夢見事



夢を見た。
幼い頃、まだ俺も古泉姓を名乗り、兄ちゃんと一緒の家で暮らしていた頃の夢を。
ただ、夢というものは非常に曖昧で、時として違った時間の出来事を連続したもののように見せる時もあるし、ありもしないことをさも事実であるかのごとく見せつけることだってある。
だから、あれは多分、俺にとって都合のいい夢に過ぎないんだろう。


その頃の俺は、まだ字を覚えたばかりで、自分の名前をあちこちに書いてまわるのに夢中だった。
それは書くこと自体が楽しかったためでもあるが、それだけではない。
上手に書けると兄ちゃんも褒めてくれたが、それだけというわけでもない。
綺麗に名前を書けるようになったら、どうしてもやりたいことがあったのだ。
そうして、とうとう綺麗に名前を書けるようになったその日、俺はかねてからの計画を実行した。
まず、夜9時を前に寝かし付けられた俺は寝たフリをしてお袋の目を欺いた。
それから、お袋が別室に行ってしまった後、俺はこっそりと布団から抜け出し、隠しておいた油性マジックを手に取った。
隣りの布団で兄ちゃんが確かに寝入っているのを確認しつつ、起こさないよう慎重に近づいた。
キュポンとマジックのキャップを引き抜いた音で兄ちゃんが目を覚まさないかと一瞬慌てたが、大丈夫なようだった。
ほっとしながらペン先を兄ちゃんの顔に近づける。
そうして、一番書き易そうな場所に、俺の名前を書き記した。
兄ちゃんはくすぐったそうに身を捩ったが、目は覚まさなかった。
俺は惚れ惚れするくらい見事に書けた名前をもう一度見つめて、それから兄ちゃんの布団に潜り込んで寝た。
今度こそ、ぐっすりと。
翌朝、
「あんたはまたなんでこんな悪戯したりするの!」
お袋の怒鳴り声で目を覚ました俺は、寝ぼけまなこを擦りながら体を起こした。
悪戯?
何のことだろう。
首を傾げていると、お袋は兄ちゃんの頭をぐきっと音がしそうな勢いで俺の方に持ってくると、
「あんたでしょ、こんな悪戯書きしたの」
と、兄ちゃんの白い頬っぺたに書かれた俺の名前を指差した。
兄ちゃんはと言うと、苦笑しながら俺を見ている。
その手に手鏡があるのは、お袋に見てみろとでも言って渡されたからなんだろうか。
俺は唇を尖らせて、
「いたずらじゃないもん…」
「悪戯じゃなかったら何だって言うの」
「……」
うまく言えなくて俺が黙り込むと、兄ちゃんが困ったように照れくさそうに笑いながら言った。
「悪戯じゃ、ないよね?」
「…うん」
「僕のことが嫌いってわけでもないんだよね?」
「あたりまえだろ! おれ、にいちゃん大好きだもん!」
そう主張して、兄ちゃんに抱きつくと、兄ちゃんは俺のことをぎゅうっと抱きしめて、
「ありがと。ぼくも大好きだよ」
お袋は呆れながら、
「だったらなんで頬っぺたに落書きなんかしたの?」
「……だって、」
俺は兄ちゃんに抱きついて顔を隠しながら言った。
「…にいちゃんは、おれのだもん…」
なのに、最近幼稚園の友達とかが兄ちゃんにまとわりつくから嫌なんだ。
兄ちゃんは俺のなのに、取られそうで嫌だ。
だから、取られない様に名前を書いた。
「なまえ書いたら、取られたりしないんだよな?」
俺が確かめると、お袋は変な顔をしながら何か言おうとした。
しかし、それよりも早く兄ちゃんが、
「名前なんて書かなくても、取られたりしないよ」
と笑顔で言った。
「絶対?」
「うん。ほかの人のおにいちゃんになんかならないよ、多分」
「たぶん?」
それじゃ、絶対じゃないじゃないか。
「だって、それは分からないでしょ? もう一人弟か妹が生まれるってこともないわけじゃないし」
「やだ」
「やだ、って……おにいちゃんになりたいとか、思わないの?」
思わないね。
何故なら、
「おれはにいちゃんのおとうとでいたいだけだもん」
「もう、可愛いなぁ」
なんて嬉しそうに笑いながら、兄ちゃんが俺の頬に自分の頬をすり寄せる。
それだって、いつも通りのことだったのだが、それでもお袋は呆れたようなため息を残して、寝室を出て行った。
朝飯の支度でもするつもりなんだろう。
「でもね、」
と兄ちゃんが言ったのは、もしかすると既にお袋と親父の仲が険悪になってきているのを感じ取っていたからかもしれない。
「兄弟でも、ずっと一緒にいられるとは、限らないんだよ」
「…にいちゃん……?」
なんでそんな悲しいことを言うんだと泣きだしそうになる俺を兄ちゃんは優しく撫でながら、
「側にはいられなくても、僕はずっと好きだよ。ずっと一緒にいられるようにしたいって、思ってるよ。だから、何があっても、泣かないでね。泣かれると…どうしたらいいのか分からなくなって、困っちゃうから…」
「や、だ…」
ぎゅっと兄ちゃんにしがみつく。
「いっしょにいる。ずっと、いっしょじゃ、なきゃ、やだぁ…!」
「だから、泣かないでってば…。本当にそうなるかなんて分からないんだし、……きっといつか、僕よりも好きな人だって、出来るんだろうし…」
「いらない…っ」
言いながら俺は兄ちゃんの肩に涙をすりつけた。
「にいちゃんがいい! にいちゃんじゃ、なきゃ、いやだ…!」
「……ありがと」
「どう、したら、いい…?」
「…え?」
「どうしたら、にいちゃんといっしょに、いれるの…?」
「……」
黙り込んでしまった兄ちゃんを見つめながら、俺は必死に考える。
それくらい、兄ちゃんと一緒にいたかった。
離れたくなんかなかった。
「……わかった!」
と俺は声を上げた。
「何が…?」
びっくりした様子の兄ちゃんに、満面の笑みを向けて、
「おれ、にいちゃんとけっこんする!」
「……え、ええぇ!?」
珍しくそう叫んだ兄ちゃんに、俺はとくとくと説明した。
「ようちえんで、だれか言ってたんだ。けっこんしたら、ずっといっしょにいれるんだって。だからおれ、にいちゃんとけっこんする!」
「……じゃあ、聞くけど、結婚って何か分かってる?」
「…分かんない。でも、にいちゃんといっしょにいられるならいい」
困ったなぁ、なんてことを口の中で呟きながらも兄ちゃんは笑っていた。
「そんなに、一緒にいたいの?」
「うん! …にいちゃんは、ちがうのか?」
「違わないよ。僕も、おんなじに思ってる」
そう言って兄ちゃんは内緒話のように声を潜め、
「大きくなったら、僕のお嫁さんになる?」
と囁いた。
「なるっ!」
俺がはっきり答えると、兄ちゃんは、
「ははっ」
と笑って、照れくさそうに呟いた。
「嬉しいね」
「おれも、うれしい」
だってこれで、兄ちゃんとずっと一緒にいられるんだろ?
「…そうだね…」
「にいちゃん、大好き」
そう言って、俺は兄ちゃんの頬、自分のサインの上にキスをした。
「僕も、大好きだよ」
と言った兄ちゃんは俺の頬にキスを返そうとして、動きを止めた。
「…にいちゃん?」
くすぐったいけど大好きな感触を待っていた俺は、それがなかなか与えられないことに焦れてそう呼んだのだが、兄ちゃんは悪戯でもする時のように辺りを見回し、小声で俺に確認した。
「お母さんにもお父さんにも内緒に出来る?」
「できるよ。おれ、にいちゃんとだけのひみつなら、守れるもん」
「そう。いいこだね」
と笑いながら、兄ちゃんは軽く息を詰めて、唇を近づけた。
それが触れたのは俺の頬ではなく唇で、いつもと違う感じにくすぐったさを感じた。
「にいちゃん、やくそく、だからな? おっきくなったら、にいちゃんのおよめさんにしてくれよ?」
「うん、約束するよ」
そう微笑んだ唇に、今度は俺からキスをした。


唇に触れる感触で目を覚ました俺は、
「おはよう」
なんていつものことながら美形ボイスで囁いた兄ちゃんに、小さく呟いた。
「変な夢見た……」
「変な夢ってどんな夢?」
俺がまた例の悪夢にうなされたのかもしれないとでも思ったのか、心配そうに聞いてくる兄ちゃんに、俺は確認する。
「…なあ、俺、兄ちゃんの頬に落書きなんてしたことあるか?」
「落書き?」
と首を傾げた兄ちゃんは、少しして、にやりと笑い、
「忘れてたの?」
「……ってことは、本当にやってたのか…!?」
「落書きじゃない、ってのがキョンの主張だったけどね」
くすくすと笑った兄ちゃんは、
「本当にキョンは忘れっぽいなぁ」
なんて言って、俺の喉をくすぐった。
くすぐったいぞ。
「その時の夢を見たの?」
「…まあ、そんなところだ」
「ふぅん……」
呟いて、兄ちゃんはまじまじと俺を見つめた。
「…顔、真っ赤だけど」
それは恥ずかしすぎる夢が悪いんであって、俺は悪くない。
「そういうことにしておいてもいいけど、…ねえ、キョン、もしかして思い出した? 僕のお嫁さんになるってダダこねたの」
「だ…っ!?」
なんだそれは!
そんなのは夢でも見てないぞ!?
「あれ? 違った? そういう夢でも見たのかと思ったんだけど」
と言った兄ちゃんが語ったところによると、兄ちゃんが幼稚園の頃に仲良くなった女の子が家に遊びに来た時に、兄ちゃんに向かって、
「大人になったら、あたしのこと、いつきくんのおよめさんにしてくれる?」
と言ったのだそうだ。
それに兄ちゃんが返事をするより早く、側で積み木遊びに興じていたはずの俺がいきなり振り向き、
「にいちゃんはおれのだもん! おれのにいちゃん、とっちゃやだぁ!」
とわんわん泣きだし、ついでに、
「おっきくなったらにいちゃんのおよめさんになる…っ!」
とダダをこねたのだという。
男同士はだめなんだよ、と兄ちゃんも兄ちゃんの女友達も言ったらしいのだが俺は聞かず、延々泣き喚いたので仕方なく、
「じゃあ、約束ね」
と結婚の約束をしてやると、俺にキスまで強引にされちまい、女友達には振られたらしい。
憤死するかと思いながらそんな話を聞いた俺は、
「それは……あー…なんというか……すまん?」
と言ったのだが、兄ちゃんはへらへらと、
「別によかったけどね。好きな女の子でもなかったし。それに、仕方なく約束をする、っていうよりは困ったフリをして、仕方ないって顔をして、って感じだったなぁ。キョンが可愛くてしょうがなかったんだよ」
なんて目を細める兄ちゃんの顔は本当に締まりがない。
「うん、あの頃からキョンは本当に可愛かったな。泣いてても、ダダをこねても可愛いって、凄いよね」
…それは兄ちゃんの目に何か間違ったフィルターが掛かってたからじゃないのかと言ってやるべきか否か。
ともあれ、俺は深い深いため息を吐いた。
夢の自分にも過去の自分にも、ついでに言うと目の前の兄ちゃんにも。