「今から、僕の部屋に来ていただけませんか?」 いつも通り古泉らしい表情を浮かべてそう言った兄ちゃんに、俺はなんとなく違和感を感じた。 どこがどうおかしいとはうまく言えないが、兄ちゃんが緊張しているような、あるいはどこか悲壮感めいたものを持っているような気がしたのだ。 だが、それを今この場で問うのは難しいだろう。 朝比奈さんと長門はともかく、ハルヒまで一緒の帰り道だ。 俺が兄ちゃんに問うように、古泉に問うのはおかしい。 だから俺は、 「別に構わんが……一体何の用だ?」 「少々ご相談したいことがありまして……いけませんでしょうか」 そう言いながら、兄ちゃんはまるで断ってほしいかのように見えた。 自分から言い出しておいてどうして、と戸惑いながら、俺は自分の好奇心を優先させることにし、 「分かった。行ってやる」 と答えた。 「ありがとうございます」 兄ちゃんはそう頭を下げたが、俺はどうにも釈然としなかった。 「古泉くん、何かあったの?」 ハルヒが心配そうに――ただしとてもそうは見えないようないつも通りの明るさを持った表情で――聞いてきた。 「いえ、大したことではないんです」 「キョンにしか相談できないことなのね?」 ハルヒは勝手にそう断定すると、 「キョン! 団長命令よ! 古泉くんの相談にちゃんと乗ってあげて、解決してあげなさい!」 何がどうなっているかも分からないのにそう言ってきた。 俺は呆れながらも苦笑して、 「分かった」 と極力横柄に答えたが、正直そんな命令に従うのは悪い気分じゃない。 何より、ハルヒがそうやって兄ちゃんのことも案じてくれるのが嬉しかったからな。 俺に兄がいるという話をして以来、ハルヒとは細々と友情を育んできている。 だからこそ俺はハルヒを恨みたくないし、そうする必要もないと思っていて、兄ちゃんにもそうであって欲しいと願っている。 そうと言えば兄ちゃんはきっと、分かってると頷いてくれるんだろう。 だが、いくらかはわだかまりのようなものがあることも、俺には分かってる。 それだけに、今日みたいにハルヒが分かりやすく兄ちゃんの身を案じてくれるのが嬉しかった。 それで、少々上機嫌になりつつ、兄ちゃんのことを考えればそれはまずいだろうといくらか抑えながら兄ちゃんの部屋に入ったのだが、兄ちゃんはなかなか用件を言い出さなかった。 「なぁ、何か用事があるんだろ?」 「うん…そうなんだけどね……」 ため息を吐きながら兄ちゃんは俺の前にお茶を置いた。 少し渋いくらいに濃く出たそれを一口飲み、 「言い難いんだったら、いくらだって待つから」 と言えば、どうしてだろう。 兄ちゃんは余計に辛そうな顔になってしまった。 安心させたくて言ったはずだったのに、逆効果だったようだ。 どうしたものか、と考える俺に向かって、 「――ごめん、キョン」 と兄ちゃんはいきなり手をついた。 そのまま床に頭をつける。 「…兄ちゃん……!?」 一体なんだって言うんだ。 いきなり謝られるような覚えはないし、土下座なんてされると余計に訳が分からん。 それに、そうして土下座したのが、俺の顔を見ないようにするためのようにも思えて嫌だった。 「兄ちゃん、何なんだ? 何かあったのか?」 まさか浮気したとか、別れたいって話じゃないだろうな。 俺はそう警戒したのだが、それは外れた。 しかし、ある意味ではそれよりも悪くて嫌な申し出を、兄ちゃんはした。 「……キョンに、頼みたいことがあるんだ。これは、僕が言っていいことなのか、それとも『古泉』として言うべきなのか、分からない。でも、言わなきゃいけないから、僕として言わせてもらう」 そう言って兄ちゃんは一呼吸置いた。 気を持たすためではなく、それがよっぽど言いたくないことだったのだろう。 「――涼宮さんと、付き合って欲しいんだ」 そう言った兄ちゃんの声は、いっそ憎々しげに聞こえた。 憎んでいるのは何だろう、と現実逃避のように考える。 機関かハルヒか、それともこの世界そのものか。 ハルヒは悪い奴じゃない。 恋愛感情ではないが、好きと言ってもいいだろう。 俺が悩んでる時には話を聞いて、慰めてくれもしたくらい、いい奴でもある。 だから、兄ちゃんにも憎んではもらいたくないし、そんなハルヒを騙すことに罪悪感と抵抗があった。 ハルヒと付き合うということはハルヒを騙すことに他ならない。 そうであれば罪悪感も抵抗も、当たり前のことだろう。 友人だと、もっと言えば、少々照れくさくはあるが、仲間だと、間違いなく思っている人間を騙すんだからな。 俺なんかにあいつを騙せるかはともかく、そうしようとすること自体が既にハルヒへの裏切りであることは疑う余地もない。 「…理由を聞いてもいいか?」 俺が問うと、兄ちゃんはやっと顔を上げてくれた。 その表情に疲れが見える。 やつれてこそはないようだが、酷く疲労しているのは俺にも分かる。 これまでどうやって隠してきたのだろうと思うほどに。 「…機関に、僕とキョンのことが、ばれてるんだ」 「……そうだろうな」 と俺が言ったのは、そうなるだけの心当たりがあったからだ。 前に朝比奈さんと一緒になって兄ちゃんと試した時、兄ちゃんが森さんに詰め寄ったとかなんとか言ってたからな。 何をどう聞いたのかは分からないが、取り乱した兄ちゃんが何かうかつなことを言っていたとしても不思議じゃない。 あの後すぐに何か言われなかったのが妙なくらいだ。 「キョンと引き離されたくなければ、キョンに言うことを聞かせるように言われて、その命令が…」 ハルヒと付き合うようにしろということだったわけか。 全く、機関は何を考えてるんだ? 相変わらず、ハルヒが俺と付き合いたがってるなんて、本気で思ってるのか? 「そうみたいだね。…でも……僕も、そう思ってるよ?」 なんでだよ。 「涼宮さんはよくキョンのことを見てるし、キョンに対してだけ態度があからさまに違うってこと、気がついてなかったの?」 よく見てると言ってもそれは同じクラスだからとかじゃないのか? 態度の違いも、単純に俺に対してだけ遠慮がなくなっているだけだと思うのだが。 「それはつまり、キョンに心を開いてるってことだろ。……キョンと出会うまでの涼宮さんには、そんな風に接することの出来る相手なんて、いなかったんだよ」 兄ちゃんの声が、どこか同情的に響いた。 やっぱり、兄ちゃんはハルヒを恨んでいないように思える。 ハルヒが俺と同い年だからだろうか。 妹か何かのように思っているような柔らかさが、その声にも、言葉の端々にも見えた。 それでもまだ表情が強張ったままなのは、機関の命令のせいだろう。 自分がどうするのか、ほとんど決めた状態で、俺は兄ちゃんに確認する。 「ハルヒと付き合うからって兄ちゃんとのことがなくなったりはしないんだよな? 今まで通りのまま、ただ、俺がハルヒを好きでいるかのように振舞って、付き合えってだけで」 少しばかり意地の悪い聞き方をしたせいか、兄ちゃんがぐっと顔をしかめた。 だが、それはどんな聞き方をしても同じだったのかもしれない。 兄ちゃんは頷き、それならと俺も頷いた。 「分かった。兄ちゃんの言う通りにする」 「…っ、本当に…!?」 驚きも露わに問い返す兄ちゃんに、俺ははっきりと頷いてやる。 「俺にも、兄ちゃんと一緒に、世界を守らせてくれよ」 冗談めかして言ったのに、兄ちゃんは笑ってくれなかった。 むしろ苦しげな顔を伏せて、拳で床を叩き、 「――こんな世界なんて、無くなってしまえばいいんだ…!」 と唸った。 「こんな風に、一部の人間が一方的に押し付けられた役目で人生を歪められて、好きなこともできないような世界なんて、そのことを誰も知らないような世界なんて、無くなってしまえばいい。涼宮さんだって、可哀相だ。こんな世界を委ねられて、知らないうちに監視されて、周囲の人間関係にも干渉されるなんて……」 「でも、この世界がなければ、兄ちゃんと一緒にいることも出来ないだろ」 そうなだめながら、俺は兄ちゃんを抱きしめた。 兄ちゃんの目元から零れる液体については、見ないフリをして。 「ハルヒには悪いが、俺にとって兄ちゃんは他の何とも比べられないくらい、大事で、愛しい存在なんだ。だから、俺は何だって出来る」 確かに抱いたはずの罪悪感も抵抗も投げ棄てるようにそう言えば、兄ちゃんは余計に目元を濡らした。 「ごめん…、ごめんね、キョン……」 「いいから」 「キョンに、そんな風に、考えさせて、ごめん…」 「いいって言ってんだろ」 それでも兄ちゃんは繰り返し繰り返し謝り続けた。 ――しかし、ハルヒは本当に俺と付き合いたいなんてことを考えてんのかね? あいつの性格からして、そんなことはないと思うのだが。 何しろ俺はあいつの好みに合致しない平々凡々とした人間だし、そもそも恋愛感情なんてものをあいつが俺に抱いていたとしたらそれなりにおかしな言動が見られてもいいと思うんだが。 というのは俺が兄ちゃんを好きになって以来少々おかしくなっていたからであり、そのほかに参考に出来る事例がないせいなのだが、経験豊富な人間に言わせると何か違うのだろうか。 ともあれ、俺はさながら儀式の生贄の如くハルヒに捧げられることになっちまったわけだが、受取拒否された場合どうなるのか、誰も説明してくれなかった。 |