散歩



古泉の部屋へ泊まりにいくことになったきっかけは覚えていない。
別にどうでもいいからだ。
覚悟を決めて上がるような場所でもないし、大体、泊まるのも初めてじゃない。
ただ、初めての試みをやって見ようと思ってはいたが。
「いらっしゃいませ」
上機嫌の顔で俺を向かえた古泉の視線が、俺のぶら下げたビニール袋の上で止まった。
「それはなんですか?」
「酒だ」
「お酒、ですか」
気色ばむように呟いた古泉に俺は言う。
「夏は俺の間抜けな姿を見たんだろ。お前のそういうのを見せたっていいんじゃないのか?」
まさか、酔わない体質だとは言わないだろうな。
「それはないと思いますが……前後不覚になるほど飲んだことはありませんね。未成年ですし」
古泉はさりげない仕草で俺の手からビニール袋を取ると、
「随分買いこんだものですね。どんな顔をして買ったのか気になります。僕と違って年相応に見えるあなたなら、これだけの量のお酒を買っていたら止められそうなものですが」
年相応云々というのは、以前、古泉は22、3歳に見られそうだなと俺が言ったことに対する意趣返しらしい。
俺には少しも堪えないが。
「古泉」
俺は教訓めいたことを言うような感覚で言った。
「酒を買う時に必要なのは信用だ」
「は?」
「子供の頃からお使いやなんかで行かされた酒屋とかだと、堂々と買えば止められない。聞かれたら親父に頼まれたとかなんとか言えばいいだけだ」
「……あなたって、変なところで肝が据わってるんですよね」
そう思うならもうちょっと尊敬するような調子で言ってみろ。
呆れられているようにしか思えん。
「呆れてますから」
と古泉は肩を竦め、
「これだけを二人で飲むつもりなんですか?」
別にいいだろ。
余ったら冷蔵庫にでも入れておけ。
「持って帰るつもりはないんですよね?」
当たり前だ。
酒なんか持って帰ったら親に何を言われるか分からん。
「…分かりました。その代わり、あなたもちゃんと飲んでくださいよ? 僕ひとりに飲ませようとせずに」
もちろん、俺も飲むつもりでいるさ。
それだけの酒を買うには金も掛かってるからな。
しかし、古泉の醜態を見るのが目的である以上、飲み過ぎるわけにはいかん。
セーブしながら少しずつ飲みつつ、古泉のグラスにはたっぷりと酒を注いでやる。
その甲斐あって、と言うべきか、古泉は思ったよりも早く酔いが回ってきたようだった。
顔が赤くなり、目が潤んでくる。
「ずるい、ですよ…」
俺の肩へ手をつき、もたれかかるようにしながら古泉が言った。
「あなた、あんまり飲んでないでしょう」
ちゃんと飲んでるぞ。
お前こそ、回るのが早過ぎないか?
「だから、あんまり飲んでないんじゃ、ないんですか?」
飲んでるって言ってるだろ。
いつも薀蓄を垂れてくれる礼に言ってやるんだが、緊張している状況だと酔い難いものらしいぞ。
夏の時はお前も推理劇の仕込みやなんかで緊張していたから酔わなかったんだろうが、今は状況が違う。
だから、俺より回るのが早いんだろう。
「本当に…?」
至近距離でじぃっと目をのぞき込んでくるな。
潰れても面倒看てやるから、もう少し飲め。
そして大人しくなれ。
「…もう、どうなっても知りませんよ?」
もうとか言うな。
可愛いから。
しかし、考えてみるとここでやめておくのが一番無難だったんだよな。
まだ理性は残っているし、気分も良いようだし、俺も可愛い姿も見れたし。
ここで満足しておくべきだったんだ。
しかし、後悔は後でするから後悔と言うのであって…以下略。

「うぅん…」
鼻にかかる、やけにエロい声が至近距離から聞こえた。
「もっと…」
頼むから耳元で囁くのはやめてくれ。
脳のシナプスが断裂されてどうにかなりそうだ。
ぐいと突き出された手へ、チューハイの缶を渡してやる。
古泉はそれを開けようと数秒間チャレンジしたが、酒が回っているせいかうまくいかないようで、くしゃりと顔を歪めると、
「…っ、開かない…」
泣きそうな声で言うな、バカ。
開けてやればいいんだろ。
ほら。
「ありがとうございます」
泣きそうな顔をしていたのを忘れたかのような明るい笑顔でそれを受け取った古泉は上機嫌でそれを飲み干し…っておい、本当に飲み干すなよ。
一気飲みは危険なので絶対に真似してはいけません。
「だいじょーぶ、だいじょー…ぶ」
こてん、と俺の肩へ頭を載せた古泉に、俺は少しほっとした。
これで大人しく寝てくれると思ったのだ。
何しろ、もう危ないと思って酒を渡さないでおこうと思ったのに、泣きながら懇願するのだ。
泣きながら懇願する古泉一樹だぞ。
勝てる奴がいるなら名乗りをあげてみろ。
俺は数秒で負けたがな。
だが、もう酒もない。
今古泉が飲み干したのでラストだ。
それでも、酒を買い過ぎてはいなかったと思うのは、俺がまだ全然素面だからだ。
あるいはこれは、古泉が酔っ払っているのに自分まで潰れるわけにはいかないという義務感のせいかもしれないが。
「キョンくぅん…」
甘ったるい声で言うな、と言うかお前、酔い潰れて寝たんじゃなかったのか。
「お散歩、いきたいです」
……Pardon?
なんだって?
「お散歩」
いい笑顔で古泉は言った。
お前にはどうでもいいことかも知れないんだが、それ以上体重を掛けられると俺は床に押し倒されるんだが、いい加減にしないか。
「一緒に、行こ」
「酔っ払いめ」
毒づいても、今の古泉には堪えもしないらしい。
俺の語調が弱かったせいもあるのかも知れないが。
「キョンくんとーおっ散歩ー、たのしーなー」
お前、やっぱりうちの妹と同じ星から来た宇宙人なんだろ。
そうじゃなかったら間の抜けた音階と歌詞の自作ソングなんか歌うはずがない。
更に俺の肩へ体重を掛けながら立ち上がった古泉はふらふらと歩きだす。
酔っ払ってるくせに、的確に玄関へ向かう古泉を、俺が見捨てられるはずもなく、俺は古泉と夜のお散歩をする破目になっちまったのだった。
古泉はハルヒも敵わないようなハイテンションで笑いながら、
「見て見てーぇ、お月様きれぇー」
と舌足らずに喋りながら空を指差した。
そこに月はない。
あるのは街灯の丸い明かりだ。
「月じゃねえよ」
「えー? あれですよー?」
言いながら俺の腕に自分の腕を絡め、ぐるぐると俺の周りを回る。
そんなことしてると目が回ったついでに酔いも回って吐くぞ、俺が。
と、そんなことを言いながらもその手を振り解かなかったのは、古泉が恐ろしく楽しそうだったからであり、同時に、手を離すとすぐさまその場にぶっ倒れそうなほど酔っていたからでもある。
古泉は明るく笑いながら、
「気持ちいーい」
と言っているが、そうだろうな。
人を振り回しておいてつまらんとか言った日には叩きのめしてやるところだ。
しかし、夜とは言ってもまだ11時台だ。
若い野郎がふたり、腕を絡めたままふらふら歩いているというのはやはり奇妙に映るらしい。
時折擦れ違う人の目が痛い。
せめて知り合いには出会わないでいられるよう祈りながら歩いていた俺の腕から、古泉の腕がするりと抜けていった。
我に返ったのか、それともとうとう酔い潰れて地面に倒れこむのか、と慌てる俺の横を走りすぎていくのは、タチの悪い酔っ払い以外の何でもない。
「古泉っ! どこに行くつもりだよ!」
思わず怒鳴ると、古泉はにっこにっこと笑いながら、
「鬼ごっこ! キョンくんが鬼ですよー」
と走っていく。
酔っ払いに走らせるんじゃねぇよ、というかお前、足速すぎだろ。
顔がよくて頭もよくて運動神経もいいとか、普通ないだろ。
どれだけ贔屓されてんだよ。
天は二物を与えず、とか言った奴、出て来て説明してみやがれ。
俺はばたばたと古泉を追いかけ、なんとか首根っこを捕まえた。
「捕まえたぞ! 鬼ごっこは、終りだ」
ああくそ、息が切れる。
「じゃあ、次は何ぃ?」
嬉々として言うな。
というか、お前、本気で走ってなかったのか?
あんだけふらふらして、俺よりずっと無駄に走ってたくせに、息も切らしてないじゃねえか。
俺はもう疲れたからとっとと寝たいんだよ。
そこで名案が浮かんだ。
「古泉」
「んー?」
「次は駆けっこをしよう」
「うん!」
「ゴールはお前の部屋な。分かったか?」
「分かったぁ!」
よしよし、いい子だ。
そうやって走り出せば、自動的に部屋まで帰ってくれると言うわけだ。
もっとも、酔っ払いということを考えると目を離すわけにはいかないから、俺だけとろとろと帰ることにするわけにはいかないが、それでもこの遊び盛りの子供状態の古泉を部屋まで引き摺って帰るよりはずっとマシだろう。
それにしても、わざわざ「駆けっこ」なんて単語を使ってしまったのは、古泉につられてしまったからというよりもむしろ、酔いが回ってきたからなんだろうな。
近所迷惑なほどきゃあきゃあ言いながら、俺たちは古泉の部屋へ飛び込んだ。
「僕の勝ちっ!」
勝ち鬨を挙げる古泉に、俺はぱちぱちと拍手を送ってやった。
褒めてやろうにも、言葉が出るほど呼吸に余裕がなかったからな。
何しろ、エレベーターを使わずに階段を駆け上った直後だ。
平気で喋っている古泉の方がおかしい。
「キョンくんもう疲れたぁ?」
ドアチェーンをしっかり掛ける俺に、古泉が言った。
「悪い、か?」
「疲れたんならもう寝ましょうか」
ああ、是非ともそうさせてくれ。
ただし、お前も寝ろよ。
「えぇ? 僕、まだ眠くない」
ぷぅっと頬を膨らませて見せても無駄だ。
「……ケチ」
ケチで結構。
ほら、とっとと寝室へ行け。
「…キョンくんは?」
俺はソファで寝る。
「じゃあ僕も!」
却下だ。
「なんでー」
狭いベッドやソファで一緒に寝るのは小さい子供と妙齢の女性で十分だ。
それも相互の合意がなければならん。
「キョンくんと一緒に寝たい」
泣きそうな顔をしても無駄だ。
こればっかりは譲らない。
「……お願い」
嫌だ。
「………じゃあ、僕が寝るまで一緒にいて」
……仕方ないな。
それくらいなら許してやろう。
俺は立ち上がると掛け忘れていた鍵を掛け、古泉と共に寝室に向かった。
まだ不満そうな古泉をベッドに放り込み、ベッド脇に腰を下ろす。
「おやすみ」
「……おやすみなさい」
唇を尖らせながらもそう答えた古泉に笑いながら、軽く目を閉じる。
疲れたせいか、それとも今頃酒が回ったのか、俺はそのまま眠ってしまったのだった。
差し込む日差しの眩しさに目を覚ました。
目を開けると目の前に古泉の顔があるというのも、これで何回目だろうな、おい。
古泉はご丁寧にも俺をベッドに引き摺りあげたらしい。
俺を抱き枕にするような要領で眠っている。
目が覚めた時、こいつは果たして昨夜の醜態を覚えているんだろうか。
それともすっかり忘れていて、この状況におたおたするんだろうか。
どちらにしても、見物だろうな。
そんなことを考えながら、俺は指先で古泉の額を突いたのだった。