幸せなある日



兄ちゃんと一緒に暮らし始めて一ヶ月弱。
それまでは快い眠りを破られるのが嫌で嫌でならなかったはずだってのに、今では目を覚ますのが楽しみになっていた。
それは、不快な目覚まし時計の音や妹のフライングボディプレスなどで目を覚ますのではなく、もっと穏やかに目が覚めるからだろう。
まず、耳から起き出す。
かすかに聞こえるテレビの音。
兄ちゃんの落ち着いた、でも少しばかり急がしそうで慌ただしい足音。
料理する、まな板に包丁のあたる軽快な音や鍋のぐつぐついう音。
時々聞こえてくる兄ちゃんの独り言や鼻歌。
そんなものだけで胸の中が暖かく、朝からこんなに幸せでいいんだろうかなんて思っちまうような気持ちに包まれる。
とろとろとまどろんでいるようなフリをしながら、実際には完全に目は覚めている。
それでも、俺は布団から起き出したりしない。
そんな勿体無いこと、するわけない。
布団から兄ちゃんの温もりの名残がどんどん薄くなっていくのはいくらか寂しさを感じさせないでもないのだが、それ以上に楽しみなことがあるのだ。
調理の音が止み、食器の立てる心地好い音が響き、しばらくして、寝室のドアが開く。
「キョン、朝だよ」
優しい兄ちゃんの声にも、目は開けない。
「ほら、起きて。朝ごはん出来たよ」
そんな風に言いながら、声を掛けて俺を起こそうとするのは、きっとただのポーズに過ぎないんだろう。
実際、俺がここで目を開けたら、いくらかつまらない顔をするに決まってる。
だから俺は物分りのいい弟らしく、目を閉じたまま兄ちゃんを待つ。
ベッドの傍らに膝をついた兄ちゃんが俺の前髪をかきあげるようにして俺の頭を撫でる。
くすぐったいのに嬉しくて、愛しい。
吐息がかかり、顔の近さを感じると、勝手に口元が緩んだ。
その緩んで締まりのない唇に、兄ちゃんのそれが触れる。
俺はやっと目を開けて、同時に兄ちゃんを抱き締めた。
「おはよ、兄ちゃん」
「ん、おはよ。朝ごはん出来てるよ。冷めないうちに食べよう」
そんな風にして朝が始まる。
ここは、大学の近くの安アパートだ。
前に兄ちゃんが住んでいた部屋とは違うのだが、感じはよく似ている。
必要最低限の部屋しかない感じも、少しばかり薄汚れた感じも。
相変わらず、油断すると兄ちゃんが部屋中散らかしてはいるものの、散らかる書類の中に機関関係のものがほぼなくなっている分、気分は悪くない。
兄ちゃんのあの厄介な仕事はもう終ったんだと思えるからな。
とはいえ、機関で知り合った人たちとの付き合いはまだそこそこ続いているらしく、いきなり森さんに呼びつけられて朝まで飲みに付き合わされたりする日もあるし、逆に兄ちゃんの方がかつてのコネを使ってあれこれ手配したりすることもある。
完全に関係がなくなるよりも、よかったんじゃないかと思わないでもないのは、兄ちゃんが機関の人々と話す時、嫌な顔も辛そうな顔もしないでにこにこ笑っているからだ。
それなら、俺はなにも言うことはない。
毎日平穏無事に――少なくとも、高校時代と比較すれば――過ごせるばかりか、兄ちゃんと一緒に暮らせるんだからな。
今日もいつもと変わらず絶品の朝食をにまにましながら食べていると、兄ちゃんが言った。
「今日は三コマ目が空いてる日だよね?」
「兄ちゃんもだろ? 昼飯一緒に食って、のんびり出来るな」
と笑って答えれば、兄ちゃんも笑顔で、しかし百点満点とはいかない返事を寄越した。
「そうだね。お弁当多目に作っておいたから、皆で食べようか」
……少しだが、面白くない。
その皆ってのが俺の知らない兄ちゃんの友人などではなく、ハルヒと長門のことだと分かっていても。
しかし、自分の心の狭さに嫌気もさしてくる。
だから黙り込むしかない俺に、兄ちゃんは軽く笑って言った。
「拗ねないの。…三コマ目は二人きりになれるだろ?」
「…多分な」
「だったらほら、機嫌直してよ」
「…ん」
答えた俺の尖がったままの唇を、兄ちゃんがからかうようにつついた。
どうせならキスしてくれ。
同じ大学に入れたものの、兄ちゃんとは学部が違うから少しばかり厄介だ。
今はまだ共通の教養科目が多いからマシなんだが、これからどんどん別々になっていくんだろう。
今だって、一部の教科はそれぞれの学部の校舎で行われるから、兄ちゃんとは一緒にいられないことも少なからずある。
それが寂しいと思ってしまうのは、高校時代からの不満の蓄積だとか、むしろそれ以前から兄ちゃんと一緒にいられなかった分の不満が溜まっているせいなのかもしれない。
しかし、ありがたいのはハルヒたちがキャンパス内にアジトめいたものを確保してくれたおかげで、公衆の目のない場所で兄ちゃんと会えることだ。
サークル棟の中でも食堂近くの好位置にあるその部屋は、元々小さな倉庫か何かだったのらしいが、ぐちゃぐちゃに汚れ、荒れ果てていたそこを長門がちょちょいのぱっぱとばかりに綺麗にしちまったばかりか、本来なかったはずの冷暖房及び防音設備まで備え、ついでとばかりに高校時代のあの懐かしい部室と同じように作りかえちまったのだ。
好きに力をふるっているのはいつものことにしても、もう少し自重してくれ、と思ったのは俺だけではなかったらしく、兄ちゃんも苦い笑顔で、
「ゆきりん、こんなことして大丈夫なの?」
と聞いていたのだが、
「だいじょーぶだよっ! 他の人には普通の部屋に見えるよう細工してあるから。ねねっ、それよりさぁ、ソファとかも置いていいっ? 広さをもうちょっと拡張して、キッチンとかシャワールームとか続き部屋として作っちゃってもいい?」
「あ、それは便利そうだね」
ってこら、最後まで止めろよ兄ちゃん!!
だが、ハルヒと長門が調子に乗ってしまえば俺ひとりでとめられるはずもない。
…俺だって、長門がイキイキしていたり、ハルヒがノリノリで騒いでいる方が性に合うんだから仕方ないだろう。
ハルヒには逆らえないと高校三年間で心身に染み付いちまった面もある。
何より、こんな状態もある意味で、以前よりも楽しいとさえ思っちまったのだ。
結局、あの部室とは似ても似つかないような、それこそマンションの一室の如き豪華なスペースが出来ちまったのには少なからず参ったが。
「これこそあたしが求めてた部室だわっ!」
とハルヒは歓喜の雄叫びを上げていたが、製造過程において謎のガラクタを増やしたのも含めてこいつの希望通りなんだろうか。
だとしたらやっぱりこいつのセンスは分からん。
それでも、設備が充実しているその部屋に慣れてしまえば、常識を大幅に無視した異次元空間だと分かっていても居心地は非常によくなるものであり、今更手放せるはずもなく、俺たちは休み時間や空き時間になるとここに集まるようになっていた。
それこそ、高校時代の比ではないほどだ。
そんなわけで、二限の講義が終ったので、俺は足早に部室――と呼ぶようになっていた――に向かう。
そこで兄ちゃんと落ち合う約束になっているからだ。
習慣で、一応ノックをしてみると、中から長門の声で、
「どーぞー!」
と声がした。
「よう、長門…と、ハルヒもいるんだな」
弁当はあれで足りるのかね、と思いながらそう呟くと、
「いるに決まってんでしょ。学食もそこそこ美味しいけど、手作りのお弁当の美味しさには勝てるわけもないし」
と悪びれもせずに笑ってハルヒが言い、長門もうんうんと頷いている。
お前らな。
俺が呆れたところでノックの音がして、すぐにドアが開く。
「お待たせしちゃったかな」
そう呟きながら、笑顔で兄ちゃんの登場だ。
手に弁当をぶら下げているのは、ずっと持ち歩いていたからで、どうしてさっさとここに置いておかなかったのかといえば、そんなことをすれば長門かハルヒに遠慮なく襲撃され、俺たちの分がなくなっちまうのが目に見えていたからである。
「わーいっ、待ってたよー!」
歓声を上げて長門が兄ちゃんに飛びつき、その手から弁当を奪う。
本当に食い気ばっかだな。
「だって美味しいんだもんっ」
てへっ☆ とうちの妹がするように笑って誤魔化す長門には、いくらか脱力してしまうが、そろそろ慣れてきた。
今日兄ちゃんが用意したのは豪華な重箱弁当だったのだが、強靭な胃袋の持ち主であるらしいハルヒたちにかかれば、あっという間に量が減り、俺たちは自分の分を確保するのに精一杯にすらさせられる。
そんなわけで、厳しい生存競争の中、ろくな会話が出来るはずもなく、のんびりと会話が出来るようになったのは、食事の後、お茶を飲む段階になってからだった。
専属お茶係不在の今、お茶は当番制でということになっているのだが、なし崩し的に俺の仕事になりつつある。
…まあ、兄ちゃんが淹れ方を丁寧に、手取り足取り指導してくれるから、いいと言えばいいんだが。
「あー、それにしても快適よねー」
とハルヒがソファの上で伸びをしながら言った。
確かにここは快適だが、本当に大丈夫なのか不安にもなるぞ。
「だぁいじょうぶだってば! んもう、キョンくんったら心配性だね! この超万能宇宙人ゆきりん様を信じなさぁい!!」
長門、そうやってお前が軽く言うから余計に不安なんだって分かってるか?
「ぶー」
と不貞腐れる長門だったのだが、すぐに反撃の手段を思いついたのか、ニヤッと悪そうに笑って、
「いっちゃんも、ここは快適だって思うよね?」
と兄ちゃんに話題を振った。
兄ちゃんは、
「そうだね。便利だし、過ごしやすいと思ってるよ。ありがと、ゆきりん」
「ふふん、どういたしまして! …でもさぁ、」
言いながら笑った長門の顔はチェシャ猫かギャング映画のドン辺りによく似ていた。
どう見ても善良な人間のそれとは似ても似つかない笑みである。
「これだけ快適なのに、どーしてどーしてっ、活用してくれないのかなっ! この二人は!」
その二人というのが俺と兄ちゃんのことだろうというのは分かったのだが、意味が分からん。
「長門?」
と首を傾げる俺に、長門はいよいよニヤニヤとどこかの酔っ払い親父のようなスケベ笑いで、
「何のための防音だと思ってんの? ソファもシャワーもそのためにつけてあげたんだよ? 安普請のアパートよりもずっといいと思うけどなーぁ?」
そこで兄ちゃんが、
「ゆきりん、いい加減に自重して」
と声にいくらか怒気を孕ませながら言うと、長門はぺろりと舌を出して黙ってくれた。
俺はと言うと、そこでやっと長門の言おうとした意味に気がつき、顔を赤らめるしかない。
「あははっ、キョンくん鈍くてかーわいー!」
などと言ってはしゃぐ長門を兄ちゃんが、
「いい加減にして出てけ」
といつになく強い語調で追い出し、ついでとばかりにハルヒも出て行って、部室の中で兄ちゃんと二人きりになった。
そろそろ次の講義が始まる時間だから、長門もあっさり出て行ったんだろう。
しばらく居心地の悪い沈黙に包まれたのは、少なからず居た堪れなさを感じていたからに相違ない。
泣きたいような情けない気持ちになりながら、俺は小声で兄ちゃんに聞いた。
「長門の奴……やっぱり覗いたりしてんのかな…」
「……ごめん、キョンのためにもゆきりんのためにも否定してあげたいのは山々なんだけど…ちょっと、自信ない…」
と兄ちゃんも苦く呟くしかないらしい。
だが、俺としてはそれならそうでやりようもある。
「…だったらある意味、どこでも同じってことだよな?」
そう確認しながら、俺はソファに座った兄ちゃんの膝の上に乗っかる。
甘ったれようとするのを隠しもしないで抱きつけば、兄ちゃんもくすぐったそうに笑った。
「そうかもね。…それで、甘えてくれるんだ?」
「ん…。だって、アパートの方がよっぽど怖いだろ」
「怖いって?」
きょとんとする兄ちゃんから俺は軽く目をそらしながら、
「ここと違って、防音とか何もないし、音が隣近所に漏れてそうで怖いんだよ」
と呟くと、兄ちゃんはややあってから、
「……もしかして、誘ってる?」
と聞いてきた。
「え? あ、いや…そう、じゃ、ない、……けど……」
ああそうか、そういう意味にも取れる発言だったか。
アパートでするのは怖いけどここなら怖くない、ってところから発展させりゃ、そうなるよな。
別にそういうつもりじゃなかったんだが。
でも、まあ、
「…兄ちゃんがしたい、なら?」
上目遣いにうかがいながら俺がそう言えば、
「…それを誘ってるって言うんだよ」
と困ったように、そのくせ嬉しそうに笑った兄ちゃんは、エッチな目つきで俺の顔を覗き込むようにしてキスをし、そのままソファに押し倒した。