大学に入って初めての夏休み。 その第一日目に、俺たちは揃ってあの孤島を訪れていた。 ハルヒがつい一週間ばかり前に、 「夏はやっぱり合宿よね!」 と言い出し、誰一人反対しなかったのだ。 「じゃあ、どこがいいかな?」 朝比奈さんがいらしてなかったので、兄ちゃんが書記役を務めるつもりらしく、ホワイトボードの前に立ちながら言ったが、 「やっぱり、あの島でしょ」 とハルヒに言われて硬直した。 兄ちゃんは字が汚いんだから板書はやめとけ、と言おうかどうしようか迷ってた俺も同様である。 ただ長門だけはけらけらと笑って、 「あー、いーね! あっこなら多分宿泊費なんて取られないし、なかなかいい思い出もあるしねっ!」 「でしょ?」 にまっと笑ったハルヒは、 「一樹、お願いしていい?」 「え、ええと………うん、多分、大丈夫だとは思うけど……前ほどすんなり行くとは思わないでよ?」 と言った兄ちゃんは、困り顔ながら、ハルヒの意図を理解したらしい。 「じゃ、ちょっと失礼」 律儀にそう言ってから携帯を引っ張り出すと、迷いなく電話番号を呼び出し、電話を掛ける。 「もしもし……ええ、お久しぶりです」 と笑う兄ちゃんの敬語こそ久しぶりだな、なんて、長机に伏して見上げていると、 「キョン、何一樹に見惚れてんのよ」 とハルヒに笑われた。 「別に見惚れてたわけじゃない」 「違うの? じゃあ、聞き惚れてたとか?」 「……」 微妙に否定しきれない気もするが、 「…放っとけ」 むくれながらハルヒから顔を背け、兄ちゃんの方を向くと、兄ちゃんは真面目な顔で、 「ええ、涼宮さんの頼みです。あくまでもお願いなんですが………ええ、ええ、それは分かりますけど……でも、………」 …よく分からんが、交渉は難航してるってことかね? 兄ちゃんはちょっと困ったような顔で俺やハルヒをちらっと見た後、 「……ええ、それではお願いします。…きっと喜びますよ。ありがとうございました。それではこれで失礼します」 と電話を切った。 「…どうなったんだ?」 「いいってさ。…というか、」 と兄ちゃんは溜息を吐いて、 「こっちが頼んでもないのに、あの時のメンバーを揃えるとかなんとか張り切っちゃってさ……」 と苦笑したのだが、ハルヒはむしろ喜んで、 「あら! 丁度いいじゃない。あたしもちゃんとお礼とか言いたいと思ってたのよ」 と満面の笑みを見せた。 ……お礼、ねぇ? 俺と兄ちゃんは少しばかり妙な予感めいたものを感じて顔を見合わせたのだが、たとえ妙な力なくなろうとも、そういう時のハルヒを止めるのが非常に困難を極めるということは、身に染みてよく分かっている。 かくして、この合宿が実現したというわけだ。 ハルヒがどんな反応を示すのか、また機関の元メンバーのあの人たちがどうするのか、想像も出来なくてびくびくしていた俺と兄ちゃんだったのだが、ハルヒは至って普段通りにしてくれたと思う。 ただ、館に着いて、多丸さん兄弟と森さん、新川さんの四人が揃ってから、ハルヒは深々と頭を下げてこう言った。 「あたしたちのためにわざわざありがとうございます。今日もよろしくお願いしますね!」 上げた顔は夏の日差しに相応しいような明るい笑顔で、俺と兄ちゃんもほっとしたし、それにきっと、ハルヒの言いたかったことは森さんたちに通じたと思う。 …ハルヒは多分、こうして礼が言いたかったんだろう。 おそらく自分が、最も振り回しちまった人たちに対して、お詫びじゃなく、礼が。 ハルヒらしいな、なんて思いつつ、通された客室で荷解きなんぞしていると、 「キョンくんまだ着替えないのー?」 といきなり部屋に飛び込んできた長門に背後から飛びつかれた。 「っ、やめ…!」 というか、長門、 「んもー、早くしないと日が暮れちゃうよ? 日が暮れてから泳ぐにはちょっと寒いしー」 「お前、水着になってるなら抱きついてきたりするんじゃありません」 「ほらほらー、早く海行かなきゃ、日が暮れちゃうよー?」 「人の話を聞け」 思い切って長門を引き剥がしたら、長門は何が楽しいのかにへりと笑って、 「ふふー、お兄ちゃんっぽいキョンくんなんてひっさしぶりだねぇー。大学になって、ってゆっか、いっちゃんと同棲し始めてからは、すーっかりかっわいい弟〜って感じになってたしっ」 「悪かったな」 と膨れれば、 「まっ、そのキョンくんのだぁい好きなおにーちゃんも待ってるんだし、さっさと着替えて海行こ?」 「へーへー」 分かったから、 「お前は外に出てなさい」 「えぇー?」 何でそこでそう来るんだ。 「だって、せっかくだからキョンくんの生着替え見たいもんっ」 「出てけ変態」 とまあ、それくらいのことを言いながら放り出せるくらいには、俺も長門のこのテンションや言動に慣れたというわけだ。 俺が水着に着替えて部屋を出ると、兄ちゃんが長門の首根っこを捕まえていて、懇々と説き伏せているところだったが、 「…やるだけ無駄じゃないか?」 「……それは僕も思うけどね、」 と兄ちゃんは盛大にため息を吐いて俺を見つめ、何故だかぎょっとしたように目を見開いた。 「何か変だったか?」 と自分の格好を見直すが、別に何かおかしいというところがあるようにも思わない。 長門が一緒だから、俺の知らない間に服装を改変されていても不思議じゃないんだが、そういうことでもないようだ。 じゃあなんでだ、と首を捻っていると、兄ちゃんはさっきまで長門を捕まえていたその手で自分の口元を覆い、 「…っの間に、……そんな水着、いつの間に買ったの……!」 と顔を真っ赤にして言った。 えーと。 「買ったのは、ほら、この前、合宿の準備だってSOS団で買い物に行っただろ? あの時だけど……」 「気付かなかった…」 一生の不覚、とばかりに兄ちゃんが言うから、俺は妙に不安になってきて、 「…兄ちゃんは、こういうの嫌いだったのか?」 と聞きながら、目を背け、俯いた。 この水着は、俺が着てるのがいつも似たようなデザインだからたまには、とハルヒが勧めてくれたのだ。 脚が全部出ているような、そして何も隠せてないも同然のようなぴったりした水着に羞恥を感じないと思えば嘘になる。 ただ、 「…兄ちゃんが喜ぶって言われたから、これにしてみたってのに……」 やっぱり、金輪際ハルヒのアドバイスは聞かないことにしよう、と誓いかけたその時、ぱさりと肩に何かを掛けられた。 「…ん?」 見ると、兄ちゃんが羽織っていたはずの薄い緑のパーカーが掛けられている。 見てられないほど似合わないってことか、と悲しくなったところで、これ以上はないというほどに真っ赤になった兄ちゃんに、 「…た、頼むからそれでも着ててくれる? じゃないと……」 じゃないと? 「……っ、このまま部屋に逆戻りの上、酷い目に遭わせるけど、いい!?」 兄ちゃんにしては珍しいほどの強さでそんなことを言われ、ぽかんとしている間に、兄ちゃんは、 「頼むからちゃんと着ててよ?」 と言いながら遁走した。 取り残された俺は思わず、 「……別に、兄ちゃんがそうしたいならそれでいいのに」 と呟いたのを長門に聞かれ、 「いっちゃーん! キョンくんがねぇー!」 などと叫びながら兄ちゃんを追いかけようとするのを慌ててとっ捕まえる破目になったのは余計だったが。 …やれやれだ。 仕方なく、俺はパーカーにちゃんと袖を通し、きっちりと前も閉める。 そうすると、元々兄ちゃんにも長目の丈だったそれは、兄ちゃんと俺の身長差もあって、すっかりロングパーカーになり、せっかく新調した水着は物の見事に隠された。 兄ちゃんのあまりのヘタレっぷりに少なからず不貞腐れながら海岸に下りれば、先にとっとと遊び始めていたハルヒたちのはしゃぎまわる姿が見えた。 ハルヒも朝比奈さんも、相変わらず結構大胆で可愛い水着姿なんだが、見慣れたといえば見慣れたので大胆に腹だの腰のラインだのを露出した姿にうろたえることもない。 が、長門の、……なんと言ったらいいんだ? 甘ロリ系、とでも言ったらいいのか? ピンクと白のふりっふりしたやけに可愛いビキニ姿の長門は、非常に目の毒だ。 ……なんというか、うちの妹が背伸びして可愛い格好をしたのはいいしよく似合ってるのだが、そのせいでロリコンが釣れそうで心配、という感じが。 「もーっ、キョンくんったら失礼だなぁっ!」 「実際そうだろうが。なんなんだその水着は」 「いーじゃん、かあいくってー」 などと膨れてる辺りもうちの妹みたいだな。 「はいはい、可愛い可愛い」 わしゃわしゃと頭を撫でてやったら、長門は満足そうに、 「へへへー」 と笑って、 「あたし、泳いでくるねっ」 と海に飛び込んで行く。 元気だな。 「ゆきりんは、元気が取柄だろ」 と呟く兄ちゃんの顔がまだ赤い。 「兄ちゃん」 「うん?」 さり気なく目を逸らす兄ちゃんに、俺は小さくにやっと笑って、 「顔、まだ赤いぞ」 と指摘してやると、兄ちゃんは更に顔を赤く染めて、何か叫びかけたが、それを深呼吸で押しとどめ、 「……誰のせいだと思ってるの?」 そう小さな声で呟いて、俺を見るから、 「日差しのせいじゃないのか? これ、返そうか」 そらっとぼけて俺が言い、くいっとパーカーの襟を引っ張って見せると、 「っ、キョン!」 と真っ赤な顔で怒鳴られる。 俺は声を立てて笑いながら、 「兄ちゃんが悪いんだろ」 と返して駆け出し、そのまま海に飛び込んだ。 思ったより温い水が気持ちいい。 パーカーが肌にまとわりつくのがちょっと難だが、それでも泳いでりゃ気分もいいし、日焼け対策だと思えば我慢も出来る。 「なんでパーカーなんて着て来たわけ?」 悩殺作戦は? とハルヒが聞いてくるのに、 「兄ちゃんに着せられた」 と答えた俺はさぞかしにやけた顔をしていたのだろう。 「間抜け面」 と笑いながらデコピンを食らった。 「っ」 「全く、一樹ったらほんっとヘタレなんだから。それとも、あたしたちには見せたくないって嫉妬のあらわれのつもりかしら?」 「別に、兄ちゃんはお前らに妬いたりしないだろ」 「そう? じゃあやっぱりただのヘタレね」 ふん、と鼻を鳴らしておいて、ハルヒは俺に耳打ちする。 「どうすんの? 諦めるの?」 「どういう意味だよ」 「悩殺したいんじゃなかったの?」 「の、悩殺と言うか……その、…旅先でなら、ちょっとは兄ちゃんも羽目を外せるんじゃないかと思った程度であってだな、」 「要するに悩殺したいんでしょうが。全くもう、変な言い訳ばっかりして。…ヘタレは遺伝じゃないの?」 知るか。 むくれながら潜ろうとした俺の、パーカーのフードをハルヒが掴んで引き戻す。 ぐえ。 「パーカーってこういう時便利よね」 「って、死んだらどうする!」 「こんくらいじゃ死なないわよ」 平然とそう言い切ったハルヒは、 「ヘタレなあんたに次の作戦を伝授してあげるわ。この、」 と言って後ろでぷかぷか浮かんでいた朝比奈さんイン可愛らしいピンクの浮輪を引き寄せて、 「同人作家みくるちゃんがね!」 「ふえぇぇぇ、す、涼宮さん、その紹介はあんまりにもあんまりですよぉ…!」 真っ赤になって叫んだ朝比奈さんに、ハルヒは情け容赦なく、 「だってそうじゃないの。大体さっきまで、キョンくんのロングパーカーおいしいですもしゃもしゃとか言ってたくせに、キョンが来た途端空気になったフリしちゃって! どうせ聞き耳立てながら妄想に勤しんでたんじゃないの? どうせならそれを有効活用しなさい!」 「ふえぇぇぇん、キョンくんごめんなさぁい…!」 いや、もう慣れましたから構いませんけどね。 笑いが引きつるのくらいは許してもらいたい。 くすん、と小さくしゃくり上げた朝比奈さんは、 「それで、どうしたいんですか?」 …あ、考える気はあるんですね。 「どうも何も……」 「悩殺したいんですか? 誘惑したいんですか? それとも、えっと、リバ狙いですか?」 「………朝比奈さん、」 「すすす、すみません、あたしったら、喋りだしたら自重出来なくって…!」 あわあわあわと慌てている朝比奈さんは可愛らしいのに、どうして腐菌に感染してしまわれたのか。 目眩がしそうだ。 しかし、これくらいは言っておかねばと羞恥を堪えて、 「とりあえず、リバ狙いはないです。俺は現状に満足してます」 と言えば、ぽんっと顔を赤らめた朝比奈さんは、 「そ、そうですよね」 うふうふと嬉しそうに笑ってらっしゃる。 …何かツボを突いたらしい。 どういうツボだか皆目見当もつかんが。 「じゃあやっぱり、誘惑したいんですよね?」 「…そうなりますかね」 「うぅん、どうするのがいいんでしょう? ヘタレってことは、遠回しにしたんじゃ通用しませんよね? だったらもういっそのこと大胆に迫るのはどうでしょうか」 「……大胆に、ですか」 むぅ、と眉を寄せた俺に、ハルヒが苛立たしげに舌打ちする。 「そんなのも出来ないわけ?」 長門は長門で、ぷっかぷっか浮輪で浮きながら、 「じゃああたしがいっちゃんを挑発したげよっか〜? あたしがキョンくんに迫ったら、まず間違いなくいけると思うんだよねー」 などと余計なことを言うので、 「それは拒否する」 「もう、キョンくんったら」 ぷくーと膨れる長門をとりあえず無視して、俺は考え込む。 大胆にと言われても、今日のこの格好だって随分頑張ったんだ。 これ以上を望まれると、それはもう誘惑だなんだというよりは見下げられそうなド淫乱にでも成り下がるしかないんじゃないか? 「あ、あたし見てみたいなっ! ド淫乱なキョンくん!」 「長門は黙ってろ。あと、人の考えを読むんじゃないと何度言えば分かるんだお前は」 ハルヒはと言うと、きゃーっと歓声を上げている朝比奈さんをなんとか現実に繋ぎとめながら、 「こうなったら、もう手段はひとつしかないんじゃないの?」 何? 「お酒の力を借りましょう」 ……俺はちょっと前に禁酒を誓ったところだったんだが。 「だって、しょうがないでしょ。あんたの性格じゃ、素面で一樹に迫るなんて無理だろうし、でもそうでもしなきゃ一樹は大人しく副団長モードでいるに決まってるもの。今回は諦めてまた別の機会に一樹と旅行に行くとかならまだいいでしょうけど、そんな余裕、あんたたちもないでしょ? ただでさえ、アパート暮らしで、しかもバイトにせっせと勤しんだりしてるならまだしも、あんたたちと来たら二人とも、いちゃつくことしか考えてないんだから」 そう言われるとぐうの音も出ない。 かくして、作戦は決定された。 |