放課後、閉鎖空間が発生している気配をひしひしと感じながら、僕は部室に向かっていた。 急用が入ったので、と欠席を告げようとしたところ、涼宮さんから返ってきたメールには、 『あたしも古泉くんに用があるの。悪いけど、こっちを優先させてちょうだい』 と、彼女にしては珍しく、傍若無人な――と言ったらキョンにはいつものことだろと笑われるんだろうか。でも僕にとっては珍しいことなのだ――言葉が書かれていた。 キョンが何かしたんだろうなと察しがついたのは、先日の計画のことが頭にあったからだ。 少し意識するだけでも苛立たしさが募る計画に、眉をしかめそうになるのを堪えつつ、僕は部室棟に入った。 階段を上り始めたところで、上から誰かが下りてきた、と思うとそれはゆきりんと朝比奈さんで、 「どうしたんですか?」 と僕が問うと、朝比奈さんは困った様子で、 「涼宮さんが、大事な話があるからって……」 「…追い出されたんですか?」 彼女がそこまでするなんて相当だな。 思わず胸の内で独り言つと、ゆきりんが小声で、 「余裕ぶってないでさっさと行ったら? 勿論、それ相応の覚悟は決めた上でね!」 と僕に忠言をくれたが、そんなことは今更言われるまでもない。 「言われるまでもないね」 「だったらいいんだけど、」 にこっと笑ったゆきりんは、 「いっちゃん、いい顔してるよっ。その調子なら大丈夫だね!」 と言ってくれた。 朝比奈さんも優しく微笑みながら、 「なんだかよく分からないですけど、頑張ってくださいね。キョンくんのためにも」 「ええ」 二人に勇気付けられた僕は、これ以上涼宮さんを待たせないようにと急ぎ足で階段を駆け上り、部室の前に立った。 乱れた呼吸を整えながらも、心臓は静かだった。 もっと緊張したっていいはずだったけれど、不思議とそれはなかった。 キョンがとんでもないことをしていたとしても大丈夫だと、どこか確信めいたものを感じていたのは、僕が超能力者だからなんだろうか? 僕は落ち着いた気持ちでドアをノックした。 「どうぞ」 返ってきた涼宮さんの声も、閉鎖空間が発生しているにしては静かだった。 勿論、いくらか苛立ちも含んではいる。 それでも、一時に比べたらずっと大人しいものだった。 彼女も怒りを自制する術を覚えたということなのだろうか。 「失礼します」 一声かけてドアを開くと、部室の窓辺に立ち、じっと外を見ている彼女がいた。 「鍵、掛けてくれる? 誰にも邪魔されたくないの」 「分かりました」 これはいよいよ深刻な話らしい。 キョンは一体どんな話をしたんだろう。 そして涼宮さんはこれから一体どんな話をするつもりなのだろう。 カチャリと鍵を掛ける音が部屋の中に響いてやっと、涼宮さんは僕の方を振り向いた。 泣いてはいないし笑ってもいない。 怒りというよりもむしろ義憤らしきものをその強い瞳に宿して僕を見据えた彼女は、 「キョンと付き合ってるんでしょ?」 と恐ろしく簡潔に聞いてきた。 一瞬息を呑んだ僕だったが、それでもそんな風にばれてしまうことも、予想の範疇ではあった。 キョンのことだから、うまくアプローチすることが出来るなんてことはあまり可能性が高くはないように思えたし、何よりキョン自身が本気で隠そうとする気がなかったように見えていたから。 その点については、森さんに感謝すべきだろうか、と思いながら僕は頷いた。 「ええ。…彼からお聞きになったんですか?」 「そんなところよ。キョンが古泉くんのことを好きだって言ったってことはつまり、片思いなんて段階はとっくに過ぎてて、もう付き合ってるんだと思ったの」 と言った彼女は僕が言い逃れをしたりすることを許さないと言わんばかりに僕に顔を近づけ、きりりと僕を睨みつけると、 「それで、本気なんでしょうね?」 「当然です」 反射的にそう答えて、一瞬まずったかと思ったのは、「古泉一樹」というキャラクターとしては、少々、はっきりしすぎた返答になってしまったからだった。 しかし、結果的にはよかったらしい。 涼宮さんはほっとしたように笑って、 「本当なのね?」 と幾分柔らかな調子で再び問うた。 「ええ。――僕は彼が好きです。彼も僕のことを愛してくださっていると、信じてます」 「それならいいのよ」 満足気に笑った彼女は、それでもすぐに厳しい表情に戻ると、 「でも、それならもっと堂々と付き合ったら? こそこそ隠したりするほど恥ずかしいことだとでも思ってるの?」 「現在の日本社会において同性愛者というのは複雑な立場におかれていますから、堂々としていられる人間は少ないと思いますが、我々の場合は少々困った問題がありまして、ひた隠しにするしかなかったんです。…その事情については、申し訳ありませんが説明し難いのですが」 「古泉くんの事情ってこと?」 「ええ。…そのために、彼には余計に辛い思いをさせてしまって、本当に申し訳なく思っているんです」 本当に、何度僕の都合でキョンを悲しませ、苦しませてきただろう。 兄弟であるとか、男同士であるとか言うよりも僕側の事情の方がよっぽど障害であるように思えてくるほどだ。 「キョンを不安にさせたりしてるって自覚はあるわけね」 「ええ…」 思わず俯いてしまった僕の耳に、涼宮さんはとんでもないことを言った。 「古泉くんがそうやって自信なさげにしているのもいけないんじゃないの? うかうかしてると、キョンのお兄さんにキョンを取られたって知らないんだから」 「え」 何でそこにそんな話が出てくるんだろうかと思わず声を上げた僕に、涼宮さんは僕が単純に驚いただけだと思ったらしく、にやりと意地悪く笑うと、 「知らないの? キョンには子供のうちに生き別れたお兄さんがいるんですって。時々その思い出話とか聞かせてもらってたんだけど、それだけでも分かるくらい、キョンってブラコンなのよね。だから、もしお兄さんと再会なんてしたら、キョンを取られちゃうかもしれないわよ? 案外、古泉くんのことを好きになったのも、お兄さんと重ねてのことだったりして」 僕の危機感を煽ろうとしてだろう、口にされた言葉はしかし、僕にとっては照れくさく、嬉しいものだった。 キョンが涼宮さんに僕の話を。 それも、こんな風に言われるようなことを話していたなんて。 それだけで嬉しくて、くすぐったくて、キョンへの愛しさが余計に募っていくのが分かる。 本当に、可愛くて、愛おしくて堪らない。 同時に僕は、涼宮さんを驚かせたくなったのかもしれない。 あるいは、いつそれを口にしてしまおうかと機会をうかがっていたのだろうか。 とにかく僕は、言ってしまったのだ。 「…その兄というのは、実は――僕なんです」 と。 涼宮さんの目が大きく見開かれる。 口も、大きく開かれる。 見えないはずの声帯の震えさえ、スローモーションで見えたように思えた。 「――はぁ!?」 信じられない、という言葉を的確に音で表したらこうなるのだろうというような声を上げた涼宮さんに、僕は苦笑して、 「僕のことなんですよ。キョンにはずっと言えずにいて、キョンは今も知りませんが」 「で、でも、キョンのお兄さんなら年上なんじゃ…」 「中学生の頃に事故に遭いまして、大怪我で入院してしまったので、一年留年してしまっているんです。ですから、本当は一学年上なんですよ」 それはもしも何かあって本当は年上であることがばれてしまった時のために用意していた嘘だ。 書類も何もかも揃っていて、真実そうであったかのようになっているから安心して口に出来た。 あるいはそれが真実なのかもしれないとさえ思えるほどすんなりと。 僕が涼宮さんに対して嘘を吐き続けてきたからでなく、おそらく、これまでの嘘と比べてずっと本当に近く、誰も傷つけなくて済む嘘だからだろう。 「キョンのバカ…。あんなに大好きなお兄さんなのに、気付かなかったの…?」 呆れたように言う涼宮さんだったが、すぐに気を取り直した様子で、 「でも、無意識で気付いてたから古泉くんを好きになったのかもしれないわね」 と言った。 それは僕への優しさなんだろうか。 だとしたら光栄で、嬉しいことだと思いながら、僕は笑って頷き、 「そうかもしれませんね。――それで、涼宮さんはどう思いますか?」 同性で、しかも間違いなく同じ血を引いた兄弟で。 それでも、公然と付き合っていいと思いますか。 そう問いながら、僕はやっと自分の心臓がいつも以上に激しく脈打っていることに気が付いた。 まるで審判台の上に乗っているような気分になりながら胸を抑え、涼宮さんの言葉を待つ。 涼宮さんは軽く眉を寄せながら、 「いいってのは何なの? 付き合ったりするのに誰かの許可がいるわけないでしょ?」 僕たちの場合はあなたの承認が必要だったんですよ。 そんなことを思いながらも口にはせず、ほっと胸を撫で下ろしながら僕は笑って答えた。 「そうですね。……我々はSOS団の団員ですから、団長の許可を、とも少々思うのですが」 「別にそんな規定を作った覚えはないわよ」 と彼女は笑いながら、 「好きなら付き合えばいいし、そうしたいなら押し倒しちゃえばいいんだわ」 「それはまた…過激ですね」 「そう? ……キョンにも言ったけど、付き合ってるならデートとかもしたいでしょ? これまでは我慢してたのかもしれないけど、これからは我慢しなくていいから、二人きりで過ごしたかったら休んでもいいわよ。勿論、来てくれた方が嬉しいけど」 「ありがとうございます」 きっと、僕もキョンも喜び勇んでやってくるに決まっている。 それくらい、ここで過ごす時間は楽しくて、暖かなものだから。 それに、いつまでもここで過ごせるわけじゃないことくらい、僕もキョンも分かってる。 だからきっと、涼宮さんが呆れるくらい、これまでと変わらず通い詰めるだろう。 「納得出来た?」 「はい、僕は。……涼宮さんはどうです?」 「あたしもいいわ。古泉くんが本気だってことも分かったし」 だから、と彼女は僕の肩を叩くと、 「キョンを幸せにしなさいよ? あたしの大事な団員その一を泣かせたりしたら、いくら大事な副団長でも容赦しないんだから!」 と晴れやかに言った。 「ええ」 と僕も最大限の笑顔――勿論、作り笑いなんかじゃない――で答え、 「ありがとうございます」 「あたしにお礼なんて言ってる暇があるんだったら、さっさとキョンのところに行ってあげなさい。…キョンに、さっきは言いすぎたかもって伝えて欲しいけど、それを頼むのは流石に虫が良すぎるわよね?」 「そうは思いませんが……きっと、ご自分でおっしゃった方がいいですよ」 「…そうね」 かつてだったら決して見せなかっただろう殊勝な態度を見せながら、彼女はそう頷き、 「じゃあ、また明日ね」 と僕を部室から追い出した。 閉鎖空間が急速に収束して行くのを感じながら、僕は階段を駆け下りる。 来た時以上のスピードで。 そのままキョンの家まで走り続けた。 途中、メールで一方的に、作戦の失敗と涼宮さんに言われた言葉を機関へ伝えたりしながらも、速度は緩めなかった。 玄関チャイムを鳴らすのももどかしく、玄関を開けると、 「すみません、お邪魔します!」 と声を掛ければ、家の奥から母さんが顔を出し、 「どうかしたの? 確か、キョンと一緒の部活動の――」 「古泉です。すみません、彼に用事がありまして、」 言いながら勝手に上がりこみ、階段を駆け上がる。 久しぶりにまともに顔を合わせた母さんに感慨を覚える余裕もなく、キョンの部屋の前に立つ。 そうして呼吸を整える。 キョンを驚かせないようにと。 それでも、長いことそうしていられる余裕はなかった。 僕はドアを開き、 「キョン」 と呼びながら体を部屋の中に滑り込ませ、ドアを閉じる。 ベッドから半身を起こしたキョンの、驚きとしか言いようのない表情に思わず笑ってしまいながら、僕は一体どう話を始めようかと考えをめぐらせた。 |