ハルヒに恋愛小説を書くように言われたものの、俺にはそんなものを書くスキルなんかありやしねえ。 どうすりゃいいんだ、と思うが、まあ、記憶の中に引っかかっている短い思い出を引き上げるしかないんだろうな。 しかし、想像さえ出来ない恋愛模様を俺が体験してるわけもない――と思いかけた俺の脳裏に、ひとつの絵が蘇った。 白地に花か何かがプリントされたTシャツに、明るいオレンジのズボンの、小さな女の子の姿だ。 だからと言って、俺をロリコンだと思うのは早計だ。 何しろ、彼女と出会った時、俺もまた、半ズボンでその辺を走りまわっていてもおかしくないようなちびっ子だったんだからな。 あれは初恋ではないし、恋と言えるのかも分からないが、とりあえずほのぼのとして淡い思い出であるには間違いないだろう。 俺はいざとなったら全文削除だと思いながら、退屈しきっていたパソコンに仕事を与えはじめた。 それはまだ小学校に上がるか上がらないかという頃のことだ。 妹がまだ生まれてなかったから、本当に小さかったんだろう。 大きなお腹を抱えながらも、ゴールデンウィークをバーさんの家で集まって過ごすという習慣は変えるつもりがなかったらしい母親につれられて、俺は祖母の家に行った。 しかし、親戚や祖母の家の近所に住む事情を知る人間に会うたびごとに「お兄ちゃんになるんだね」とか言われて、まだ青く、お兄ちゃんと呼ばれる喜びを知らなかった俺は、いい加減くさくさしながら祖母の家を抜け出し、極力人に会わないようにと山へ足を向けた。 山と言っても、大きいものではない。丘に毛が生えたようなものだ。それでも、まだ小さかった俺には大きく思われ、同時に好奇心を誘われた。 俺が山の探索をはじめて、どれくらい時間が経っただろうか。 道なき道を進んでいたはずが、突然、きれいな道に出た。 今となって見れば、単純に遊歩道が整備されていただけであり、そもそも山に入るならその遊歩道を使って入ればもっと楽だったというだけのことなのだが、その時の俺にとってそれは十分な不思議だったのだ。 まだ好奇心や不思議な物を見たいと思うような気持ち――つまりは今の俺が失ってしまいつつある、あるいは既に失った、そしてハルヒが他人の分まで掻き集めて持っているらしいものだな――を刺激された俺は、その遊歩道を歩きだした。当然、下りはせず、上ったわけだが、上った先にいたのは、一組の家族連れという、至って普通のもので、かなり落胆したのを覚えている。 しかし、その家族連れの中にいたひとりこそ、俺がその時出会った彼女だった。 俺の存在にいち早く気がついた彼女は、何故だか血相を変えて俺に駆け寄ってくると、 「だ、大丈夫ですか?」 とオレンジ色のズボンのポケットから取り出したハンカチで俺の額を拭った。 「わっ」 驚いて抵抗しようとした俺に、 「ダメですよ。泥だらけになってます。転んだんですか?」 転んだのではなく、山の中を歩くうちに何度か膝をつき、手をつきするうちに、手についた泥が額にまでついたというだけだ。怪我はしていない。 「転んでない」 と言う俺に彼女は、 「よかった。汚れただけなんですね」 と天使のように優しく、柔らかく微笑んだ。その笑顔たるや朝比奈さんもかくやというようなもので、当時朝比奈さんを知る由もなかった俺にとっては、生まれて初めて天使に出会ったようなものだった。 思わずその素晴らしい笑顔に見惚れている間に、彼女のご両親が近づいてきた。 「いっちゃん、どうかしたんですか?」 「なんでもないです」 と彼女は答えた。 俺は慌てて、 「僕が」 当時の俺は、自分のことを「僕」と言う程度には可愛らしいお子様だった。 「汚れてたから、拭いてくれたんだ」 「本当に泥だらけですね」 そう彼女の母親は優しく苦笑した。悪戯っ子を咎めながらも決して怒ってはいない、母親特有の笑みだ。 「君はこの辺りの子?」 そう問われて、俺は少し考えて答えた。 「ばあちゃんが、この山の下に住んでるんだ」 「ああ」 思い当たったらしい呟きを漏らして、 「じゃあ、山の下まで送って行きましょうか?」 と俺に聞いた。 俺はどうやら意地っ張りか、あるいはそこそこに良識を備えていたらしく、首を振り、 「一人で戻れる」 と答えた。 それだけならかなりしっかりしたお子様に思えるかもしれないが、その間も天使のような彼女に目が行っていたのだから格好はつかない。 彼女は俺の不躾な視線を気にする風もなく、 「お母さん、いっちゃんも一緒に行っていいですか?」 とねだるように母親に尋ねた。 母親は少し考え込み、 「行って、シャツとズボンを汚して来るつもりなんでしょ」 と困ったように笑いながら答え、 「いいですよ、行ってらっしゃい」 と彼女の背中を優しくぽんと押した。 彼女は頷いて俺の手を取り、 「いっちゃんも連れてってください」 と可愛らしくお願いしてきた。 返事? 言うまでもないね。 そうして彼女と俺は手を繋いで遊歩道を下り、途中で俺が上がって来た獣道を見つけると、そちらへ入り込んだ。 女の子を連れてそんなところへ入るのもどうかと思うが、彼女は大人しそうな外見とは裏腹に、かなり活発なところがあったらしい。ズボンをはいていたのも、そのせいなんだろう。 服が泥だらけになるのも構わず、ふかふかした腐葉土の上に寝転がってみたり、怪しげなきのこをつついてみて胞子をばら撒いてみたりと、当時の俺にとっては楽しく思えても、今思い返してみるととんでもないとしか思えないようなことをやってくれた。 ふたりしてきゃあきゃあ言いながら山を下りると、祖母の家の前に見慣れない車が止まっており、彼女の両親がうちの親たちと話しているのが見えた。 「もう下りてきちゃいましたね」 残念そうに呟いた彼女に俺は、 「また明日遊ぼう」 と笑いかけた。 彼女も微笑んで、 「明日なら多分まだ遊べます。いっちゃんも、もっと遊びたい」 「じゃ、約束な」 「はい、約束です」 きゅ、と子供らしく小指を絡ませて、指きりげんまんをフルバージョンで歌った。 それでもまだ名残惜しくて、手を繋いだまま彼女を彼女の両親の元まで送っていくと、彼女の母親は呆れたように笑いながら、 「本当に泥だらけにしちゃったんですね」 と笑いながら、彼女のシャツについた泥を払い落とした。 彼女はくすぐったそうにしながら、 「ねえ、お母さん、いっちゃん、明日も遊びたいです。いいでしょ? ねえ」 彼女が小鳥がさえずるように訴えると、彼女の母親も勝てないらしい。苦笑混じりにうちの親に顔を向けると、 「構いませんか?」 息子を平気で放っておくうちの親に否やがあるはずもなく、二つ返事で了解する。 「また明日ねぇー!」 危ないと叱られながらも車の窓を全開にして、身を乗り出して手を振る彼女に、俺も全力で手を振った。もちろん、彼女が見えなくなるまでずっと。 その日は夕食の間もずっと彼女の話ばかりしていたように記憶している。ふたりでどんなことをしたとか、彼女が何を言ったとか、そんな感じのことを興奮気味に話す俺に、親もバーさんも、従兄弟連中もみんな、微笑ましげな目を向けていた。 実際、その場で話を聞かされる立場だったら、微笑ましいことこの上ないだろう。下手をすればのろけかと思うようなこっぱずかしいことまで言った記憶があるからな。 ここは反論や言い訳を諦めて、それくらい彼女が可愛かったのだと開き直ってしまうことにしよう。 次の日、朝のうちにやってきた彼女に、俺は起こされた。 その頃から既に朝が弱かったらしい俺とは逆に、彼女はかなり早起きのようで、寝ていた俺のことをくすぐって起こすくらいにはお転婆だった。 「起きてくださーいっ! あっさですよーぉ?」 俺の妹を彷彿させるような節回しを付けて、笑いながらそう言っていたのを未だに覚えている。 早朝の襲撃というのは、俺にとってはとんでもない衝撃だったけどな。 驚きすぎて何も言えない俺に、彼女はふふっと笑って、 「おはようございます、お寝坊さん」 と俺の額をつっついた。 「朝ご飯食べたらおでかけしましょうね」 俺が頷いたのを見て、彼女は踊るような足取りで台所の方へ向かった。 その日の彼女は、昨日と同じオレンジ色のズボンに、たまご色というよりも淡いたんぽぽ色とでも表現した方がいいような薄黄色をしたスモックを来ていた。昨日あれだけどろどろにしたことに対する処置であることは一目瞭然だ。 慌てて朝食をとり、彼女と共に玄関を出ると、彼女の母親とうちの母親が話しこんでいるところだった。 寝坊を咎めるうちの母親とは違って、彼女の母親は気にした様子もなく、 「今日もいっちゃんをよろしくお願いしますね?」 と俺の頭を撫でた。 それに俺が照れながら頷くと、彼女は軽く唇を尖らせながら俺の手を引っ張った。 「ほら、早く行きましょ」 うん、と頷いて山へ歩きだしながら、俺は彼女に尋ねた。 「なんで怒ってるの?」 「お、怒ってなんかいません!」 「怒ってるみたい」 「怒ってませんー!」 顔を赤くして主張する彼女に、当時の俺は首を傾げたものだが、今なら分かる。あれは嫉妬してたんだ。 どうやら、俺より小さく見えた割に彼女はませていたらしい。あのくらいの年頃なら男より女の子の方が精神的な成長は早いから、それで当然なのかもしれないが。 とにかく彼女は、彼女とよく似た笑みを浮かべた母親に俺が見とれていたとは分からず、単純に自分を見ていない俺にむかむかしていたらしいのだ。 全く、可愛いじゃないか。 斜めになった彼女のご機嫌をうかがうべく考えた俺の行動もまた妙に可愛らしいものだったな。 分け入った山の中で見つけた花を、彼女にプレゼントしたのだ。 お花が可哀相とかなんとか言って幼い俺を傷つけることもなく、彼女は満面の笑みでそれを受け取った。 「ありがとうございます」 どういたしまして。でも、いっちゃんの笑顔の方が花よりもよっぽど可愛いよ。 なんて、言っちまった俺も大分ませたガキだったんだな。 彼女は目をぱちくりさせた後、照れたように微笑み、 「ありがとう」 と言ってその花をスモックのポケットに差し込んだ。 その後も、二人だけで山の中を走り回っては家に戻っておやつを食べ、また山の中に戻って、一日中泥だらけになって遊んだ。俺にしては恐ろしくくすぐったいような時間を過ごしたものだ。 しかし、こういう時のテンプレート的展開とでもいうんだろうか。ご他聞に漏れず、俺と彼女にも別れの時が来たわけだ。 ゴールデンウィークなんて短いんだから当然と言えば当然で、俺と彼女が一緒に過ごせたのはほんの二日だけのことだった。それでも、他の思い出を押し退けて残っていると言うことは、俺にとって印象的で、かつ忘れたくない思い出だったということなんだろう。 手を繋いで山から下りてきた俺たちを待っていたのは、彼女の両親と車で、俺たちもなんとなく別れを察した。 「もう、帰らなきゃだめなんです」 泣き出しそうに震える声で、彼女が言った。 「いっちゃん、絶対に忘れませんから。一緒に遊べたこと、絶対に、覚えてますから」 「僕も、忘れない」 彼女の前だからと必死に涙を堪えながらそう言った俺を、彼女が抱きしめた。 「また来年、ここに来たら会えるよね」 「毎年来てるから、会えるよ、絶対」 「いっちゃんも、お父さんとお母さんにお願いして、連れてきてもらいます。来年も、その先も。だから、」 ぎゅ、と背中に回された手に力が込められる。 「忘れないで…」 「いっちゃんも、覚えてて」 「絶対絶対、忘れません」 そう言って彼女は俺の頬にちゅ、と可愛らしくキスをして、夕陽と恥ずかしさに顔を真っ赤に染めながら、母親の元へ走って行った。 俺はなんとなくそのまま動けずに、彼女をただ見送った。ばかみたいに突っ立っている俺を、俺の母親が呼ぼうとしたが、彼女の母親と彼女がそれを止め、ふたりは車中の人となった。 昨日と同じように身を乗り出して、 「また絶対、会いにきますから」 繰り返しそう言って手を振った彼女の、スモックのポケットからあの花がこぼれたのは、車が走り出すのとほぼ同時だった。 「あっ…!」 俺と彼女が同じタイミングで声を上げた。 俺が落ちた花を拾い上げた時には、彼女の乗った車は小さくなってしまい、俺にはどうすることも出来なかった。 彼女がいるからと必死で堪えていた涙が、情けなくこぼれ落ちていった。 と、そこまで書いたところで俺は手を止めた。 やっぱりだめだ、と。 人に見せる文章を書かなければならないことを忘れたかのように、俺の子供時代の心理状態にまで触れた恥ずかしい物を書いてしまった。 それに、この話にはオチもない。 彼女とは結局それ以来会えず仕舞いだったし、彼女を探そうにも俺は彼女の名前も住所も何も知らなかった。 彼女も多分、俺の名前なんざ聞いてないだろう。 覚えているのはあの栗色の髪と、天使のような笑顔。 それから白いTシャツとオレンジ色のズボンくらいだ。 それと…ああ、そうだな、彼女が「いっちゃん」と呼ばれていたことも忘れていない。 恥ずかしい話だが、俺にとって「いっちゃん」というのは彼女ただひとりなのだ。 だから、古泉がいつだったかに「僕のことはいっちゃんでいいですよ」とかなんとか言った時に、恥ずかしいくらいの大声で拒否してしまったわけだ。 古泉に懐かれ、それで落ち着いてしまっている今でも、そして古泉があの泣き顔で懇願して来たとしても、断るんだろうな、俺は。 だから正直言って、妹が古泉を「いっちゃん」と呼ぶのも嫌なんだが、妹は彼女を知らないから止めるのは無理だろう。 止めるために説明するには、兄貴としてあまりに恥ずかしい思い出を披露しなければならないだろうから、諦めている。 俺は日に日に薄れてしまいつつある彼女の面影を脳裏に描きながら、書いた文章を一息に削除した。 彼女とのあの思い出は、俺と彼女の中にだけ残っていればいい。 そんなことを思いながら。 |