のぞき「は」してません



目が覚めたのは昼前だったが、起き出したのは昼を過ぎてからだった。
それくらい体が重く、言うことを聞かない。
目を開け、体を捻り、時計を見た。
ただそれだけのことが酷く億劫で、ぎしぎしと体が軋む。
俺の隣りで眠っている兄ちゃんも、泥のように眠っていて起きる気配がない。
それを起こすのは忍びないと思いながらも、この時間になって目が覚めたのに、これ以上放っておくのは後々面倒を招く気がする。
だから、と兄ちゃんに声を掛けようとしたところで、喉がすっかりかれていた。
「…そ……」
呟きもかすれてほとんど音にならない。
先に水でも飲むのが先だろうかと思いはしても、洗面所までたどり着けるのかどうかすら怪しい。
仕方ない、と俺は兄ちゃんをなんとかして起こすことにした。
軋む体をなんとか起こして、兄ちゃんの背中に伸し掛かる。
「う……んん…」
「に…ちゃ……」
ああくそ、本気で声が出ん。
しょうがないのでとにかく兄ちゃんを揺さぶると、ようやく薄目を開けた兄ちゃんが、
「ん……何…? まだ足りないの……?」
と寝ぼけきったことを呟きながら体を仰向けにし、俺を抱き締めた。
「ちが…!」
「……あれ? キョン…声が……」
そうだ、と頷けば、兄ちゃんはようやく頭が回り始めたらしい。
「え? い、今何時……?」
答えられないので携帯の画面を突きつけてやると、兄ちゃんの顔から血の気が引いた。
「嘘だろ……」
気持ちは分かるが本当だ。
がくりと肩を落とした兄ちゃんだったが、
「…はぁ……どうせ今から足掻いても無駄だよね」
と呟いた。
……こういうところが案外図太いんだよな。
「しょうがないし、ゆっくりしようよ」
「……のか?」
首を傾げれば、兄ちゃんは笑って、
「うん、大丈夫だと思うよ。まあ、痺れを切らして迎えが来る可能性もあるだろうけど。……とりあえず、どうしようか。シャワー、浴びれそう?」
「……」
無理だろうな、と俺は首を振る。
何しろ足腰が立たん。
筋肉痛の酷いのに全身やられたような感じだ。
「うーん…一応寝る前になんとかそれだけはと思って体は拭いておいたけど……十分だとは思えないんだよね…」
困ったな、と呟いた兄ちゃんは、
「…とりあえず、何か飲んで喉をどうにかした方がよさそうだね」
と言って、シャツを拾い上げる。
「何かリクエストある?」
なんでもいい、と俺は首を振った。
あっても口に出来ないなら伝えるのが大変だし、こういうことについては兄ちゃんに任せて大丈夫だろうからな。
兄ちゃんは手早く服を着ると、
「それじゃ行って来るから待っててね」
と言いながらドアノブに手を掛けたくせに、何か思い出したように引き返してきたかと思うと、ばさりと俺に布団を掛けた。
「うぁ!?」
なんなんだ、と驚く俺に、兄ちゃんは難しい顔で、
「目の毒だから、せめて隠して」
「……」
あほかい、とため息が出た。
大体、昨日というかむしろ今朝と言った方がいいような時間まであれだけ散々やっといて、まだ欲情できるのか?
兄ちゃん、それは若過ぎるぞ。
まるで俺の方がよっぽど枯れてるみたいじゃないか。
……昨日あれだけ苦労して迫ったことを考えれば、そんなこともないだろうに。
「いいね? 僕以外が来ても開けちゃだめだよ」
7匹もいる子供たちを置いて買い物に行く母山羊のようなことを言い、わざわざ部屋の鍵まで持って出て行った。
そんな心配をする必要が……あったか。
俺はそっとため息を吐き出した。
そういえば、今回のこれは油断ならない同行者が何人もいるような旅行なんだったな。
しかし、長門なら鍵を持っていったところで無意味だろうし、朝比奈さんやハルヒだって鍵をこじ開けるか長門を抱き込むくらいのことはしそうだ。
他に面白がりそうな人と言えば森さんだが、あの人ならマスターキーを持っていても不思議じゃない。
だから鍵を持ってっても無駄だと思うんだが……まあいいか。
俺は布団の中でもそもそと体を動かしてみる。
ちょっと動かすだけでみしみしと体が痛い。ちょっとした拷問みたいだ。
うへ、と息を吐きながら、動かせそうなところから動かす。
指…は平気だな。
とりあえず動くし大して痛まない。
問題は他の部分だ。
腕や肩はかなりの間体重が掛かったりしたせいで熱を持っているような気がするほどだし、足腰はそれに加えてひりつくように痛む部分まであって本当に散々だ。
実はあごなんかも結構痛くてだるいし、弄ばれるだけ弄ばれた場所はひりひりと痛い。
「うあ……っくそ……」
兄ちゃんめ、と罵りはするが、自分だってねだったし乗っかったりしたんだから同罪か。
布団で擦れても痛いくらい真っ赤になったまま熱の引かない胸に、絆創膏なんて貼ったら、また兄ちゃんが変な暴走しそうで嫌だが、それならどうするのがいいんだろうか。
熱を持ってるんだから冷やせばいいのか?
しかし、何で冷やすんだ?
氷なんかで冷やしたら冷えすぎて痛そうだし、何かそういうプレイをされたような気もするから、それはやめておきたい。
冷感湿布なんか貼ったら気持ちいいだろうかとも思うが、そういうのは少しばかり刺激が強すぎるかもしれないと思うと心配になる。
冷却シートだったら…大丈夫だろうか。
ほどよく冷やしてくれるような気がするんだが、そもそもあれは患部に直接貼っていいようなものだっただろうか。
真面目に説明書を読んだ記憶もないからなんとも言い難い。
というか、どうなってるんだこれ。
怖々布団をめくり、自分の胸に目をやると、そこは真っ赤に充血しているばかりか、かすかに歯型が残っているようだった。
一部はかさぶたになっている。
これじゃ、湿布はもとより冷却シートなんかも止めといた方がよさそうだな。
むしろ軟膏か何かをくれ。
兄ちゃんが気を利かせて持って来てくれるといいんだが……あ、いや、待てよ。
そうなったらまた兄ちゃんがえらくにまにましながら、
「僕が塗ってあげるよ」
とかなんとか言い出す気がする。
それならいっそ気付かないでくれ。
後で自分でなんとかするから。
そんなことを考えつつ、なんとか楽な姿勢を模索していると、ようやく兄ちゃんが戻ってきてくれた。
「ごめん、遅くなった」
と言った手には、コップじゃなくてトレイがある。
「ぅ……?」
なんだそれ、と声を上げれば、兄ちゃんは苦笑して、
「朝ごはん…っていうかもう昼も過ぎてるんだけどね。お腹空いただろ」
それも分からんくらいには空腹らしいな。
「起きれる?」
問いかけながら、兄ちゃんは俺に手を貸し、なんとか座らせてくれた。
背中に枕を当ててクッション代わりにし、やっとこさ体を支えることになるくらい、体が重い。
恨めしく兄ちゃんを睨みたいところだが、連帯責任の四文字でそれを封じた。
そんな俺の唇に、兄ちゃんがあてがったのは、ほのかに湯気の上がる淡い黄色の飲物の入ったカップだった。
甘い匂いに混ざるかすかな独特の香りに、生姜湯だと分かる。
小さい頃から、風邪を引いては兄ちゃんに作ってもらってた気がする。
甘くて、ちょっと辛くて、優しい味がするそれを、吹き冷ましながらそろそろと口に含む。
喉に触れてほんの少し痛むが、それが後で効いてくるんだろう。
ゆっくりと飲み干したところで、
「どう? 少しはマシになったかな?」
と兄ちゃんが聞いてくるから、
「ん……多分な」
と答えた。
声が出るくらいには回復したんだから嘘じゃない。
「まだ無理しない方がよさそうだね」
兄ちゃんは優しく俺の頭を撫でて、カップをサイドボードの上に置いた。
「食事は…食べられるかな? 一応お粥を用意したんだけど……」
それくらいなら平気だろう。
頷いた俺に、兄ちゃんはサイドボードにおいていたトレイの上から器とスプーンを取り上げ、俺に差し出した。
「自分で食べれそう?」
「……兄ちゃんが食べさせて…?」
兄ちゃんのせいで俺は手を動かすのもだるいんだし、というつもりで言ったのだが、兄ちゃんは軽く頬を赤くして、
「いいの?」
なんて言う。
…何想像したんだ。
呆れながら、口を開けると、兄ちゃんがスプーンにすくった粥を吹き冷まし、俺の口に持ってきてくれる。
「あーん…」
とそれを口に含むと、ほんのりとした塩味と米の甘い味が広がった。
風邪とかじゃないから、味覚はちゃんとしているわけだ。
何か出汁にもこだわったのか、ただの白粥にしては美味しい。
もぐもぐと口を動かしてそのほとんど液状に近いものを一応咀嚼し、飲み込む。
そうしてまた口を開けたが、次がなかなか来なかった。
「……兄ちゃん?」
なんだか知らんが硬直して俺を見つめている兄ちゃんに、俺が首を捻ると、兄ちゃんはようやく正気になったらしく、
「ごっ…ごめん、なんかこう……うん、ごめん」
…分かった、深くは聞かないでおこう。
ともあれなんとか粥を平らげ、人心地ついたので、なんとかベッドから這い出す。
歩くだけでも痛いのだが、このまま寝て過ごすのもまずいだろう。
「大丈夫?」
心配そうな兄ちゃんに支えられながら、なんとかシャワールームまで歩き、ざっと体を洗った。
ようやく服を着たら、なんだか少しマシな気分になってきたのだが、それをくじかせるようなものにぶち当たった。
「…なんだこれ」
と俺が睨みつけたのは、さり気なくゴミ箱に放り込まれた小さな便箋だった。
淡いピンクのそれを拾い上げると、兄ちゃんが見るからにまずったというような顔をしたので、余計に眉間にしわが寄る。
なんだこれ。
まさか兄ちゃん宛のラブレターでもないだろうが……。
訝りながら便箋を開いて、俺の顔から血の気が引いた。
「な…んだこれ……」
「…みての通り、かな……」
と兄ちゃんは目をそらす。
そこにあったのは、ちょっとした寄せ書きめいたものだった。
筆致だけでも誰からか分かる。
ちょっとばかり乱暴だが元気のいい字はハルヒの字だし、不必要に丸っこい字は長門の字だ。
頑張って綺麗に書こうとしたのだろうと思える丸文字は朝比奈さんの字で、本当にさらさらと綺麗な字は森さんの字であるらしい。
で、問題はその内容だ。
ハルヒからは、
『のぞいてはないけど、事情はちゃんと分かってるから、しっかり休みなさいよ!』
長門からは、
『キョンくん、喉大事にねー。なんだったら、治しに行くから呼んでよ〜? あ、今回はのぞいてないからね? ほんとほんと〜(笑)』
朝比奈さんからは、
『ごちそうさまでした』
森さんからは、
『お疲れ様です』
……見なかったことにしたい。
そのメッセージの意味なんて考えたくない。
ゴミ箱の中に一緒に放り込まれていた瓶がなんの瓶かとか、そういうことも知りたくない。
俺はベッドに倒れこむと、そのまま不貞寝を決め込んだのだった。