カーテンコール



主観的にも短かったのか長かったのか分からない高校生活が無事に三年間で終りを告げた一月後、俺は既に新しい生活を始めていた。
大学入学を機に家を出たのだ。
とはいえ、一人暮らしをしているわけではない。
夢にまで見た、兄ちゃんとの二人暮らしである。
そう出来るのも、兄ちゃんによるスパルタ寸前の指導のもと、せっせと受験勉強に励み、兄ちゃんと同じ大学に合格出来たからだと思うと、余計に嬉しい。
同じ大学に長門とハルヒがいるのも、嬉しいと思えることだった。
それくらいには、SOS団の活動も楽しかったからな。
何より、今更どうでもいい他人と同列に出来るほど、ハルヒや長門との付き合いも浅くはない。
しかしだ。
まだ入学して間もないというのに、ハルヒが早くも五月病なんぞにかかっているらしいのが気がかりだった。
大人しくしてくれていると言えばありがたくもあるのだが、三年間ずっとハルヒに振り回され続けていた俺たちとしては逆に心配にもなるというものだ。
だから、ガイダンスの終った後、ハルヒを見つけた俺は、
「ハルヒ」
と声を掛けた。
振り返ったハルヒは、俺の隣りに立つ兄ちゃんを見るなり、一層顔を曇らせた。
辛そうに、苦しそうに。
俺はそれに眉を寄せながら、
「五月病なんてお前には似合わんだろ。どうした? まさかもう大学がつまらないとか何とか思ってるんじゃないだろうな?」
「そうじゃ、ないんだけど……」
やはりダウナーなオーラはハルヒには似合わない。
どんよりとしたハルヒなんて、ろくなものでもないとさえ思える。
そのハルヒが、兄ちゃんを見つめて、何か言おうとした時だった。
「ハ・ル・にゃ〜ん!」
と満面の笑みで叫びながら、長門がハルヒに体当たりをかましたのは。
どぉんっと後ろに倒れ込みそうな勢いで抱きつかれたハルヒが、
「ちょっと、有希!」
と文句を言おうとするが、長門が聞くはずもなく、
「もぉ〜、何ヘぇンな顔しちゃってんの? 律儀なのはいいけど、気にしすぎるのはだめだよっ。それに、あたしはハルちゃんにはいっつも笑ってて欲しいよ! 勿論、いっちゃんもそうでしょ?」
言われた兄ちゃんは微笑と共に頷いて、
「うん。だから、気にしなくていいんだよ」
とハルヒに優しく言ったのだが、ハルヒはくしゃくしゃに顔を歪めて、
「でも…」
とまだ何か言おうとする。
兄ちゃんはそれを制して、
「悪いと思ってて、何かしたいって言うなら、前みたいに笑って、色々と楽しいことを考えてくれる方が、僕たちとしても嬉しいな」
「……ありがと、古泉くん」
そう言ってハルヒがやっと笑ってくれたのはいいのだが、俺は思わず苦い顔にならざるをえない。
つうか、
「兄ちゃん、慰めるのはいいが、口説いてどうするんだよ」
「え?」
驚きの声を上げた兄ちゃんは俺のしかめっ面とハルヒの少しばかり紅潮した顔を見比べながら、
「あー……別にそういうつもりじゃなかったんだけどな…。誤解されそうな発言だった?」
「おう」
と俺が頷くと、ハルヒは小さく声を立てて笑い、
「分かってるわよ。もう、ほんとにキョンはヤキモチ焼きなんだから」
ほっとけ。

ハルヒの力が失われた後、俺たちは全てをハルヒに明かした。
長門が宇宙人であり、本当は無口な文学少女じゃないということも、兄ちゃんが超能力者だということも、朝比奈さんが未来人ですぐに帰っていってしまうということも。
それから、俺が全て知っていたということも話したし、ハルヒの持っていた、しかし失ってしまった力についても正直に告げた。
俺たちはずっと、そうしてハルヒを仲間外れにでもするように、ハルヒに嘘を重ねてきたから。
それが、苦しかったから。
だからこそ俺たちは、遅まきながら全てを明かし、ハルヒに謝った。
それに対するハルヒの反応は、怒るかはしゃぐか不貞腐れるかのどれかだろうと思っていた。
ところが、ハルヒも成長していたってことなんだろうな。
「あたしのせいで、そんなことになってたの…」
と酷く落ち込んだ様子で呟き、逆に兄ちゃんや長門に謝ったのだ。
特に、兄ちゃんには酷い罪悪感を覚えたらしい。
そのせいでか、春休み中も何ら音沙汰もなく、今日のこのガイダンスで捕まえられて安心したくらいだった。
「本当に、許してくれるの?」
まだ暗く眉を寄せながら何度目かの確認を繰り返すハルヒに、兄ちゃんははっきりと頷き、同じような言葉を繰り返す。
「うん。僕たちこそ、許してもらっていいのかって思ってるよ。仕方なかったとはいえ、ずっと涼宮さんを騙してきたわけだからね」
「そんなの、だって、仕方なかったんでしょ」
「それを言うなら、涼宮さんの力だって、仕方ないものだったんだから、気にしないで欲しいんだ」
「……うん。ありがと、古泉くん」
ほっとした様子のハルヒに、長門が背後からへばりつき、
「ねぇねぇハルちゃんっ、そんなことよりさぁ、SOS団の集合場所探しに行こうよっ! あたし、食堂の近くがいいなっ」
「有希ったら食い気ばっかりね」
苦笑するハルヒに、俺も言い添えてやる。
「長門、本はもういいのか?」
「もーっ、キョンくんだって分かってるっしょ? 本は高校時代にこれでもかこれでもかってくらい読んじゃったの! だから大学時代は食い気に生きるのっ!」
そう言って笑う長門には、周囲の視線も集まっているのだが、色気に走るつもりは全くないらしい。
全く、勿体無いね。
「キョンはどうするつもりだい?」
兄ちゃんに聞かれ、俺はにやりと笑って返す。
「そりゃ勿論、高校時代の分も、兄ちゃんといちゃつくに決まってんだろ」
それに対してハルヒが呆れた声を漏らす。
「あんたはあんたでそればっかりね…」
「別にいいだろ」
「まあね。…高校時代の分も、楽しみなさいよ」
その言葉に申し訳なさらしきものを感じた俺は眉を軽く寄せて、
「気にするなって言ってるだろ」
「…分かってるけど」
「大体、お前にあんな力がなかったら、俺は今頃兄ちゃんとこうしてることもないんだ。だから俺は、確かにお前とお前の力のせいで随分振り回されもしたし、恨まなかったと言ったら嘘にはなるが、それ以上に感謝してるんだからな」
傲然と言い放ってやったところで、ハルヒが今度こそ呆れ以外他のどんな感情も感じられないような顔で、
「…あんたの価値基準って、とことんそれね」
「それ?」
「古泉くんのことしか頭にないって言ってんの」
それが何か悪いか?
「分かりやすくっていいだろ」
にんまり笑って言ってやれば、ハルヒがため息を吐くのが聞こえた。
ついでとばかりに長門までため息を吐く。
「ハルちゃんハルちゃん」
「何?」
「キョンくんは今、春真っ盛りだから、何言っても無駄だよー。下手なこと言ったらこっちがお馬さんに蹴られちゃいそうだし、ここはもういっそのこと、二人は放っといて、あたしたちだけで部屋探しに行こうっ?」
「それもいいわね」
ってお前ら、俺たちを除け者にするつもりか?
「キョンくんといっちゃんはデートしてたらいーじゃん」
そう言って意地悪く笑う長門に俺は抗議の声を上げる。
「お前ら二人なんて最悪のタッグを放り出せるか!」
「またまたぁ〜。ほんとはデートしたいんでしょ?」
「デートは今度するからいい。兄ちゃんも、こいつらが気になるだろ?」
兄ちゃんはくすくす笑って、
「うーん、どうしようかな」
などと言っている。
ほっとけるのかよ。
「大丈夫じゃないかなって気もするけどね。涼宮さんも大分落ち着いてくれたし、ゆきりんが暴走する分、涼宮さんが抑えてくれそうだろ?」
「だが…」
「分かった分かった。キョンが、心配なんだよね?」
くすりと笑った兄ちゃんが俺の額をつつき、
「それじゃ、デートは諦めてお目付け役を果たすとしようか」
長門はむーっと唇を尖らせて、
「いっちゃんったら何やってんのさー。ここでキョンくんをかっさらってかなきゃだめじゃん」
「悪いね、ゆきりん。僕はキョンには昔から絶対に勝てないんだ」
へらりとした笑顔で言った兄ちゃんに、長門はにまっと笑い、
「んでもまあ、いっちゃんが来てくれるんだったら、うまいこと女の子誑かして部屋をもらうとかも出来ちゃうかな?」
と不穏なことを言い出すので、俺は慌てて、
「長門! 兄ちゃんに何させるつもりだ!!」
「えぇ〜? いっちゃんに何かさせるつもりなんてないよぉ。ただにっこり笑っててくれたらオッケーっしょ。いっちゃんは天然物の女っタラシだから」
兄ちゃんが無自覚な女っタラシだということには同意するが、そんな利用方法は認めん。
「もうっ、キョンくんったらほんっとケチだなぁ!」
「お前の考えがヨコシマ過ぎるんだろうが!」
「えええー」
不貞腐れる長門の頬をつついて、ハルヒは言う。
「有希、別に古泉くんがいなくったって平気よ。あたしと有希がいるんだから」
「そだねっ。そんじゃー、頑張ってお部屋ゲットと行こうかっ!」
「おーっ!」
おーっ、じゃない!
お前ら本気でいい加減にしてくれ!
「なんか、長門がああいうキャラを全開にしてるせいで、ハルヒが二人に増えたみたいなんだが…」
俺がぼやくと兄ちゃんは困ったような顔をしながらも笑って、
「でもやっぱり、涼宮さんはああやって楽しそうに笑っててくれるのが一番だと思わない?」
「……かもな」
それには同意するが、傍若無人な竜巻のように突き進んでいく二人を見ていると気が気でなくなる。
「いざとなったら機関時代のコネでも何でも使って誤魔化すことにするよ」
事も無げに言った兄ちゃんが俺の手を掴み、
「ほら、追いかけるよ。このままゆっくり歩いてたんじゃ、撒かれるからね」
「ん、ああ」
いかんな。
やっぱり俺はハルヒが言う通り、兄ちゃんのことしか頭にないらしい。
ハルヒに隠し事をしなくていいことよりも、長門が楽しそうにしていることよりも、何よりも、兄ちゃんとこうして手を繋いで歩いたり出来るのが嬉しくてならないんだから。
「兄ちゃん」
「ん?」
「大好き」
笑顔で言うと、兄ちゃんも笑って、
「返事は部屋に帰ってからでいい?」
「は?」
「キスも他のことも、何もかもしたくなるから」
「…っ、に、兄ちゃんのむっつりスケベ…!」
真っ赤になりながら毒づいたところで、足を止めたハルヒが、
「そこの二人っ! いちゃいちゃするなら帰りなさーい!」
と怒鳴り、長門も、
「そーだよっ! やる気がないなら帰っちゃえー!」
と叫んできたので、俺は顔の赤味が引かないままに怒鳴り返してやる。
「だからお前らが目を放していいようならいつだって帰ってやるって言ってんだろうが!」
そっちの方が俺だっていいに決まってんだからな。
兄ちゃんはにこにこ笑いながら駆け出し、
「これからの四年間が楽しみだね」
と悠長なことを呟いた辺り、俺よりよっぽど度量が大きい。
しかし、本当に分かってるんだろうか。
長門とハルヒの二人に振り回されるとしたら、本当にのんびりなんてしていられないような気がしてくる。
おまけに、機関という枷の外れた兄ちゃんは、つまりは「古泉」として装わなくてよくなった分、天然っぷりに磨きがかかっている。
そうなると、下手をすれば俺ひとりでこの三人を止めなければならないというわけで……。
「……やれやれ」
思わずため息を吐いた俺に、兄ちゃんは笑って、
「楽しそうにため息を吐くなんてキョンは器用だね」
と余計なことを言ってくれたのだった。