再始動



大学に入り、ハルヒが本調子になってきてからと、高校時代とでは変わったことがある。
ハルヒが、兄ちゃんのことを「一樹」とか「いっちゃん」と呼ぶようになり、兄ちゃんもまた、ハルヒのことを「ハルヒ」と呼ぶようになったことだ。
高校時代には何でそう呼ばなかったのかと、ハルヒに聞いてみると、
「なんとなく、だけど…。やっぱり、薄々気づいてたのかもね。一樹があたしに遠慮してるってことが。だから、『古泉くん』としか呼べなかったんだと思うわ」
と答えられた。
兄ちゃんがハルヒをそう呼べなかった理由は、言うまでもない。
兄ちゃんには任務上の立場があったし、イメージとしてもそうするほかなかったからだ。
「でも、ずっとハルヒって呼びたくもあったんだ。キョンがずっとそう呼んでただろ? それにやっぱり、名字にさん付けなんて、他人行儀過ぎるからね」
「過去は過去で、もういいのよ」
とハルヒは明るく笑ってくれた。
兄ちゃんも柔らかな笑みを返す。
仲がよくて何よりだ、などと、俺がもやもやすることもなく見ていられるのは、兄ちゃんが俺一筋であり、ハルヒが兄ちゃんを意識していないとよく分かっているからである。
しかし、周りはそうは思っていないようだ。
ハルヒと兄ちゃんは学部が同じで、一緒にいることが多いせいもあるのだろうが、すっかりカップルだと思われているらしい。
だとすると、随分美男美女のカップルに見えてるんだろうな。
ハルヒは遠目に見ている分には相変わらず美人だし、兄ちゃんについては近くで見ても美男だから。
ちなみに俺は、長門と同じ教育学部に通っている上、ともすれば高校時代のハルヒ以上に暴走しがちな長門を抑えなくてはならないため、やはり長門と付き合っていると誤解されているらしい。
酷い誤解もあったもんだ。
なお、どうして俺たちが教育学部かと言うと、俺はハルヒや兄ちゃんの勧めで、極々真っ当に、教師を目指しているのだが、長門はそうではない。
一応、教師を目指しているらしいのだが、曰く、
「人間、特に小さな子って、観察してるとすっごく面白いよねっ!」
とのことなので、野放しに出来ないのだ。
長門が教師になる日が来たらと想像するだけで怪談要らずの涼しい夏が過ごせそうですらある。
そんな調子なので、講義中も危なっかしくて目が離せず、結果として、長門と付き合っていると思われているようだ。
「役得だよねっ!」
とご機嫌の長門はいいが、俺の方はくたくただ。
ただのセミナーという名のプレゼミでどうしてこうくたびれねばならんのか。
この調子で教育実習なんてことになったら、その時こそ過労死しそうだ。
「ゆきりん、ご機嫌なのはいいけどさ、」
俺の背中を撫で、労ってくれながら兄ちゃんが言う。
「…もし、本当にキョンに手出ししたりしたら、その時はゆきりんでも……」
兄ちゃん、顔が怖いって!
と俺があせっていると、
「キョンくん、ときめいてないで助けてよー」
と長門が助けを求めてくる。
「あ、すまん。………って、ときめいてはないぞ?」
本当にびびっただけだとも。
ああ、嘘じゃない。
嘘じゃないったらない。
「どーだか…」
じとっと恨みがましく俺を睨んでくる長門の横で、ハルヒが呆れたように弁当――当然のように兄ちゃんが作ってきた弁当だ――をつつきつつ、
「一樹も無駄な心配するわよねー。キョンには一樹しか見えてないのに、浮気なんてするわけないじゃない。それこそ、未来とか過去から一樹本人を連れてくるかどうかしなきゃ、無理よ、無理」
「み、未来のでも過去のでも嫌だ…っ!」
今の兄ちゃん以外に抱かれるなんて、と顔を赤くして否定したところで、
「ほんとに? たとえば…そうね、過去の、あんたと離れ離れになってた頃の一樹に会ってもときめかない?」
「うっ…それ…は……」
思わず言いよどんだ俺に、兄ちゃんはくすくすと声を立てて笑い、
「いいよ、別に。過去でも未来でも、僕本人なら浮気とは思わないことにしておいてあげるから。…ああでも、別の世界のとかは嫌だな」
「だから、兄ちゃん本人でも、今の兄ちゃんじゃないと嫌だって…」
「ふふ、ありがとう」
面白がるように笑って、兄ちゃんは俺を抱きしめ、
「僕も、同じだよ。だから、安心して?」
「ん……」
頷いたところで、
「あー、あっついあっつい。まだ夏も来てないのに暑苦しいわ、あんたたち」
とハルヒがこれ見よがしにばたばたと下敷きで顔を扇いでいる。
それにムカつかないわけでもないのだが、やっぱり、
「…いいよな」
と思ってしまう。
「ん? 何が?」
不思議そうに聞いてくる兄ちゃんに、俺は小さく笑って、
「いや、大したことじゃないとは思うんだけどな。……ハルヒも一緒に、秘密とか、誰か一人だけ外したりとかせずに、こうして過ごせるのはやっぱりいいものだと思って」
「…そうだね。僕も、楽しいよ」
「ここに朝比奈さんがいないのが、残念だ」
いくらか困ったところもあったが、あの人が俺にとって癒しであったことに違いはないし、実際随分とお世話になっただけに、強くそう思う。
だが兄ちゃんは軽く眉を寄せて俺を抱きしめる腕に強さを込めたかと思うと、
「…妬くよ?」
場所も忘れてぞくりとしてしまいそうな声で囁いた。
「に、にに、兄ちゃん…っ?」
なんでそうなるんだ?
「妬くに決まってるだろ。キョンにそんな顔させるなんて、羨ましいのを通り越して妬ましくもなるよ」
そう公言してはばからない兄ちゃんに、ハルヒはニヤニヤと笑って、
「ほんと、一樹は無駄な心配が好きよね。キョンがみくるちゃんを気に入ってる理由なんて分かりやすいのに」
「どういうこと?」
素直に聞く兄ちゃんに気をよくしたのか、ハルヒは教壇上の教授のように得意げに、
「みくるちゃんが、一樹と似たようなタイプだからに決まってるじゃない」
そう言われた兄ちゃんはきょとんとした顔をして、
「……似てる、かな?」
俺に聞かないでくれ。
俺としても、ハルヒの説を支持しかねてるんだ。
「似てるでしょ。基本的に敬語キャラで、見目がよくって、秘密を抱えてる後ろ暗さからちょっと影があるってところなんか。異性に人気があるけど、同性からはそうでもない、むしろ嫌われてそうってところも似てるわね。もちろん、一樹はみくるちゃんほど迂闊でもなかったし、もっとうまく騙してくれてたみたいだけど」
悪戯っぽくハルヒは笑い、俺を見た。
「何? あんたもしかして自覚してなかったの?」
「あ、ああ」
「てっきり分かってるのかと思ってたわ。無自覚なんて、本当に根深いわね。一樹、一体どうやって刷り込んだの?」
刷り込んだって。
「そうしたつもりはなかったんだけどな」
苦笑しながら兄ちゃんは俺を見、ハルヒを見た。
「うん、小さい頃は普通に仲がいい兄弟だっただけだよ? 多分、途中で引き離されたりしたから、余計にいろんなことの印象が強くなってるんだと思う」
そう言われ、俺は思わず、
「実際、兄ちゃんはかっこよかっただろ。優しかったし、だから、俺は、兄ちゃんが忘れられなくて、」
「はい、ストップ」
ぱふんと兄ちゃんの大きな手のひらで口をふさがれた。
「続きは部屋に帰ってからね」
とウィンクされて、顔が赤くなる。
「そうそう、帰ってからにしてちょうだい。鬱陶しいから」
ハルヒがそう笑ったところで、長門が聞こえよがしにため息を吐き、
「みくるんがいたらなぁ」
「いたらなんなの?」
とハルヒが聞くと、長門はにまっと笑い、
「萌え過ぎて鼻血を噴くか、そうじゃなかったら次のイベント時に発行する新刊の数またはページ数が増加してたなって」
「…ああ、そういえばみくるちゃんって腐女子だったんだっけ?」
「そうそう。いっちゃんとキョンくんは萌え所どストライクで堪らなかったらしいよー?」
「さっさと帰っちゃったから、あたしは全然知らないのよね。どうせなら、作った本全部置いてってくれたらよかったのに」
「あたし、いくつか持ってるよ?」
「ほんとに?」
「うんっ。読む? 読むなら貸すよー?」
「読むに決まってるじゃない!」
ハルヒ、頼むからお前まで染まってくれるな。
俺が案じたからではないのだろうが、ハルヒの興奮状態はすぐに治まり、まるでその代償のように静かになったかと思うと、
「……ほんと、みくるちゃんもいたらよかったのに」
と寂しそうに呟いた。
と、その時だ。
「うふっ、呼びました?」
と、懐かしくも愛らしい声が室内に響いた。
驚いた俺たちがドアの方を振り返ると、いつの間に現れたのか、朝比奈さんがそこに立っていた。
これまでに会ったどの朝比奈さんよりも年長に見える。
二十代半ば、といったところであろうか。
すっかり大人の女性だ。
衝撃からいち早く立ち直ったのは――と言うより、元から衝撃なんて受けてなかったんだろうな――当然のように長門で、
「呼んだよー! 久し振りだねぇっ、みっくるん!!」
「お久し振りですね、ゆきりん」
にこにこと微笑みながら、朝比奈さんは室内を見回した。
懐かしそうに、あるいは、俺たち一人一人を確かめるように。
「本当に、お久し振りです。キョンくんもいっちゃんも、…涼宮さんも」
「みくるちゃん…っ?」
嬉しそうに声を上げたハルヒに、朝比奈さんは優しく微笑みかけ、
「はい。ご無沙汰してしまってすみません。あたしもやっと、少しくらいなら自由な行動が取れるまでに出世したんです。…大変だったんですよ?」
と言った朝比奈さんに、ハルヒが抱きついた。
以前と違って、なんというか、ハルヒの方が、年上のお姉さんに甘える妹のようである。
見ていて無体な感じはせず、ひたすら微笑ましい。
「みくるちゃん、あたし、…っ、あたし……」
泣きじゃくりそうな声で訴えようとするハルヒを制して、大人らしく朝比奈さんは言う。
「いいんです。あたしはこの時間に来れて、涼宮さんたちに会えて、本当に楽しかったんです。だから、謝らないでください。…ね?」
「…ん、ありがとっ」
いくらか潤んだ目でハルヒが頷いた。
そうして、ごしごしと袖で目を拭ったかと思うと、
「みくるちゃん、これからはちょくちょく来れるの?」
「流石にそうはいかないんです。やっぱり、ある程度の制限はあるので。……でも、出来るだけ顔を出すようにしますね」
「そうねっ、みくるちゃんだって、我がSOS団の団員なんだもの! 退団なんて認めないわっ」
強すぎるくらいはっきりと言い放つハルヒは、これでこそハルヒらしいと言う感じで、俺はポツリと、
「これで、本格的にSOS団再始動、だな」
と呟くと、いきなり眉を吊り上げ、
「再始動ですって? 何言ってんのよこの馬鹿キョンっ! 再始動なんてしようにも、活動終了した覚えがないわ!」
と言ったが、
「お前、確か卒業式の日に言っただろ。本日を以ってSOS団の活動は終了、これまでありがとうって」
「うるっさいわね、SOS団は永遠に不滅なのよ! よく覚えておきなさい!」
「お前な…」
呆れながら、ついつい笑っちまったのはやっぱり、これでこそハルヒだからだろう。
そして、そんなハルヒに振り回されることが、決して嫌なばかりではないと、俺も、俺以外の団員もみんな、よく分かっているのさ。