異事 (後編)



結局、俺が選んだのは遊園地で、その理由はと言えば男二人で遊園地なんてのは流石に見苦しいからというものだった。
他に思いついた水族館や動物園、映画なんてのは男二人でも別にいいだろうしな。
「本当に久し振りだな。ただの僕として遊園地に来るなんて」
遊園地の入園ゲートをくぐりながら兄ちゃんは酷く感慨深げに呟いた。
その意味するところを考えると、俺の胸が痛い。
「遊園地にも行ってなかったのか?」
「まあ、忙しかったからね。中学の修学旅行も行かなかったし、そうなるとそんな機会なんてないだろ?」
「…そう、か」
「キョン、」
困ったように笑いながら兄ちゃんは俺の頬を引っ張った。
「そんな顔しなくていいんだよ?」
「分かってる、けど……」
「どうせなら、笑っててよ。キョンが楽しくしていてくれたら僕も楽しいし、そうしたらこれまでのことなんてどうでも良くなるくらい、幸せな思い出が出来るだろ? それに、これからはずっとキョンが一緒にいてくれるんだったら、それでいいじゃない」
「…本当に、そう思うか?」
「嘘吐いてるように見える?」
俺は小さく首を振ってそれに答えると、兄ちゃんの腕に自分の腕を絡ませた。
「大好きだ」
ほとんど衝動的にそう言ったのだが、兄ちゃんは驚いた様子で軽く目を見開くと、少しして、軽く俺の頭を撫でながら、
「僕も、好きだよ。ただ…」
ただ?
「……胸、当たってて、ちょっと恥ずかしいんだけど……」
それこそ今更なことで、胸が当たろうが当たるまいが関係ないと思うのだが、兄ちゃんがらしくもなく、顔を赤らめるのが面白くて、俺は殊更に胸を押し当てながら、
「デートなんだからこれくらいいいだろ?」
と笑ってやった。
「う、まあ、そうなんだけどさ…」
いつも俺よりよっぽど余裕に見える兄ちゃんがこうしてうろたえているのも、俺が女になってるからなんだろうか。
だとしたら、少しだけ面白くない。
「違うよ。キョンと人前で腕を組むのが嬉しくて、くすぐったいだけ。キョンが元のままでも、きっと変わらないよ」
「本当に?」
「疑うなら、今度試してみる?」
「…ばか。んなこと出来るわけねぇだろ」
「そう、残念だよね」
悪戯っぽく笑った兄ちゃんが不意に足を止め、俺を抱きしめる。
「にっ……」
慌ててばたつく俺を更に強く抱きしめながら、兄ちゃんが耳元で囁く。
「今なら、こんなことも出来るのに、いつもの、本当のキョンとは出来ないなんて。…ほら、誰も気にしてないだろ?」
兄ちゃんの言う通り、遊園地内の、とはいえ道のど真ん中で抱き合っているのに、特に気にされている様子はない。
…多少、生温いような、手痛いような視線も感じないではないが。
しかし、それだって本来であれば向けられるだろう目と比べるとずっと弱い。
「さてと、いつまでもこうしてたっていいんだけど、流石に勿体無いよね。しっかり遊ぼうか?」
笑いながら兄ちゃんが体を離し、俺は頷いて歩きだした。
手を繋いだり、腕を組んでいられるだけで、幸せを感じる俺は、安っぽいんだろうか。
だが、案外そんなもんなのかもしれないと、俺と同じか、俺以上に嬉しそうな兄ちゃんを見ていて、思った。

兄ちゃんの言葉通り、夕方までしっかり遊んだ俺たちは、大人しく兄ちゃんの部屋に帰った。
メールで今日も泊まると伝えた俺に、兄ちゃんは困ったような顔をして、
「キョン、まだ戻りたくない?」
「…そんなわけじゃないんだが……」
もごもごと口ごもってしまうのは、たとえなんと言おうと俺が元に戻らない以上、俺が本気で男に戻りたいと思っていないことが丸分かりだからである。
兄ちゃんと一日、思う存分過ごせて満足しているはずだった。
それこそ、普段ならやれないことをあれこれしたからな。
ひとつのアイスを分け合うなんてこっ恥ずかしいこともしちまったし、外で、つまりは人目があるにもかかわらず、キスをするなんてこともしちまった。
だから、満足していて当然のはずなのに、どうして俺は元に戻らないんだ?
「何かまだ、したいことでもあるのかな?」
「したい…こと……」
ううむ、と腕を組んで考えようとすると、さして大きくもなければ小さくもない、いたって普通の胸に腕が当たり、妙な感覚が背筋を駆けた。
きちんと身につけたブラの上からでも分かるくらい、そこはツンと立ち上がっていて、少しの刺激にも過剰なほどの何かを与える。
それが何か、なんてことは考えるまでもない。
俺は自分が生唾を飲み込む音をやけに大きく感じながら、
「…兄ちゃん、」
と兄ちゃんを呼びながら、兄ちゃんににじり寄った。
「なんだい?」
「俺、……兄ちゃんと、したい」
顔を紅潮させてそう言えば、兄ちゃんは困ったように眉を寄せた。
何でそんな反応するんだよ。
「当たり前だろ。普段ならともかく、キョンは今、女の子なんだよ?」
「だからなんだって言うんだよ」
珍しく俺から言い出したのにと不貞腐れながら言えば、兄ちゃんは厳しい顔になって、
「近親姦だって、分かってる?」
それこそ今更だろう。
厳密に言うなら、同性間で近親相姦は成り立たないのかも知れないが、タブーと言う意味では異性間と同じか、むしろそれ以上に強いだろう。
それくらいのことは、ずっと以前から分かっている。
「だったら、」
「近親相姦が禁じられてるのは血が濃くなって、遺伝性の病気や奇形の発現率が上がるからだろ。ちゃんと避妊したら別にいつもと同じことじゃないのか?」
俺だって、出来ることなら兄ちゃんの子供を産みたいが、それがだめなら体を繋げられるだけでもいい。
そう思ったのに、兄ちゃんは今度こそ完全に顔を歪めた。
その意味はよく分からない。
俺に呆れたのか幻滅したのか、それとも別の何かがあるのだろうか。
「――じゃあ、」
と口を開いた兄ちゃんの声はいつになく冷たく、突き放すようなものだった。
それだけで、俺の体が怯えに竦む。
「もう、しない」
「しない……って……」
「今といつもとが同じだって言うんだったら、キョンが元の体に戻っても、もうセックスなんてしない。キスもしない」
「なんでだよ…!」
じわりと涙が滲んでも、兄ちゃんは揺らがなかった。
真っ直ぐに見つめてくるその目が怖くて、体が震えた。
「してはいけないことだって、思うからだよ」
「どうして…っ、いけない、ん、だよ…」
「どうしても。……やっぱり、キョンとそういう関係になってはいけなかったんだって、思ったんだ」
後悔するような口ぶりに、涙が止まらなくなる。
しゃくり上げながら泣く俺の頭を撫でてくれる手は優し過ぎるほどに優しくて温かいのに。
「やだ…っ」
「僕だって、嫌だよ。でも、」
「もう、ワガママ、言わないから…っ、嫌いに、ならないで、くれ…!」
兄ちゃんの胸にすがりついてそう泣けば、
「嫌いになんかなってないよ。キョンが好きだ。愛してる」
「なら…、なんで……」
「だからこそ、しちゃいけないことって、あるんだよ」
「けど、そんなの、今更だろ…」
「そうだね」
「兄ちゃん、だって、我慢出来ないって、いつも、言う、…っくせに…!」
「うん。でも、それじゃいけなかったんだ」
「――嫌だ…っ!」
兄ちゃんとしたい、と思うのはそれが気持ちいいからとかそういうわけだけじゃない。
それ以上に、あの行為が、本当に兄ちゃんに愛されているんだと思えるものだから、したいと思うんだ。
そうでなければ、本当に好きでいてくれているのか分からなくなってしまいそうなほど、兄ちゃんとの関係は儚くて、何も残してくれない。
俺と兄ちゃんが同性じゃなく、血の繋がりもなかったら、子供という形が残せる。
そうでなくても、付き合っていることを証し立てるような何かを残すことは出来る。
でも、俺と兄ちゃんの場合、証拠なんて残してはいけない。
それこそ、俺と兄ちゃん、それから朝比奈さんと長門という証人がいるだけの関係に過ぎない。
だからこそ、体を繋げることの意味は大きいと思うのに、それさえ取り上げられてしまったら、俺は何にすがればいいんだ。
「ごめん…ふっ、……く……っ、ごめんなさい…」
繰り返しそう呟いた。
「何に謝ってるの?」
「兄ちゃん、に、無理、言って……ごめん…。もう、女のままでしたいなんて、言わない、から……っ、俺の、こと、捨て、ないで…ぇ……」
「ちゃんと、分かってくれた?」
こくこくと頷けば、
「そうみたいだね」
と笑いを含んだ声で言われた。
「え……」
「体、元に戻ってるよ?」
言われてやっと気がついた。
俺の体も服も、元のように戻っていた。
変化に気がつかなかったのはそれが一瞬だったからなのか、それとも俺がそんなものに構っているだけの余裕がなかったからなのか。
何にせよ、俺はそんな検討をすぐさま他所へやった上で、兄ちゃんに抱きつきなおすと、
「兄ちゃん…っ、愛してる、から…」
「分かってるよ。…意地悪言って、ごめんね」
苦笑しながら兄ちゃんは俺の頬に口付ける。
「頬じゃ、嫌だ」
「ああ、そうだね」
今度こそ、ちゃんと唇にキスされたから、俺も涙を止めて笑えた。
「……なあ、さっきの、本気で言ってたのか?」
「半分くらいはね」
兄ちゃんは正直にそう言い、
「残りの半分は、キョンを戻したくて言ってた」
「そんなに戻らせたかったのか?」
「あのままじゃ、したくても出来ないからね」
悪戯っぽく笑った兄ちゃんに、俺も似たような笑みを返し、
「元に戻ったんだから、遠慮しなくていいから…」
と言ってやった。