狂虐



おいおいおい、どうなってんだ。
血の気の失せていく音を聞きながら、俺はメールアドレスの変更手続きをするべく携帯を操作した。
その間にも届いてくるメールは一切無視だ。
まともな内容などろくにない。
入ってくるのは意味のない中傷やからかい、俺の年齢及び趣味嗜好からは遥かに外れた分野からのダイレクトメール、あるいは真剣なお付き合い申し込みのメールであることはほんの数件見ただけで分かった。
真剣なお付き合い申し込みであっても相手が野郎だと思うだけで吐き気がするのは俺が偏見を持っているからではないと思う。
男として実に正しい、生理的な反応ではなかろうか。
とにかく、と急いでメールアドレスを変更すると、とりあえずメールの嵐は止まった。
それらの中に必要な物が混ざってないか気をつけつつ、削除しなくてはならないかと思うと泣けて来る。
メールの大半はタイトルだけでもかなりの悪意に満ちていた。
俺が何をしたって言うんだ。
苛立ちながら削除を繰り返していた俺の手が止まる。
メールに添付されていた画像は、絡み合う野郎同士というお世辞にも芸術的とは言いかねる下手なコラージュ写真だった。
コラージュなんてものを見慣れていない俺でも下手だと分かるほど稚拙なそれは、さらにコラージュであるということを誇るように、俺の顔写真が使われていた。
――本当に、俺が何をしたって言うんだ。
こみ上げてくる吐き気は怒りのせいか、それともこの写真が気持ち悪いからか。
一瞬削除を躊躇ったのは、これが明らかに俺に対する攻撃意思を持った攻撃であると証明出来るものだからだ。
これがあればとりあえず、俺が嫌がらせを受けているという証拠になるだろう。
だが、証明してどうする?
俺は別に仕返しやなんかをしたいわけではない。
そりゃあ、謝罪してもらえれば嬉しいが、嫌がらせをやめてもらえればそれでもう十分だ。
警察にも学校にも、ついでに言うなら機関にも、訴えるつもりはない。
どれも大事になるだろうし、ことに機関に関しては古泉に輪を掛けて胡散臭いからな。
そもそも、嫌がらせは今日始まったものではない。
最初は確か、靴箱に「カマ」とか「死ね」とかそういう悪意丸出しの紙を貼られた。
それが靴箱の外なら俺は恥ずかしい思いもするが、注目をされることでかえって安全になっただろう。
だが、それは靴箱の中であり、見たのは俺だけだ。
俺は驚いたものの、いつものようにため息を吐いて諦め、紙を丸めて捨てただけだった。
それが余計にいけなかったんだろうか。
次は体育の間教室に置いてあった、俺の財布や携帯が校舎裏にばら撒かれていた。
財布の中身が無事だったのは奇跡のようなものだとしか言いようがない。
それからは一応警戒して、大金及びカード類なんかは持っていかないようにし、携帯にもロックをかけるようにしている。
そのまた次は俺の靴にカッターの刃が仕込まれていた。
靴の中に画鋲というのがセオリーだと思うのだが、そんな方法を使う奴よりも賢い奴であるらしい。
靴を取ろうとすれば指がかかるであろう靴の内側のかかと部分に、カッターの刃を差し込むようにして固定してあったのだ。
偶然刃に触れずに済んだが、触っていたら指を切って俺の上履きは赤い靴になっていたんだろうな。
その他にも着替えを水浸しにされたり、文芸部室に置いてある俺愛用のパイプ椅子がズタズタにされていたりと、数えるのも面倒なほどバリエーション豊かに仕掛けてきてくれているわけだ。
それらが段々過激化していることに気味の悪さと警戒心を抱き始めたところに、このメール攻撃だ。
メールアドレスがばらばらだったりするから、おそらく俺のメールアドレスをどこかの掲示板にでもさらしたんだろう。
携帯を財布と一緒に巻き散らした時、ついでに俺のメールアドレスを確認したんだろうな。
用意周到というか、計画的というか、それだけ考える頭があるならこんな馬鹿げたことはやめろと言ってやりたい。
という感じに俺が余裕、あるいはゆとりを持っていられるのは、この陰険な攻撃を仕掛けてきているのが十中八九女子であるからだ。
それも、確実に同じ学校、下手をすれば同じクラスの。
古泉なんぞにそこまで惚れちまっているんだろう彼女等には同情さえ抱く。
ちなみに、彼女等と分かるのは複数の嫌がらせを同時にしてきたりすることがあるからだ。
そろそろ、俺の髪の毛を仕込んだ藁人形でも出てきそうだな。
そんなことをしている暇があったら、あいつの作った笑みを適当に取繕ったものだと分かる位の眼力でも身につけてもらいたいものだが、賢い昔の人曰く、恋は盲目だそうなのでおそらく不可能だろう。
やれやれ、と携帯を睨んだ。
円滑なコミュニケーションやなんかを考えると、メールアドレスの変更を報せるメールを送らなければならないんだが、もう億劫だ。
必要な相手はそう多くないし、そいつらには明日学校で会えるだろう。
俺は倦怠感に任せてベッドに寝転がり、そのまま目を閉じた。

嫌なことに、最近、俺の朝は妹と古泉のコンボで始まる。
まず妹が俺に声を掛け、古泉が図々しくも俺の部屋まで侵入してきた挙句、嫌がらせのように俺を起こしていくというわけだ。
ところが今朝は、古泉がばたばたと慌ただしい足音と共に俺の部屋に飛び込んでくると、俺の枕の横で寝ていたシャミセンを見て安心するという妙な状態となった。
俺は昨日のこともあってかすでに目が覚めていたので、
「どうしたんだ、古泉」
「……少し、よろしいですか」
真面目な顔で古泉が言い、俺は不審に思いながらも古泉と共に部屋を出た。
「いっちゃんどうしたのー?」
いつも通りの妹へ複雑な表情を向けた古泉はお袋へ妹を押し付けた後、俺を連れて玄関を出た。
俺は着替えてもいないんだが?
「出かけるわけではありません。それより、これを見て下さい」
古泉が指し示したのは、玄関脇の狭いスペースに転がされた、三毛猫の死体だった。
思わず視界が揺らぎ、吐き気が湧き上がる。
よろめいた俺を支えながら、古泉が言った。
「僕が来た時は玄関前の目立つところにありました。とりあえず、こちらへ移動させた後、シャミセン氏の安全を取り急ぎ確認させていただいたわけです」
くそ、なんてことしやがるんだ。
声に出さず、俺は内心で呻いた。
未だ純粋で穢れも知らないうちの妹が心に深い傷を負ったらどうしてくれるんだ。
叫びたくなる言葉を水際で阻止しながら、俺は唸るように古泉に尋ねた。
「猫は自然死か?」
「一応そのようですが、まず聞くことがそれなんですか?」
「他に何を聞けばいいんだ。どこかの三毛猫が偶然にもうちの玄関先で天に召されたという、ただそれだけのことだろう」
「…本気で言っているんですか?」
訝しむような目を向ける古泉に、俺は出来るだけ平静を装って頷いてやった。
「違うとでも言うのか? うちにこんな嫌がらせをされるだけの理由があると言いたいわけじゃないだろ」
「それは、そうですが…」
我ながら汚い誤魔化し方だと思う。
だが、古泉が介入して来たところでそれは仕掛けてきている彼女等の神経を逆撫でするだけだろう。
それなら俺一人で対処した方がマシだ。
「古泉、悪いが上手く始末してくれるか? 妹には見せたくない」
「その意見には賛成ですが、」
「賛成ならいいだろ」
無理矢理会話を打ち切って、俺は家の中に戻った。
食欲はどこかに行ってしまっている。
当分戻っては来ないだろう。
俺があの冒涜された哀れな猫にしてやれることは、小ぶりな段ボール箱を探してきて、それに納棺してやることくらいだ。
殺された猫でないだけマシかもしれないと思ったが、昨日のメール攻撃といい、今朝のこれといい、これ以上のエスカレートはきついな。
俺は唇を噛み、苛立ちを押さえた。

犯人集団との連絡手段として考えたのが手紙だった。
窓口は、いつぞや未来人との連絡にも使用した俺の靴箱だ。
紙切れを突っ込んだりする嫌がらせは絶賛続行中であるからして、そうすれば奴等に連絡が取れるだろうと考えたのだ。
内容は簡潔――要求があるなら直接しろ、呼び出しでも何でも応じてやる。
ただ、それだけだ。
返事は思ったより早く、放課後には俺の靴箱に手紙が入っていた。
これまでの紙切れ同様、パソコンで打ち出したらしい簡素な紙切れだ。
内容もまた簡単で、
『明日の放課後、屋上に来い』
といっそ脅迫状にあるような新聞や雑誌から切り抜いた文字でも繋げば雰囲気が出ていいんじゃないかと思うほどだった。
ここで俺が抱いた不安の原因は、犯人集団が複数、あるいは存在しないという可能性である。
複数であればひとつと決着をつけても他のが続けることになる。
ましてや、犯人が集団でなく、個別に攻撃を仕掛けてきているだけだとしたら余計に面倒だ。
嫌がらせをしてくるような陰険な女子と何度も渡り合いたいとは思わないし、そもそも渡り合えるかも分からない。
俺は犯人集団がひとつであることを祈りながら、翌日の放課後になるとさっそく指定された屋上へ上がった。
この暑いのに何もない屋上に閉じ込められるような、本気で命を危険にさらすようなことにはなりたくない俺は、すぐに屋上に出ず、階段上の踊り場で屋上の様子を伺った。
誰か既に来ていれば大丈夫だろうと思ったわけだ。
屋上には既に何人かの人間がいるらしい。
俺はひとりで対峙することにした自分の浅はかさをいささか後悔しないでもなかったが、とにかく屋上へ出た。
「遅かったわね」
高飛車に言ったのは、可愛いと言えなくもない女子だった。
俺が今そう言わないのは、彼女がおそらく古泉には見せたくないと思うであろうほど恐ろしげな表情をしているからだ。
彼女の他にも、犯人集団のメンバーらしいのが十人近くもいる。
古泉の野郎、どれだけもてるんだ?
しかし、そのうち見覚えがある気がするのは、文化祭の時に古泉のクラスの劇で古泉に見入っていた数人と、それからいつだったか古泉に告白しているところを本当に偶然目撃してしまった彼女くらいであり、あとは見覚えがなく、とりあえず同じクラスに陰険な犯罪者がいないことにほっと胸を撫で下ろした。
俺は出来るだけ平常心を保ちながら言った。
「どうして俺に嫌がらせをするんだ」
「聞かないとそんなことも分からないの?」
馬鹿にするように言った彼女こそ、古泉に告白していた彼女なのだが、俺は未だに彼女が何年の先輩なのか分からないでいた。
これだけ女子をまとめているということは三年なんだろうが、それはそれでよく嫌がらせをしている暇があるなと感心してしまいそうになる。
受験勉強のストレスで、頭のねじが数十本行方知れずにでもなっているのだろう。
「俺は嫌がらせをされるような覚えはない」
言い切ると、彼女は怒りに顔を歪めた。
そこそこ美人だと思ったはずの顔が更に醜悪に変わる。
「なに言ってるのよ。あんたなんか薄汚いホモ野郎のくせに」
ホモだからってだけで嫌がらせを受けるんだとしたら、マイノリティーってのは本当に迫害されるものなんだな。
だが、
「俺はホモじゃない」
「嘘ばっかり。あんたが古泉くんを誑し込んだんでしょ。一緒に登下校なんかしちゃって、恥ずかしくないの?」
あれは俺も恥ずかしいと思う。
「俺がやりたくてやってるんじゃない」
「古泉くんがやりたくてやってるとでも?」
嘲笑するように彼女は言った。
「そんなわけないでしょ。全部全部あんたのせいよ。あんたが彼を歪めたのよ」
ヤバイな、こいつ。
本気でキレてそうだ。
頭の切れる奴と頭のキレてる奴ってのが音的に似てるのは、それらが紙一重だからなんだろうか。
「俺がどうこうしたって言うならそれなりの証拠でもあるのか?」
「ほら、やっぱりあんたがいけないのよ」
勝ち誇るかのように彼女は笑った。
「証拠なんて要らないわ。分かるもの。そんな三文推理小説の犯人役みたいなセリフでも、あんたには勿体無いわ」
いよいよ危ない奴だ。
「じゃあ仮にお前等の主張を認めたとしよう。どうしたら嫌がらせをやめるんだ?」
言っておくが、仮にだぞ。
「彼と別れなさい」
要求は恐ろしく単純だった。
「もう彼に近づかないで。彼をあの怪しげな活動から解放しなさい」
「活動云々は俺にじゃなくハルヒに言ってくれ」
あいつに近づくなと言うなら俺の方は全力で逃げてやったっていい。
どうせそのうちやってやろうと思っていたことだしな。
「……そうね。じゃあ、代わりにあんたの、」
と彼女はポケットからいきなりカッターナイフを取り出した。
それも、段ボールを開封したりする時なんかに使う、ごつくてデカイ、可愛げの欠片もない奴を。
「その顔を傷つけてあげるわ。彼はあんたの顔が気に入ってるみたいだしね」
どこをどうすればそう判断出来るんだ。
あいつが顔を近づけてくるからか?
というか、刃物はまずいだろう!
「やめろ…」
声に焦りを滲ませながら俺が言うと、彼女は酷薄に笑った。
「いやよ。彼の人生を歪ませたんだもの。あんたは責任を取らなきゃいけないの」
ゆっくりと近づいてくる彼女を、他の連中は止めもしない。
かといって煽りもしないのは彼女を怖がっているからなのかもしれない。
確かに今の彼女なら立ちはだかるものはそれがなんであれ刺し殺しそうだ。
俺はじりじりと後退り、ドアのノブに手を掛けた。
がちゃりとノブが回る。
鍵は掛けられていないらしいとほっとしたのも束の間、ドアが開かなくなっていることに気がつかざるを得なかった。
「っ!?」
驚いた俺に、彼女は声を上げて笑った。
「外にまだ仲間がいたのに分からなかった? あんたが入った後、物を置いて開かない様にさせたの。あたしが連絡しない限り、開けないように言ってね。逃げ場はないわ。殺そうっていうんじゃないんだから、大人しくしてなさい」
そう言われて大人しくしていられるような奴がいるものか。
俺は開かないドアから離れ、彼女から離れた。
それでも彼女は余裕だ。
この屋上はそんなに広いわけではないし、逃げ回るうちに俺が地上へ落下したところで彼女としては喜ばしいだけだからだろう。
くっそ、古泉め。
どうして俺がお前のためにこんな目に遭わなきゃならんのだ。
もう決めた。
子供古泉の幻影がちらつこうが、痴話喧嘩かと冷やかされようが、俺は金輪際古泉との接触を避ける。
妹とお袋がなんと言おうが、二度と家にも上げてやるものか。
「大人しくしてた方が、変に切れなくて安全よ?」
親切めかして言う彼女に、いつだったかの朝倉の姿が重なる。
彼女が持っているのはごついカッターナイフ、朝倉が持っていたのはアーミーナイフと思しき殺傷能力を追求したような恐ろしげなナイフという違いこそあれ、向けられる殺意はほとんど変わらん。
それは朝倉の殺意が殺意と言うにはあまりにもあっさりとしたものであり、彼女の攻撃意思が殺意と言えそうなほど強くねちっこいものであるからかもしれないが。
しかし、また刃物か。
いい加減、先端恐怖症か何かにでもなりそうだな。
人間、追い詰められそうになると角に逃げ込んでしまい、結果として逃げ場を失うといったような理論を聴いた記憶があった俺は、バカ正直に角に逃げ込もうとはせず、とにかく彼女との間を取ることに専念しながら様子を伺っていた。
上手くいけば誰かが異変に気がついて駆けつけてくるかもしれないと思いながら。
しかし、放課後にわざわざ屋上を見上げ、かつ上手い具合に俺たちの姿を見つけてくれるような暇人がいるとは思えない。
なまじっか、超能力者絡みでも宇宙人絡みでも、ましてや未来人絡みでもないだけに、未来人、宇宙人および超能力者の助けは期待出来ない。
いや、厳密に言うなら超能力者絡みと言えないこともないではないのだが、閉鎖空間限定超能力者が俺の危機を察知することなど不可能だろう。
どうすりゃいいんだ、と俺が思った時、彼女が笑みを浮かべて命じた。
「押さえてて」
風に飛びそうになった書類を押さえろとでも言うような、軽い調子で。
一瞬唖然となった俺が、自分がいつの間にか彼女以外の犯人集団の近くに戻ってきてしまっていたことに気がついたのは、間抜けにもその後だった。
彼女が怖いのだろう。
反射的にひとりが俺の足を押さえると、他の連中も俺を押さえ込んだ。
かくして俺は羽交い絞め状態にされることになる。
こんな状況になってもまだ相手が女子だからと本気で抵抗せずにいられるのは筋金入りのフェミニストか、あるいは馬鹿だ。
俺は渾身の力を込めて暴れ、結果として数人を振り払うことに成功したが、いかんせん、多勢に無勢だ。
床に思いっきり転ばされた上、今度こそ逃げられないほどしっかりと押さえつけられた。
主犯格である彼女がにこりと微笑む。
にやりでもにたりでもなく、こんな状況でなければ見惚れるような奴が現れそうなほど、綺麗に。
「どこに傷をつけて欲しい? 頬? 目? 額? かえって男前になりそうだから、頬はやっぱり却下ね」
そう彼女はカッターを構えなおそうとした時、ドアが開いた。
寝かされて押さえつけられた俺の位置からは見えないが、音でそれが分かった。
ドアについては、荷物さえのければ中から簡単に開くのだろうと思ってはいたが、わざわざそれをして屋上に出てくるような奴がいるとは。
なんにせよ、天佑神助だ。
「何を……」
低く唸るような声には怒りが満ちていた。
聞いたことがない声だが、聞き覚えがあるような気もした。
「…何をやっているんだ。彼に、何をした!?」
俺を押さえつけていたいくつもの手から力が抜ける。
慌てて抜け出した俺は体を起こし、助けに来てくれた奴の顔を見て、本気で驚いた。
それは、古泉一樹、その人だった。
いや、ある意味、想定の範囲内ではあるんだが、低い声も、あんな口のきき方も、普段の古泉からは余りにも懸け離れていて、度肝を抜かれたのだ。
表情さえ、古泉は普段と違っていた。
本気で怒っていると分かる、真剣な顔。
「彼が耐えられているようだったから、僕も余計な手出しはせず、少々なら見逃そうと思っていたが、これはどうみてもやりすぎだ。あんたたちにも、傷をつけてやろうか!?」
むしろ今すぐ屋上から地面へ投げ落としそうな勢いで古泉は怒鳴った。
「怪我をさせるだけじゃ生温いな。社会的に抹殺してやろうか。それとも本当に殺してやろうか」
苛立ちのまま言葉を口にする古泉に、彼女等の顔が青褪め、歪んだ。
彼女等が悲鳴をあげないことに驚くほど、古泉は凶悪な顔をしていた。
カッターをまだ手に持っていた彼女に、古泉は言う。
「それで彼に何をするつもりだったんだ」
問いかけの形をしていながら意味をなしていなかった。
古泉のことだからちゃんと分かっていただろう。
「あ、あたしは……あなたの、ためにと、思って……」
「そんなこと聞いてねえよ。親切めかした好意の押し付けも要らない。あんたはあんたがやろうとしたことを言えばいい。そうすれば僕があんたにそれ以上のことをしてやるよ」
ひ、と彼女の喉から悲鳴染みた音が漏れた。
俺の位置から見える古泉の顔は横顔だが、それでもその目が怖かった。
正面にいてその目で睨まれている彼女の恐怖は推して知るべしだ。
俺は急いで立ち上がると、彼女を追い詰めようとしていた古泉の腕を掴んでその足を止めた。
「やめろ、古泉」
「……どうしてです」
俺に問い返した古泉の声も話し方も、いつもの古泉だった。
ただ、その目だけはまだ見るものに恐怖を抱かせるような狂気染みた色をしていたが、その程度で怯むようじゃ、こいつと友人付き合いはやってられない。
「俺は別に怪我をしてもいないのにそれでやり返してたら、ハンムラビ法典以上の不公平さだろ」
「ハンムラビ法典は倍返しなどの過剰報復を規制する役目を担った法ですからね」
「それなら、倍返しをしようとするお前は古代バビロニア人以下ということになるな」
などと言葉遊びをしているところじゃないな。
俺は無抵抗の古泉の胸倉を掴むと、
「それよりお前、自分のこと何様だと思ってるんだ?」
「……」
黙ったまま答えないってことは自覚はあるらしいな。
「俺が嫌がらせを受けてると分かってて放っておいたことはまだ許してやるよ。お前だからな。だが、そうしておいてこういう事態になってから、自分のやったことは全部棚に上げて、正義の味方面して出てくるんじゃねえよ」
「そんなつもりではなかったんですが…」
「ああ、もういい。お前のはっきりしない話は聞き飽きた。俺はもううんざりだ。お前に振り回されるのも、お前のせいでこんな目に遭わされるのも」
だから、と俺は古泉をつき飛ばすようにして解放した。
「もう、俺につきまとうな。SOS団以外のところで近づいてくるな。当然、うちにも来るなよ」
古泉が目を見開く。
唇が力なく歪み、一応笑みに見えないこともないような形を作る。
「嘘でしょう…?」
「嘘じゃない。本当ならお前の顔も見たくない」
だがそれだとSOS団の活動に支障が出てハルヒの機嫌を損ねることになるだろうから、そうしないでおいてやる。
それだけでも、有難く思え。
「ずっとひとりだったんだろ。それに戻るだけだ」
冷たく吐き捨てた俺の手を、古泉が掴む。
縋りつくように、振り落とされまいと頑張るシャミセンみたく。
「もう、戻れません…。あなたなしで過ごすことなんて、想像もできません…っ」
くしゃりと歪んだ顔に、涙が滲む。
「僕を……見捨てないでください……」
「放せよ」
「嫌です…!」
掴まれた手を引っ張られ、抱き竦められる。
俺は思いきり不快さを露わにしながら、
「放せって言ってんだから放せ、この変態!」
「変態でも構いません。あなたを逃がさなくて済むのでしたら」
「ふざけんな!」
「ふざけてなんていません。本気です」
古泉は泣きそうな声で言った。
「…本気なんです……」
「うるさい」
「どうしてです……?」
「さっきも言っただろ。お前のせいでこんな目に遭うのが嫌なんだ」
「……やっぱり、彼女等を始末してでも…」
こいつも大分危ないな。
「それはやめろって言ってるのに、聞けないのか?」
「僕より、あなたを傷つけようとしたような連中の方が大事なんですか?」
大事とかそういう問題じゃなくてだな、人として自分を原因として人が傷つくのを見たくないと言う思いがあるんだが、それさえ分からないんだろうかこいつは。
「分かりません」
古泉がきっぱり言い切るのとほぼ同時に、ドアがばたんと閉まる音がした。
俺はため息を吐きながら、
「……あの時お前を引き止めたのは間違いだったかもしれないな…」
独り言のように呟いた。
それを聞き止めた古泉が、驚愕も露わに俺を見た。
「それは……四年前のことですか…」
「他に何がある」
あの時お前に関わらないでいれば、俺はここまでお前に振り回されることはなかった。
大体、ハルヒのせいで東奔西走させられるだけでも身が持たんというのに、どうしてお前にまで手こずらされなきゃならんのだ。
「それは……謝ります。でも、僕は……あなたに迷惑を掛けたくてそうしているのではないんです…」
「それは分かるが……いや、やめておこう」
もう十分だ。
そうだろ。
俺が言うと古泉は今までしっかり抱きしめていたことを忘れたかのように俺を解放した。
顔にはいつもの微苦笑が浮かんでいる。
俺は嘆息しながら、
「しかし古泉、お前はどうしてそう一歩も譲らないんだ? どこまでいっても話が平行線じゃないか」
芝居だということくらい、分かってただろうに。
「たとえお芝居でも、あなたに見捨てられるなんて嫌です。それに、」
と古泉は俺の顔を真顔でのぞきこみ、
「本当に、お芝居だったんですか? 少なくとも途中までは本気のように見えましたけれど」
ばれたか。
「ばればれです。……そんなに、堪えてたんですか。今回のことが」
「当たり前だろ」
「僕はこれくらいなら大丈夫かと思っていました。あ、カッターで切りつけようとするようなことではありませんよ? 猫の死体や靴箱への悪戯のことです」
「なんだと?」
「あなたは打たれ強い方ですし、それに、それくらいなら僕も日常茶飯事なので」
ちょっと待て、笑顔でさらりととんでもないことを言うんじゃない。
「お前、そんな、いじめられたりしてんのか?」
「いじめと言うんですか? まあ、どうってこともないレベルなので放っておいてるんですけど」
「大丈夫なのか?」
「ええ。可愛らしいものじゃありませんか。人の足を引っ張るのに必死になるくらい、自分のことしか見えてないというのも」
俺はかなりの脱力感を感じた。
古泉のことだから俺がどんな目に遭っているか知っているだろうと思っていたし、だからこそここまで放置するこいつの神経を疑っていたのだが、単純に慣れによる感覚のずれのせいだったとは、思いもしなかった。
嘆息しながら俺は言った。
「本気で絶縁状を叩きつけられたくないんだったら、あんな嫌がらせがないようにしてくれ。それから、まとわりつくのもやめろ」
「そうですね…。僕たちの噂はかなり定着していますし、わざわざ彼女等の目の前であれだけ見せつけた以上、あなたが僕を誘惑しただなんて言う妄言を吐くような輩も、当分現れないでしょうし」
やっぱりそれを狙ってたのか。
「すみません。さっきも申し上げた通り、僕はあなたなしではいられないので」
そういうことをさらっと言ってしまえるようなところがどうしても好きになれないのだということに、気がつかないのかね、こいつは。
吐き出すため息さえ失って、俺は空を見上げた。
空は古泉の真似でもしたかのように、憎たらしいほど青かった。