家に帰るべく歩きながら俺がまず口にしたのは、 「もっと離れて歩け」 という言葉だった。 そう言いたくなるのも当然だろう。 何しろ付き合いの長い友人にまでホモだと思われてたんだからな。 しかし古泉はそれが少しも堪えていないらしく、 「どうしてです?」 と余計に近づいてきた。 「お前はアホか。これ以上ホモ疑惑を助長するつもりはないんだろう?」 「そうですね…。涼宮さんのお耳に入れたいような話題ではありませんから、対処はすべきかもしれませんね」 そう思うなら俺に近づくな。 出来ることなら俺の半径一メートル以内に入るな。 俺の家に来る時は変装するなりなんなりしろ。 「そんなことをしても無駄でしょう。それが噂がたち始めた当初からの僕たちの共通見解でもあったはずではありませんか」 ああそうかもな。 だが、ここまで噂が定着しているんだぞ。 いくらか手を打ったところで非難される謂れはないはずだ。 「噂が定着してしまっている、ということは逆に考えれば僕たちの接触が減ることは僕たちがケンカをしている、または別れたということにされるのではないでしょうか。後者の場合、ゲイと認識されてしまっているあなたに好意を抱いて近づいてくる男性が現れないとも限りませんよ」 不気味なことを言い出すな。 「ありえないと言い切れますか? 涼宮さん曰く、男性が百人いればうち五人はゲイだということです。この世界において涼宮さんの発言は統計以上に信用できるものだと僕は思うのですが」 思わず押し黙った俺に、古泉は鼻にかかる笑いを漏らし、 「では、僕のことは男避けとでも考えて我慢してください」 だからと言って擦り寄ってくるんじゃない、気色悪い。 俺は意趣返しの意味も込めて、思っていたことを聞いてみた。 「念のために聞くが、お前、本当にホモじゃないんだろうな?」 古泉は驚いたように一瞬目を見張った後、小さく首を傾げて笑った。 「それ、酷いですよ」 笑顔が傷ついたもののように思えたのはどうやら俺の気のせいではなかったらしい。 「だな。…すまん」 素直に謝ると古泉は苦笑しながら、 「…僕はあなたに対して好意を抱いていますが、あくまでも友人としてですよ。女性と付き合ったこともないのに野郎と付き合うなんて、たとえそれが涼宮さんの望みだったとしても、更に言うならあなたが相手でも、嫌ですね」 微妙に地が出てるぞ。 「おや、失礼しました」 まあ、考えてみればこいつの考えていることなんか話してりゃ、普通で5割、分かる時にはほぼ9割方読めるんだから、わざわざ聞くまでもなかったな。 完全に俺の失言だ。 これでへこまないといいんだが。 「あなたは? どうなんです?」 余計なことを考えていたせいで、古泉が一瞬何を言ったのか分からなかった。 だがそれも一瞬のことだ。 俺は小さく笑って、 「友人としてのお前は結構好きだぞ」 機関絡みの時や妙に自虐的な時はともかくな。 「お前は見てて面白いし、最近は可愛いし」 古泉は笑顔を強張らせ、 「…半径一メートル以内に入るなと言う前に、その、男に向かって可愛いとか言うの、やめませんか?」 俺は悪くない。 可愛い仕草や表情をするお前が悪いんだ。 「酷いですね」 本当は少し嬉しがっているくせに。 とまあ、そんな会話をしたのはつい数時間前のことだと言うのに、どうしてこんなことになっているのか、誰か俺に分かりやすく説明してはくれないものだろうか。 俺は今、言葉を呟くどころか、ため息を吐くことさえ、はばかられるような状態におかれている。 俺のまっ平らな胸に顔を押し当てて、見っとも無いほどに泣いてる奴がいるってのは、どういうことだろうね。 古泉、お前、自分が俺よりガタイがいいって分かってんのか? お前にそうやって抱きつかれていると俺としては重たいことこの上ないんだが。 ちなみにここは俺の部屋であり、俺は床に座り、ベッドに背中を預けている。 もう少しで床に押し倒されるところだったんじゃないかと思うが、考えるだけでも恐ろしい。 部屋の中は至って静かであり、時々古泉の啜り上げる音が、やけに大きく響く。 居心地が悪い。 そもそも、夜の十時にもなって何の連絡もなしにやってきた挙句、何の説明もなしにすがりついて泣くって、こいつ、本当に大丈夫かよ。 何かあったんだろうか。 俺のところに来て泣くって時点で、尋常じゃないだろう。 しかし、こいつがここまでぼろぼろ泣く事態というのが俺には想像出来ん。 一体何があったっていうんだ? 「すみ、ません…」 やっと古泉が口を開いたかと思うとそんな言葉で、しかもそれは涙声で聞き取り辛かった。 俺は惰性で古泉の背中を擦ってやっていた手を止め、 「何があったんだ?」 「何が、あったとか、…そういう、ことじゃ、ないん……っですけど」 しゃくり上げるせいで、言葉が不自然に途切れる。 「…急に、何もかもっ、捨て、て、しまい、たくなる、時が、あって……自分でも、なんで、あなたのところ、へ、来てしまったのか、分からないんです…ぅっ」 まあ、夜中に歩道橋の真ん中でエクストリームスポーツよりはずっとマシな選択だとは思うが。 俺はぽんぽんと古泉の頭を撫でてやる。 しかし、わざわざ俺のところへ来てなくっていうことはあれか? 「寂しかったのか?」 「……そうかも、しれま、せん…。…昼間の、こと、考えて…っあなたが、僕のこと、を、嫌いになったら、ど、しようか、とか、考え、て、し、しまって…っ!」 まだ泣くのか? もう今更止めたりはしないが、よくそこまで泣けるな。 そんなに人恋しかったんなら誰か女の所にでもいけよとか、そういう時くらい家族のところへ帰ったらどうだとか、言えるものなら言ってやりたい。 だがこいつには本当に、他に行き場がないんだろうな。 悲しくて、可哀相で、同時に強かかも知れない。 俺が突き放せないと分かってて来てるんだろうからな。 それに、いつも笑顔の仮面を被ったこいつがここまで情けない姿をさらけ出している。 それを知っているのは多分、俺だけなんだろう。 そう思うと、少し気分がいい。 相手が誰であれ、信頼されていると感じられるのは人に自信と余裕を与えるらしい。 俺は古泉の背中へ手をやると、 「もうちょっと上」 「…は…?」 「上だって」 子供を縦抱きに抱えあげるような要領で古泉を移動させ、胸の辺りにあった頭を肩へ載せる。 ついでに、胡坐をかいていた足を伸ばすと、少し楽になった。 膝の上に古泉が乗るような格好になっているが、そこにはあえて突っ込むまい。 わざわざ身体を密着させてやったのは、その方が精神的に落ち着くと思ったためだ。 妹が小さい時も、泣いている時なんかによくやったもんだ。 小さかった子供の古泉にやってやったように力を込めて抱きしめてやり、俺の頭のすぐ横にある古泉の耳へ、 「この方が落ち着けるだろ」 と極力安心させるように言ってやったのだが、古泉は答えず、あるいは答えられず、ただ泣きじゃくっている音だけが返ってきた。 なだめるようにぽんぽんと背中を軽く叩いてやると、俺の胸から背中へ回された手に力がこもった。 「ど…して、」 大分経ってから古泉が言った。 「どうして、…あなたは、…そん、なに、…っふ……、優しく、するんですか…っ」 さて、どうしてだろうな。 お前に関しては特に普段から可愛いと思っているし、同時にいじめるようなこともしているからだろうか。 それから俺は、子供古泉を知ってもいる。 俺が突き放せないだけの状況にいるお前の立場も知っている。 だがやっぱり、俺は頼られると弱いんだと思う。 これがお前じゃなくて朝比奈さんや長門やハルヒであったとしても、俺はこうやって慰めるんだろうさ。 「……他の、人でも、ですか…?」 「ああ」 「…それが、SOS団以外の、あなたの友人でも…?」 そういうことになればな。 だが、国木田も谷口もそういうことになりそうにないぞ。 「佐々木さん…でも、ですか…?」 それこそ有り得ないだろう。 「あの人は……あなたを、親友だと、言っ、てましたね」 しゃくり上げてるのに無理して話すなよ。 苦しいだろ。 そう言ってやっても、古泉はふるふると首を振った。 「あの、言葉を、聞いた時の……僕の気持ちが、分、かりますか…?」 「はぁ?」 どういう意味だ。 問い掛ける俺に、古泉はぐしゅぐしゅになった顔を起こし、じっと俺を見つめて言った。 「…僕は、ただ、の、友人で、…あの人は、親友なんですか…?」 ――唐突に、悟った。 古泉の情緒不安定の理由も、今こんなことを言っているわけも。 眩暈と同時に、奇妙な感覚が湧き上がる。 俺はため息を吐き出した。 怯えるように古泉の体がびくりと震える。 それをなだめるために背中を撫でてやりながら、 「俺は、佐々木に好きだと言ったことは一度もないぞ」 親友ってのも佐々木の自称だっただろ。 お前もそう自称したかったらしろよ。 俺にはそんなこっ恥ずかしいことは言えないから。 それから、国木田や谷口がこうやって泣きついてくることは絶対ない。 ゆえに、こんなことをしてやるのもお前だけだ。 さっきは朝比奈さんや長門やハルヒであっても、と言いはしたが、長門やハルヒが俺に泣きつくなんてことがあったらそれこそ世界崩壊の前触れだと思うぞ。 朝比奈さんも、夏に助けを求めて泣きついた相手はお前だったしな。 ……だから、 「そんなぐだぐだになるほど、独占欲を持たなくてもいいぞ」 「どくせ…よく……?」 音を言葉として認識していないかのように古泉は呟いた。 数秒の後、その顔はかあっと音がしそうな勢いで赤く染まった。 子供のように顔を隠し、恥ずかしがる古泉に俺は笑いながら、 「なんだ、気がついてなかったのか」 わしゃわしゃと柔らかい髪を撫でると、古泉が使っているシャンプーの匂いが香った。 女物かと思うくらい、甘い。 「独占欲……なんでしょうか…」 「違うのか?」 「いえ……多分、合ってます…」 だろうな。 今日は俺が国木田や谷口と仲良く話してるのを見たり、その上突き放すようなことを俺に言われたりした。 おそらくそのせいでここまで情緒不安定になったんだろう。 あとは嫉妬だ。 「独占欲、に、嫉妬だ、なんて……」 恥ずかしいのか? 「……恥ずかしいです…」 だろうな。 「あなたのことは友人だと認識していますし、それでいいと思っているのに、……なんで…」 友人間でも嫉妬はあるって聞かないか? 特定個人への依存率が高い場合やなんかに、友人が他の友人と仲良くしているところを目撃したり、友人が他の友人のことを話したりしていると、自分が阻害されているように感じるものらしい。 女子でもいるだろ。 小さい時からずっと一緒にいて、進む学校もコースも同じのを選んで、絶対に離れないようにしてたり、他の友達といるのを見るだけで不機嫌になるようなのが。 お前の感情はそれと同じじゃないか? 「……」 黙り込んだ古泉の表情は複雑だ。 まあ、そうなるものだろうな。 しかし、俺としてはもっと複雑なんだぞ。 何しろ、古泉が嫌で堪らないだろう独占欲や嫉妬が、なんとなく嬉しいんだからな。 これまでに俺が、古泉の言う友情とやらを疑ったことがない、と言えばそれは嘘になる。 なにせ古泉には妙なバックが控えているし、普段の言動はきわめて信用ならないからだ。 そんな奴が懐いてきた時に、それさえ演技なんじゃないかと思った俺の精神は至ってまともなはずだ。 だが、今の古泉を見て確信した。 こいつは本当に寂しかったんだ。 だから、甘やかしてやる俺に、依存と言っていいほど懐いてきている。 少なくとも、こうやって情けない姿を見せるくらいにはな。 それだけ好かれて嫌いになれるほど、古泉は嫌な奴じゃないし、俺も人非人じゃない。 これまでの古泉の態度が嘘や演技じゃなかった、そのことが俺は嬉しい。 「あなたには、迷惑を掛けてばかりですね…」 黙っていた古泉が口を開いた。 しょげ返った、子供染みた顔で。 それは子供古泉の別れる間際の表情に似ていた。 「すみません……」 別に、謝らなくていい。 「でも……不快、でしょう。僕にはあなたを独占する権利もなければ嫉妬していいような事情もないのに、こんな……夜中に押しかけてきて、迷惑、を、お掛けして……」 じわり、と古泉の目に涙が滲む。 泣くなって。 俺は涙を見なくてすむように古泉の頭を肩に押し付けた。 「もう、いいです…離してください。……帰り、ます…」 帰れるような状態じゃないだろ。 うちから出てものの数分で車道か線路に突っ込みそうに見える。 「あなたに、嫌われたくないんです……」 「お前な…」 と俺は嘆息する。 今時ここまで純粋な男子高校生がいるものか? 普段は世の中の酸いも甘いも知ってるような顔をしているくせに、どうして肝心な時はこうなんだ。 「これくらいのことで嫌ったりしねえよ。それに…」 言うまいと思っていたんだが、言うしかないだろう。 「…国木田や佐々木に嫉妬するくらい、お前に好かれてるってのもいい気分だ」 驚いて顔を上げようとした古泉の頭を押さえつけて阻止する。 顔が異常に熱いということから考えて、俺の顔はさっきの古泉に負けず劣らず赤いに違いないからだ。 そんなもん、見せたくもない。 「それからこれは俺の独り言なんだがな、」 後で後悔すると分かっていながら、俺は言った。 「さっき言った通り、佐々木に好きだと言ったことはないし、国木田や谷口、その他も同様だ。なんらかの理由で抱き合ったこともない。わざわざ弁当を持っていって食わせてやったことも。俺の部屋で一緒に昼寝したこともないな。授業中の教室でなら分からんが。表情だけで考えることが読めたりすることもまずもってない」 古泉の顔を肩に押し当てておいてなんだが、この異常に早い心拍数を聞き咎められないのかだけが心配だ。 「……古泉とは、どれもやってるんだよな」 理由なんか知るものか。 おそらくは同情、庇護欲、連帯意識、その他色々だろう。 口にするのは恥ずかしいが、友情も含めてやっていい。 「それでもまだ不満の思うものなのか?」 ぶんぶんと首を振る気配がして、背中へ回された手に力を込められた。 古泉の顔を見てやろうと思ったところで見えるのは耳だけだったが、それがトマト以上に真っ赤になっているのが見えた。 翌朝、俺が目を覚ました、というよりも妹に起こされた時には既に古泉は起きて朝食をとっていた。 胡散臭い笑顔もやけに整った仕草もいつも通りだが、目の辺りがいくらか腫れぼったかった。 古泉が来ていると言っていなかったことをお袋に責められながら、朝食をとり、着替えて学校へ向かう。 古泉が起きていたからか妹によって強制起動させられた時間はいつもより早く、この分なら途中で古泉のマンションに寄っても、余裕で着けるだろう。 いってきます、と家を出たところで古泉が俺のかばんをすっと奪った。 「おい、なんのつもりだ?」 「お世話になったお礼に、お持ちします」 「必要ない」 何を考えているんだ、と俺が顔を顰めながら言うと古泉はにっこりと微笑んで答えた。 「昨日、あれから考えてみたんです。噂を有効活用してみようかと思いまして」 どういう意味だ。 「改めて自覚してみると、僕はどうやら多分に嫉妬深いたちのようです。あなたが今いるご学友と一緒にいる程度ならともかく、新しい友人が出来てその人にかまけているところや、恋人が出来ることなどを考えるだけで、むしゃくしゃするくらいには」 危ない奴だな。 それがどうして俺のカバンを持ったり噂の有効活用したりすることに繋がるんだ。 大体、有効活用というのはなんだ。 「分かりませんか? ――僕とあなたが付き合っているということになれば、あなたと友人になろうと近づいてくるような人物はかなり減らされますし、あなたと付き合おうと考えるような人物についてはなおさらでしょう」 そう古泉は当然のように言って笑った。 俺は言葉も失って唖然とする他ない。 「ご心配なく。一生付きまとうようなつもりはありませんよ」 「お前がそんな胡散臭い笑顔で言う時の言葉が信用なるものか!」 俺の弱い毒を含んだ言葉など馬耳東風とばかりに聞き流し、古泉は言った。 「しかし、こうして一緒に登校しているところを見られたら、僕があなたの家に泊まったことも丸分かりになるんでしょうね。あなたとひとつ布団で寝たことも見透かされてしまうんでしょうか」 誤解を招くような言い方をするな。 単純に一緒のベッドで寝ただけだろうが。 古泉は楽しげに笑いながら、 「あなたのそういう不機嫌な顔、僕は好きですよ」 それは何か。 俺がおまえのことを可愛いということに対しての意趣返しか。 俺は古泉をここまで懐かせてしまったことを、事ここに至って初めて後悔したのだった。 |