祝事



俺とハルヒの間に突如勃発した大戦争はあちこちに噂として伝播したらしい。
それもどうやら言い争う言葉の中に「デート」だの「SOS団の活動」だの「付き合う」だのといった言葉が入っていたせいで、すっかり誤解を招く形になったようだった。
全く、人の話に聞き耳を立てるならちゃんと端から端まで聞いてくれ。
そうしたら、「古泉」だの「同性愛」だのと言った聞かれちゃまずいような単語が混ざっていたことにも気が付いただろうに。
それとも、人間というのは意外と自分の中の常識で物事を計るという話だから、聞いてた奴の常識としてはそれこそ同性愛なんて有り得ないものだったということなんだろうか。
何にせよ、いい加減な噂のおかげで谷口には、
「お前結局涼宮と付き合うのかよ!」
と頭を叩かれ――苛立ちに任せて倍返しにしたことは言うまでもない――、国木田には、
「大変そうだけど頑張ってね」
とある意味当を得た応援を受けた。
他にもあれこれ嫉視だかなんだか分からない視線を受けたが、今の俺はそんなものを弾き返すくらい、あからさまな苛立ちのオーラでも背負っていたらしく、谷口と国木田くらいしか声を掛けてくるものはなかった。
しかしながら、そんな視線さえ大して気にならなかったのは単純に、俺が苛立っていたからに相違ない。
ハルヒと派手に言い争った以上、部室にも顔は出したくなかったので、さっさと帰り道を下り始めても、まだ苛立ちは収まらなかった。
今頃閉鎖空間が――それも下手すりゃかなり大規模なものが――発生しているだろうことを思うと、兄ちゃんには悪いと思う。
それでも止められないものがあったのだ。
大体、と俺は腹の中だけで吐き出す。
同性愛のリスクくらい、少し考えればあいつにだって分かるだろうに、何で分かろうとしないんだ。
その上、俺と兄ちゃんは兄弟で、ってこれはあいつは知らないんだったな。
それなら仕方ないのか?
……いや、それでもだ。
同性愛って時点で余りにもリスキーだろ。
だから俺はあんなにも思い悩み、随分と苦しい思いもしたっていうのに、それをバカと言われた上、
「堂々としてればいいのよ」
なんて軽々しく言われて、はいそうですかと頷けるか。
それになんで、二人きりでデートをしないってことをあいつに責められねばならんのだ。
それこそ、あいつには関係ないだろう。
俺だって、出来ることなら兄ちゃんと二人きりでデートくらいしたいとも。
堂々と手を繋いで歩きたい。
兄ちゃんは俺のなんだと主張してやりたい。
兄ちゃんが女の子に呼び出されたり、可愛らしい封筒を受け取ったりするたびに、腹の中がもやもやするどころか、原子力発電所よろしく延々燃え上がり続けそうになる嫉妬心を、理不尽にも兄ちゃんにぶつけてしまったりしないよう、俺がどんなに苦労して押さえ込んでると思っているんだ。
そう出来るのは兄ちゃんが俺だけにしか見せない顔があると分かっているからで、そうでもなかったら押さえ込めないだろう。
嫉妬心と独占欲の強さくらいは俺もちゃんと自覚しているんだ。
だからこそ、それをしなくていいと言われても腹が立つばかりだった。
少し考えれば、ハルヒにあそこまで言われた以上、開き直ってやってもいいのかもしれない。
だが、たとえハルヒが認めたところで両親や妹が後ろ指を指されたり、あるいは家族に縁を切られたりする可能性がある以上、オープンにできるはずなどない。
それこそ世界が改変されたり、社会情勢が変化しないことには、隠し続けるしかない関係なんだ。
少なくとも今のこの国で、同性愛というのは軽いもんじゃない。
だから、と俺は耐えられている。
……もし、そうでなかったら、と思うと怖いのはやっぱり、自分の強すぎる嫉妬心と独占欲だ。
誰にも隠さなくていいとしたら、堂々と、兄ちゃんが好きなんだと言ってよくなったりしたら、俺はきっと兄ちゃんにも嫌われてしまいそうなくらい、みっともなく嫉妬を丸出しにして、兄ちゃんを束縛してしまうだろう。
そんなのは、嫌だ。
たとえ兄ちゃんが俺を嫌いになったりしないと約束してくれたとしても、見せたくない。
だからいっそ、今のままの方がいい。
あるいは、ハルヒにもあんな風に言っちまわない方がよかったのかもしれないとさえ、思った。
自分が落ち込んでいるのか怒っているのかも分からなくなりながら、俺は自転車を飛ばして自分の家に帰ると、お袋にも何も声を掛けず、自室に駆け上がった。
荷物を床に放り出した後は、飛び込むようにベッドに寝転がり、枕に情けない顔を押し付けた。
いつもなら、兄ちゃんの部屋に逃げ込むところだが、今日はとてもじゃないがそんなことは出来なかった。
兄ちゃんの仕事を減らすどころか増やしておいてそんな風に自分勝手に甘えてしまうのは、余りにも虫が良すぎるだろう。
兄ちゃんと顔を合わせるのもしばらく控えた方がいいかも知れない。
そう判断しながらも、寂しくて切なくてならなかった。
じわりと滲みそうになるものをないことにして、俺は目を閉じた。
今頃兄ちゃんが閉鎖空間で戦っているのかもしれないと思うと、罪悪感で胸が重くなる。
俺は届けばいいと思いながら、
「…ごめんな、兄ちゃん……」
とそっと呟いた声は、それこそどうしようもなく情けないものになっていたから、兄ちゃんに届かなくて良かったのかもしれない。
眠ることも出来ず、かと言って何かする気にもなれなくて、俺はそのままベッドに突っ伏していたのだが、ふと人が来た気配を感じて顔を上げた。
玄関先でお袋と話す声が聞こえる。
すぐに聞こえてきたのは階段を急いで上がってくる足音で、その足音には非常に聞き覚えがあった。
まさか、と思いながらも胸が高鳴る。
同時に怯えにも似た感情が募り、この場から逃げ出したくなった。
しかし、俺が体を起こすよりも早く部屋のドアが開き、
「キョン」
と兄ちゃんの声がした。
俺は耳を疑った。
キョンと呼ぶということは「古泉」ではなく兄ちゃんなのだろう。
兄ちゃんが兄ちゃんとして家に来た。
それもお袋が家にいる時に。
そんなことはこれまでになかったことで、俺は驚きながら、
「…兄ちゃんで、いいのか?」
と尋ねたのだが、兄ちゃんは困ったように笑いながら、
「うん。いいんだ」
と答えて、ベッドに腰を下ろした。
俺はベッドの上で胡坐をかき、兄ちゃんを見た。
「どう…したんだ?」
「ちょっとね、」
兄ちゃんは笑みを少しばかり引っ込めると、
「…涼宮さんと付き合うって話は、もうナシになったよ」
それはあれか。
俺が失敗したらしいからか?
「違うよ」
と兄ちゃんは笑い、
「涼宮さんの意に沿うってことが、変わったんだよ」
「変わった?」
「そう。涼宮さんの望みはとても難しいことなんだけどね、僕としては前に機関に言われたことよりも遥かにいいことだったんだ」
嬉しそうに言った兄ちゃんが俺を抱きしめる。
「――キョンを幸せにすること。それが、涼宮さんの望みなんだ」
「な……」
唖然とする俺の耳元でくすくすと笑いながら、
「涼宮さんに、キョンが好きなら堂々と好きだといえばいいし、そうしたいなら押し倒したっていいって、怒られちゃったよ」
「はぁ!?」
なんだそりゃ。
そしてハルヒは俺が古泉を好きだと言ったからそう言ったのか?
だとしたら少々強引と言うか、短絡的じゃないのか?
まさか、とっくの昔にお見通しだったとかじゃないだろうな?
しかし俺の希望は見事に打ち砕かれたらしい。
兄ちゃんは楽しげに笑いながら、
「やっぱり涼宮さんはキョンのことをよく見てるし、よく分かってるよね。もしかすると、僕よりもよっぽど理解してるかもしれない」
と独り言のように呟いたかと思うと、
「付き合うならこそこそしたりせず、堂々と付き合えってさ。キョンがあんなことを言うってことはもう付き合ってるんだと思ったって、そこまでお見通しだったよ」
なんてこった。
一体いつ気付かれたんだ?
今日のあれでならまだいいが、それ以前だとしたら俺は一体どこでへまをやらかしたことになるんだ。
自らの行動を反省したいような気にもなりながら、俺はその前に兄ちゃんに尋ねた。
「…それで、どう、答えたんだ……?」
「正直に言ったよ」
事も無げに、兄ちゃんはそう言った。
「正直に、って……」
「兄弟なんだってことも、伝えた」
「う、嘘だろ…!?」
そんなこと、言えるはずがない。
これは俺の夢か何かなのか?
狼狽する俺の内心を見透かしたように、兄ちゃんは申し訳なさそうに言い足した。
「いくらか嘘も吐かせてもらったけどね。キョンには兄弟なんだってことを伝えてないとか、本当は年上なのに同学年なのは、怪我が原因で一年留年したせいだとかって」
「なんで…そこまで……。兄弟だってことくらい、隠しててもよかったんじゃ……」
「まあ、色々あってね」
軽く苦笑した兄ちゃんは、
「それに……僕ももう、涼宮さんに嘘ばかり吐くことに疲れたんだ。本当に隠さなきゃならないことがあるから、何もかも本当のことを言うわけにはいかないけど、それでも、隠さなくていいこともあるんだったら、それだけでも伝えておきたいと思ったんだよ。…どちらにしろ、嘘には違いはないんだけどね」
申し訳なさそうに言った兄ちゃんに、俺は首を振り、
「嘘ってことは同じとしても、全然違うだろ」
「だと嬉しいな。……でも僕は、本当は逃げたかっただけなのかもしれないよ? 自分で判断するのが怖くて、だから涼宮さんに判定を委ねただけかもしれない」
「それでもだ」
「…ありがと、キョン」
兄ちゃんは俺を抱きしめると、
「涼宮さんは認めてくれたよ。だからこれで……ようやく、他の同性愛者と同じラインに立てたってことには、ならないかな」
そう、なるんだろうか。
確かにこれで、俺たちにとっての障害は世間だとか家族だとか、つまりは他のゲイなんかと同じものだけになった。
そこに機関もハルヒも世界も関係ない。
「だから、キョン、」
兄ちゃんは俺の頭を優しく撫でながら言った。
「どうしたい? 僕はキョンのしたいようにするよ? 家族にカミングアウトしてしまったっていい。それとも、涼宮さんが言うように、隠したりせず、学校でも外でも、堂々と付き合おうか」
「そんなこと、して、いいのか…?」
兄ちゃんは嫌じゃないのかと問えば、兄ちゃんは軽く俺を睨みながら、
「全く、僕を何だと思ってるんだよ。キョンと付き合うことを僕が恥じるとでも? それとも、後ろ指指されたりするのを嫌がるとでも思ってるのかな? だとしたら、文句くらい言ってもいいと思うんだけど」
「う、…すまん」
「それ、思ってたってこと?」
酷いなぁ、なんて笑いながら、兄ちゃんは俺の鼻先に軽く噛み付くと、
「キョンが白眼視されたくないなら、隠したままでいいし、それ以上に堂々と付き合いたいと思うならそうしたい。僕は、どちらだっていいと思うんだ。……キョンだって、そう思ってくれてるってこと、だろ?」
「…そう、だ」
「僕も同じなんだよ。だから、キョンが選んで。…これまで、僕の都合で振り回してばかりだったからね」
そう言われて、俺は戸惑った。
どうしようもなく嬉しいことは言うまでもない。
しかし同時に、これまでにはなかったようないきなり選択肢と選択権を与えられ、怖いくらいに思った。
本当に選んでいいのか。
選んだ結果、失敗したらどうなるのか。
ぐるぐると考えながら、俺は暫定的にと念を押して言った。
「…家族とか、友達に言うのは、まだやめといた方がいいだろ? 俺はまだ扶養されてる身なんだし、妹なんかまで一緒に白い目で見られるのは嫌なんだ。……けど、兄ちゃんと堂々と付き合ってたいとも、その、思う…から、せめて………SOS団では、俺たちのことを知ってる人間しか、いないところでは……恋人で、いたい…」
言っているうちに、段々声が小さくなってしまったが、兄ちゃんにはちゃんと聞こえたらしい。
優しく微笑むと、
「分かったよ。そうしよう。…いつか、堂々と付き合える日が来るって信じて、ね」
と俺にキスをした。
嬉しさや不安がないまぜになったもので胸をいっぱいにしながら、俺はそっと誓った。
明日ハルヒに会ったらすぐに謝ろう。
それから、礼も言おう。
それと一緒に、お前は俺の一番の親友だと恥ずかしいことを伝えたら、あいつは一体どんな顔をするんだろうと思った。
俺は兄ちゃんにキスを返しながら、
「…兄ちゃんが兄ちゃんなんだってこと、お袋にももう言っていいんだよな?」
「キョンがそうしたいなら」
「したいに決まってるだろ」
お袋だって、兄ちゃんのことを忘れちゃいないはずだ。
兄ちゃんも、お袋にちゃんと息子として顔を合わせたかったんじゃないのか?
「それは……そうだけどさ。母さんには母さんの、今の生活があるんだし、それなら今更僕が出てきて掻き乱すことはないんじゃないかなとも…思うんだけど……」
自信なさげに言った兄ちゃんに、俺は太鼓判を押す。
「大丈夫だ。大体、兄ちゃんを置いてあの家を出たのだって、あの野郎が一人は置いてけって言ったからだったんだろ?」
「そうだけど……」
「それなら、お袋は会いたいと思ってるはずだ。……それとも……そんなに嫌か?」
「嫌じゃないよ。だからそんな顔しないで」
優しく微笑んだ兄ちゃんは、
「キョンの言う通りだって分かってるよ。だから…そうだね。母さんがひとりでいる時に、きちんと顔を合わせて、僕から言いたいんだ。……今、妹さんは帰ってきてるのかな?」
親父も妹もまだだろう。
「なら、」
と兄ちゃんは体を離し、
「…行ってみようか?」
「そうだな」
こういうことはぐだぐだと思い悩まず、思い立った時にやってしまった方がいい。
俺は兄ちゃんの手を引いて部屋を出た。
これからは外でも兄ちゃんをそうと呼べるのかもしれないと思うと、嬉しくて堪らなかった。
その後のことはくどくどと言うまでもない。
俺のお袋はやっぱり俺のお袋であり、兄ちゃんの母親だってことで、説明は十分だろう?