道標



僕に向かって、誰かが何かを叫ぶのだけが聞こえた。
あれは誰が叫んだのだろう。
どうでもいいことを思いながら、僕は意識を手放した。
そうして気がつくと、真っ暗な中にひとり、倒れていた。
現実なのか夢なのか、それとも死後の世界なのかも分からなかった。
どこへ向かうべきなのか。
そもそもここで何をしていたのか。
何もかもが分からない。
分かるのは、苦しさ、寂しさ、辛さ。
立ち上がることも出来ず、仰向けに転がったまま、じっとしていた。
声を上げて助けを呼ぶことも出来ない。
誰を呼べばいいのかも分からない。
大事なものを全てなくしてしまったような感覚。
僕は何のためにここにいて、どこに行けばいいんだろう。
考えることさえ出来なくて、ずっと暗闇を見つめていると、そこに、眩しいけれどとても小さな光が現れた。

古泉のバカが閉鎖空間で大怪我を負ったと俺に報せてきたのは、新川さんだった。
機関の人間である新川さんが俺にそんなことをわざわざ伝えに来てくれたというのも驚きだったが、それが新川さんの独断による行動だと聞かされて、ますます驚いた。
「古泉はあなたを必要としているんです。我々のうちの誰でもなく、血の繋がった肉親の誰でもなく、あなただけを」
いつになく荒っぽい運転で病院へ急ぎながら、新川さんは言った。
「古泉をこの世に引きとめられる存在がいるとしたら、あなたしかいないでしょう」
それほどまでに深刻な状況なのだと、俺は息を飲んだ。
普段は殺しても死ななさそうなくらいふてぶてしい古泉が、かなり脆くて弱いことを、俺は知っている。
怪我の状態が悪く、古泉の気力にかかっているような状況だとしたら、本当に危ないだろう。
あいつは簡単に命を投げ出しかねない。
新川さんの言葉に素直に頷いてしまう俺もどうかと思うが、本当に古泉が執着するものが少なく、かつ、その例外的な存在が俺であるらしいのだから仕方がない。
そんなことになってしまった責任の一端は俺にもあるしな。
到着したのは、いつだったかに世話になったあの病院だった。
新川さんに先導され、やけに人気のない怪しげな通路を通って病室へ向かう。
病室の前には見張りなのか、はたまたたまたまなのか、森さんが立っていた。
おそらく、後者なんだろう。
この人は見掛けに反して、かなり高い地位にいるようだからな。
森さんは俺を見て驚いたようにひゅっと息を飲んだ。
それから新川さんへ目を向けると、
「独断専行は禁止ですよ。何を考えているんです」
「私も、古泉が心配なんです」
はっきりと新川さんは言った。
「彼も、そうでしょう。あなたは、心配じゃないのですか?」
森さんは考え込む様子を見せたが、それはただのポーズであったらしい。
「私も、年若い古泉が可愛くないわけじゃありません。彼と古泉が親しくすることによって発生する弊害も、彼等は自力で乗り越えてくれましたから、彼が信頼出来ないなどと今更言うつもりはありません。でも、」
と森さんは俺を見つめ、
「あなたは、覚悟が出来ていますか?」
「…何の覚悟です」
「今ここで古泉を助ければもう、逃げ出すことは出来ません。あなたの古泉への甘さに私たちが付け入るかもしれない。それでも、いいんですね?」
「そんなものは、古泉の命には代えられないでしょう」
それに、多分もう遅い。
あいつが俺に執着しているように、俺もあいつに執着している。
愛着を抱いている。
機関に付け入られるかどうかまでは分からないが、とにかく今は、古泉のことが大事だ。
「……分かりました」
諦めたように、あるいは安堵したように森さんは呟き、道をあけてくれた。
俺は軽く頭を下げただけで病室に飛び込む。
白いベッドの上には、青白い顔をした古泉が横たわっていた。
「外傷としては全身打撲ですが、軽いものです。危険な状態に陥っているのは、脳震盪による昏睡状態から目覚めないことです」
説明してくれる森さんの言葉も、ほとんど頭に入ってこない。
目を閉じたままの古泉の苦しげな呼吸さえ、恐ろしいと感じた。
「こちらへどうぞ」
と言われるままに、付き添い用の丸椅子に腰を落とす。
布団の上に人形のように投げ出されたままの手を握り締める。
力を込めてしまうのは、怖くて堪らないからだ。
気を使ってくれたのか、森さんは出て行った。
白い個室にふたりきりになる。
「古泉…」
声が震えていた。
「しっかりしろよ、古泉。全身打撲なんかで死ぬな。大丈夫…なんだろ……?」
古泉は何の反応も示さない。
それでも俺は必死に話し掛ける。
俺にはそれしか出来ない。
そうやって、少しでも古泉が意識を取り戻すようにと願うしかない。
「戻って来い。待ってるんだからな。俺にここまで心配させるなよ。……心配してるのは俺だけじゃない。機関の人たちも、……そうだ、お前が仲間だとは思えないと言ったあの人たちも、お前を心配してるんだ。妹もお袋も、おまえがこんなことになってると知ったら、絶対心配する。ハルヒも、朝比奈さんも長門もだ。だから、」
うっすらと、古泉の目が開いた。
「古泉!」
思わず叫んだのに、それはすぐにまた閉じられる。
それでも、呼吸がいくらか落ち着いたのにほっとしながら、俺は古泉の手をよりいっそう強く握り締めた。

気が付くと、僕の手を誰かが握っていた。
手を繋いで、どこかへと歩いているようだ。
暗闇は相変わらず、世界の全てを併呑していて落ち着かないけれど、この手があれば大丈夫だと思えた。
手のぬくもりだけでこんなにも安心出来るなんて知らなかった。
聞こえてくるのは妙なる調べ。
天上の音楽にも勝るそれに抱かれて、僕はもう、死んでもいいと思った。

古泉の呼吸が静か過ぎる。
それに気が付いたのは、病室に入ってから2時間ばかりも経った頃だった。
とにかく何でもいいからと話しかけ続けていた俺は、慌ててベッドの上へ身を乗り出し、古泉の口元へ耳をやって息を確かめる。
いつ止まっても不思議じゃないかと思うほど、細い呼吸。
ぞっとするほど白くなった顔が、まるで命のない人形か何かのように見えた。
恐ろしい考えを振り捨てて、俺は古泉を呼んだ。
「一樹…っ!」
と。
古泉がもっとも喜ぶ呼称で。
「行くな、一樹!」
頼むから戻って来てくれ。
そうしたらなんだってしてやる。
ハルヒの前ででもどこででも、一樹と呼んでやったっていい。
弁当を毎日作って来いと言うなら作ってやるさ。
お前の好きなハンバーグも卵焼きも、毎日欠かさず作る。
不安で眠れないなら俺が側にいてやるし、嫉妬も独占欲も認めて受け止めてやる。
「だから、帰って来いっ。戻って来いよ…!!」
ぱた、と涙が零れ落ちた。

水滴が僕の手に触れた。
それだけで何故だか悲しくなる。
どうしたらいいのか分からないという不安がぶり返してくる。
戸惑いながら、繋がれたままの手の先を見上げると、また水滴が落ちてきた。
ああ、涙だったんだ。
今更ながら僕が気付くと、ずっと僕と手を繋いでいてくれた人の顔が見えた。
僕が大好きなその人。
どうして忘れていたんだろう。
どうして彼は泣いているんだろう。
僕が泣かせてしまったんだろうか。
怖くなりながら、
「お兄さん」
と呼ぶと、世界が開けた。

「お兄さん…」
目を開けるなりそう言った古泉を見た瞬間、俺の目からは情けないくらい涙がこぼれた。
「よかった…」
本当によかった。
古泉が無事に意識を取り戻してよかった。
戻ってきてくれてよかった。
抱きしめてやりたいという衝動に駆られながらも、全身打撲の重傷者相手にそれはまずいだろうと自重する。
それでも涙は止まらない。
ぼろぼろと落ちていくばかりだ。
古泉はまだよく状況が分かっていないからか、どこか間の抜けた笑みを浮かべ、
「夢を見ていました」
と呟いた。
なんでもいい。
お前が無事なら、夢を見ようがなんだろうが構わない。
抱きしめられない代わりに、俺は古泉の手をしっかりと握り締めた。