犬話

今、部室にいるのは俺とハルヒ、それから長門と朝比奈さんだけだ。
古泉の姿はない。
昨日の帰り際にハルヒに言っていたのは、
「明日はバイトがあるので、欠席させていただきたいのですが」
という言葉であり、ハルヒも快く了承していた。
あいつのバイト、というとあの青くてばかデカイ代物を倒すだけだと思われているかもしれないが、実はそうじゃない。
あいつが言っていた通り、あいつの任務とやらにはハルヒの監視が含まれているわけだから、その報告もあいつの仕事なワケだ。
あれもこれもと、まったくご苦労なこった。
それで成績がいいんだから、多分元々のものが違うんだろうな。
まあしかし、あいつがいないのはかえって都合がいい。
それに今日は金曜で、明日は休み。
市街地探索の予定もなし。
これだけいい条件が揃ってるんだ。
思う存分試してやろうじゃないか。
何をだって？
見てりゃ分かるさ。
「古泉って、犬っぽいよな」
決して大きくはないが、ハルヒの耳には十分届く声の大きさで俺が呟くと、思った通り、ネットサーフィンにも飽きて来ていた団長が食いついた。
「そう？　まあ確かに、優等生っぽいところは血統書つきの中型犬みたいに見えるわね」
俺が言いたいのは優等生云々という部分じゃない。
「じゃあ何よ」
例えば古泉が何かボードゲームをしようとする時に、俺の方に向かってそれを見せて首を傾げて見せることがある。
あれなんか、遊んで欲しい犬がおもちゃのフリスビーやなんかを持って来るのに似てると思わないか。
「うーん…そうね……」
お前のやることに一々反対せずに、はいはい従うのも、訓練された犬みたいだしな。
となると、飼い主はお前か。
「あんたの方がよっぽど仲良くしてるくせに何言ってんのよ」
お前こそ、何を言ってるんだろうな。
あいつは俺の頼みとお前の命令なら絶対にお前の方を優先させる。
断言したっていいね。
だから俺は飼い主じゃない。
せいぜい、トレーナーとか世話係とかだな。
「じゃあ、どんな犬かしら」
――とまあ、そんな感じで、俺とハルヒはその日古泉がいかに犬のようであり、かつどんな犬に似ているかということについて、インターネットで犬の写真を探すことさえしながら、語り通したのだった。
俺とハルヒが盛り上がっているのを、朝比奈さんは微笑ましげに見ており、時折ハルヒに話題を振られては困ったような声を上げながら小さく答えていた。
長門は本を読み続けていたが、どうも、俺の思惑に気付いていたようで、帰り際、俺にだけ聞こえるような声で、
「…連絡はいつでも構わない」
と言い残していった。
長門には何もかもお見通しだな。
さて、それから俺は家に帰り、いつものようにごろごろと過ごしながらも、携帯を離さなかった。
長門がああ言ったということは、成功することはほとんど間違いないんだろう。
いつ来るか、と思っていると携帯が鳴った。
すぐさま取ると、いくらか切羽詰った声で、
『すみませんが、僕の部屋まですぐに来ていただけますか』
予想通りの展開に、心の中でガッツポーズをしながら、俺は出来るだけ平常心を保ちながら言った。
「構わんが、何かあったのか？」
我ながら白々しい。
しかし古泉はそれに気がつかなかったのか、
『涼宮さん絡みだと思うのですが、僕ひとりでは対処しかねまして』
「俺に出来ることがあるなら行くが、ハルヒ関係で俺が役に立つか？」
『あなたでなければだめでしょうね。最終的には長門さんの助力を仰ぐにしても、僕から頼むよりはあなたからお願いしてもらった方がいいでしょうし』
その意見が正しいかどうかはともかく、喜び勇んで行ってやろうではないか。
俺はお袋に、古泉の家に泊まることを告げて家を出た。
急いでチャリを飛ばし、古泉の部屋に向かう。
ドアホンのボタンを押すと、待つ必要もなく、ドアが開いた。
「お呼び立てしてすみません」
と言った古泉は、家の中だというのに目深に帽子を被っていた。
ついでに言うなら、ロングコート着用だ。
その格好で外に出たら不審者扱い間違いなしだな。
「それも含めて説明しますから、上がってください」
疲れた表情で言った古泉にいくらか胸が痛まないでもなかったが、俺はあくまでも表情を崩さず、古泉について中に入った。
俺は古泉をソファに座らせると自分でコーヒーを注いできてその隣りに腰を下ろした。
「で、どうしたんだ？」
にやけそうになるのを堪えながら言うと、
「落ち着いて聞いていただきたいんですけど、」
と古泉は帽子に手を掛けた。
「僕がここに戻ってきて少しすると、こうなってたんです」
外された帽子の下から現れたのは、古泉の髪の色とよく似た色をした犬の耳だった。
波打つような毛足の長い、垂れ下がった耳が、古泉を余計に悲しそうに見せていたが、俺は構わずそれに触れた。
ふかふかしていて、なかなか手触りがいい。
古泉は俺が好奇心だけで触っていると思わず、それが本物なのか確かめているとでも思ったようだった。
くすぐったそうに耳を震わせながら、
「この通り、神経も通っているようでして、」
とため息を吐く。
尻尾は生えてないのだろうか。
「生えてますよ」
古泉がコートを脱ぐと、耳と同じ色をした尻尾が現れた。
品のいい姿をしたそれに触れ、その余りの愛らしさに堪りかねた俺は古泉を思い切り抱きしめた。
「お、お兄さん！？」
「やっぱり可愛いな、これ。よく似合ってる」
「なっ…！　まさか、あなたの仕業なんですか！？　あなたが、涼宮さんをそそのかして…」
「ここまでうまく行くとは思わなかったんだがな」
それにしても、本当に触り心地がいいな。
柔らかな耳を両手で優しく撫でてやると、古泉が気持ち良さそうに目を細めながらも非難の声を上げた。
「一体、何を考えてるんですか！」
色んな意味での実験だな。
その説明の前に、とりあえず長門に連絡するか。
そう言って俺は自分の携帯で長門に電話を掛けた。
仕方なく黙り込んだ古泉の耳は垂れ下がり、尻尾もどこかしょんぼりとした風情だ。
思わず浮かびそうになる苦笑をなんとか押さえ込もうとしていると、長門が出た。
「長門、状況は分かってるんだよな？」
『そう』
「治せるか？」
『簡単』
「そうか。それなら――」
俺は我ながら悪辣だと思うような笑みを浮かべて言った。
「明日の昼まで、待ってくれるか？」
「えぇっ！？」
目の前で声を上げた古泉に携帯を取り上げられそうになるが、立ち上がって避ける。
『分かった』
「昼にでも、古泉の部屋に来てくれ。頼んだぞ」
そう言って俺は電話を切り、古泉に言う。
「そういうことだ。あと、今日は泊めろよ」
「……本当に、何を考えてるんですか…」
脱力した古泉の耳を撫でてやりながら、俺は答えた。
「別にいいだろ、少しくらい。可愛がってやるから」
手始めにブラッシングでもしてやろうか。
「い、いいです」
いいならやってやる。
「そういういいじゃなくてですね――」
お前、強引な押し売りとかにそういう風に答えるなよ。
勝手に商品送りつけられて請求されるぞ。
結構です、も止めとけ。
「やや、やめてくださいって」
頭を抱え込んで抵抗しようとする古泉に、俺は自宅から持ってきたブラシを突きつけて言った。
「耳があろうがなかろうが甘えたがりのくせに、今更何やってんだ。今ならどれだけ寄ってきても、ウザいとかキモイとか近いとか言わないでやるから、さっさと来い」
ぴくっと耳が動く。
ふるふると震えているんじゃないかと思うようなぎこちない動きで、古泉がこっちを見た。
俺が満面の笑みで手を広げてやると、警戒しているのかゆっくりと、それでも素直に飛び込んできた。
よしよし。
髪の毛と耳の感触の違いを楽しみながらブラシを掛けてやる。
毛の生え変わる時期じゃないからか、それとも生えたばかりの耳だからか、毛は余り抜けないが、古泉は気持ちがいいらしい。
猫だったら喉を鳴らすような顔で俺に抱きついている。
少し暑苦しいんだが、思う存分耳に触れるんだからプラスマイナスゼロということにしておこう。
尻尾もぱたぱたと振られている。
その動きもどこか品がいいのは、尻尾の姿形のせいだろうか。
「どうしてこんなことをしたんです…？　まさか、こんなことがしたかったなんて…それだけじゃないでしょう……？」
とろとろと、眠りそうな声で古泉が聞いてきた。
俺は尻尾を構ってやりながら答える。
「これもやりたかったことではあるんだが」
「それ以外にも…あるはずです…」
まあな。
――試してみたかったんだよ。
「……何をです…？」
俺がハルヒにどれだけの影響を与えられるのかってことをだ。
そう言うと、古泉は怪訝そうな顔をして俺を見上げた。
「どういうことです」
お前も長門も、俺がハルヒの鍵だと言う。
俺自身も、自分がハルヒに影響を与えられるってことは、これまでのあれやこれやで自覚した。
だが、それが一体どの程度のものなのかは分からない。
勿論、自分がハルヒを思うままに操れるなんて馬鹿げたことを思ってはいないが、自分の軽はずみな行動でハルヒがとんでも能力を発揮するなんてことは避けたい。
だから、どの程度でハルヒが動くのか、知りたかったわけだ。
「……結果はどうでした？」
思った以上に難しかったな。
俺のやらせたいことがハルヒにとっても面白く、やってみたいと思えるようなことじゃないとだめなようだから、ハルヒがいくらか思っていることじゃないと無理だろう。
具体化するために色々と話し合って、資料を見たりもしないといけなかった。
俺に出来るのは最後の一押しだけ、というのが俺の印象だ。
「つまり、涼宮さんの意思を曲げて実行させることは難しいと言うことですか」
難しいどころか、それは不可能じゃないんだろうか。
あいつは頑固だし、俺が言えば言うほど反発する可能性が高い。
「――それは貴重な情報ですね」
古泉が感慨深げに呟いたが、俺は何も言わなかった。
機関に報告するなよ、と釘をさすことは簡単だったが、そうするまでもないと思ったのだ。
古泉は俺が機関によって有用な道具と見なされ、協力を強制されるような状況になることを恐れている。
だからそんなことを機関に言ったりはしないだろう。
古泉がそれを言ったとすれば、拷問に掛けられたとか、そうするのが俺にとっていい状況だったとかそういうことになるだろう。
それなら、余計な口止めなどしない方がいい。
俺が口止めすれば古泉は、自分がどうなろうとそれを愚直に守るだろうからな。
それは俺の望むところじゃない。
俺の望みは、古泉が少しでも楽になることだ。
苦しめることじゃない。
俺はわしわしと撫でた古泉の頭をブラシで撫でつけながら、気持ち良さそうな顔をしている古泉の顔を黙って見つめた。
それから、俺は古泉と一緒に夕食を作った。
古泉に任せるとかなり豪快なというか、大雑把なものになるため、大部分は俺が作ったのだが、手伝いたがる古泉に、
「一樹、ジャガイモをとってくれ」
とか言うと、フリスビーかボールでも投げてもらった犬のように嬉々として向かうのが可愛かった。
後で枕でも投げてやろう。
ただでさえ感情やなんかが分かりやすくなっている古泉が、尻尾のおかげで余計に丸分かりになっているのも面白い。
俺に全幅の信頼を寄せて、無邪気な姿をさらけだしていたんだなと知って、いくらか恥ずかしくもなったが。
それくらい、古泉の尻尾やなんかの動きは、表情や言動だけで読める感情と合致していた。
しまいには、ただの面白いオプションにしか思えなくなったくらい、感情表現としては無意味になってしまったほどに。

それでも、そうだな。
古泉が実はにんじんが苦手だと知ることができたんだから、収穫はあったと言ってもいいのかもしれない。