綺麗事



兄ちゃんと、少しばかりとさえ言えないほど嫌で、胸苦しくなるような約束をした次の日、俺は兄ちゃんの部屋で森さんと会っていた。
森さんに会うのは久し振りだし、前に会った時も兄ちゃんの弟として兄ちゃんの上司に会うというつもりであったわけではなかったから、はっきりしたことは言いがたいのだが、今日の森さんはどこか申し訳なさそうな、暗い表情をしているように見えた。
兄ちゃんの部屋で、三人頭を付き合わせたまま、誰も口を開けない重苦しい空気が満ちていたが、一番に口を開いたのは森さんだった。
少しテーブルから離れ、俺の方へ向き直ると、
「すみません」
と、そのまま頭を下げたのだ。
「森さん…!?」
驚いたのは俺だけじゃない。
兄ちゃんも驚きに目を見開き、森さんを見ていた。
森さんは頭を下げたまま、
「あなたまで巻き込むことになってしまって、すみません」
「そんな……」
戸惑いながらも俺は、
「そう言ってくださるということは、森さんは反対してくれたってことでしょう? 気にしないでください」
多分それは間違いないことだ。
兄ちゃんも、言っていた。
森さんが最後まで一緒になって反対してくれて、上にも考え直すよう何度も言ってくれたと。
「私の力が及ばなかったばかりに、古泉との約束も破ることになってしまいました」
そう悲しげに目を伏せた森さんではなく兄ちゃんを、俺は見つめた。
約束というのはどういうことだ、と。
「……約束してもらってたんだよ。涼宮さんにキョンが選ばれたことも、キョンが僕の弟だということも分かってて、北高に行くってことになった時にね。血縁関係を利用しないでほしいって」
道理で、と俺は口の中で呟いた。
考えてみれば、これまでに機関が俺を利用しようとしなかったことの方が不思議だったからな。
宇宙人や未来人と比べて先んじて俺に働きかえられるはずの利点を利用していなかったのは、不自然だった。
しかし、兄ちゃんがそう約束して、機関がそれを了解していたのも不思議な気がした。
それについて尋ねると、兄ちゃんは小さく笑って、
「僕だって、一応数少ない貴重な超能力者の一人だからね。ストライキをしてやるぞって脅させてもらったんだ」
「ストライキって……」
と俺は呆れるしかない。
兄ちゃんがストライキをするということは、神人退治を放棄するということだろう。
それが世界の崩壊に繋がることは言うまでもない。
それなのに、そんな交換条件を出したのか。
唖然とする俺に、兄ちゃんは苦笑しながら、
「勿論、危機的状況になったら放ってなんておけなかっただろうけど、あまり規模の大きくない閉鎖空間を二、三度放置したら、言うことを聞いてもらえたよ。なかなかいい交換条件だったな」
「そんな無茶したのか?」
俺が思わず咎めるような声を上げたからだろう。
「だって、」
と兄ちゃんは軽く唇を尖らせて、
「それくらいの希望は言ったっていいだろ。そんな風にしてキョンを巻き込んだり、自分の立場を利用したりしたくなかったんだよ」
「そうかも知れないけどな……」
「何かいけなかったかな?」
大変だろうに世界を守り続ける兄ちゃんは凄いと純粋に思っていた俺の尊敬の念を返せ。
――とも流石に言いかねて、俺はため息を吐きながら森さんへと視線を戻した。
森さんは諦観したような表情で軽く首を振って見せると、兄ちゃんに向かって、
「本題に入っても構いませんか?」
とどこか凍てついたような声で言った。
そう感じられたのは俺だけではなかったようで、兄ちゃんはびくっとすくみ上がるようになりながら姿勢を正し、
「ど、どうぞ」
それ以前から察しはついていたが、この二人の力関係が明確に見えた気がした。
森さんは小さく息を吐いた後、
「今回の件は、先日、古泉が迂闊にも機関に乗り込んできて、訳の分からないことを言ってくれたことに端を発するわけですが――」
と非常にトゲのある言葉を放ち、
「…その前から、私は気がついていたんです」
「え」
と絶句したのは俺だけでなく、兄ちゃんもだった。
森さんは優しく微笑して、
「気付いてましたよ。古泉が苦しそうにしていたと思ったら、突然元気になりましたからね。それで、よく調べてみたら、どうやら弟さんと何かあったようだと気が付いたんです。先に気付くものがあって見たから分かっただけで、ほかの人は気付いていないとは思いますけど」
そんなにあからさまだったのか、と苦笑しながら兄ちゃんを見れば、兄ちゃんも困ったように笑っていた。
「私としては、」
と森さんは兄ちゃんを見つめながら、
「古泉にはあれこれ無理をしてもらってきましたから、プライベートな部分にまで口出しするのはよそうと思って、黙っていたんです」
「ありがとうございます」
俺はそう言って軽く頭を下げた。
「反対されたり、妨害されなかっただけでも嬉しいのに、見守ってもらえていたなんて、本当にありがたいですよ」
「いえ。私には大したことは出来ませんから」
それだけに、と森さんは表情を曇らせ、
「こんなことになってしまってすみません」
またそう言って謝るのへ、俺は慌てて、
「だから、もうそれはいいですって。な、兄ちゃん」
「そうだね」
と頷いた兄ちゃんは、
「…それより重要な話があるんでしょう?」
「ええ…」
森さんはまだ迷うようにしていたが、
「私共現場で実際に涼宮さんと関わることのあった人間は、大半がそうなのですが、」
と真剣な表情で話し始めた。
「あなた同様、私共も、疑っているんです。涼宮さんがあなたに対して抱いている感情が本当に恋愛感情なのかどうか、と」
それはそうだろう。
俺自身、それはないだろうと思っているんだからな。
欲目も自惚れも引いて客観的に見られる第三者がそう思うのは当然のことだ。
兄ちゃんも頷き、
「恋愛感情にしては近し過ぎるような気が、僕もしているんです。しかし、それをお偉方に言ったところで無駄なんでしょうね」
とため息を吐いた。
森さんは兄ちゃんの言葉に頷き返しながら、
「それなのに、こんなことをお願いするのは本当に申し訳ないのですが、涼宮さんにアプローチを図っていただけないでしょうか」
と俺に言った。
「アプローチと言われても……」
「やり方はお任せします。私共が考えるより、あなたの方がよっぽど涼宮さんのことを理解しておられるでしょうから」
それはそうかもしれないが、俺はそんなアプローチだのなんだのということを考えられるような人間じゃない。
兄ちゃんに告白した時もかなり破れかぶれだったくらいだからな。
どうしたものか、と考え込む前に、俺はふと思ったことを口にして見た。
「…意外と投槍みたいに思えるんですが……
「…気のせいです」
そう言って森さんは目をそらした。
どうやら、それは俺の勘違いでも思い違いでもなく、実際に森さんが気乗りしていないからのようだった。
それからいくらかハルヒに関する情報をもらったり、兄ちゃんの昔の話を聞かせてもらったりした後、帰る森さんを俺と兄ちゃんは玄関に立って見送った。
「ありがとうございました」
と言って。
しかし森さんはどこかしかめっ面のまま、
「お礼を言われるようなことはしていません。私の方こそ、すみません。それから…ありがとうございました」
と言い残して去っていった。
それにしても俺は、一体どうするべきなんだ?

昼休みが終り、腹いっぱいになった上に暖かく降り注ぐ日差しのせいで余計に眠気を誘われる午後の授業が始まり、俺はうつらうつらと舟をこいでいたのだが、思ったよりも早く授業が終わり、俺はいつまで経っても後ろの席に座っている傍若無人なクラスメイトに背中を小突かれた。
「なんだよ」
と振り返れば、ハルヒが退屈そうな顔をしていた。
「なんか面白い話でもないの?」
「だからお前は俺に何を期待してるんだ」
「あんたに大したことが出来るなんて思ってないわよ。だからせめて面白い話でもしてみせなさいって言ってんじゃない」
やれやれ、とため息を吐きながらも、そう大して嫌な気分でもない自分がいた。
こんな風にハルヒと雑談をするというのももはや日常と化しており、またそれが別に嫌なことでもないのだ。
すっかり馴染んでしまっているからあれこれ愚痴ったりもするし、正直、一番親しい友人かもしれない。
そんな風に俺とハルヒが親しくしているのを見ては、兄ちゃんはどうやら少々罪悪感を抱くらしいのだが、それは俺が兄ちゃんのためにわざわざそんなことをしているかもしれないと疑っているからのようだ。
実際にはそんなことはなく、俺がハルヒといて楽しいからそうしているだけなんだがな。
今日もまたぐだぐだと中身があるとも思えないような話をしていた。
ハルヒと話す時に留意すべき点があるとしたらそれは、余計なことを言って面倒な活動を増やすなということだろう。
それから、機嫌を損ねて閉鎖空間を発生させるなということくらいか。
それが守れれば、それほど気遣いはいらない。
だから俺は、ストレートに聞いてみたわけだ。
「お前、彼氏とかそういうのに興味ないのか?」
と。
以前のハルヒだったら恋愛関係の話題を匂わせるだけで即不機嫌になり、話題を打ち切っていたものだが、最近はそうでもないらしい。
一瞬驚きに大きく目を見開き、さながら朝比奈さんの如くぱちくりと目を瞬かせた後、にやりと笑った。
「何? あんた好きな人でも出来たの?」
そう返すのか。
「珍しくあんたがそんなこと言い出したんだから、当たり前でしょ」
そう笑ったハルヒに、俺は真剣な顔を作り、他の奴等に聞かれないようハルヒに顔を近づけた。
でかい目を覗きこむようにしながら、
「実はだな、」
「何よ」
「――お前が好きになったんだ」
我ながらうまく言えたと思ったし、実際結構心臓はバクバク言って顔も赤くなっていたと思うのだが、ハルヒには、
「……冗談なら、もっとそれらしく言ったら?」
呆れを含む、どころか呆れのみと言った方がいいような声と顔で言われちまった。
まあそうなるだろうな。
「もし万が一冗談じゃなくて、あんたの頭に虫が湧くかどうかしての発言でもなかったとしても、あんたみたいなブラコン、こっちから願い下げよ」
とハルヒが笑うのは、俺が雑談として、しょっちゅう兄ちゃんの昔の話とかをしていたせいだろう。
「だろうな」
と返した俺に、ハルヒはニタニタと某有名児童文学に出てくるやたらとにやける猫のような笑みを浮かべながら、
「で? なんでそんなこと言い出したわけ? 本当に好きになったのは、あたし以外の誰かなんでしょ?」
ハルヒの追及から逃れるのはまず不可能だ。
そして俺にはそうする気も大してなかった。
ハルヒに一応本気に見えるように努めながら告白をするという約束は果たしたつもりだからな。
機関からの指示に形式上は従ったことになる。
だからここから先は俺がどうしようが俺の勝手だろう。
大体、機関の推測がおそらく――どころかほぼ間違いなく――外れているんだからな。
ハルヒが俺を好きなんてことがあるわけがない。
こいつは俺を面白いおもちゃ程度に扱っていい、遠慮の要らない友人だと思っているんだろうさ。
友人なら、あれこれ余計な策をめぐらせたりせず、正直に言ってやるべきだろう。
ただでさえ、俺にはハルヒに言えないことが多すぎるんだからな。
「実は、古泉が好きなんだ」
と言ってもハルヒは大して驚かなかった。
俺が余りにもあっさりとし過ぎたのだろうか。
極普通に、
「へえ」
と一言言ったかと思うと、
「別にいいんじゃないの? あたし、そういうのには寛大よ。大体、ガチなゲイなんてそこら中にいるに決まってるんだから」
いつぞやもそんなことを言っていたな。
俺は苦笑しながら、
「お前も古泉も、恋愛とか興味なさそうだろ? お前とそういう話をすれば、うまいアプローチの仕方なりなんなりのヒントでも、少しくらいは分かるんじゃないかと思ってな」
「ああ、そういうこと」
そう一応の納得を見せたハルヒは、
「でも、あたしと古泉くんじゃタイプが違うでしょ。あたしに聞いたって参考にならないと思うわ。どうせなら、古泉くんと似たようなタイプの人に聞いたら?」
そんな人間に心当たりはないがな。
「…そうね。あたしもちょっと思いつかないわ。考えてみたら我がSOS団の副団長たる人間にそうそう類似した人間なんているわけないものね」
と例によってどこからそんな自信が湧くのかと聞きたくなるようなことを言い放ったハルヒだったが、
「それに多分……古泉くんもあんたが好きよ」
と笑いながら言った。
その笑みはバカにするようなものでも面白がるようなものでもなく、ひたすら祝福するようなもので、おそらく初めて見るものだった。
ハルヒでもこんな顔をするのかと冷静になるまでもなくかなり失礼なことを思い、本気で驚いていた俺を前に、ハルヒはふと憂鬱そうな顔つきになると、
「でも、あんたと古泉くんが付き合うことになったら、SOS団も寂しくなるわね」
「……なんでそうなるんだ?」
俺が本気でそう首を傾げると、ハルヒは怒ったように眉を跳ね上げた。
「だってそうでしょ。SOS団で活動してたら二人きりになれることなんて少なくなっちゃうだろうから。それとも、あんたはいいの? デートとかも出来ずにみんなと一緒で」
「別にいいぞ」
「はぁ!? あんたバカじゃないの!?」
なんでバカ呼ばわりされねばならんのだ。
「バカはバカだからよ!」
憤然とそう言い放ったハルヒは、
「あんたね、普通は恋人とふたりっきりでいたいって思うもんでしょ? それなのにみんな一緒でいいと思ってるの?」
思ってるから頷いたんだが。
「あんたは変わってるから、それでいいのかも知れないわよ。でも、相手のことも考えたら?」
「だから、付き合うなんてことになるとは限らないだろう。それに、誰が変わってるって?」
お前に言われるのは他の誰に言われるよりも心外に思えるぞ。
「あんたよ。あんたみたいな変な奴、知らないわ」
そう言い切って、ハルヒは俺を睨みつけ、
「とにかく、付き合ったらデートとかするもんでしょ。休日とかふたりきりになりたいとか思わないの?」
「そりゃ、思わないでもないが、」
「だったら、」
俺の発言を遮って、ハルヒは説教のように続けた。
「SOS団の活動に参加してるような時間なんて取れなくなるでしょ。違うの? それともあんたは好きな相手よりもSOS団を優先させるほど真面目な団員だったわけ? 違うでしょ」
「SOS団の活動を優先させたところでどうせ一緒にいるのにかわりはないだろうが。そもそも、ふたりきりになったところでデートなんて出来るか」
「どうしてよ」
「当然のことを聞くな」
苛立ちに任せて頭を軽くかきむしる。
頭が痛くなってきたぞ。
いくらゲイに寛大であっても、世間がそうでなく、普通人目を忍ぶものだということくらい、こいつにも分かるはずなのだが、まさかそんなことまで説明せねばならんのか?
「やっぱりあんたって本気でバカだわ」
ふんっと鼻息も荒くハルヒは言った。
「好きなら堂々としてなさいよ。世間なんてのはどこにもないのよ。世間ってのは要するに誰かの行動を抑制するためにだけ存在する詭弁のためのものでしかないんだから。『人間失格』でも有希に借りたら?」
「たとえ詭弁に過ぎないにしても、それで俺だけじゃなく家族や古泉が後ろ指を刺されたりするのは嫌なんだ」
ハルヒは俺を睨み、脳内で百以上の罵詈雑言を並べ立てている様子だったがその中からとっておきの一言をチョイスする前に始業を告げるチャイムが鳴った。
既に来ていた教師が教壇の定位置に立ち、起立と声が掛けられ、この場は救われた俺だったが、その授業が終るなり矢の如く降り注ぐ罵りにさらされることは目に見えていたので、授業などそっちのけで、理論武装を固めることにした。
結果、俺とハルヒの言い争いが口論を越えて大喧嘩にまで発展したことは言うまでもないことだった。