自室のパソコン画面に映し出されていた画像を消し、念入りに履歴を消したのは、そんなことを調べていたと誰にも知られたくないからだ。 特に、――彼には。 どうやら彼と一緒でない時の僕がどんな風にして過ごしているのか気になっているらしい彼は、このところ僕が何を言っても聞かずに僕の生活に入り込んでくる。 差し入れと称して持って来たタッパーを冷蔵庫に入れてしまえば、始まるのは僕の部屋の捜索だ。 「俺が来るまで何やってたんだ?」 とか、 「自炊してるんだったらもうちょっとマシなもん作れよ。一人分ずつ作ってたって効率悪いんだから、一度に多めに作って冷凍すりゃ手間じゃないだろ」 とか言いながら動き回る彼は、見ていて結構楽しい。 でも、だからと言って遠慮の欠片もなく部屋の中を掻き回されるのは正直、少し困ってしまう。 ……少し困るだけで済ませてしまうあたり、僕もおかしいのかもしれないけれど。 本当は、彼が僕の領域に踏み込んでくることも、嬉しい。 彼がそれだけ僕に関心を持ってくれたことが。 彼を独り占めできたら、と馬鹿なことを思ってしまう僕はきっと、四年前に初めて彼に会った時から成長してないままなんだろう。 その時の僕にはよく分からないことを言っていたけど、僕のことを分かってくれて、僕の一番欲しかった言葉をくれた「お兄さん」を、僕はまだ手放せないでいる。 あれから、彼に会うため、生きてきた。 今は、彼を守るため、生き続けている。 それでいいはずなのに、独占欲だなんて、滑稽すぎる。 いっそこれが恋愛感情なら、よかったかもしれない。 その方が話は簡単にまとまるし、決着もつけやすい。 彼に告白して、玉砕して、終り。 実にシンプルだ。 でも、これはどうやら恋愛感情ではないらしい。 男同士でどんなことをするかなんて僕は知らないので、インターネットという文明の利器を用いて、ついさっきまでそれを調べてみていたのだ。 調べて思ったのは、僕は彼相手じゃ勃たないし、たとえ相手が彼であっても掘られるのは嫌だということくらいだ。 ……想像しておいて眩暈がしそうになった。 すみません、と居もしない彼に手を合わせた。 その時、携帯がメールの着信を告げた。 鳴り響いたのは彼からの着信にのみ設定している音楽で、飛び上がらんばかりに驚いた。 メールでよかった、と思いながら携帯を取り上げ、メールを見ると、彼のメールらしく簡潔に、 「明日、遊びにいけるか?」 と書いてあった。 脊髄反射のような感覚で、肯定の返事を送る。 待ち合わせ場所や時間の相談のために数通のメールを往復させ、おやすみなさいと終了させた僕は、待機モードに入って暗くなったディスプレイに映る自分の顔を見て思わず苦笑した。 彼とメールをしたというだけで、涼宮さんや機関の人間には決して見せられないほど顔が緩んでいる。 困ったな、と思いながら携帯を閉じた。 この思いは、友情あるいは友愛なんだろうか。 それとも、性的な衝動を伴わない愛なんだろうか。 どちらにせよ、経験のない今の僕には分からない。 いつか答えは出るんだろうか。 それとも中途半端なままなんだろうか。 とろとろと考えながらベッドに寝転がり、目を閉じた。 ハルヒに市街探索に行くと言われず、古泉に誘われもしなかった土曜日は恐ろしく暇で退屈だった。 惰眠を貪るのがそこそこ好きだったはずなんだが、それでも限界はあったらしい。 暇つぶしにとゲームをしてみたが、古泉とゲームをしたりするのがすっかり習慣化してしまったせいか、ひとりでやっててもつまらなかった。 俺にまで変な影響を与えてくれるなよ、古泉。 などと責任転嫁したところで仕方がないし、もしそんなことを愚痴っているところを、妹またはお袋に見咎められた日には、古泉にご注進の上、俺が総スカンを喰らいかねない。 全く、顔がよくてフェミニストっぽい男ってのは、ああももてるものなのかね? うちの妹やお袋のアイドルにされてあいつが嬉しがっているとは思えないが、そんな風に僻みめいたことを考えてしまうのは、やっぱり俺が退屈しているからなんだろう。 明日は日曜。 二日続けて退屈し続けるというのも面白くない。 誰か遊びに誘うか。 幸い、懐にはまだ余裕がある。 たまにはゲーセンやなんかにいったって構わないだろう。 さて、誰を誘うかな。 と俺は頭の中に箇条書きする。 ハルヒは問答無用で却下だ。 というか、女子を軽々しく誘えるほど俺は身のほど知らずじゃねえ。 行き先が精々駅前周辺なら特に、暇な北高生も多いだろうし、噂になる覚悟で女子と二人連れで歩くなんざ、俺には出来ん。 というわけでハルヒともども長門と朝比奈さんも却下だ。 そうなると誘いやすいのは谷口と国木田辺りだが、国木田は勉強でそこそこ忙しいだろうし、谷口はナンパしようとして振られるか俺にたかろうとするか、あるいはその両方をするだろうから却下だ。 せっかくの休日にまでわざわざアホの面を見たいとも思わないしな。 やっぱり、古泉しかいないか。 ゲーセンに行ったことがないという信じられんようなことを言ってたこともあるしな。 しかし、我ながら、交友関係の狭さに泣けて来るぜ。 適当にメールを打つと、いつものようにほとんどタイムラグなしで返事が来た。 こういうところが可愛いんだよな、こいつは。 ベッドに寝転がったままだらだらとメールを打っていると、妹が部屋に入ってきた。 さっき誘拐していったスティックのりを返しに来たらしい。 「キョンくん、ありがとー」 と引き出しにのりを突っ込んだ妹は、俺の顔をのぞきこみ、 「いっちゃんとメール?」 と聞いてきた。 「なんで分かったんだ?」 「分かるよー。キョンくん楽しそーだもーん」 それはにやけてたってことか。 くすくす笑いながら妹が出ていってから、俺は自分の緩んだ口元に触れ、 「……いかんな」 と呟いた。 古泉とのメールを終えてすぐ眠ったのは、明日のためだ。 そうじゃなかったら、昼間寝すぎたのもあって、まだ眠らなかったに違いない。 古泉と会うというだけで、さっさと眠れるだけの義務感を生じさせるのもどうかと思うが。 朝起きて、身支度を整え、家を出る。 玄関に据え付けられた姿見で、もう一度身だしなみをチェックするのは、もう習慣だ。 これは彼に会うからというだけではなく、いつものことで、つまりはこれも涼宮さんの望む姿、というわけ。 我ながら、よくここまで徹底できると呆れるけれど、慣れてしまえばそう窮屈でもない。 もともと、そこそこ厳格な家庭に育ったから、僕は色々と適任だったんだろう。 彼と会うのにそんなことを考えていてもつまらない。 今から行けば待ち合わせの三十分前には十分余裕をもって駅前につけるだろう。 それが分かっているのに、僕は自分でも止められないまま早足になって、駅前へ向かっていた。 待ち合わせ場所に着いて驚いたことには、彼が既にそこにいたことだ。 彼は時間にルーズなわけではないが、良識的な範囲で時間より早目に来るので、これはかなり意外だった。 それも、どうやら狙ってのことだったらしく、僕が驚いているとにやっと笑って、 「意外と早かったな。間抜けな面してどうしたんだ?」 と悪戯っぽく言った。 「すみません、少し意外だったものですから」 聞きようによってはかなり失礼なことを言った僕を咎めもせず、彼は笑った。 「だろう。ま、お前のその顔を見られただけで、早く来た甲斐はあったかな」 どれだけ間の抜けた顔をしていたんだろう、と恥ずかしく思いながら僕は聞く。 「一体どれくらい前にいらしたんです?」 「待ち合わせ時間の一時間前だから、大体十五分前だな」 十五分間、じっと待っていたのか。 彼の手元には本もなければ携帯を弄っていた様子もなかった。 十五分間もの間、一体何を考えながら待っていたんだろう。 朝比奈さんや涼宮さん、長門さんではなく、ただ僕だけを。 そう考えると、なんだか胸の中が暖かくなる。 どんな種類かは分からないけれど、彼への好意で胸が一杯になる。 「そんなに嬉しがるなよ」 僕の胸の内を見透かしたように彼は笑った。 「それより、早く行こうぜ」 そう言っている彼も照れているのが分かった。 僕は背を向けかかった彼の手を取りながら言った。 「涼宮さんルールを適用して、僕に何か奢らせてくれませんか?」 「別にいいって」 その言葉には嘘も誤魔化しもない。 本当に、僕の間の抜けた顔だけで満足しているらしい。 どれだけ変な顔をしてしまったんだろうとも思うが、そんな彼の態度が嬉しくてたまらない。 でも、だからこそ僕は言う。 「そうはいきません。いつもはあなたに奢っていただいてますし、昼食くらい、いいでしょう?」 彼は困ったように考え込んだ後、 「…しょうがない。お前がそんな顔して言い出したら聞かないからな」 と苦笑混じりに言ってくれた。 そんな顔と言われても僕には分からないのだけれど。 昨日たっぷりと眠ったこともあって、早い時間にも関わらず、すっきりと目が覚めた。 気分もいいし、たまにはあいつより先に待ち合わせ場所に行って、あいつを待ってやるのもいいかもしれないと思い、適当に身支度を整えて家を出た。 チャリを漕ぎながら考えたのは、あいつがすでに来ていたらどうするかということだった。 この調子で行くと、待ち合わせより一時間は早く着けるんだが、一時間以上前から待つ、ということさえあいつはやりかねない。 ハルヒに連れ出されて出かける時も、必ず俺やハルヒよりも早く着いてるしな。 俺がいつもいつも最後だからといっても、俺は決して遅刻常習犯ではない。 むしろ、常識的な範囲で待ち合わせ場所に着いていると思う。 ちなみに一般的には待ち合わせより約十五分早く行くのがいいとされている。 それより早いと、特に相手方を訪問する時には失礼に当たるということであるらしい。 よって、俺の感覚の方がよっぽど自然で、かつ礼儀には適ってると思うんだが、ハルヒはそんなもんを考慮してはくれないんだろうな。 やれやれ。 チャリをチャリ置き場に止めたのは、いつだったかの教訓を生かしてのことだ。 また撤去されてたまるか。 しっかりと鍵も掛け、いつも長門や朝比奈さん、古泉が突っ立って待っている辺りに立つ。 古泉がまだ来ていなくてよかった。 すでに来ていたらわざわざ早く家を出た意味の7割が失われるところだ。 俺が先に来ているのを見たあいつは、一体どんな顔をするんだろうな。 驚くか、慌てるか、焦るか、それともいつも通りに胡散臭い笑みを浮かべながら、 「やあ、これは珍しいですね」 とかなんとか言いながら現れるんだろうか。 俺の希望としては驚くか慌てるかしてくれると楽しい。 時間を見間違えていたかと確認するような動きをしてくれるとなお愉快だ。 出来るだけ可愛いリアクションを頼むぜ、などという考えは同い年の男に抱くものじゃないな。 古泉は、俺の友人の中でもかなり特異なタイプだし、何より妙な感じに情が湧いてしまっている。 だからこそ他の奴等には思わないようなことを思ってしまうんだと思うんだが、国木田辺りに言わせるとそれさえ疑問視されるらしい。 男と女が一人ずつ寄り添っていたってカップルとは限らないんだから、俺と古泉が一緒にいたところでホモ扱いされなくてもいいと思うんだがなぁ。 というか、俺が古泉を気に入っている要因のひとつには、佐々木の存在があるんだろう。 実用性に乏しく、やけに専門的な言葉やなんかを俺の頭に残していったあいつは、話の回りくどさや物腰が古泉と似ていた。 だから、俺は比較的抵抗もなく古泉という存在を友人として受け入れたに違いない。 そうじゃなかったら、間違いなくあの胡散臭い物腰やなんかにドンビキしていただろう。 佐々木が俺の親友と名乗ったことで古泉はかなり苛立っていたが、そう考えるとあいつは佐々木に感謝した方がいい気さえしてくるんだが、それは言わずに黙っておいてやるべきだろうな。 などと下らなく、しかも恐ろしく範囲の限定された考えを巡らせていると、古泉の姿が目の端に入った。 少し遅れてあいつも俺に気がつき、驚きに目を見開いた。 素直な表情が可愛いと思う。 少なくとも、作ってる顔よりはずっといい。 ちらっと古泉が目を走らせた先にあるのは時計だ。 期待通りにやられると、少しこそばゆいな。 それにしても、どうしてこいつはこうも格好がつくんだろうな。 今日の服装だって特筆するほど凝ったデザインでもなければコーディネートでもないんだが、どこかのモデルか何かのように見える。 立ち姿がぴしっとしているせいもあるんだろうが、それにしたって神様ってのは不公平だ。 世の不条理を見せつけられるにつけ思うのは、古泉たちが言うハルヒが神様だってのは本当かも知れないなと言うことだな。 まだ驚きの冷めていないらしい古泉の顔を見ながら、笑みを浮かべていたらしい俺は、 「意外と早かったな。間抜けな面してどうしたんだ?」 と言ってやった。 古泉は笑みを浮かべもせずに、 「すみません、少し意外だったものですから」 「だろう」 俺も意外だ。 まだ待ち合わせの45分前だぞ? 一体どれだけ待つつもりだったんだ、と今日に限っては俺も言えないわけか。 「ま、お前のその顔を見られただけで、早く来た甲斐はあったかな」 俺の言葉に恥ずかしがる古泉に、にやけが止まらない。 まるで変質者みたいじゃないか。 困ったもんだ。 古泉は薄っすらと顔を赤らめながら言った。 「一体どれくらい前にいらしたんです?」 待ち合わせ時間の一時間前だから、大体十五分前だな。 俺が答えると、古泉はしばし黙り込んだ。 何を考えているか具体的には分からない。 俺はエスパーじゃないからな。 ただ、なんとなく嬉しがっているのだけは分かったから、 「そんなに嬉しがるなよ」 と言っておいて、なんだか無性に恥ずかしくなった。 古泉の羞恥が伝染したんだろうか。 「それより、早く行こうぜ」 俺は古泉に背を向けて照れを誤魔化してやろうと思ったんだが、手を取られ、止められた。 「涼宮さんルールを適用して、僕に何か奢らせてくれませんか?」 「別にいいって」 答えながら、吹き出しそうになるのを堪える。 涼宮さんルールって、なんだよ。 言いたいことは分かるが、その呼び方を何とかしてくれ。 やっぱり、俺と二人の時のこいつはかなり緊張感が薄れているらしい。 自分が演じるべき姿を忘れたような言い回しをして、しかもそれに気がつかないでいるらしいのだ。 今も、気がついていないんだろう。 そういうところが可愛いし、そんな姿を独占出来るってのは、日々ストレスにさらされている俺にとってかなりのメリットなのだ。 だから、奢られる必要はない。 だが古泉は強硬に、 「そうはいきません。いつもはあなたに奢っていただいてますし、昼食くらい、いいでしょう?」 そんな時に真剣な顔を使うなよ。 そういう表情は巨大カマドウマが出現した時やなんかにこそ使うべきだと思うんだが。 俺は呆れて苦笑を浮かべながら、 「…しょうがない。お前がそんな顔して言い出したら聞かないからな」 と歩きだした。 ゲーセンへ向かいながら気がついたのは、まだ古泉に手を握られたままだということと、会った時にあいさつもしなかったということだったが、今頃になって指摘しても遅いし、どちらも今更どうでもいいことだ。 そこまで慣らされたかと思うと、若干嘆きたいような気持ちにならないでもなかったが。 彼に連れられて向かったのはゲームセンターだった。 僕が一度も行ったことがないと、いつだったかに言っていたのを覚えていてくれたのかもしれない。 嬉しい、と思いはするのだけれど、そこは想像以上に五月蝿いところだった。 置いてあるもの全てのボリュームがマックスに設定されているんじゃないかと思うほど喧しい。 隣りにいる彼と話すにも、そこそこ大きな声を出さなくてはいけないほどに。 「凄いですね」 僕が言うと彼は首を傾げ、 「何がだよ」 と叫ぶような感じで問い返された。 「これだけ大きな音では、働いている方の耳が心配になってきませんか?」 「暇だな、お前」 呆れたように言った彼に、ふと、悪戯心が芽生えたのは、この場所の雰囲気とあいまって、気分が高揚していたからに違いない。 彼に聞こえないよう、でも彼の方を見つめて、僕は言った。 「あなたのことが好きですよ」 彼は、なんだって? と聞き返すだろうと思っていた。 だが彼は軽く顔を顰めると、僕の後頭部を軽く叩きながら、 「遊ぶな、バカ」 と言った。 「聞こえたんですか?」 驚いて問い返すと、 「聞こえなくても、お前の言いそうなことくらい大体分かる」 「…それ、凄い殺し文句に聞こえますよ」 思わず呟いた言葉までは、流石に分からなかったらしい。 「なんだって?」 と首を傾げる彼に、 「なんでもありません」 と僕は笑顔で応じた。 作り笑いじゃなくていいことも、嬉しかった。 それからしばらく、ゲームセンターで色々なゲームをして遊び、ピンク色をしたうさぎのぬいぐるみを彼の妹さんへのお土産として手に入れたところで、彼のお腹が鳴った。 「腹減ったな」 と言って笑ったその笑顔はとても魅力的で、僕はらしくもなくどぎまぎしながら頷いた。 「どこかへ食べに行きましょう。どこがいいですか?」 じゃあ、と彼が挙げたのは、全国展開してるファーストフード店の名前で、僕は思わず顔を顰めた。 「遠慮なさらなくていいんですよ?」 「遠慮してないって。新商品が出たっていうから食べてみたくなったんだよ」 「僕には食事に気を使えとか言う割に、ご自分のことにはルーズなんですね」 皮肉っぽく言っても、彼には答えなかったらしく、彼は笑ってしまいそうになるくらい真面目な表情を作って、 「ああいう不健康そうなものって、たまに無性に食べたくならないか?」 と同意しがたいことを言いだした。 「僕はそう思いませんけどね」 「俺はなるんだよ。あと、チキンとか、駄菓子とかもたまに食べたくなるんだよな」 言いながら、彼の足は既に近くのファーストフード店の方へと進み始めている。 僕は諦めて彼の隣りを歩きだした。 店で注文する時に、慣れなくてまごついている僕をよそに、彼は僕の分までてきぱきと注文してくれた。 その時に僕の意見を聞きもせず、それでも的確に僕の好むところを選んでくれる辺りが彼らしいと言えば彼らしいのだけれど、傍目にはどう映っているんだろうと考えると苦笑せざるを得ない。 彼は自分で思っている以上に僕との距離が近いことに気がついていないらしい。 その気安さも嬉しいけれど、なんだか恥ずかしくなるのはどうしてだろう。 彼は食べたかったという新商品であるらしい大きめのハンバーガーにかぶりついていくらか感想を述べると、僕が食べていたベーグルパン系のそれに目をやった。 考えているところが分かるというのは、彼の専売特許ではない。 僕は笑みを漏らしながら言った。 「味見されますか?」 「する」 即答して彼は僕のトレイに自分の持っていたバーガーを置き、僕の手からベーグルパンを取った。 「お前も味見していいぞ」 と言いながらベーグルパンを頬張る彼は、小動物めいて見えた。 僕は彼に渡されたバーガーをかじって、彼のそれと交換しながら、思いついたままを口にした。 「間接キスですね」 「アホ」 「失礼、言ってみたかっただけです」 言いながらも笑ってしまうのは、彼が怒っていないと分かっているからだ。 彼もその辺りは分かっているんだろう。 照れたように、そのまましばらく顔を背けていた。 ゲーセンに到着してすぐに、大人しくついてくる古泉を見た俺は、思わず吹き出しかけた。 ぴかぴか光るおもちゃや音のなるカードに目を輝かせる子供みたいな顔をしている。 そのくせ、このけたたましさには耐えかねるらしく、軽く顔を顰めてもみせた。 そんな古泉の感想は、 「凄いですね」 というもので、古泉にしては短く、かつ具体性に欠けていた。 「何がだよ」 どうでもいいが、大声を出さないと隣りにいる奴と会話も出来ないってのはどうなのかね。 「これだけ大きな音では、働いている方の耳が心配になってきませんか?」 「暇だな、お前」 ゲーセンに来ての感想がそれかよ。 音やなんかに十分興味を惹かれてたように見えたんだがな。 呆れていると、妙な考えを起こしたらしい古泉が俺に向かって微笑みかけ、それから口を動かした。 音としてそれを認識出来なかったのは古泉の声が小さかったからであり、古泉の声が小さかったのはわざとそうしたからだった。 俺の勘が間違いないのであれば、古泉は俺に向かって、 「あなたが好きですよ」 とかなんとか、とにかくそういう、あいつが冗談半分で口にする言葉を言ったんだろう。 いくら聞こえていないにしても、他にも大勢人間がいるところで口にするセリフでないのは確かだ。 俺は古泉の頭を軽く叩いてやりながら、 「遊ぶな、バカ」 古泉は目を丸くして、 「聞こえたんですか?」 俺を見くびるなよ。 「聞こえなくても、お前の言いそうなことくらい大体分かる」 それに対して古泉はまた何か呟いたが、その内容は分からなかった。 偉そうなことを言っておいてなんだが、分かる時と分からない時とにはかなりムラがあるんだからしょうがない。 「なんだって?」 問い返してやると古泉は笑って、 「なんでもありません」 と言いやがった。 嘘つけ。 問い詰めたところで白状しないだろうから放って置いたが。 それから古泉と二人で色々とやってみた。 音ゲーも格ゲーもシューティングもとかなり節操なくやってみたんだが、古泉はどれも簡単にやってのけた。 いつもアナログゲームで俺に負けるのは何なんだと言いたくなるくらいに。 よっぽど、機械やなんかと相性がいいんだろうか。 それにしちゃあ、エアホッケーもうまかったな。 運動神経のよさも頭のよさも折り紙付だから当然なのかもしれないが、それにしたってちょっと不公平にもほどがあるんじゃないか。 世の無情を嘆いたって仕方がないとは思うが。 などと考えている俺の横で、古泉は今ぬいぐるみのうさぎを取ろうとしていた。 クレーンだかなんだか知らないが、そんなスペースシャトルの乗り組員がやる遠隔操作の訓練みたいなものに取り組まなくてもいいんじゃないか、と冷めたことを考えてしまうのは俺が先程失敗したからではない。 ないったらない。 それに、こういうのは中に欲しい商品がある奴か、あるいは女の子にいいところを見せたい野郎がやるもんだと思うんだが、どうして野郎二人連れで、しかもピンクのうさぎなんてものを狙ってんだろうな、こいつは。 まあ大方、俺の妹への土産のつもりなんだろうが。 ちなみに、幸運の女神ってのも古泉の味方だったらしい。 すとんと落ちてきたぬいぐるみを抱え込んだ古泉の表情も満足げだ。 思わず表情が緩んだ時、腹が鳴った。 まさか聞こえなかっただろうな。 笑って誤魔化しながら、 「腹減ったな」 口にすると、余計に実感が湧いてきた。 思っていたより腹が空いてたらしい。 古泉は何故かちょっとおたおたしながら、 「どこかへ食べに行きましょう。どこがいいですか?」 じゃあ、と俺は近場のファーストフード屋の名前を挙げた。 すると古泉は顔を顰め、 「遠慮なさらなくていいんですよ?」 「遠慮してないって。新商品が出たっていうから食べてみたくなったんだよ」 ファーストフードだからって侮るなよ。 そこそこ可愛くない値段だからな。 古泉は知らないかも知れないが。 「僕には食事に気を使えとか言う割に、ご自分のことにはルーズなんですね」 俺に向かって「ご自分」とか言うなよ、気恥ずかしい。 そういうのは朝比奈さん辺りに使って差し上げろ。 とは言わずに、俺はわざとマジな表情を作り、 「ああいう不健康そうなものってたまに無性に食べたくならないか?」 「僕はそう思いませんけどね」 つまらない奴だな。 ジャンクフードを食べたことなんてありませんって顔だ。 「俺はなるんだよ。あと、チキンとか、駄菓子とかもたまに食べたくなるんだよな」 言いながら歩きだした俺に、古泉は諦めた様子でついてきた。 どうやら古泉はマジにファーストフードを食べたことがなかったらしい。 一度や二度ならあるのかもしれないが、不慣れなのは間違いない。 戸惑っている古泉の顔をちらりと覗きこんだ俺は、 「これひとつ。飲物はホットコーヒーで」 と古泉に聞きもせずに注文したが、古泉は妙にほっとしたような表情をした。 面白い。 というか、可愛いな、やっぱり。 支払いは古泉の希望通り、古泉に任せた。 ちらっと見えた財布の中を見た限りでは、どうやらこの程度の奢りは苦でもないらしい。 ナゲットでも追加してやればよかったかなと一瞬思ったが、人にたかるのは趣味にあわない。 この程度で十分だろう。 二人でそれぞれトレイを持ち、二人掛けのテーブルにつく。 食べる直前に、きちんと手を洗いに行く辺り、古泉は育ちがいいんじゃないかと思う。 俺が古泉の生い立ちに関して知っていることと言えば、四年前に見たあの姿と家くらいしかないから、本当にそうなのかは断言出来ないんだが、なんとなくそう思っている。 ……どうでもいいが、古泉の代わりに椅子に座っているピンクのうさぎが古泉に見えてきてくすぐったいんだが、誰か何とかしてくれないか? 古泉が戻ってきて、うさぎをテーブルの隅へやってから、やっと頬張った新商品のバーガーは、大きさの他は大して目先が変わったものでもなく、感想としては人の金で食うには最適、といったところだった。 勿論、古泉にはそうは言わなかったが。 逆に、古泉が食べているのは俺が普段食べない系統の物だったから、興味を引かれて見つめていると、古泉が小さく笑って言った。 「味見されますか?」 「する」 即答してしまったが、こいつに関しては取繕ったところで無駄だろう。 俺は古泉のトレイに食べ掛けのバーガーを置き、古泉からベーグルを受け取った。 「お前も味見していいぞ」 と付け加えることも忘れずに。 食べ慣れないベーグルをかじっての感想は、古泉に似合うなというところだった。 どういう感想だと思うかもしれないが、つまりは俺には余り似つかわしくないと言うことだ。 ファーストフードならもうちょっと庶民派でいいと思うんだが、差別化の時代においてはそうも言ってられないんだろうな。 なんとなく裏切られた気持ちになるが、裏切ったようなつもりもなければ、そもそも滅多に訪れない俺など味方とも思っていないだろう。 くだらないことを考えながら古泉へ目をやると、大きすぎるバーガーから具がはみ出さないよう気を遣いながら食べているのが見え、声を上げて笑いだしそうになった。 それを察したわけではないんだろうが、バーガーを俺に返しながら、古泉がまたろくでもないことを口にした。 「間接キスですね」 「アホ」 間違ってはないが、だからといって嬉々として口にしていいような発言でもないだろ、それは。 「失礼、言ってみたかっただけです」 形だけでも詫びてるつもりなんだったら笑うな。 こっちの方が恥ずかしくなる。 俺は古泉からそっと顔を背けた。 ファーストフード店を出て、適当にあちこちの店を冷やかしながら彼と二人で歩いた。 正直、彼と一緒にいられるだけで楽しく感じている自分には笑うしかない。 いつものことなのに、こんなにも嬉しく感じるなんて、と呆れてしまう。 ゲームショップの陳列を物珍しい気持ちでみていると、彼が一つのゲームを手に取った。 さっきゲームセンターで遊んだ、音楽系のゲームだ。 「買うんですか?」 「中古で安いからな。これなら妹もやるだろうし」 本当に、妹さん思いで優しいお兄さんだ。 そんな彼だからこそ、あの時僕を助けてくれたりしたんでしょうが、なんとなく妬けてしまいそうだ。 相手は彼の妹さんなのに。 自分で自分に苦笑すると、ゲームのパッケージから顔を上げた彼が、笑って言った。 「妹にまで妬くなよ」 「そんなところまで読まれちゃいましたか」 「プライベートなところでは結構分かりやすいからな。お前は」 「そうじゃないところではどうです?」 「分かり辛い」 「それを聞いて安心しました」 と笑ってみせると、彼はため息を吐き、 「まあ、お前の状況を考えると仕方ないんだろうけどな。普段あれだけ読めるのが読めなくなるくらい拒まれるとかなりへこむぞ」 「本当ですか?」 とてもそうは見えないのだけれど、そうだとしたらかなり嬉しい。 彼が僕にそれだけ愛着をもってくれていることが。 彼は答える代わりに僕の頭を撫でた。 子供にするようなその動きや表情が、僕にはとても優しく、暖かく感じられる。 「俺も結構お前のことは好きだぞ」 また読まれたんだなと思いはしても、嫌ではない。 むしろ嬉しい。 もし僕に尻尾があったなら思いっきり振っていただろうと思うほどに。 彼がそのゲームを買い、僕たちは店を出た。 そのまま通りをぶらついていると、 「ねえ」 と声を掛けられた。 二人連れの若い女性。 年は僕たちより少し上だろう。 化粧がけばけばしい。 「これからカラオケにいこうと思うんだけど、一緒にどう?」 またか、と思った次の瞬間には、どうやって追い払おうかと考え始めている。 せっかく彼を独占して過ごせる時間を邪魔されたくない。 デート中なんです、と言って逃げるのはなしかな。 彼に嫌われたくないし。 それじゃあどうするか、と思ったところで、いきなり腕を絡められた。 ぎくっとしてそちらを見たが、それは二人の女性のどちらの腕でもなく、まぎれもなく彼の腕で、しかも彼は滅多に見せないような笑顔を見せていた。 「悪いんですけど、今こいつと遊んでるんでー」 と言って走り出す彼に引っ張られて、僕も駆け出す。 残された女性たちがどんなに驚いた顔をしているかも見れず、驚きを引っ込めることも出来ずに、僕は走った。 彼が足を止めたのは、小さな公園に逃げ込んでからだった。 今にも声を上げて笑い出しそうな顔をして手を離した彼は、 「情けない顔」 と僕を見た。 どんな顔ですか、それは。 「アライグマが角砂糖を水で洗ってなくした時の顔みたいな感じかな」 なんですかそのたとえは。 「やけに機嫌がいいですね。あなたはホモ扱いが嫌だったんじゃありませんでしたっけ?」 僕が問うと彼は笑顔のままで答えた。 「どうせ知らない人間だからいいだろ。あれくらい。それよりもとにかくさっさと逃げ出したかったんだ。それはお前も一緒だろ?」 「それは、そうですけど…」 また噂が立って、彼に危害を加えようとする人間が現れないかと考えると少し恐ろしかった。 あの時、彼にカッターナイフがつきつけられるのを見て、僕は自分でも驚くほど激昂していた。 またあんなものは見たくないと心の底から思うほど、あれは僕にとって衝撃だった。 「それにしても、」 と彼は伸びをしながら言った。 「逆ナンとか初めてだ。やっぱり顔がいい奴といると違うんだな」 「え、初めてなんですか?」 驚きだ。 彼なら女性に声を掛けられていても不思議じゃないと思うのに。 「当たり前だろ。俺に声を掛けてくるのなんて精々キャッチセールスくらいだ」 …本気で言ってるんだろうなぁ。 多分、その中にはナンパも入っていたと思うんだけど、わざわざ言うようなことでもないだろうと僕は黙っていた。 「ゲームも買ったし、そろそろ家に行くか?」 彼に問われ、僕は頷く。 彼の家に行けば妹さんが待っていて、僕が彼を独占で切る時間も終るのだろう。 それでも、今日はこれだけ過ごせた。 満足しなければいけない。 自分の中のわがままな部分を押さえ込もうとする僕の頭を、彼がぽんと撫でた。 「今日、妹もお袋も留守なんだ。だから夕食は俺が作ることになってるんだが、それでよかったら食ってくか?」 「…はい」 答えながら、泣きそうになった。 僕が少しでもへこんだ様子を見せただけで、彼はこんなにも僕に優しくしてくれる。 甘やかしてくれる。 おそらくそれを、迷惑だとは少しも思わないで。 家族のように、と思ったのが、すとんと胸に落ちた。 僕は、彼の家族になりたかったんだ。 友人ではいつか交流が絶えることもあるかも知れない。 恋人ではなおさらだ。 家族なら、縁を切ることはできない。 離れても、繋がっていられる。 だから僕は、彼の家族になりたかったんだろう。 思えば、四年前、彼のことを「お兄さん」と呼んだのも、あの時から僕が家族を欲していたからかもしれない。 僕を愛してくれる、僕に優しくしてくれる、僕を守ってくれる家族を。 「今だけ」 呟くように言った言葉が情けなく震えていた。 「…今だけ、お兄さんって、…呼んでも、いいですか…?」 彼は少し躊躇ったが、すぐに優しく笑い、 「ああ」 「……おにい、さん」 「なんだ? ―― 一樹」 嬉しくて、涙が出そうになった。 彼はこうやってまた僕に、僕の欲しい言葉をくれる。 僕の心を何もかも見透かしたように。 「お兄さん」 「また泣くのか? 我慢できるなら俺の部屋まで我慢しろよ。流石にここじゃ抱きしめてもやれないから」 「…泣きません。泣きません、けど…」 泣きそうになる。 見っとも無い僕を嘲笑いもせず、彼は優しく撫でてくれた。 店を出て、適当に冷やかしながら歩くのも結構楽しかった。 古泉も楽しそうにしているのが何よりだ。 昨日いきなり声を掛けたのは俺の方で、しかも昼飯まで奢らせておいて、こいつが楽しそうにしてなかったら俺は単なる嫌な奴だからな。 ついでに、とゲーム屋に入って並べられたゲームを見る。 その中に、さっきゲーセンで遊んだ音ゲーを見つけて手に取ると、古泉がのぞきこんできた。 「買うんですか?」 「中古で安いからな。これなら妹もやるだろうし」 そう答えると、古泉がなんとなく寂しそうな顔になったのが見えた。 俺が笑いながら、 「妹にまで妬くなよ」 と言ってやると、古泉は苦笑しながら、 「そんなところまで読まれちゃいましたか」 プライベートなところでは結構分かりやすいからな。 お前は。 「そうじゃないところではどうです?」 分かり辛い。 「それを聞いて安心しました」 どこが安心なんだ、と俺はため息を吐く。 「まあ、お前の状況を考えると仕方ないんだろうけどな。普段あれだけ読めるのが読めなくなるくらい拒まれるとかなりへこむぞ」 「本当ですか?」 そこで嬉しそうな顔をするなよ。 分からんでもないが。 多分、俺にそれだけ好かれてるのが嬉しいとか何とか思ってるんだろうな。 ほんと、可愛いな。 いっつもそうやって素直にしてりゃいいのに。 「俺も結構お前のことは好きだぞ」 言ってやると、古泉はちょっと目を見張った後、嬉しそうに笑った。 うん、そうやって笑ってろ。 犬が懐いてきてるみたいで可愛い。 俺は満足しながらもゲームを買い、古泉を連れて店を出た。 後は特に行きたいところもないが、どうするかな。 家に帰ってもいいが、古泉はまだ満足してないみたいだし。 考えながら歩いていると、 「ねえ」 と声を掛けられた。 若い女性の二人連れ。 年齢は二十歳前後か? 派手な化粧をみて思うのは、化粧なしであんなに美しい朝比奈さんは素晴らしいってことだな。 「これからカラオケにいこうと思うんだけど、一緒にどう?」 と言っている女性の目には、古泉だけが映っている。 俺は余計なおまけってところか。 古泉はというと、若いオネエチャンに声を掛けられても嬉しくないらしい。 それどころか、かなり冷めた目をしていた。 お前、正直すぎだろ。 そんなに俺と二人だけがよかったのかよ。 吹き出しそうになるのを堪えながら、俺は古泉の腕に自分の腕を絡めた。 浮かんできた笑みをそのまま見せ、唖然としているオネエチャンたちに言うのは、 「悪いんですけど、今こいつと遊んでるんでー」 という俺らしくもなくハイテンションな発言だ。 オネエチャンたち同様、ぽかんとしている古泉を引っ張って、俺は駆け出した。 振り返ると、呆然と突っ立っているオネエチャンたちの姿が見え、かなり痛快な気分になった。 今の俺にはハルヒが乗り移ってるんじゃないかと思ったね。 そのままのテンションで街中を走り、小さくて人気のない公園に逃げ込むと足を止めた。 流石に息を切れる。 古泉の顔を見ると、思わず鶴屋さんのように笑い出したくなった。 古泉が普段見せないような、驚きと、困惑と、嬉しさの入り混じったような表情だ。 つまりは、 「情けない顔」 そうニヤニヤ笑いながら言うと、古泉が脱力しながら、 「どんな顔ですか、それは」 俺は少し考え、 「アライグマが角砂糖を水で洗ってなくした時の顔みたいな感じかな」 「やけに機嫌がいいですね」 困ったように苦笑しながら古泉は言った。 「あなたはホモ扱いが嫌だったんじゃありませんでしたっけ?」 「どうせ知らない人間だからいいだろ。あれくらい。それよりもとにかくさっさと逃げ出したかったんだ。それはお前も一緒だろ?」 「それは、そうですけど…」 口ごもる古泉の表情に陰りが見える。 また余計な事を考えてるんだろうな。 その考えすぎるくせをなんとかしたら、こいつももう少し明るくなる気がするんだが、こいつにまで明るくなられると文芸部室が更に騒がしくなる気がするから、これで丁度いいのかもしれん。 陰りを追い払ってやりたくて、俺は話題を変えた。 「それにしても、逆ナンとか初めてだ。やっぱり顔がいい奴といると違うんだな」 「え、初めてなんですか?」 お前は一体何回目なんだよ。 何だそのリアクションは。 俺がナンパされたことないってのがそんなに驚きか。 言っておくが自分を判断基準にするなよ。 お前は何につけても平均水準より遥かに上なんだからな。 「当たり前だろ。俺に声を掛けてくるのなんて精々キャッチセールスくらいだ」 古泉は何か言いたそうな顔をしていたが結局言わなかった。 「ゲームも買ったし、そろそろ家に行くか?」 俺が問うと、古泉は頷いた。 ただし、どこか不満そうにだ。 ああ、もう、しょうがねえな。 お前、本当に俺のこと大好きなんだな。 ぽんと頭を撫でてやると、それだけで嬉しそうな顔になる。 もっと喜ばせてやろう、と俺は笑みを浮かべ、 「今日、妹もお袋も留守なんだ。だから夕食は俺が作ることになってるんだが、それでよかったら食ってくか?」 古泉は嬉しそうな顔をし、それから何か妙に納得したような表情を浮かべた。 それから何故だか泣きそうな顔になり、 「今だけ」 と震える声で言った。 「…今だけ、お兄さんって、…呼んでも、いいですか…?」 俺は少し躊躇った。 だが、辺りに人気もない。 拒むのは可哀相だろう。 俺が頷くと、古泉はほっとしたように、 「……おにい、さん」 と俺を呼んだ。 「なんだ?」 と答えた後、 「一樹」 と付け足したのは、なんとなくだ。 なんとなく、古泉がそう呼んでほしがっているように感じたからそう呼んだだけであって、もっと論理的に説明しろと言われても無理だ。 ただ、この判断は当たりだったらしい。 古泉の顔が嬉し泣きのように歪む。 「お兄さん」 さっきよりはっきりと呼ばれる。 「また泣くのか? 我慢できるなら俺の部屋まで我慢しろよ。流石にここじゃ抱きしめてもやれないから」 「…泣きません。泣きません、けど…」 泣きそうになるんだろ。 俺は古泉をなだめるために、自分の手がだるくなるまで古泉の頭を撫でてやった。 自分の頭より高い位置にあるそれを撫で続けるっていうのはそこそこの気力と腕の筋力を必要とするものだなと思いながら。 彼が料理をしている、その傍らで、邪魔だか手伝いだか分からないことをしている。 彼は僕に出来ることをやらせてくれて、決して邪険にはしなかった。 人目がある時は、彼なりの矜持があるのかなんなのか、しばしば冷たく扱うのに、二人だけの彼はとても優しい。 頼りすぎないようにと自分を叱咤し続けなければならないほど。 そうしても、無意味に思えるほど。 多分、僕はこの、絶妙な距離が好きなんだろう。 友人より近くて、恋人よりも近くて、でも家族には及ばない。 それでも家族とほとんど同じように接してもらえる、この距離が。 もし叶うなら、彼の家族になりたいと思うのは変わらないけれど、今のままでもいいとも思う。 「お兄さん」 小声で呼ぶと、彼は野菜を炒める手を動かし続けながら、 「うん?」 と聞いているのかいないのか分からないような調子で返事をする。 それさえなんだか優しい声で、僕は笑みを浮かべながら言った。 「……好きですよ」 「知ってる」 余裕の笑みを浮かべて、彼は僕を受け入れてくれた。 きっと何もかも見透かした上で。 「俺も、結構好きだって、今日言っただろ?」 「そうでしたね」 「…何かあったら、いつでも来ていいぞ。俺のところで泣いておさまるならそれでいいし、こうやって甘えたいだけならあまえさせてやるさ。どうせ、妹に甘えられてもお前に甘えられても大して変わらんからな」 「じゃあ、またこうやってお兄さんと呼んでもいいんですか?」 「他に誰もいなけりゃな」 流石にお袋や妹にも聞かれたくない、と言った彼に、僕は微笑むしかない。 本当にどうしてこんなに優しくしてくれるんだろうと、それが不思議でならなかったけれど、おそらく彼にも分からないんだろう。 分からないことを解き明かすことは楽しい事でもあるかもしれないけれど、解き明かしてしまったらもう楽しみは残らない。 それなら、今のままでいい、今のままがいいと、僕は思った。 |