「おっはよう、キョンくん。起きて!」 妹の浮かれ気味の声で起こされるのはいつものことであり、それはこれまでと変わっていない。 ついでに言うなら、それとともにシャミセンがのそのそと俺の部屋を出て行くのも、いつものことだ。 しかし、何故、 「いっちゃんがお迎えにきてるよ」 という言葉が続くんだろうか。 おかげでただでさえ目覚めの悪い俺としては、この世の全てを全否定して、まだまともに思える夢の世界へ再突入してやりたくなる。 それでも起きざるを得ないのは、これまで以上にさっさと退散するようになった妹が出ていくと入れ代わりにあの野郎が来るからだ。 「気持ちのいい朝ですよ。そろそろお目覚めになりませんか?」 そんなセリフを真顔で吐ける奴がいたとは思わなかったが、どうやら実在してしまうらしい。 それだけならまだしも、どうして俺の頭のすぐ横にまで身をかがめて言うんだ。 誰か止めろ。 「起きないのでしたら、目覚めのキスでもしましょうか?」 死刑宣告のような言葉に思わず飛び起きた俺に、古泉は楽しげな笑顔で言うのだ。 「おはようございます」 まるで何もなかったかのように。 「……なんで毎日通ってくるんだお前は」 ため息と共に吐き出す言葉は、もはや挨拶の如き定型句である。 慣用句になるのもそう遠い日のことではないだろう。 「それを言うなら、どうしてあなたは毎日同じことを問うのでしょうね?」 面白がるように古泉はそう言い、肩を竦めた。 ベッドから立ち上がりながら、俺は差し出された古泉の手を振り払う。 「いい加減にしたらどうだ。うちまで通ってくるのも手間だろう」 「そんなことはありませんよ。見返りもありますしね」 その見返りというのは、うちのお袋の料理のことか。 そうではなくて妹に懐かれると言うことだとしたら、お前にロリコンのレッテルを貼った上に、うちから永久追放してやるぞ。 というか、なんでうちの女たちはこの胡散臭い男の顔の面一枚に騙されて朝早くから上がりこませた上に、餌付けやら何やらをしているのだろうか。 「確かに、お母様のお料理は美味しいですし、妹さんに懐かれるのも悪くはありませんが、起き抜けのあなたの顔が見られるというのも外せませんね」 よーし、表へ出ろ。 そして二度と俺に近づくな、この変態。 お前、本当はホモだったんだな。 「恋愛感情ではないと思ってはいるんですけどね。……あなたがお望みでしたら、恋愛感情に変えても構いませんよ?」 やめろ。 誰がそんなことを望むっていうんだ。 前にも言ったかもしれないが俺は超オーソドックスなヘテロタイプであり、アッチ系の趣味はゾウリムシの体重分ほどもない。 意識的にも無意識的にも俺はノーマルだ。 お前は違うようだがな。 「僕も、一応ノーマルのはずなんですけどね」 一応とかはずとかいう言葉をつけるところじゃないだろうそこは。 「僕のこの感情が独占欲とか執着心であることを教えてくれたのはあなたでしょう」 持たせたのは俺じゃない。 「あなたですよ」 面白がるように、古泉は笑った。 「四年前に僕を引きとめたのも、改めて出会った僕に安らぎをくれたのも、僕に優しくしてくれたのも。――あなたがくれた全てのものを手放したくないと、失いたくないと思わせているのも、あなたです。違いますか?」 違うな。 俺はそんなもんを求めた覚えもなければ強制した記憶もない。 お前が他に友人を作れないのが悪いんだ。 赤玉仲間でも何でもいないのか? 「いませんねぇ」 笑顔で言うな。 俺はもう何度も繰り返した会話をまた繰り返してしまったことに疲れながら、台所へ向かった。 身支度を整えて、家を出る時も当然古泉は一緒で、俺は鬱々とした気分が晴れることもなく、嫌味なほど爽やかな古泉と共に歩く破目になる。 それでも途中までは妹が一緒だから、当たり障りのない会話に終始するためマシだ。 妹と別れたところで、古泉はわざとらしく自転車に道を譲り、俺との距離を縮めた。 「そう嫌そうな顔をしないでくださいよ」 文句を言いながらも、古泉は嬉しそうである。 ペシミストのくせにマゾヒストというのはありなんだろうか。 「僕は別にペシミストでもマゾヒストでもありませんよ。自分の状況を楽しめる余裕は、いつもある程度持っているつもりですから、ペシミストと言えるほど悲観主義ではありませんし、マゾヒストであるならばあなたになじられてこんなにも傷つくことはないはずです」 どこが傷ついているんだ。 どこからどう見てもお前はいつも通り、へらへらと笑っているようにしか見えないぞ。 「笑顔の下まで見透かせるのはあなたの特技ではありませんでしたっけ?」 そりゃあ出来ないでもないが、それでもお前は平気な顔にしか見えないぞ。 「もっとよく見てください」 顔を近づけてくるんじゃない。 歩き辛い。 というか、どうして俺は歩いているんだろうな。 本来なら途中までとはいえチャリで行き、悠々と歩けるはずなんだが。 「自転車通学の許可をもらえないような距離に住んでいるのに、何を言っているんです?」 それは遠回しに俺が無許可でチャリを使ってることを非難しているのか? 「非難するつもりはありませんよ。ただ、それなら最初から歩いていってもいいのではないかと思いまして」 登下校如きに余計なカロリーや時間を消費したくないんだが。 「ああ、でしたら明日からは僕があなたを荷台に乗せて自転車を漕ぎましょうか」 どうしてそうなるんだ。 お前こそ、自転車を持ってるだろう。 なのになんでわざわざいつも歩いて来るんだ。 「それはもちろん、あなたと過ごせる時間を少しでも長くしたいからですよ」 隠すのは本人のためにならないだろうから、あえて正直に言おう。 怖気が走るほど薄ら寒いその物言いを今すぐやめろ。 鳥肌が立つ。 「本心ですよ?」 それはそれで寒いことこの上ない。 俺は嘆息しながら言った。 「お前なら、その物言いだけでも色んな女が引っかかるだろうよ。だからとっととナンパでも何でもして女を作れ。それがお前のためであり、俺の平穏無事のためでもある」 「おかしなことを仰いますね。以前、それを嫌がったのはあなたでしょう?」 語弊のある言い方をするんじゃない。 それじゃあまるで俺が悋気持ちのどうしようもないカマ野郎じゃねえか。 俺はお前に彼女が出来るという羨ましい事態がむかつくと言っただけだ。 「それは嫉妬とは違うんですか?」 嫉妬の一種ではあるだろうが、これはお前に対する羨望を含んだ嫉妬であって、お前のように独占欲まみれの嫉妬ではない。 「手厳しいですね」 否定出来るならしてみろ。 「そんな必要はないでしょう。独占欲まみれの嫉妬心でも、僕はそこそこ気に入っていますから」 おかしな奴だ。 こんな奴に世界を守ってもらわなきゃならないかと思うと泣けて来るね。 ハルヒも、どうせ選ぶならもっとまともな神経をしていて頼りになる奴を選べばよかっただろうに。 救いを求めるように空を見上げると、空は忌々しいほど青かった。 「仲がいいわねー」 顔も知らない北高生の女子がチャリを漕ぎながらそんな声を掛けて通り過ぎていった。 許されるなら隣りで照れた笑いを浮かべて嬉しそうにしている変態を大地に沈めて供物にでもしてやりたい気持ちだ。 「そんなに嫌ならどうして一緒にいるのさ」 弁当を食いながら愚痴っていると、国木田がそう言った。 「俺の話聞いてたか? 一緒にいるいないの選択権すら、俺にはないんだぞ」 「本当にそうかなぁ」 いつもながら間延びした調子で国木田は言う。 「話を聞いてて分かったけど、古泉くんはキョンのことをとても好きなんだね」 改めて言うな、ぞっとする。 「もちろん、友情としてみたいだけど。でも、それなら古泉くんが絶対にされたくないと思っていることくらい、簡単に分かるよね」 「古泉が絶対にされたくないと思っていること…?」 考え込んだ俺に国木田は笑う。 「分からないんだとしたら、キョンも大分古泉くんが気に入ってるみたいだね」 それは確かに否定出来ないが…、結局、何なんだ? 古泉が絶対にされたくないことってのは。 「キョンに嫌われることだよ」 あっさりと国木田は言った。 「だから、キョンが本気で嫌がれば、彼はまとわりついたりしないと思うな。キョンにそれが出来るのかは知らないけど」 最後の一言が余計だな。 しかし、言われてみればもっともだ。 というか、言われる前に古泉を本気で嫌いになってキレていても不思議じゃない状況じゃないか? それなのに、どうして俺はずっと放っているんだ。 縁を切るとでも言ってやれば、あいつだって少しは引き下がるだろう。 よし――と決意しかけた俺の頭を、心細そうに自分の肩を抱く子供の姿がよぎった。 これのせいか、と俺は嘆息する。 朝比奈さん(大)がわざわざ俺に子供古泉を助けに行かせたのは、あいつを助けるためという以上に俺があいつを見捨てられないような状況を作るためだったんじゃないかとさえ思えてくる。 しかし、機関と朝比奈さんたちの組織の考え方の違いやなんかからして、それはないだろう。 だからこれは薬でいうなら副作用みたいなものに違いない。 あの子供古泉の姿だけで、俺は一体いくつ怒りを飲み込むんだろうな。 |