ、笑って言うところじゃないだろ。 というか、この身体どんだけ丈夫なんだよ。 「銀さん?」 訝しむ彼に、なんと言うべきか、俺は考え込む。 下手をするとまた正気を疑われる気がする。 さっきのチャイナ娘と違って、彼なら蹴り出しはしないだろうが、どうするべきかな。 「銀さん、大丈夫なんですか?」 ずいっと顔を近づけられ、俺は軽くのけぞってそれをかわしながら頷いた。 「あ、ああ」 しかし、近頃は古泉に顔を近づけられてもなんとも思わなくなって来てたから、てっきりあの距離感に慣れたのかと思ってたんだが、単純にあの顔に慣れただけだったんだな。 「銀さん、なんか変ですよ。何かあったんですか?」 「あー……落ち着いて聞いて欲しいんだが、」 「はい?」 「俺は――」 と俺が始めた、彼にしてみれば気違い染みた自己紹介を、彼は唖然としながらも最後まで聞いてくれた。 「…というわけで、俺は銀さんとやらじゃないんだが、信じてもらえないか?」 彼は困ったように、 「嘘を吐いてるようには見えませんね」 と言い、 「じゃあ、銀さんはどこへ行っちゃったんですか?」 断言は出来ないんだが、多分俺と入れ替わりに俺の身体にいるんじゃないだろうか。 それなら、俺のいた世界にいるはずだし、そうであれば力強い仲間がいるから、そう遠くないうちに何とかしてくれると思うんだが。 「ところで、」 と彼は唐突に言った。 「家から持ってきた歯の浮くように甘い羊羹があるんですけど、食べますか?」 突然何を言い出すんだ。 というかそもそも「歯の浮くよう」と形容されるような羊羹を食べたがるような奴がいるんだろうか。 どうしても食わなきゃならないんだったら、濃くて渋い緑茶を添えてくれ。 「……本当に、銀さんじゃないんですね」 驚いた顔で言われた。 なんだ、その銀さんとかいう奴はそんなに甘いものが好きなのか。 「糖尿になりかかってるくらい好きですよ」 ……嫌な体に放り込まれたもんだな、おい。 「でも、これで信じられます。あなたは銀さんじゃない」 信じてもらえたのはありがたいが、なんとなく釈然としないのはなんでだろうな。 「僕は志村新八と言います。どれくらいの間になるか分かりませんけど、よろしくお願いしますね、キョンさん」 結局そのあだ名で呼ばれるのかよ。 わざわざ言うんじゃなかった。 と思いつつ、俺は、 「…よろしく」 と言うしかなかった。 しかし、彼にこうして打ち明けたのはどうやら正解だったらしい。 この体の持ち主よりも信用されているらしい彼の言葉で、神楽とか言うあのチャイナ娘も俺の言うことを受け入れた。 「本当に、銀ちゃんじゃないアルか」 俺は頷きながら、とりあえず現状把握に努める。 だが、本当にどう言う状況なんだろうな。 万事屋とかいう便利屋家業を営んで糊口をしのいでいるというのは分かったが、それでどうしてこんな女の子と同居してるんだか。 しかも志村と神楽の言葉によると、この体の持ち主である坂田銀時――金太郎のパクリか?――という人物はちゃらんぽらんでいい加減な人間なんだそうだ。 そう言いながらも嫌っている様子はなかったから、そう悪い奴じゃないんだろうが、余り出歩かない方がいいだろうな。 初めて長居しても不快じゃないと思われるような世界に来たんだから見物ぐらいしてみたかったんだが、諦めよう。 そうため息を吐いたところで、志村が俺を見ているのに気がついた。 「どうかしたのか?」 「いえ、…銀さんの体なのに、中身が違うだけでこんなに違って見えるんだなと思っただけですよ」 へぇ、どう違って見えるんだろうか。 「銀さんはもっと無気力そうで、どうしようもない感じに見えますからね」 それは俺も人のことを言えないと思うんだが。 「キョンさんはしっかりしてるように見えますよ。こんな状況になったら普通もっと慌てていいと思うのに、そんなことも全然ないみたいですし」 それは慣れの賜物だな。 もうずっと奇妙奇天烈この上ない状況に巻き込まれ続けだから、少々のことじゃもはや動じることもないに違いない。 まあしかし、こうして座っていてもいいことはないだろうし、何かやるとするか。 「何をです?」 「とりあえず、」 と俺は苦笑いを浮かべ、 「ここの掃除だ」 汚いわけじゃないが、なんとなく雑然として気に食わない。 部屋の隅に円く埃も残ってるしな。 ここの住人が不在な以上、あまり大掛かりなことは出来ないだろうがそれでも埃を払うだけでも多少は違うはずだ。 腕が鳴る、と笑った俺に、神楽と志村がふたりして顔を見合わせていた。 そうやって掃除をしていると、階段でけたたましい音がして誰かがやってきた。 誰だ、と思う間もなく戸が開き、飛び込んできたのは若い女性だった。 誰かと聞く前に、志村が声を上げた。 「姉さん? どうかしたの」 志村姉か。 「銀さんが面白いことになってるって聞いたからきたのよ」 と微笑む志村姉は美人だと思う。 思うんだが……なんだろう、この嫌な迫力は。 というか、こんなことになってるとどこで聞いたんだ。 既に噂になっているとでも言うんだろうか。 思わず後退りかけると、彼女は俺に目を向け、 「はい、これ、お見舞いのアイス」 「あ、ありがとうございます」 「…本当に銀さんじゃないみたいね」 つまらなさそうに呟いたが、この人との関係は一体何なんだろうか。 甘い関係ではないことは、この体が拒絶反応を起こしそうになっていることから分かるんだが。 どことなく居心地の悪い空気に堪えかねて、俺は言った。 「すみません、今はちょっと立てこんでるんですが、よかったら夕食食べて行きませんか? 俺が作るんで」 普通なら、そう言えば帰るだろうと思ってのことだったんだが、この人もどうやら普通ではなかったらしい。 「あっ、ありがとう〜。じゃあお邪魔させてもらうわね」 とちゃっかり言われてしまった。 どうでもいいが誰かこの人の名前を教えてくれ。 棚にはたきを掛けていた神楽が言った。 「姉御は姉御アル」 姉御って、どういう関係なんだよ。 呆れる俺に志村弟が、 「妙です。志村妙」 と教えてくれた。 「はあ、それじゃ妙さん、いつまでになるか分かりませんがよろしくお願いします」 「こちらこそよろしくね。銀さん」 銀さんじゃないんだが、分かっててやってるんだろう。 というかこの人に逆らうのはまずい気がする。 根拠はないが。 そう思い、大人しく握手を交わしたところで、 「貴様どういうつもりだ!」 と怒鳴られた。 驚いて声のした方を見ると、やけに野性的な顔つきをした男が窓に張り付いていた。 ……ここ、二階だよな。 「あれ何」 答えたのは妙さんだった。 「通りすがりのゴリラですぅ」 確かにゴリラには似てますけど、どう見ても人間だと思うんですが、この世界ではゴリラ的な人間は即ちゴリラなんですか。 それともゴリラがそこまで進化したんですか。 「どちらでもいいじゃないですか」 いやでも、何か叫んでますよ。 「お妙さああああん!!!」 とか、 「お妙さんに何かしやがったらその白髪引きむしるぞおおおお!!!」 とか。 返事しなくていいんですか? 「何も聞こえませんよ。銀さん、とうとう耳までおかしくなったんじゃないの?」 …そうですか。 もうなにも言うまい。 俺は妙さんと神楽が二人してゴリラ的な何かを突き落とすのを視界の端に捉えながら、見ないフリをした。 「お前も大変だな」 志村弟に言うと、彼は苦笑しながら、 「いつもよりはずっとマシですよ」 自分の不遇を嘆くのはやめよう。 彼の立場に比べたら、俺のなんて随分マシだ。 結局俺は自分を含めて六人分の料理を作る破目になった。 増えたのは一階に住んでいる大家さんたちの分も作ることになったからだ。 まあ、四人分作るのも六人分作るのも大した違いじゃないからかまわない。 構わないんだが……料理をしながらなんとなく寂しく思ってしまうのは、古泉が今頃どうしているのか分からないからなんだろうな。 かなりとんでもない人物であるらしい銀さんとやらがどれだけ暴れ回っているのだろうかと思うと、胃が痛む。 そして多分、それを最小限に抑えようと古泉が苦労しているんだろうと思うと余計にだ。 すまん、古泉。 俺のためだと思って頑張ってくれ。 「何ため息吐いてるアル」 と言われるまで気がつかなかったが、神楽が俺の顔をのぞきこんでいた。 「いや、なんでもない」 「何でもないようには見えないヨ。早くもホームシックアルか?」 にやにやと俺の横腹を小突きながら言った神楽に、俺は苦笑するしかない。 「かもな」 神楽はきょとんとして、それからにっと笑った。 「それなら私が慰めてやるアル」 ありがたく思えヨ、と言って神楽は俺の腰の辺りに抱きついてきた。 「何やってんだ?」 妹と年が近いからか、女の子に抱きつかれてるという感じはしない。 子供に懐かれてる、というだけだ。 古泉が甘えてくる感じに似ているかも知れない。 もちろん、神楽の方がよっぽど可愛くて、古泉だといくらかの不快感を伴わないでもないのだが。 「少しは寂しくなくなったか?」 そう問われ、俺は小さく笑いながら、 「少しだけな」 と答えた。 答えながら頭を軽く撫でてやると、神楽はくすぐったそうに目を細めた。 もしかすると、神楽の方こそ寂しかったのかも知れないな。 その後、妙さんにこの状況を見つかり、 「このロリコンが!」 と罵られ様、殴られなければいい話で済んだだろうに、そうはいかないのがこの世界のようだった。 気絶するまで殴られる経験なんて、滅多に出来ないだろうし、それを自分の体ではなく他人の体で出来たというのはある意味よかったのかもしれないが。 まあ、そんな感じで、俺は意識を失ったようだった。 目が覚めると、自分の布団に寝ていた。 今までのはなんだ、妙な夢って奴か。 まあなんだって構わん。 なんでか顔も痛いし、寝直そう。 と思った時に限って、神楽はとっとと起こしに来るらしい。 「銀ちゃん! 起きるアル!!」 ばかでっかい声で叫びながら人の腹の上に遠慮の欠片もなく跳び乗りやがった。 せっかく食ったパフェが上と下から食み出たらどうしてくれるんだこのヤロー。 いや、あれは夢だったのか? どちらにしろ精神的に勿体ねーから止めろ。 「……いつもの銀ちゃんアル…」 神楽はぽかんとした目で俺を見た。 「なんだぁ? 寂しかったのかぁ? ったく、お前もまだまだ乳臭ぇガキだな」 「さ、寂しくなんかなかったアル! むしろ、あっちの銀ちゃんのままでも無問題ヨ!!」 変なところで意地を張る神楽に笑っていると、新八が駆けつけてきた。 感激したようなその間抜け面を見ながら思う。 ――もう少し、甘いもん食っときゃよかったな。 |