いつものように部室に向かう。 歩くスピードやなんかを意識的に変えない限り、所要時間は一定になっているんだろうから、おそらくいつもと同じだけの時間を掛けて。 そろそろ目を閉じたままでも辿り着けるようになっているに違いない。 それを実際に試みるほど、俺は馬鹿ではないが。 しかし、このところハルヒも静かで、俺の学校生活は至って静かだ。 それを物足りないと思うほど俺は贅沢じゃない。 何より、ハルヒが静かな分気が抜けているのだろう古泉が時折ポカをやらかしてくれたり、俺に構ってくれと懐いてくるものだから、俺の運動量そのほかに変化はないんだろう。 古泉は確かに可愛いが、余りに懐かれ過ぎても困るな。 おかげで、俺に着せられた濡れ衣は消えてくれないんだから。 やれやれ、とため息を吐きつつも部室に行くのは、行かないとハルヒの機嫌が悪くなり、古泉が危険な目に遭ってしまう可能性があるからだ。 だが同時に、行かなかった時に古泉が泣くか喚くかするだろうことを考えると、一度くらい無断でサボってみてやってもいいかもしれないと思う俺は、どうやら自分で思っていた以上にサドっ気が強いらしいな。 そんなこと、知りたくもなかったが。 まあ、それも含めて、あの部室で過ごすのは俺にとっても楽しく、快いものになっているから、別にサボる必要はない。 俺はドアをノックしようとしてよろめいた。 目の前が回るのは何でだ? ああ、目眩か。 そう理解したところで目眩が治まるわけではないのだが、とりあえずそれをやり過ごそうと、ドアノブに手を掛けてその場にしゃがみこんだ。 ――はずだったのだが。 ……んだぁ? ここ。 見覚えのない建物だな。 造りはターミナルの感じに似てるが、あそこまで金属っぽくもねえ。 一体どうなってんだ? ――あー、夢か。 どうせ夢なら結野アナとよろしくする夢でも見たいもんだが。 がりがりと頭を掻いて、俺は首を傾げた。 何かおかしい。 俺の頭は頑固かつ屈強なまでの天然パーマのはずなんだが、今触れた髪の感触はどう考えても指に馴染んだその感触じゃなかった。 夢の中だから夢のストレートヘアーが降臨したのか? んなまさか。 そんな希望を叶えてくれるくらいなら、先に結野アナが出てくるだろ。 それかあれだな。 目の前にこう、どーんっとどでかいチョコレートパフェが現れるとか。 ところが俺の目の前に現れたのは、どーんっとどでかく、かつ魅力的な胸だった。 「キョンくん、どうかしたの?」 顔を上げると、その胸の持ち主の顔が見えた。 こりゃまた美人だな。 顔に似合わず背が高い…って、アレ? 俺がしゃがんでんのか? 「えーと、どちらさん?」 立ち上がりながら、俺はとりあえず言ってみた。 声に違和感はないが、どうなってんだ? 俺の外見だけが変わったとかか? すると彼女は驚いて、 「みくるです。キョンくん、どうしちゃったの…?」 怯えるように震える声で言った。 「俺はキョンくんなんて名前じゃなくて、坂田銀時っつーんだけど?」 「――え」 小さく呟いた彼女の背後に、もう一人、やけに硬い顔をした女が現れた。 動いた気配がなかったぞ、おい。 「時空の歪曲による情報の混乱を感知。今の彼は本来の彼ではない」 最初の女が驚いた顔をして、俺ともうひとりを見比べた。 一体何がなんだっつうんだ。 わけが分からん、と思っているうちに俺は、その部屋の中へ連れこまれた。 そうして説明されたのは、ここが俺のいたのとは別の世界で、どうやらここにいるはずの、この身体の持ち主と精神が入れ替わっているとのことらしい。 ついでにされた説明によると、胸がでかいくせにちっせえのは未来人の朝比奈みくる、背もちっさいが胸もちっさいのは宇宙人の長門有希、俺以外でただひとりの野郎が超能力者の古泉一樹だそうだ。 なんつーか、無茶苦茶だな。 今ここにいない、この妙な集まりの団長とやらはさらに無茶なもので、神様だかなんだからしい。 いくら説明されても分からないなら、適当に割り切った方がマシだ。 とりあえず重要なのは、 「つまり、この身体は俺の身体じゃないんだな?」 「そうですが」 と不審がるような顔をしたのは古泉だった。 「何か、企んでませんか?」 「さーな」 「……言っておきますが、その身体はあなたのものではないんです。それを損ねたり、彼の名誉を傷つけるようなことがあれば、許しませんよ」 「うるせーな。お前はこいつの保護者か? あん?」 「友人として心配しているんです。で、どこへ行くつもりです?」 俺がそろそろと出口の方へ移動していたのを目敏く見つけやがった。 もう少し距離を詰めておきたかったんだが仕方がない。 「俺はな、血糖値が高くて医者に甘いもん食い過ぎんなって言われてんだよ」 「それが何だって言うんです」 「せっかく健康な身体の中にいるんだ。思う存分糖分摂取したところでバチはあたらねーだろ」 言いながら俺は駆け出した。 「待ってください!」 とヤローに言われて止まるわきゃねーって。 結野アナなら時速100キロで走ってても止まってみせるが。 どっちに行けば甘味屋があるか知っているはずもないが、俺は自分の直感の告げる通りに走った。 「見つけましたよ」 恨みがましい声に顔を上げると、全力疾走のせいか顔を赤くした古泉がいた。 息も上がってるが、その程度の体力しかないようじゃあやってけねーぞ、おめー。 「あなたがどこに行ったか分からない以上余計に走るしかなかったんですから仕方ないでしょう。それで、」 と古泉はテーブルいっぱいに広がる俺的パラダイスに冷えた目を向け、 「どれだけ食べるつもりなんです?」 せっかく珍しいパフェとかケーキとかあるんだから食わなきゃ損だろ。 「それにしたって食べすぎです。本来のあなたなら堪えられても、彼の体が堪えられるとは思えませんね」 「かてーこというなよ」 俺が言うと古泉はすっと目を細めた。 と言っても笑ったわけじゃない。 冷ややかな目を俺に向けたのだ。 新八怒らせるとこんな顔をするんだが、こいつも怒ってんだろうな、多分。 「なんだ?」 俺が聞くと、古泉はそのままの冷たい目で、 「ひとつ聞きたいのですが、あなた、お金持ってるんですか?」 「財布ならポケットに入ってたぞ」 「それはあなたのお金ではなく彼のものでしょう」 「そいつは今俺の体にいるんだろ。それなら俺の金で好き放題してるだろうよ」 そう出来るだけの金があるかは微妙なところなんだが、まあ働いて金をもらってきたばっかりだったから、いつもよりはマシだろう。 「あり得ませんね。たとえお金があったところで、彼は使わないでしょう」 やけに自信満々に古泉は言った。 なんだおめー、そいつのことどれだけ知ってるんだ? 「さて、どれだけでしょうね。少なくとも、あなたよりは遥かによく知っているわけですから、僕の忠告を聞き入れてくださってもいいんじゃありませんか?」 忠告? そんなもんされたか? 「ここの代金は僕が立て替えます。だから、これ以上の暴飲暴食はやめていただきます」 カリカリすんなよ。 イチゴ牛乳でも飲むか? 「結構です。それより、さっさと食べたらどうです? 僕としてはあなたの姿が彼の友人に見つからないかが非常に気がかりでなりませんから、早いとこ、ここを出たいんですが」 まあ座って待ってろ。 というか、俺はどうすりゃいいんだ? こいつの家に行ったんで構わねーのか? 「僕の家へ来てください。あなたをひとりで放り出すのは危険なだけでしょう」 お前の家に? 「何か、不都合でも? 僕の家に泊まるのでしたら、ご両親も何も心配しないでしょうから、一番いいと思うのですが」 ヤローの家に泊まって何が楽しいんだと思うが、その口ぶりからして珍しいことでもないらしいな。 これが世界の違いってやつなのか、それともこの年頃のガキってのはみんなそうなのか。 …ああ、こいつらが普通と違ってる可能性もあるな。 「何か失礼なことを考えてませんか?」 「べっつにー?」 古泉の凍りつくような目から顔を背けながら、俺は残っていたケーキにフォークをつき立てた。 そうして古泉と共に喫茶店を出ると、並んで歩きだした。 「頼みますから、あまり目立つことはしないでくださいよ」 それは分かったがなんでそこまで顔を近づけてくるんだお前は。 「失礼。ただの癖ですよ」 嫌な癖だなおい。 まさか男色だとか言わねぇだろうな。 俺が言いがかりをつけても、古泉は小さく笑って、 「その方がいくらか話は単純で済んだでしょうね」 なんだそりゃ。 「明日の朝にはあなたは元の世界に戻り、二度と会うこともないのでしょう。だから言ってしまいますが、」 と古泉は口元を押さえながら言う。 「僕は彼に――あなたが今いるその体の持ち主のことが好きなんですよ」 ホンモノかよ。 「いえ。僕はあくまでもノーマルなヘテロタイプですよ。ただ、だからこそ、彼を独占したいと思う自分が理解できないわけです。彼は友情による独占欲もあると言ってそれを認めてくれていますが、僕はまだ納得しきれないんでいるんです。こう言ってしまうのもどうかと思いますが、彼はいたって普通の人間です。突出した何かがあるとしたらそれは、近くにいる人間を穏やかな気もちにさせてくれることくらいで、それも万人に通用するわけではありません。それなのに何故、僕はここまで彼に執着しているのか、それが分からないんです」 そう言って古泉は笑ったが、それはどうやら自嘲らしい。 俺はふんと鼻で笑い、 「落ち着いてると思ったが、実際はそうでもないみたいだな」 「全くその通りですね。僕は実年齢以上に子供で、どうしようもないものですよ」 「――俺もな、色々と悩んで躊躇って生きてきたが、そうやって無理してる間は大変だったぜ」 何しろ、拾い上げるもの拾い上げるもの皆この手から零れ落ちていくんだからな。 自分があまりにちっぽけでどうしようもないってことを知るまで、大変だったさ。 でもな、それを知ったら、ずっと楽になった。 俺は尊敬されるようなものでも憧れられるようなものでもない。 マダオとかちゃらんぽらんだとか言われて、どうしようもない男だと言われる方がずっと合ってるんだ。 自然でいる俺についてきてくれる奇特なやつらもいるしな。 まあとりあえず、困ったら甘いもんでも食って考えりゃいいのさ。 糖分が頭に回ればうまく行く時もある。 それでも失敗したって、どうやったって挽回出来ない失敗なんざそうあるもんでもねえし、若いうちはとりあえずやってみりゃいいのさ。 「――そうかもしれませんね」 と古泉は笑った。 俺はまだなんとなく疲れて見えるその顔に呆れながら付け足した。 「さっきの喫茶店ならオススメはチョコレートケーキだ」 こってりし過ぎず、しかし濃厚で美味かった。 「…覚えておきます」 と古泉は微笑んだ。 さっきよりはいくらかマシな表情で。 大体、万人受けしなくても、自分だけに重要な要素を持った奴だっているだろうよ。 そうじゃなきゃ、俺についてくる奴等がいる理由が分からねーしな。 適当に店を冷やかしながら連れて行かれた古泉の部屋は、妙に立派な高層マンションにあった。 親の金で学問やってるようなガキが住むような場所には見えないんだが、これがこっちじゃ普通なのか? 「普通ではないでしょうね。ちょっとした特例ってところです。覚えていかれたところで、何の利益もないと思いますが」 言いながら古泉がピンク色のふりふりしたエプロンをつける。 俺も人のことを言えた義理じゃないが、どういう趣味だよ。 「もらいものなんです」 言いながら古泉は小さく笑ったが、断言してやる。 お前、それ気に入ってんだろ。 どう見ても使い込んでるようにしか見えん。 「それより、夕食はどうします? 食べられそうですか?」 さっき糖分を摂取したところだからそんなに腹は減ってないんだがまあ食える時に食っとくべきだろうな。 「分かりました。それじゃあ作りますけど……リクエストも苦情も受け付けませんよ。あなたに聞いたら、デザートだかおかずだか分からないことになりそうだ」 そんなこともないと思うんだが、まあ作ってくれるっていうなら黙っておこう。 そう言えば今日は俺が食事当番だったと思うんだが、どうなったかな。 俺の代わりに行った奴が作ってるんだろうか。 古泉の料理は特に言うべきこともなく、普通の味に出来映えだったが、古泉曰く、これでも以前よりうまくなったとのことなので、その「以前」に食わされなくてよかったと思った。 「あなたのおかげで、分かったことがひとつありますよ」 笑いを帯びた声で古泉が言ったのは、古泉が布団を敷いている時だった。 「僕は彼があのような性格の人だからこそ、彼が好きなんだと言うことです。外見には関係なく、ね」 それくらい分かりきってたんじゃないのか? 「そうですね。一応、分かっているつもりではいましたけれど、こうして実感するとやっぱり違いますよ。あなたに感謝してもいいかも知れません」 別にそんなもんはいらねーよ。 どうせならアイスでも振舞ってくれ。 「甘い物はもうだめです。十分過ぎるほど食べたでしょう」 新八以上にけち臭い奴だな。 お前は俺のオカンか、コノヤロー。 不貞腐れながら布団に潜りこみ目を閉じると、疲れていたのかあっという間に眠れた。 体力のねー体ってのは嫌だな。 目を開けると、古泉の部屋の見慣れた天井が見えた。 帰ってきたのか。 顔を横に向けると、思った通りの位置に古泉のベッドが見える。 枕元に放り出してある古泉の携帯を取り、時間を見るとまだ起きるには早かったが、帰れたということの方が重要だろう。 俺はベッドに腕を掛けると、古泉の額を突いてやった。 少し間があって、古泉が目を開ける。 俺はそのいくらか間の抜けた顔に笑みを浮かべながら、 「おはよう。それと、ただいま」 大きく見開かれた古泉の目が、くしゃりと歪む。 と思ったら、抱きしめられていた。 「よかった…っ」 今にも泣き出しそうな声で言われては、苦笑するしかない。 長門を信頼してればそこまで心配することもないんじゃないかと思うんだが。 「長門さんのことは信じてますよ。でも、それ以上に、あなたのことが心配でならなかったんです。本当に、無事戻ってきてくださってよかった……」 俺も、戻れてよかったよ。 言いながら古泉の頭を撫でてやる。 長門に礼を言わなきゃなと思いつつ、放課後会ってからでいいかとも思うのは、たった半日ばかり離れていただけなのに、懐かしくてたまらないからだ。 いや、問題は時間ではなく、もう戻れないかもしれないという不安を抱きながら、別の世界で過ごしたことなんだろう。 もう二度とごめんだ、と思わないでもない。 だが、――こういうと古泉に泣かれるような気もするんだが――こういうのも、面白くてよかったかもしれない。 俺は、あの世界の乱暴で愉快で、それなりに親切な連中にむかって、心の中で礼を言い、次いで、どうやってこの図体のでかい泣き虫野郎を大人しくさせるべきか考えはじめるのだった。 |