SOS団の混乱



それは11月も終ろうとしていたある日のことだった。
珍しく、妹の襲撃よりも前に目が覚めた俺は、自分の頭が妙に重たくなっていることに気がついた。
一体何なんだ、と思いながら頭に手を伸ばすと、髪がえらく伸びていた。
一晩でこれだけ伸びるなら、一日で毛むくじゃらになれるだろう。
それとも昨日間違えて育毛剤でも被ったんだったか?
などと悠長に考えていられるのも、寝起きのせいだ。
と、そこへドアが開き、妹が顔をのぞかせる。
「あれー? キョンちゃんもう起きてるー」
不満そうだな。
俺が目を向けると妹は楽しそうに笑いながら、
「早くしないとごはんなくなっちゃうよ」
と戻っていった。
いつもと変わらない風景。
……って、ちょっと待てよ。
妹が俺のことをあの、決して二回繰り返して呼ばれたくないようなあだ名で呼ぶのはいつものことだ。
だが、なんでその後に続くのが「くん」じゃなくて「ちゃん」なんだ?
俺はひとつの可能性に気付き、恐る恐る自分のズボンの中を見た。
……。
ハルヒ、お前、ステレオタイプは嫌いなんじゃなかったのか?
ここまできたらわざわざ言う必要もない気がするのだが、念のために明言しておく。
俺はどうやら女になっているらしい。
ため息すら出てこねえな。
とにかく、困った時は長門に電話だ。
俺は携帯を掴むとすぐさま長門に電話を掛けた。
コール音は一回鳴り終ることもなく途切れた。
「もしもし、長門か?」
畜生、声まで高くなってやがる。
『そう』
……返ってきた声が長門のものだと、俺は一瞬信じられなかった。
いや、その短い返答も平坦な声も長門以外の何物でもないのだが、トーンがいつもより低かった。
「まさかとは思うんだが、…お前、男になってるんじゃないのか?」
『そう。これは、SOS団員全員に起こっている変化』
「…原因はハルヒなんだな?」
『そう。身体の変化のみならず、社会的認知も変化している。だからあなたが女になっていても、私が男になっていても、誰も驚かない。私とあなたと古泉一樹と朝比奈みくるは自分に起きた変化を理解している。しかし、涼宮ハルヒは違う。もとからこの通りだったと思っている』
「俺はどうすればいい?」
少し間が空く。
そうして返ってきた返事は、
『いつも通り登校してきて。詳しくは、それから』
「……分かった」
出来ることなら休みたかったが、長門が言うなら仕方ない。
俺は四苦八苦しながら身支度を整え、出来るだけいつも通りに家を出た。
長門の言葉が間違いないことは、登校してすぐ証明された。
国木田も谷口も驚くことなく俺と話すからだ。
俺の方もいつも通り、つまりは女言葉を使うこともなければ一人称を改めることもなく、過ごしていた。
そこへ、長門が来た。
珍しい、と思うことさえ出来なかったのは、長門が見事な美少年と化していたからだ。
どういうわけか、髪は肩よりも長くなっており、長門はそれを首の後ろ辺りで束ねていた。
長門の趣味なのか、はたまたハルヒの趣味なのかは分からないが、眼鏡も復活しており、漫画に出てくる読書好きの病弱な少年といった感じだ。
長門は無言で俺に近づいてくると、
「…来て」
とだけ言って先に歩きだした。
俺は谷口たちに、
「じゃ、ちょっと行ってくる」
と言いおいて立ち上がったのだが、谷口が妙なことを言った。
「彼氏に怒られてもしらねーぞ」
彼氏?
なんのことだ、そりゃ。
「涼宮だよ。違ったのか?」
なんであいつが俺の彼氏なんだ。
彼氏という響きさえぞっとするぞ。
そう反論しようとしたところで気がつく。
ハルヒのいつもの行動を男女逆に考えると、見てる分には強引な彼氏と連れまわされてる彼女に見えなくもないんじゃないのか、と。
……恐ろしい。
俺は谷口を無視して、とにかく長門を追いかけた。
長門に連れていかれた先は、部室だった。
そこには他の団員も揃っており、なかなかの眺めに俺は苦笑をもらすしかなかった。
「随分と余裕ですね」
ひとり女で、そんな話し方をするということは、お前は古泉か。
「ええ、そうです。まったく、涼宮さんも面白いことをしてくださいますね」
面白がっていていいのか?
「何しろ、機関の方も僕が最初から女性だったと刷り込まれている状態ですからね。そこまで徹底されるほど、涼宮さんが強くこの状況を望んだという、そのことに僕は興味があります」
元気そうで何よりだ。
んで、その隅っこで泣きじゃくっているのが――朝比奈さん、ですよね?
「そうですぅ…」
と顔を上げたのは男になっていると思えないほど可愛らしい顔立ちをした少年だった。
目は大きいし髪も肩に届くくらいの長さで、正直、男の目で見ても可愛い。
「あたし、一体どうしたら…」
と嘆く声もボーイソプラノで、耳に優しい。
思わず和んでしまったが、そんな場合じゃないんだったな。
「どうすればいいのかは、長門が教えてくれると思いますよ。そうだろ、長門」
長門は人形みたいに頷き、
「涼宮ハルヒの目的は、シミュレーション。男女が逆だった場合に、あなたとの関係が進展し得るのかを知りたかったものと思われる」
俺との関係?
「涼宮ハルヒはあなたとより親しくなりたいと考えている」
んなまさか。
と俺は思うのだが、古泉は納得したように、
「やはりそういうことでしたか」
と腕を組んだ。
どうでもいいが、胸が大きくて腕を組むのも辛そうだな。
「話を逸らそうとする気持ちは分からないでもないですが、今だけでも真剣になっていただけませんか? 涼宮さんはあなたに自分を意識してほしいと思っているんですよ? 可愛いじゃありませんか」
そう思うならお前がなんとかしてやれ。
俺は無理だ。
「どうしてです?」
あいつの理想は宇宙人もしくはそれに準じる何かだと言っていたぞ。
それなら男でも女でもいいとか、大分危ないことも断言してた。
「それは冗談、あるいは勢いのようなものでしょう。その発言はいつのものです?」
4月だったかな。
「それでは、今の彼女は違う考えを持っているかもしれないじゃありませんか」
変わってない可能性もある。
「あくまでも可能性ですよ。それよりもっとはっきりしているのは、彼女があなたに好意を抱いているということです」
だから、どこにそんな証拠が、
と俺が言おうとした時、ホームルーム前の予鈴が鳴った。
時間がないと見たのか、長門が口を開く。
「あなたは今日、出来るだけ涼宮ハルヒを不機嫌にして」
不機嫌にしていいのか?
閉鎖空間が発生するんじゃ…。
と俺が古泉を見ると、古泉は肩を竦め、
「今の状況では仕方ないでしょう。それよりも、元に戻ることの方が先決ですよ」
長門も頷き、
「男女を逆転したところで進展しない、それどころかより状況が悪化すると涼宮ハルヒに思わせる必要がある」
例えばどうしろっていうんだ?
「手始めに、」
と口を開いたのは古泉だ。
「休み時間を僕と過ごしませんか?」
なんでそうなる。
「女性は得てして同性といつも一緒に過ごすものでしょう? クラスで何人も集まっているのを見ませんか?」
それを言ったら男でもそうだろう。
「しかし、女性同士で集まっているところの方が入り辛いでしょう? いつも通り、男性諸氏といたのでは、涼宮さんも近寄りやすいと思いますよ」
…仕方ない。
それでお前は俺に、一階下のお前の教室まで行けとでも言うのか?
「僕の方から出向きますよ。あなたは教室で待っていてください。涼宮さんに見せつけた方がいいでしょうしね」
分かった。
お前に任せる。
俺はもう考えるのも嫌だ。
「さて、それでは教室へ行きましょうか?」
俺は古泉に連れられて教室へ戻った。
ホームルームが始まる寸前だ。
「それでは、また後で」
と戻ろうとする古泉の手を掴んで、俺は一言忠告してやった。
「お前、戻るまでは肩を竦めたりしない方がいいぞ」
「どうしてです?」
「揺れるんだ、胸が」
何しろ今のお前ときたら朝比奈さん(大)顔負けの巨乳キャラだからな。
俺の言葉に古泉はかっと赤くなり、
「せ、セクハラですよ」
男同士、いや、今は女同士か。
とにかく、それでセクハラも何もないだろ。
「…もういいです」
ふてくされたように言って帰っていく古泉はいつものことながらかわいく見えた。
しかし、それを見送る余裕もなく、俺は後ろから肩に手を掛けられ、強引に振り向かされた。
そこにいるのは見覚えのあるようなないような微妙な顔立ちの男子――って、ハルヒか!?
ハルヒなのか!?
気の強そうな目、不機嫌そうな表情。
それは紛れもなくハルヒなのだが、ワイルド系のイケメンと化しているのがなんとなく意外だった。
考えて見れば、ハルヒが大人しそうな男や気弱そうな男になるはずもなく、これが一番しっくり来る結果なのだろう。
どうでもいいが、元の俺よりも背が高くないか。
そのハルヒは俺を睨みながら言った。
「古泉さんとどこ行ってたんだ?」
「どこって、別に関係ないだろ」
正直に白状してしまいたくなる視線に射竦められそうになるが、俺だってそう意志薄弱でもない。
何より、もう長いことハルヒに振り回されて嫌な感じに人生経験をつんでるんだ。
これくらいで怯みはしない。
俺は長門に言われた通り、出来るだけ素っ気無く、ハルヒの手を肩から払い落とした。
「セクハラだぞ」
と古泉に言われたセリフを返すと、ハルヒはむかっとした様子でざくざくと足音も荒く席へ戻った。
少し間隔を開けて、俺も席へつく。
そうすると背後から、振り向かなくても分かるくらい視線を感じ、俺は諦めて振り返った。
「何か言いたいことでもあるのか、涼宮」
ハルヒと呼ばなかったのは、男になっても名前は変わらないのかどうかを長門に聞き忘れたからでもあるし、親しくないということを強調してやるためでもあった。
案の定ハルヒは更に苛立ったらしく、
「古泉さんと出かけただけか?」
と不機嫌丸出しの声で言った。
「ああ。だからそれがどうした」
「有希に呼ばれてったって聞いたんだけど?」
名前は変わってないのか、と思いつつ俺は答える。
「呼びに来たのは長門だ。それで?」
俺は出来るだけ不機嫌に見えるようにと願いながら話している。
イメージとしては、彼氏でもない野郎の過干渉にイライラしている女だが、イメージするだけでも気持ち悪いな。
「俺は、」
と言ったのは俺じゃないぞ。
ハルヒだ。
「団長だから、団員の動向には目を光らせてんだよ。勝手になにやってんだ?」
「俺は確かに団員だが、俺の活動の全てがSOS団員としてのものじゃないんだから、そんなところまで監視されて堪るか。ストーカー寸前だぞお前」
「っ…」
ハルヒが口ごもった時、タイミングよく岡部が教室に入ってきたため、俺はそれ以上の追及を免れた。
その日俺が知ったのは、ハルヒが思った以上に独占欲が強いらしいことと、古泉が恐ろしくまめだということだった。
ホームルームの後の休み時間にも、古泉がやってきたからだ。
「やあ、順調なようですね」
「お前、さっき来たばかりなのにまた来たのか」
俺があきれを隠しもせずに言うと、古泉は笑って、
「休み時間には来ると言ったじゃありませんか」
「そりゃそうだが…」
ところで、順調というのはどういう意味だ?
「閉鎖空間が発生してます」
古泉は笑顔のままで言ったが、俺は愕然とするしかない。
「あれだけでか!?」
「ええ。まだ規模は小さいですけど、この調子でいくと、今日はてんてこ舞いですね」
「お前は、行かなくていいのか?」
「機関の方にこちらの事情を話してあります。あちらは僕がもともと女性だったと認識しているようですが、涼宮さんならそういうこともあるのだろうと一応の納得と了承をしていただきまして、今日の僕は終日フリーです。仲間が頑張っていることを思うと、いささか心苦しいですがね。しかしまあ、放課後、解散してから向かっても遅くはないでしょう」
「本当に、大丈夫なんだろうな?」
閉鎖空間が拡大し続けて世界消滅、なんてことにはならないだろうな。
そうなったら元も子もないぞ。
「そうならないよう、努力しているんですよ」
「……じゃあ、とりあえずこの調子で行けばいいんだな?」
「ええ、そのようです。それでは、また後で」
と古泉は戻っていく。
9組まではいくらかあるから、話をする時間も短いものだ。
だが、そうやって話している間はハルヒの追及も避けられるので、俺としても有難い。
何しろ、話している相手が同性の古泉だと言うのに、ハルヒはずっと俺を睨んでたんだからな。
いつものようにどこかへ消えていればいいのに。
古泉がいなくなった途端、ハルヒは言った。
というよりもむしろ言葉を投げつけてきた、と表現した方が的確かもしれない。
「お前、そんなに古泉さんと仲良かったっけ?」
良かっただろ、そこそこは。
休みの日に一緒に遊んだりするし、話もする方だ。
「……なんかムカツク」
…こいつ、男になった方が危ないんじゃないか?
だがまあ、不機嫌にするという目的を考えれば、分かりやすくて有難くもあるな。
俺はわざと挑発するように、
「じゃあ何か? 国木田や谷口とだべってた方がいいのか?」
「んなこと言ってないだろ」
噛みつかんばかりのハルヒに、俺は思わず笑った。
いつもそうやって素直にしてたらまだ可愛げがある気がするのにな。
……それはそれで鬱陶しいだろうが。

そんな感じで放課後まで乗り切った。
今日俺が学んだことも増えたな。
たとえば、女子が連れションする理由が分かった。
――身の安全を守るためだ。
古泉がいてよかったと、本気で思ったね。
そうでもなかったらどこへ行くにもハルヒが付きまとって大変だったと思う。
しかし、部室に行くときまで迎えに来るってのはどういう了見だ?
「あなたは自覚しておられないようですけど、」
と古泉は困ったように笑いながら、
「体はともかく精神的には男性の僕から見ると、今のあなたは大変魅力的なんですよ。ポニーテールのよく似合う、可愛い少女です。つまりはエスコートしてさしあげなくてはという義務感が発生しているわけです」
それを言うならお前は美人で羨ましいことこの上ない。
胸も大きいしな。
「いやあ、我々男性が思う以上に、負担になるものですよ、これは」
それはせっかく女になったと言うのに胸がささやかな俺に対する嫌味か?
「そうじゃないということくらい、お分かりでしょう? 涼宮さんに対して意地の悪い行動をするだけじゃ飽き足らず、僕のことまでいじめるんですか?」
いじめるとか言うなよ、気色悪い。
「今日は体育がなくて幸いでした。走りでもしたらこれはかなり痛むと思いますよ」
「今日中に戻れるといいな」
「ええ、全くです」
ところで古泉、頼みがあるんだが、いいか?
「なんでしょう?」
お前の髪、いじらせろ。
「それはまた…どうしてです?」
鶴屋さんと張れるくらい長い髪を結びもせずに放っておくのが気に食わないんだ。
「鶴屋さんには何も言わないじゃありませんか」
鶴屋さんに俺が何か言えると思うのか?
その点お前なら遠慮はいらないしな。
「百歩譲ってその主張を認めるとしましょう。しかし、僕に何をするつもりなんです?」
三つ編みとかポニーテールで我慢してやる。
「……しかたありませんね。それくらいならいいですよ」
何なら断ったんだ?
「そうですね…。とんでもなく奇抜な髪型にされるのは流石に嫌です」
誰がそんなことするんだよ。
「さて、誰でしょう?」
つまりはこの中身のない会話を面白がっているだけなんだろう。
部室のドアを一応ノックすると、中からいつものように、しかし残念ながらボーイソプラノで返事があった。
「はぁい」
「入りますよ」
「どうぞ」
中に入ると朝比奈さんがギャルソンの格好をしていた。
「メイド服じゃないんですね」
「あたしが男の子になってるから、服も変わってるみたいです」
「なるほど」
しかし、淹れてくださるお茶の味はいつも通りで、大変有難い。
俺はチェスをいじりはじめた古泉の後ろに立ち、髪を持って来ていたブラシで梳き始めた。
「やっぱりもつれてるぞ」
「一日そのままで過ごしましたからね。しかし、ブラシなんてよく持ってますね」
「気がついたらカバンの中にあったんだ」
「そうでしたか」
面白がるように笑った古泉が、顔を顰める。
「ちょっと、痛いんですけど…」
もつれさせるお前が悪い。
それを思うと鶴屋さんは凄いな。
いつもあの長い髪を流しているだけなのに、もつれてる様子なんか全然ないんだから。
「それはそうですね。…痛っ」
ぎゅっと顔を顰める古泉に、俺はにやにやと笑いながら、
「なかなかいい眺めだな」
「何が、です? だから、痛いですって!」
痛がってるお前の顔がだよ。
「……サディスト」
怨みがましい視線も、今の美少女状態のお前じゃちっとも堪えないな。
だが、まあいじめるのはこの程度にしておこう。
俺は古泉の背後に持ってきた椅子に座ると、古泉の髪を編み始めた。
髪が長いと三つ編みも楽しいものだな。
「自分ではし辛いと思いますけどね」
それは同感だ。
思えば春先のハルヒは毎日髪形を変えていたが、面倒じゃなかったんだろうか。
「涼宮さんは自分の目的の達成のためなら手間を惜しむ人ではないでしょう」
時々恐ろしく大雑把だぞ、あいつは。
「それは多分、我々と発想が違うんですよ。一段飛ばしどころか二段以上も飛ばし飛ばしに物事を考えるので、手順を省いてしまうのだと思います」
前々から思っていたんだが、古泉、お前、もしかしてハルヒのことが好きなのか?
「どうしてそうなるんです?」
と古泉は心底不思議そうに問い返してきた。
違うらしいな。
「お前の発言を聞いてると、ハルヒの肩を持つことが多いと思ってな。本人には聞かせたくないくらい持ち上げることもあるだろ」
「それはやっぱり、僕が涼宮さんに感情移入してしまうからではないでしょうか」
感情移入だと?
「以前申し上げませんでしたか? 僕は涼宮さんの精神の変化を微少ながら感じ取ることが出来ると。また、こうも言ったはずです。彼女の思考をトレースすることもあり、それが必要でもあると。だからでしょうね、僕が涼宮さんのことを憎み切ることさえ出来ないのは」
分からんな。
お前が実はその胡散臭い笑顔の影でハルヒへの復讐を目論んでいると言われた方がまだ信じられる。
そうでなかったらお前はとんだ博愛主義者かマゾヒストということだな。
俺がそういうと古泉はふふっと笑い、
「そうなのかもしれません。ただ、正直、このところ楽しくて仕方がないんですよ。あなたや長門さん、朝比奈さん、そして涼宮さんと、こうして過ごすことがね」
前向きで何よりだ。
初めて会った頃は見事にペシミストだった気がするんだが、いつの間にそんなにもポジティブになったんだ?
「それも全てあなたのおかげという気がしますけどね」
と古泉はウィンクを寄越した。
…何と言うかだな、中身はお前だと分かってるのにその顔で言われると妙な気分になるな。
「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ」
何?
「あなたの白くて細い指が僕の髪に触れているだけで、色々と支障が生じてしまいそうな状況ですから」
アホか。
「それはそうと、以前から試してみたいと思っていたことがあったんです。ちょっと、よろしいですか?」
なんだ?
「大したことではありませんよ。あなたも僕の髪で遊んでいるのですし、少しくらい、いいでしょう?」
だから何をするつもりなんだ。
「涼宮さんが朝比奈さんによくしているでしょう? まあいわゆるスキンシップをしてみたいと思っているだけです」
ハルヒのあれをスキンシップと言うならこの世からセクハラというものは一切なくなるのだが、お前は俺にセクハラしたいと言うわけだな。
訴えるぞ。
そして勝つぞ。
「少しくらいいいじゃありませんか。減るもんでもないのですし。難でしたら、僕の胸を触ってもいいですよ」
と言って古泉はそれを揺らして見せた。
中身が古泉だと分かってても、これは視覚的にきついものがある。
う、と呻いた俺を正面から抱き竦めて、古泉は俺のささやかな胸に顔を埋めた。
「どこがささやかなんですか。十分ですよ」
「そこで喋るな!!」
もぞもぞして気色悪い。
「古泉、まだか」
「もう少し…」
「って、揉むな!」
「本当にこれで女性は気持ちよくなるものなんですかね?」
「俺に聞くな! 自分の体で試せ!!」
ただの好奇心で人に犠牲を払わせるな。
というか、こんな実験は普通人目のない所でするもんだろ。
本に熱中している長門はともかく、朝比奈さんが所在なさげでかわいそうじゃないか。
今のお前には見えないかもしれんが。
「とりあえず感想としては、柔らかいということでしょうか。触り心地はいいですね」
もういい、黙ってろ。
「じゃあ、どうぞ」
と顔を上げた古泉は俺の手を取り、自分の胸に押し当てた。
ああ、本当に柔らかい……ってお前に恥じらいはないのか!?
「恥じらいも何も、僕とあなたですからねぇ」
誤解を生じさせるような言い回しをやめろ。
「男同士でも股間に触れたりするでしょう。あれに比べたら可愛いものだと思いますよ? なにしろ、僕の感覚としては、腕や背中を触られてるのと大して変わらないのですから」
それはそうかもしれないが。
にしても、人生において意識的に触る初めての胸が野郎の胸ってのはどうなんだ?
「身体的にはちゃんと女性なんですからいいんじゃありませんか?」
そういうものなんだろうか。
「で、どうです? 何かご感想は?」
嬉しそうに聞くなよ。
「気になるものですから」
「……でかい」
「それは視覚的な感想じゃないんですか?」
「いや、手に余るなと思ったんだ。これ、持ち上げたら重いのか?」
「重いですよ? 持ち上げてみます?」
お言葉に甘えさせてもらおう。
俺は怖々と古泉の胸の下へ手のひらをさし入れ、その豊満な胸を持ち上げた。
なかなかの重量感だ。
今の俺の胸でやろうとしたところで素晴らしく空振りするのだろうが、古泉の胸はどっしりと俺の手に重さを感じさせた。
「これは確かに肩が凝るかもな」
「その通りです。これからは女性へ向ける目も変わりそうです」
と古泉は冗談とも本気ともつかないことを言ってのけた。
俺も首肯しながら、
「そう言えば、自分でやってみて初めて知ったんだが、ポニーテールも意外と重いんだ。首も肩も凝ってな」
「その長さででもですか?」
「これでもだ。もっと長い髪でやれるのは、よっぽど首や肩の筋肉が発達してるんだと思っちまいそうだ」
「女性は凄いですねえ」
と古泉がよく分からないうちにまとめにかかったところで、ドアが乱暴に開き、不機嫌な団長殿が俺と古泉を睨みつけた。
「お前等何やってんの?」
何って…と俺は視線を自分の手へ向ける。
ああ、古泉の胸を持ち上げたままだったか。
気持ちよさの余り、惰性で上下運動をさせていた気もする。
それでも平然と話せる古泉はある意味で凄いな。
「ちょっとしたスキンシップだ。気にするな」
「……見せびらかしてると俺も触りに行くぞ」
日頃のハルヒを考えれば何の宣言もなしに、「あたしも混ぜなさい」とか何とか言いながら触りに来そうなものだが、あえてそう言ったということは、本気でするつもりがないのだろう。
その辺りは男の思考回路になってんのかね?
俺は肩を竦め、ついでに古泉の胸を解放した。
古泉は笑みを浮かべたまま、
「もうよろしいんですか?」
と言ったが、その方がいいんだろう。
ハルヒを不機嫌にするという目的はもう十分果たした。
これ以上やる必要もないはずだ。
ハルヒの機嫌さえ浮上しなければな。

次の日、俺はいつもよりいくらか早く目を覚ました。
髪は元の長さに戻り、一日行方知れずになっていた息子も無事ご帰還だ。
予定通りとはいえ、あまりの呆気なさにいくらか寂寥感さえあるのは、昨日の状態なら思う存分女の胸を触れたからなんだろうか。
いやしかし、相手は古泉だ。
冷静になれ俺の頭。
というわけでと言うのも妙だが、俺は昼休み古泉を探して9組へ向かった。
しかし、古泉はもう学食へ行ったという。
駆け足になりながら学食へ入り、ちょうど食券を買おうとしていた古泉を止めた。
「古泉!」
「おや、珍しいですね。あなたがここへくるとは」
「ちょっと来い」
「え? でも僕は…」
「いいから」
食券機の前から古泉を引き剥がし、歩きだす。
そうしていくらか人気のないところへ来てから足を止め、ぶら下げていたカバンの中から弁当の包みを取り出した。
「昨日の詫びと礼だ」
「お弁当…ですか?」
それ以外の何に見える。
「いえ、驚いて…。わざわざ、持ってきてくださったんですか?」
それどころか作ったのも俺だ。
「え!?」
料理くらい出来ないと年の離れた妹の面倒は看れないもんなんだよ。
「…ありがとうございます」
嬉しそうに、古泉は弁当を受け取った。
おそらく作っていない表情なのだろうが、どこか間延びした感があり、いつもの爽やかなハンサム面はどこにやったと聞きたくなるくらいだ。
「でも、詫びと礼とはどういうことです?」
小首を傾げながら問われ、俺はため息を吐いた。
察しがいいなら普段からちゃんとそれを活用しろと言いたい。
「詫びは、閉鎖空間の発生についてだだ」
「でもそれはしかたないからいいと申し上げたでしょう」
「俺の気が済まなかったんだ。それから、礼ってのは、」
と俺は顔を背けた。
相手の顔を直視して言える奴がいると思えないことを言うんだからな。
「昨日、胸を触らせてもらった礼」
古泉は一瞬きょとんとした後、くすくすと笑い、
「それはお互い様なのに、わざわざすみません。よかったら、一緒に食べませんか?」
…そうだな。
たまにはいいかもしれん。
俺たちは部室で弁当を広げ、向かい合ってそれを食べた。
古泉による、弁当に対する褒め言葉は右耳から入った後は何も残すことなく左の耳から抜けてったが、それはそれでいい。
賛辞なんざむず痒いだけだからな。
空になった弁当箱を片付けながら、古泉が言った。
「こういうのもたまにはいいですね」
「そうだな。……今度はハルヒも入れて、全員で弁当を食ってみようか」
「いいですねぇ。その時は僕も何か作ってきますよ」
顔に似合わずさぞかし豪快な料理をなんだろうな。
まあそれも悪くはないさ。

追記しておくと、ハルヒはすっかり元のハルヒで、強引さも我がままさも、なんら変わっちゃいなかった。
妙に素直じゃない所も含めてな。
ついでに昨日の不機嫌さもどこかへ捨ててきてくれたらしく、おれとしては大いに助かった。
もし、昨日のあの妙な一日を覚えてもいないのに、なんとなく不満だったと言うことだけを記憶していて、そのまま傍若無人に振舞われたらどうしようかと言うそれだけが気がかりだったのだ。
まあ結局、俺がこの騒動の中で得たものの中で一番大きいのは、SOS団のメンバーがどんな風に変化しようが、大して変わらないということだろうな。
古泉が女でも、ハルヒが男でも、俺がどうなっても同じだ。
なんだか分からないままに集まって、バカやって、時々は世界の危機だかなんだかを回避する。
それでいいんじゃないかと、思いはじめているのは危険な兆候なんだろうか。