軽く寝返りを打ちながら、まだ起きたくないと思ったのは、隣りにまだ兄ちゃんがいて、その暖かな体温が伝わってくるからであって、俺が寝穢いからというだけではない。 しかしながら、俺はすぐさま飛び起きる破目になった。 寝返りを打った自分の体に、恐ろしいほどの違和感があったからだ。 まず、さらりとした長い髪がむき出しの肩から背中にかけて触れ、くすぐったかった。 次に、というかそれとほぼ同時に感じたのは、寝返りを打った拍子に感じた胸の違和感。 何か柔らかいものがぶら下がっていて、それが体の動きからは少し遅れて動いた気配がした。 怖々目を開けば、まだ夜が明けてすぐの薄暗い部屋の中でもはっきりと分かるほど、俺の体は変わっていた。 手が細い。 肉付きが余りにも違う。 身長も縮んでいるのか、ベッドがやけに広く感じる。 何より――と俺は布団の中に手を滑り込ませると、確かめるまでもない胸を避け、その更に下へ触れ――、 「…っ、ない……」 そう思わず呟いた声も細く高かった。 いや、予想はしていたとも。 全く以って考えてもいなかったなんてことは言わない。 それでも驚くくらい、体の変化は顕著だった。 大体、こういう定番のネタというものを外すハルヒではないはずだ。 なんのかんの言いながら、お約束ネタというのも好きだからな、あいつは。 だから、もっと前からいつ来るかと思い、こう言うと誤解を招くかも知れないが、若干期待してもいたのだ。 それにしたって、このタイミングはないだろう。 よりによって兄ちゃんの部屋にいて、それも二人とも素っ裸でひとつベッドに眠ってる時に、なんて。 そりゃあ、自分の部屋にいる時、しかも家族が家にいる時に突然、なんてことになったら誤魔化すのが大変だろうから、それを思うとまだマシなのかもしれない。 しかし、――と俺はまだ眠っている兄ちゃんを見つめ、ため息を吐いた。 まずいだろう、これは。 とりあえず、ベッドから出て服を着よう。 それから兄ちゃんを起こせばいい。 そう思って、そろりと体を動かしたところで、 「ん……」 と兄ちゃんが小さく声を上げて身動ぎした。 ぎくりと身を竦ませる俺に気付いたように薄目を開けると、そのまま、 「どこに行くんだい…?」 まだ寝ぼけた声でそう言って、俺の体を抱きしめた。 「ちょっ…兄ちゃん…!!」 まずいから。 色んなところが直に当たってまずいから! 真っ赤になってうろたえる俺に向かって、兄ちゃんは軽く首を傾げると、 「…あれ? キョン……。…これ、夢?」 夢みたいなもんではあるかもしれないが、間違いなく現実だ。 というかさっさと目を覚ませこのバカ兄貴! 「目は結構覚めたよ」 そう笑いながら、兄ちゃんは体を起こすと、俺のことを引き起こした。 手を伸ばして電気を付けると、白すぎる肌が照らされて、妙に恥ずかしい。 「原因は涼宮さんかな? それともゆきりんかな?」 そう言いながら兄ちゃんは俺を見つめている。 観察するように、あるいは間違い探しでもするように、真っ直ぐ。 それが余計に羞恥をあおり、俺は慌てて布団に体を隠した。 「どうしたの?」 笑いながら、あえてそんなことを聞いてくる兄ちゃんは意地悪だ。 「分かってるくせに…」 「そんなに恥ずかしい? でも、今更じゃないのかな」 そりゃ、兄ちゃんに裸を見られるなんてそれこそ今更過ぎることだが、 「この体は初めてだろ…。余計に、恥ずかしいんだよ」 「そういうものかな」 「…俺の体じゃないって気が、するし……」 「そう?」 首を傾げてみた兄ちゃんは、ずいっと俺に顔を近づけると、 「顔の造作も、体の造りも、間違いなくキョンだって分かるよ? そんなに違う?」 「違うだろうが」 何を言い出すんだ。 「目つきも、このちょっと薄い唇も、恥ずかしくなったりするとすぐ真っ赤になる可愛い頬も、変わってないよ」 そう言いながら、兄ちゃんがそこに口付ける。 「ちょっ……」 待て、朝っぱらから何をおっ始めるつもりだ! 「何って……別に、そういうことじゃないよ?」 と笑った兄ちゃんは、 「ただ、キョンはキョンで変わりないって言ってるだけだよ」 と言いながらベッドから抜け出ると、 「着替えて、朝ごはん食べてから、ゆきりんに連絡してみようか」 なんでもないことのようにそう言って、着替えだす。 俺は、これが慣れというものかと思いながら、どこか感心しつつ兄ちゃんを見ていたのだが、 「……兄ちゃん、シャツ、裏表逆になってるぞ」 「…え」 ……どうやら、兄ちゃんも実際には動揺していたらしい。 とりあえず、男物の服を着るしかないだろうと思いながら俺の着替えがおいてある場所を探ると、どういうわけかそこにあったはずの俺の服はなく、代わりというように女物の服が山積してあった。 これは一体どういうことだ。 女に変わったのは俺の体だけではなく、俺の持ち物も社会認識もそうだというのだろうか。 首を傾げる俺の隣りで、短すぎるスカートだの、ひらひらふりふりしたキャミソールだの、やけに手の込んだニットだのを見ていた兄ちゃんは、どこか難しい顔をして、 「……というか、この服の趣味はまず間違いなく……」 と呟いたのだが、それを遮るように兄ちゃんの携帯がけたたましい曲を奏で始めた。 兄ちゃんの趣味は分からん、と俺が思ったのを見透かしたように、兄ちゃんは苦笑して、 「これはゆきりんが勝手に登録してったんだよ」 と言いながら電話を取り、 「ゆきりん、君の仕業だろ」 『あったりー』 音符か星印でもつけたらいいような明るい声が俺のところにまで聞こえてきた。 兄ちゃんは諦めたようにホールドボタンを押して、長門が無駄に声を張り上げないで済むようにした。 こういう辺り、なんのかの言っても仲が良いし、相手のことをよく分かっていると思うのだが、二人ともなかなか認めたがらない。 『この前、デートにお邪魔させてもらったでしょ? そのお礼に、キョンくんといっちゃんが二人っきりで堂々とデートできるようにしたいなぁって思ったんだよー。まっ、あたしがキョンくんの可愛い姿を見てみたいってのも大きいんだけど』 「大きいどころかそっちがメインだろ。全く、何考えてんだか…」 呆れきった声で言った兄ちゃんは、 「で、いつになったら戻すつもりなんだい?」 『んー? それはキョンくん次第かなっ?』 へ? 俺次第? 『キョンくんが元に戻りたいって本気の本気で思ったら戻れるようにってしといたから、今のままだとあたしにも戻せないんだー。いやー困った困った☆』 「……楽しそうだね」 兄ちゃんがドスの利いた声で言ったが、長門には少しも堪えないらしい。 『いいじゃん、楽しみなよっ! 幸い今日は日曜日なんだし、いざとなったら一日や二日の欠席くらい、あたしがどうとでも誤魔化してあげるよっ!』 「何が幸いだよ。狙ったくせに」 頭が痛い、とばかりに額を押さえた兄ちゃんに、長門はけらけら笑って、 『それとも最初っから平日にやってほしかった?』 「誰もそんなこと言ってないだろ。そもそもやらないで欲しかったって言ってんだから」 『えー。だって、二人だけでデート、したいでしょ? キョンくんも』 その言葉に引かれるように、兄ちゃんがこちらを見る。 「……そう言えば、そんなこと、言ってたね」 それなら仕方ないか、と呟いた兄ちゃんに、俺は慌てて、 「いや、俺は別に、そんな……」 兄ちゃんはくすっと笑うと、 「いいんだよ、隠さなくて。…キョンが戻りたいって思うくらいまで、つまりは満足するまで、ちゃんと付き合うからさ」 と言って、長門がまだ何か言っているにも関わらず、通話を切った。 「とりあえず、好きな服を着て見せてくれる? 僕も、キョンの可愛い姿、見たいから」 「かっ、可愛くなんかない」 「可愛いよ。キョンは元から可愛い。でも、今日は余計に可愛く見えちゃうから、どうせならもっと可愛いところ、見せて欲しいな。この服なんてどう? キョンに似合いそうだけど」 と言いながら兄ちゃんが取り出して見せたのは、色からして淡いピンク色で、とてもじゃないが俺に似合うとは思えなかった。 それなのに、大人しくそれを着てしまったのは、兄ちゃんに勧められたからにほかならず、我ながらどれだけ兄ちゃんが好きなんだと呆れ果て、かつ、その場でのた打ち回りたくなったくらいだ。 俺が慣れない女物の服――主に下着だな――に悪戦苦闘している間に、兄ちゃんは簡単な朝食をこしらえてくれた。 「ちゃんと着れた?」 なんて笑顔で言う兄ちゃんに、 「多分、これで大丈夫だろ」 と言ってやると、 「そうだね。…凄くよく似合うよ。こういうところだけは、ゆきりんに感謝、だね」 「…かもな」 テーブルに出来上がったオムレツやトーストを運びながら、 「食べ終わったらどこに出かけようか」 と聞いてくる兄ちゃんは本当に楽しそうだ。 女物の服を身につけるというだけで俺がどれだけ疲労したかなんてことも知らずに、のんきだな。 「どこでもいい」 疲れのせいでそう言ったのだが、 「前もそんなこと言ってただろ。今日こそは、ちゃんと言ってごらん? どこか遠出してもいいし、そうじゃなくても、今日はちゃんとしたデートスポットに行ったっていいんだからね。ほら、どこがいい?」 そう言われても困るのは、俺が本当にどこに出かけたんでもいいと思っているからだ。 「思いつかないんだったら、ガイドブックでも買って来ようか」 「いや、そこまでしなくても…」 どうしよう、と考えながら頭の中にいわゆるデートスポットを思い描く。 こんな機会がそうそうあると思えない――いや、長門に頼みでもすればこっちが拍子抜けするくらいほいほい了解してくれるのだろうが――以上、どうせなら男二人では確実に行けないようなところに行きたい。 だとしたら、どこだ? 買い物くらいならいつもとは言えないまでも行っているし、そもそも野郎二人連れが無理な場所がこの辺りにないことくらいは日頃の探索のおかげでよく分かっている。 それなら遠出することになるのか? それは少し申し訳ない気もするのだが、俺もちゃんと金を出すならいいだろうか。 さて、どうしたらいいものか。 などと考えていると、 「…キョン、手が止まってるよ」 「あ、す、すまん」 つい、考えるのに夢中になっていた。 「もう、」 と笑った兄ちゃんは、 「考えるのは後にして、先に食べなさい」 「ん……」 冷めかけたトーストに口をつけ、申し訳ないと思った。 「少しくらい、別にいいよ。それに、そうやって真剣に考えてくれるのも嬉しいからね」 真剣になるに決まってるだろうが。 「ありがとう」 嬉しそうにそう言って兄ちゃんは目を細め、俺が食べ終わるまでじっと見つめていた。 ……くすぐったいし、食べ辛いぞ。 |