覚悟



俺が部室に行くと、何事もなかったかのような顔をして古泉が座っていた。
軽く頭を下げ、
「こんにちは」
と言った古泉は、いつも通りにしか見えない。
大した演技力だ。
それにしても、比較的軽いとはいえ、怪我をおして出てくるとは健気なことだな、古泉よ。
俺は古泉の意思を尊重してやることにして、努めていつも通りに、
「よう」
と返事をした。
しかし、気になったのは妙に固い古泉の表情だ。
いや、ぱっと見ただけなら固いとは思わないだろう。
ただ、古泉の表情をいくつも見てきた俺には、なんとなくぎこちなく思えた。
俺に対して申し訳なく思っているかのように。
だが、古泉が罪悪感を抱くようなことがあったような記憶はないし、俺の気のせいなんだろう。
パイプ椅子を引いて腰を下ろすと、ドアが開き、ハルヒが入ってきた。
「皆揃ってるわね。古泉くん、調子はいいの? 昨日は風邪で休んでたみたいだけど」
「ええ、すっかり大丈夫です。ご心配をお掛けしてすみません」
「身体は大事にしないとダメよ。古泉くんはSOS団にとって大事な副団長なんだからね!」
そう言ってハルヒは景気づけのように古泉の背中を叩いた。
思わずガタッと音を立てて立ち上がりそうになるのをぐっと堪える。
古泉が平気な顔を作ってるのに、俺が余計なことをしてどうする。
「凄い音がしましたけど大丈夫ですか?」
心配そうに朝比奈さんが古泉に駆け寄る。
流石は朝比奈さん、古泉を労わってやってください。
今日ばかりは朝比奈さんに構われて、などと古泉に妬いたりはしませんから。
しかし天使はやはり俗世の人間とは違うらしい。
「大丈夫ですか?」
と言いながら朝比奈さんは古泉の背中を擦った。
朝比奈さんダメです。
それでは傷口に塩を摩り込むようなものです。
案の定、古泉の表情が引きつれる。
「大丈夫ですから、気にしないでください」
だがしかし、古泉は言葉の選択を誤ったらしい。
「これくらい平気よ! ね、古泉くん」
バシバシとハルヒが古泉の背中を何度も叩き、俺は見ていられなくなって顔を背けた。
古泉が怪我をしていることを、ハルヒには言えない。
言えば怪我の原因を聞かれ、下手をすれば不信感を持たせてしまうだろう。
だから、言えない。
言えない以上、俺はハルヒを止めることも出来なければ古泉を庇うことも出来ない。
自分の無力さが、酷く歯痒く思えた。
例えば俺に古泉のような力があったら、古泉が怪我をしないように守れたかもしれない。
守れなかったにしても、そのために全力を尽くせたなら、それだけでもいくらか心が軽くなっただろう。
あるいは、長門のような力があったなら、古泉の怪我を治すとか、ハルヒが他に興味を持つように仕向けるとか出来ただろう。
朝比奈さんのようにハルヒの気を引けるのであってもよかったかもしれない。
そうすればハルヒを古泉から引き離せただろう。
俺がなんと言おうが、いやむしろ、俺が古泉を庇うような素振りを見せた方が、ハルヒは余計に古泉にこだわるだろう。
何も出来ない悔しさを感じた。
そんな訳で、結局俺が古泉に、
「大丈夫か?」
と声を掛けることが出来たのは、下校する段になってからだった。
それも、ハルヒの命令で集団下校しているため、女子三人の後ろでこそこそと聞くことしか出来なかった。
古泉は苦笑混じりに、
「大丈夫です」
と応じたが、その笑みと言葉に、違和感を感じた。
違和感というよりもむしろ、壁だ。
見えない壁を作って、そこに踏み込まれないよう、そこから踏み出さないよう、必死に警戒しているかのようだ。
そのことに、苛立ちを感じた。
こいつのことだ。
またぞろ馬鹿にペシミスティックなことでも考えて、ひとりで勝手に決断しちまったに違いない。
これだからこいつを病院みたいな無機質なところに放置しておくのは心配なんだ。
今回の結論は多分、これ以上俺に迷惑を掛けないため、俺から距離を取るってところだろう。
理由は簡単。
俺との結びつきの強さを機関に露呈してしまったからだ。
古泉を盾に取れば俺がいうことを聞くかもしれない、と機関が考えたとしても不思議じゃないようなことをやらかしたからな、俺も。
実際、俺の中に占めるこいつの割合ってのは随分と大きくなっている。
俺はこいつを本当の意味で笑顔にしてやりたいと思うし、それを守りたいとも思う。
こいつが身体的にでも精神的にでも傷つけられたら、かなりの勢いで怒り狂いそうな気もする。
昨日も、古泉が意識を取り戻したことでとりあえず安心した俺は、かなりムカムカしたからな。
今は、今更そんなことを考えている古泉に、苛立っている。
ハルヒたちと別れ、いつも通りに道を辿った俺は、十分時間を取ったあと、急いで道を引き返した。
なんとしてでも古泉と話す必要がある。
「古泉!」
息を切らしながら俺が呼ぶと、古泉は一瞬躊躇った後、ゆっくりと振り返った。
浮かべた表情は作り笑い。
その下に、子供みたいな泣き顔が見えた。
「何か」
迷惑がっているような声。
本当は、俺が何を言うか予想が出来なくて怖がっているくせに。
俺は古泉を睨みつけながら言った。
「お前の考えてることくらいお見通しだぞ」
本当なら声を荒げてやりたいところだが、往来でそれはまずいだろうと自制する。
その代わり、声は怒気をはらんだ。
そのせいでまた古泉がかすかな怯えを見せた。
怖がらせたいんじゃないのに。
「僕の考えていること、ですか?」
そうだ。
分からないとでも思ったのか?
いいのか悪いのかはともかく、お前の考えることくらい分かるようになっちまってるんだ。
その状況で嘘を吐くってのが俺への裏切り的な行為だとは思わなかったのか?
「……」
古泉は答えない。
だんまりだ。
目の中に揺らいでいるのは多分、迷いだ。
このまま俺を突き放すべきか悩んでいるんだろう。
それにしても、古泉のタチの悪い所はこういうところだと思う。
自分の身体や幸せを犠牲にして何か大事なものを守ることには躊躇わないくせに、犠牲になるのが自分じゃないものの自由や幸福だった場合、迷う。
いっそ迷いもせずに他者を優先させればいいのに、迷ってしまうのが問題だ。
その迷いを見るからこそ、俺は退けなくなるし、守りたいと思ってしまうんだからな。
「俺はお前に守ってもらわなきゃならんほど弱い奴か? それとも俺は信用に値しないか?」
質問を変えた俺に、古泉が目に見えて動揺した。
目を見開いて俺を見つめる。
「どうしてそう思われるんです。僕があなたを信用していないとでも?」
お前が俺を信用――というかむしろ信頼しきってるのは知ってる。
けど、俺を機関から守るためにそうやって気を遣うってことは、お前が俺を弱いと思ってるってことじゃないのか?
「違います! 僕は……」
そうしてまた黙り込む。
やれやれ、煮え切らない奴だな。
そうやってため息を吐くだけで、古泉が怯えるのが分かる。
俺が何を言い出すのか、俺がどう決断するのか、怖くて仕方がないんだろう。
それなら、そうされないように自分の方で決めちまえばいいだろうに。
「機関に何を言われても、俺が嫌だとかおかしいとか思ったら従わない。たとえお前の口から頼まれても、お前を人質にとられてもな」
お前が心配しているのはそれなんだろ。
自分が俺の足かせになるのが嫌なら、そうならないってことを約束してやるよ。
機関も、十人程度しかいないらしい超能力者を殺そうとはしないだろうしな。
命に危険がないなら、お前は耐えられるだろうから、俺も遠慮はしない。
そうだ、覚悟はとっくに決めてある。
あの病院に駆けつけた時から、あるいはそれよりずっと以前に。
「だから、変に気を遣わなくていいんだぞ」
そう言って笑ってやっても、古泉の表情は晴れない。
俺は古泉の頭へ手を伸ばし、くしゃくしゃと撫でてやりながら言う。
普通なら言いたくないようなセリフだが、こうでも言わなきゃ古泉が浮上しないなら仕方ない。
「俺の親友は機関の人間の古泉じゃない。ただの、古泉一樹だ」
次の瞬間、俺は古泉に抱きしめられた。
頭の横に古泉の顔があるので、表情は見えないが、なんとなく分かる。
多分、嬉しくて仕方がないんだろう。
古泉の頭の上にあったはずの腕は、抱きしめられたせいで古泉の首へ回っている。
俺はよしよしと頭を撫で直してやりつつも、
「全く、恥ずかしいんだから親友とか言わせるなよ」
と愚痴った。
古泉はいくらか明るい声で、
「すみません」
「あと、こんな往来で抱きしめてくんな」
お前は大型犬か。
犬ならまだしも人間様なんだからもう少し考えろ。
突き刺さるような好奇の目が痛い。
「すみません」
ちっとも悪いと思っていない声で言いながら、古泉は俺を抱きしめる力を強める。
痛いと思いながらも突き放そうと出来ないくらいには、俺はこいつを気に入っているようだ。
「僕は」
古泉がどこか高揚したような声で言った。
「あなたの負担にだけはなりたくないんです。だから、何かあった時は迷わず切り捨ててください」
そんな嬉しそうな声で言うことじゃないだろ。
それに俺は、そんなことが出来るほど冷血漢でもない。
「そうでしたね。あなたほど優しい人を、僕は知りませんよ」
交友関係の狭い奴が何言ってんだ。
「酷いですね。僕はこれでも満足してるんですよ」
そう笑った古泉が腕の力を少し緩め、俺に顔を見せた。
子供みたいに可愛い、笑顔だ。
それを見れば、古泉が満足してるってことくらい、あらためて言われなくても分かる。
「いつだったか、僕はあなたに言いましたよね」
柔らかな笑みを浮かべたまま、古泉は言った。
「いつか、超能力者なんて肩書きがなくなった時、本当にあなたと友人として付き合いたい、高校時代を懐かしく振り返るような関係になりたいというようなことを」
そんなこともあったかな。
「あれ、取り消します」
……うん?
思わず訝しむと、古泉はふふっと楽しげに笑い、
「そんなあるかどうか分からない、また、いつになるかも分からない時を待つ必要はないでしょう? 僕はあなたの親友で、あなたは僕の親友にすでになっているんですから」
ああ、そういう意味か。
「今更僕があなたとの絶交宣言なんて出来ると思いますか?」
冗談でも無理だろうな。
機関とか世界のために吐く嘘なら出来そうだが。
「それを言われると痛いですが、断言しておきますよ。僕の意思であなたから離れるような時が来たらそれは、僕がいることであなたに不都合なことが起きる時しかありえないと」
じゃあついでに俺も言わせてもらおう。
機関でもなんでもいい。
お前を無理矢理連れて行くようなバカがいたら、俺はなんとしてでも連れ戻しに行くからな。
「光栄ですね」
そう言った古泉が、もう一度俺の耳へ顔を近づけて囁いた。
「あなたのことが好きですよ。……残念ながら、友人としてですけどね」
何をどう残念がってるんだお前は。
俺はそれで十分だってのに。