日曜の朝、 「行ってきます」 と言って家を出た俺は、 「ただいま」 と言って兄ちゃんの部屋に上がりこんだのだが、返ってきたのは明るく響く、 「おっかえりー!」 という長門の声で、俺は思わず身を竦ませた。 ぱたぱたと足音を響かせて俺を迎えに出てきた長門は薄いワンピース姿で明るい笑みを浮かべていた。 「おかえりっ、キョンくん!」 「あ、ああ、ただいま…」 「…もう、まだ慣れてくれないの?」 不満そうに唇を尖らせる長門は本当にいつものあの長門と同一人物なのかと小一時間ばかり問い詰めたくなるくらいだ。 「ちゃぁんと同一人物だよっ! もう、キョンくんったら失礼だなぁ! そういうところだけいっちゃんに似ちゃってどうするの?」 「長門、頼むから考えを読むのは止めてくれ」 「あっ、ごめんねっ。ついうっかり☆」 てへっ、なんて軽く言われるのも、正直違和感だらけでどうしようもない。 俺が戸惑っているとキッチンから顔を覗かせた兄ちゃんが、 「ほら、ゆきりん、そうやって道を塞いでたらキョンが入れないだろ。さっさとどいてあげて」 「はいはい」 笑いながら頷いた長門が俺の手を引っ張って行き、カーペットの上に置いたクッションに俺を座らせる。 「キョンくん、飲物は何にする?」 「なんでもいいが……」 なんで長門が聞いて来るんだ。 「いやぁ、お邪魔してるだけだと難だから、いっちゃんのお手伝いでもしようかなって」 そう笑った長門は、 「今日は三人でお出かけしたいねっていっちゃんと言ってたんだ。キョンくんが嫌ならいいけど、よかったら一緒に出かけない?」 「…三人で?」 俺が兄ちゃんに目を向けながらそう言うと、軽い弁当を作っているらしい兄ちゃんが振り向き、 「そう。ゆきりんが一緒なら、僕とキョンが手を繋いでても二人だけよりは奇異に映らなくていいかなと思って」 それは、手を繋いで出歩けるということなんだろう。 同時に、兄ちゃんもそうしたいと思っていたと思っていいのか? だとしたら、 「…嬉しい」 ぽつんと呟くと、兄ちゃんも明るく微笑み、 「だと思った。まあ、本当ならゆきりんなんてどこかに追いやってキョンと二人きりの方が僕としてもいいんだけどね」 「ちょっといっちゃんそれは酷いよ! あたしにもたまにはイイ目を見せてくれたっていいじゃんっ!」 「たまには? しょっちゅうだろ。キョンに本性がばれたからってうちに入り浸ったりして……おかげでキョンと二人きりで過ごす時間が格段に減らされてるんだけど? ただでさえ、最近は朝比奈さんなんていうお目付け役も出来て面倒になってるのに、君まで邪魔することはないだろ」 「邪魔だなんて……酷いっ!」 じわっと涙を浮かべた長門が俺の腕にすがりつく。 「キョンくんっ、あたし、そんなに邪魔になってる? あたしは二人の邪魔をしたいんじゃなくて、あたしも少しはこういう風にして本当の自分として過ごしたいだけなんだよ? でも、邪魔になってるなら、あたしは……」 俺が口を開くより早く、兄ちゃんが冷めた言葉を投げた。 「ゆきりん、嘘泣きでキョンを泣き落とそうとするのやめてくれない?」 「嘘泣きじゃないよー。ちゃんと涙流してるもんっ」 「意図的に流したならそれは嘘泣きに分類して構わないだろ。ほら、さっさとキョンから離れる」 「ちえー」 けろっとした顔で長門は俺から離れたが、俺は余計に脱力感を感じた。 全く、何がどうなってんだと問い質してやりたくなる。 兄ちゃんと長門がこれだけ親しくしていることもさることながら、今も部室なんかでは以前と同じように無機物的な姿をさらす長門が、こんな風になっていることも驚きだ。 一体どっちが本当なのかと悩みたくなるが、自己申告を信じるなら、こちらが本性であるらしい。 ため息を吐いた俺に、兄ちゃんが暖かいコーヒーを差し出す。 「大丈夫?」 「ん…」 「嫌だったらちゃんと言っていいよ」 「いや…行くよ。俺も、兄ちゃんと一緒に出かけたいから」 俺が赤くなりながらもごもごとそう言うと、いきなり兄ちゃんに抱きしめられた。 兄ちゃん、コーヒー零れる。 「だって、キョンが可愛いからいけないんだよ」 そう言いながらぎゅうぎゅうと俺を抱きしめる兄ちゃんに長門が、 「あーっ、いっちゃんいいな! あたしもキョンくんぎゅーってしたい!」 「だめだよ。ゆきりんは特に」 「ずるいっ」 不貞腐れる長門に、兄ちゃんは大人気なく、 「ずるくて結構。大体、ゆきりんは図々しすぎるよ」 「えー、そんなところも可愛いっしょ?」 「自分で言わないの」 と苦笑しながら、兄ちゃんは体を離し、 「それじゃ、少ししてキョンが落ち着いたら出かけようか。お弁当作ってるから、公園かどこかで食べようね」 「ん」 俺が頷くと、兄ちゃんは楽しげに微笑んで、俺の唇に一瞬触れるだけのキスを寄越した。 「大好きだよ、キョン」 「い、いきなりなんだよ!」 驚かせるな。 「ごめん。急に言いたくなっちゃったんだ」 それは長門への牽制ということだろうか。 長門もそう思ったらしく、 「もうっ、わざわざ見せつけなくても分かってるってば! キョンくんといっちゃんが鬱陶しいくらいラブラブなことくらい!」 と笑いながら言ってくれたが……鬱陶しいくらいラブラブって何の話だ? 出かける準備を整えた俺たちは三人揃って部屋を出たのだが、それからすぐに俺が兄ちゃんの手を握ると、長門が反対の手を握ってきた。 「…長門?」 「だからゆきりんって呼んでってば」 今はそこが問題じゃないだろう。 兄ちゃんも頷いて、 「なんでゆきりんがキョンと手を繋ぐわけ?」 「えー? ダメなの? カモフラージュとして手をつなぐんだったら、本来はあたしが真ん中の方が自然なんだよ? でもそれじゃキョンくんといっちゃんが手を繋げないでしょ? だから妥協案としてこうしてあげたのに」 「妥協案だかなんだか知らないけど、ゆきりんがキョンと手を繋いでるのって嫌だな」 と顔をしかめる兄ちゃんに、長門はにやっと笑い、 「そう? じゃあいっちゃんと繋いだ方がいい?」 「僕としてはそっちの方がまだマシだけど」 「……俺が嫌だ」 思わずそう呟くと、兄ちゃんが驚いたように俺を見た。 「キョン?」 「…兄ちゃんと長門が手を繋いでるところなんて、見たくない」 たとえ自分も兄ちゃんと手を繋げても、それとこれとは話が別なんだ。 少なくとも、俺にとっては。 長門は勝ち誇ったような笑みを浮かべると、 「じゃ、やっぱりこれでいいよねっ?」 と俺に問い、俺は頷いた。 兄ちゃんは一人空を仰ぎながら、 「しょうがないな…。でもキョン、僕とゆきりんの間に邪推する必要があるような関係性なんて全く以って存在しないことくらい、分かってよ?」 それは、分かってるつもりだ。 ただの友達なんだと思ってる。 おそらく、俺と朝比奈さんとの関係と似たようなものなのだろう。 それなら、疑う必要なんてない。 そもそも、疑うのがバカらしいくらい、兄ちゃんは俺を大事にしてくれていると思うし、愛してくれてもいると思う。 なのに、どうしても不安になってしまうのは、俺が弱いせいだ。 「キョンくんっ」 俯き加減になった俺の顔を見上げながら、長門が言う。 「せっかく、念願のデートなんだよ? そりゃ、あたしみたいなお邪魔虫がいるからちゃんとしたデートとは言えないかもしれないけど、でももっと楽しい顔してた方が、きっともっと楽しいよ」 「…そうだな」 俺が小さく笑うと、長門も兄ちゃんもほっとした顔になった。 それから三人で手を繋いだまま、デートといえるのかどうかよく分からない散歩をした。 ボードゲームを見に行ったり、長門の頼みで可愛らしい小物類ばかりの店に入り、兄ちゃんと二人居た堪れない気持ちになったりしながらも、それは楽しいものだった。 本屋にも行くのかと思ったのだが、長門がふくれながら、 「本は好きだけどこういう時は見たくもないのっ! だから本屋さんは却下!」 と高らかに宣言したためなしになった。 それから公園のベンチに座って、三人並んで弁当を食べた。 弁当と言っても小さめのサンドイッチがいくつか入ったくらいの小さなものだから、 「後で喫茶店にでも入ろうか」 と兄ちゃんが言い、長門が嬉しそうに、 「あたしケーキ食べたい!」 と主張した。 「キョンはどうしたい?」 「俺は、別に何でもいい」 そう言った俺に、兄ちゃんは困ったように少し顔を歪めると、 「もっとワガママ言っていいんだよ? ゆきりんが何言ったって、キョンが最優先なんだし」 長門も頷きながら、 「そうだよっ! いっちゃんならともかく、キョンくんが言うなら、あたしどこにだって付き合うからね!」 と言ってくれる。 しかし、俺としては本当にどこに行こうが構わないのだ。 こうして、兄ちゃんの側にいられるだけで十分幸せで、楽しい。 そんなことを口にするのは恥ずかしいが、言わなければ退いてくれないだろう。 兄ちゃんも、長門も。 だから俺は顔を真っ赤にしながら、 「兄ちゃんと、一緒だったら…どこでも、同じくらい、嬉しいから…」 と言ったのだが、次の瞬間、兄ちゃんに抱きしめられ、長門に抱きつかれた。 「な、何…!?」 戸惑う俺の耳に、 「本当に、もう……」 兄ちゃんの吐息が吹き込まれるだけで、びくりと体が震える。 くすぐったいという以上に、ぞくぞくして感じてしまう自分の体の浅ましさが恥ずかしい。 「…可愛いんだから」 そう言いながら兄ちゃんが俺の頭を撫でる。 「か、可愛いって……」 「可愛いよ。キョンは可愛い。可愛くて、愛おしい。……愛してるよ」 ここは街中だとか、長門もいるとか、言うべきことはいくつもある。 それでも俺はそんな言葉が嬉しくて、泣きそうになりながら頷いた。 俺の腰の辺りに抱きついた長門が、 「キョンくん、あたしもキョンくんが好きだよ。もちろん、いっちゃんの言うのとは意味が違うけど、でも、キョンくんは可愛いって思うし、守りたいとも思うから、もし今度またいっちゃんに泣かされたりしたら、今度はあたしのことも頼ってね? みくるんだけじゃなくて!」 と言ってくれるのも、嬉しい。 俺は泣いてるんだか笑ってるんだか分からなくなりながら頷いた。 それから俺たちは、夕方近くまで三人で過ごした後、二手に別れた。 長門が、 「あんまりお邪魔したら本当に悪いから、キョンくんに嫌われちゃう前に退散するねっ!」 と言ってさっさと離れて行ったからだ。 「ばっいばーい!」 なんて明るく手を振って去っていく長門を見送った俺に、兄ちゃんが小さな声で聞く。 「今日は楽しかった?」 「ん…。そりゃ、楽しかったに決まってんだろ。兄ちゃんとこうして出かけられたし、長門と話したりするのも慣れて来たんだし。……けど…」 「けど? 何?」 俺の顔をのぞきこむように少し体を屈めてきた兄ちゃんに、俺はうまく聞こえないほどの小さな声で、 「……いつか、兄ちゃんと二人きりで、…デート、したい…なんて、思った……」 「…っ、もう、」 ぱっと顔を赤らめた兄ちゃんが俺の手を掴んで歩きだす。 「兄ちゃん?」 「そんな可愛いこと言われて我慢出来るわけないだろ。さっさと部屋に帰ろう。そしたら抱きしめて、キスして、思う存分好きって言うから」 今だってそう言ってるようなもんだろう。 手を繋ぐのはまずいんじゃないか? と思いながらも止められない。 今日はずっと繋いでいた手だ。 それで満足するかと思いきや、少し離されるだけで寂しいと感じられる。 ずっと一緒に手を繋いでいたら、いつか溶け合ってひとつになれるんじゃないかなんて馬鹿げたことを思ってしまうほどに。 だから俺は兄ちゃんの早過ぎる歩調に足をもつれさせながらも、笑ってついて行った。 いつか、と呟いたそれが、まさか想像以上に早く、それも予想外の形で叶うとも知らないで。 |