心臓がバクバクする。 ドキドキなんて可愛いもんじゃない。 バクバクだ。 身の内を食い荒らされているかのようにも思える。 今から俺は、朝比奈さんの提案による、とんでもない行動を実行に移そうとしている。 その結果として、もしものことが生じてしまえば、俺はおそらく壊れるしかないというくらいの賭けだ。 「賭けにしては勝率が高すぎますけど」 というのが朝比奈さんの言だが、そんなこと、分かるものか。 よしんばその言葉が真実だとしても、勝率が100%でない以上、負ける可能性はある。 負けたらそこでゲームオーバー。 セーブポイントも何もないゲームと同じく、俺の人生はそこで終了のホイッスルを聞くことになる。 それだけに怖い。 だが、そうしなければ信じられないのだから、万が一そうなっても自分の猜疑心の強さを憎み、兄ちゃんを憎むことはしないだろう。 俺は何度目か分からない深呼吸をして、兄ちゃんに電話を掛けた。 コール音は2回しか聞こえなかった。 『もしもし、キョン? 遅かったね』 兄ちゃんの声がする。 もう夕方になっているから、その声が心配そうなのも当然だろう。 「ごめん、今日は行けない」 『どうかした?』 首を傾げる兄ちゃんの姿が見えるかのようだ。 「……というか、もう、兄ちゃんの部屋には、行けない」 『……キョン?』 驚愕に染まった声に、胸がずきりと痛んだ。 「そうした方が、いいんだろ? 俺は兄ちゃんにとって足手まといにしかなれなくて、俺が側にいるだけで兄ちゃんにとってまずいことになるんだったら、離れるしかないに決まってる。だから、俺はもう…兄ちゃんの、恋人じゃ、いられ、ない…っ」 勝手に涙が零れてきた。 嘘とはいえ、自分から兄ちゃんにそんなことを告げるのが辛すぎた。 今だって、すぐ側に朝比奈さんがいて、俺を落ち着かせるために背中を擦ってくれていなければ、嘘だと暴露していたに違いない。 『キョン、一体何を言って…』 「ごめん。…高校では、ちゃんと、同じSOS団の仲間として、振舞うから、ハルヒのことは心配しなくていい。……だから、ごめん。さよなら、兄ちゃん。……また、な…古泉…」 『キョ…!』 一方的に通話を切り、携帯の電源も切る。 「辛いことを言わせちゃって、ごめんなさい」 謝りながら背中を擦る朝比奈さんに、小さく首を振って答えた。 「こうでもしなきゃ、いけないって、決めたのは、俺です、から…」 そう思っても、涙は止まらない。 「すいま、せん…なさけないとこ、見せて……」 「いいんですよ、泣くことは恥ずかしいことじゃありません」 そう優しく微笑んだ朝比奈さんは、辛抱強く俺の背中を撫でてくれた。 ここは俺の部屋で、本来なら朝比奈さんとふたりっきりなんて状況はまずいのだろうが、俺はそんなことに今の今まで気がつかなかったくらい、兄ちゃんに夢中らしい。 「あたしは、キョンくんのことを信じてますから、このまま泊まってったって平気ですよ?」 悪戯っぽく笑った朝比奈さんにつられて、俺も笑い、 「それは流石にまずいでしょう。ハルヒにばれたら殺されそうだ」 「その前に、あたしが古泉くんに殺されちゃいます。今も、いつ古泉くんが来るかとドキドキしてるんですよ。逃げ出したいくらい」 「逃げてもいいんですよ?」 「ううん、あたしが言い出したんだもの、責任は取らなくちゃ。それに、古泉くんにもちゃんと危機感を持ってもらわなきゃ、ね?」 心配なのは長門が兄ちゃんに全てばらさないかということなのだが、 「長門さんならきっと分かってくれます。…むしろ、面白がるんじゃないかしら。本当に長門さんが、キョンくんの言うような性格なんだったら」 長門が本当はハイテンションキャラだと伝えると、朝比奈さんは一応面食らってはいたのだが、 「あたしだって自分のことを隠してるから、そんなこともあるのかも知れませんね。古泉くんだってそうなんですし」 と軽く納得していたので、俺とはものが違うと思った。 俺はぎゅっと涙を拭い、 「…兄ちゃん、来ますかね」 「来ますよ。絶対に」 しかし、俺の期待と朝比奈さんの予想に反して、兄ちゃんはなかなか現れなかった。 それこそ、朝比奈さんの表情が曇るほど長く、俺たちは待った。 時間が経てば経つほど不安になるはずだというのに、涙は不思議と出なかった。 きっと、泣いていた間に、これで終ってしまってもいいと思ったからだ。 本来なら選ぶべきだった、世界を優先する選択を、今頃になってしたと思えば、大丈夫だと思えたからだ。 兄ちゃんのためなら、世界を優先させることだって、耐えられるとすら、思った。 そんなことを思えたのは、もしかすると、実感が湧かないからかもしれなかったが。 「朝比奈さん、もう帰っていいですよ。遅くなってしまいましたし…」 「え、でも…」 「これだけ待って来ないんです。兄ちゃんは多分、俺に執着なんてしてなかったんですよ」 無理矢理浮かべた笑みは、うまくいかなかった。 不器用に唇を歪めた俺に、朝比奈さんが泣きそうな顔になった。 「そんな顔、しなくていいんですよ」 抱きしめられ、俺は朝比奈さんの胸に顔を埋める形になった。 それでも心は湖面のように静かだった。 きっと、俺が動揺するのは兄ちゃんに対してだけになってしまったんだ。 普通なら喜ぶか興奮するかだろう状況になっても、こんなに平然としていられる。 むしろ、兄ちゃんとこれっきりになってしまったことが辛くて、涙が出た。 「…すいません。俺、泣いてばっかですね」 「いいんです。泣きたい時は、泣いた方がいいんだって、言うでしょう? キョンくんは無理しすぎです」 「……ありがとうございます」 「…あの、キョンくん。あたし、…キョンくんさえよければ……」 朝比奈さんが何か言いかけた時だった。 玄関で何やら騒ぐような物音がし、続いて、階段を駆け上がってくるような音が響いた。 ついでに聞こえたのは、 「古泉くんどうしたのー?」 という妹の声で、俺がはっとして顔を上げかけたところで、ドアが開いた。 「キョンっ!」 飛び込んできた兄ちゃんが、俺と朝比奈さんを見て硬直した。 まあ、当然の反応だろうな。 俺同様に驚いていたはずの朝比奈さんは、俺より早く我に返ると、普段のふわふわとした頼りない様子からは想像も出来ないほど冷静に、 「ドアを閉めてください」 と兄ちゃんに向かって言った。 かすかに眉間に皺を寄せ、怒った顔になった朝比奈さんは、美人なだけに迫力があった。 それこそ、これがあの朝比奈さんかと思うほどに。 だが兄ちゃんは驚く様子もなく、舌打ちでもしそうなほどに顔を顰めてドアを閉めた。 妹が開けないようにか、それとも俺が逃げ出さないようにかは分からないが、ドアにもたれるようにしてその場に陣取ると俺を睨みつけ、 「説明してもらいましょうか」 と冷たい声音を響かせた。 敬語を使ってはいる。 表情も硬い。 でもそれは紛れもなく、兄ちゃんだった。 「古泉」じゃない。 「どうして朝比奈さんがいらっしゃるんです?」 答えたのは俺じゃなく、朝比奈さんだった。 「古泉くんなら、見れば分かるんじゃないですか? ね、キョンくん」 にっこり微笑んだ朝比奈さんがその豊満な胸に、再度俺の顔を押し付ける。 どうやら、恥じらいを忘れるほど兄ちゃんに怒っているらしい。 見せ付けられた兄ちゃんはと言うと、俺が抵抗もせず、文句も言わないことに驚いているようだった。 「見ても分かりませんね。はっきり説明してもらいましょうか」 「言われないと分からないんですか。――キョンくんを悲しませるような人より、あたしの方が絶対に、キョンくんを幸せに出来るってことですっ」 朝比奈さん、それだとまるで俺の方が朝比奈さんの嫁にもらわれていくかのようなのですが。 と、突っ込むことは許されていないので黙っておく。 俺が今すべきことは、黙って兄ちゃんの動向を見極めることだけだ。 「それに、」 と朝比奈さんは顔を真っ赤にしながら、 「…男同士で、しかも兄弟で付き合うなんて、不潔ですっ。そんな間違った道にキョンくんを引きずりこんでもいいと思ってるんですか!?」 という台詞を言い放った。 ちなみに、実際の朝比奈さんの心情を吐露させると、 「男同士で、しかも兄弟で付き合うなんて、よっぽど意思が堅くないとできませんよね。二次元じゃなくて、現実なんだもの。世間の目とか色々難しい障害があるのに、自分の思いに正直に生きるなんて難しいことですよね。想像するだけで萌えちゃいます。兄弟だったらやっぱり年下攻めに萌えるんだけど、キョンくんと古泉くんならやっぱり古泉くんが攻めっぽいかなぁ? キョンくん、実際のところはどうなの?」 ……とのことだ。 本当に腐女子なんですね、朝比奈さん…。 で、朝比奈さんに非難された兄ちゃんの反応はというと、信じられないとばかりに目を見開き、俺を見つめた。 その目にあるのは、俺の裏切りを非難するような色だ。 それだけで、壊れてしまいそうなほど、胸が痛んだ。 兄弟であることを、付き合っているということを、どうして朝比奈さんに明かしたのかと咎める目が怖いくらいだった。 どうしたらいいのか分からなくて震える俺を、朝比奈さんがぎゅっと優しく抱きしめた。 「キョンくんを怯えさせないでください…っ」 朝比奈さんも怖いのかもしれない。 声が震え、少し目が潤んでいた。 それでも朝比奈さんは、この芝居に最後まで付き合ってくれるつもりらしい。 俺は縋るというよりもむしろ、朝比奈さんを慰め、勇気付けるつもりで、その華奢な体を抱きしめ返した。 その時だ。 怖いくらい力の込められていた兄ちゃんの目がふっと虚ろになり、その視線が床に落とされたのは。 「……どうして、」 ぽつりと呟かれた言葉は弱く、悲しげに響いた。 「どうして今更そんなことを言い出すんだ。だめだって言ったのは僕で、それでもと言い張ったのはキョンだった。茨の道を歩ませたくないと言ったのに、僕と一緒ならどんな道でも同じだと言って笑ったのはキョンの方だった。それなのに、どうして……」 ずるずるとその体から力が抜けるように床に座り込む。 思わず駆け寄りたくなる俺の体を、朝比奈さんが押さえた。 小声で囁かれる言葉は、 「あと少しだけ、我慢してください」 というもので、俺は唇を噛み締めて堪えた。 兄ちゃんの、独白としか思えないような言葉は、まだ続いていた。 「キョンのためなら、僕はいくらだって我慢出来る。キョンに好きな人が出来たなら、別れるし、祝福だってする。本心からは無理でも、表面上は笑顔だって浮かべられる。それが、キョンにとって幸せなら。でも、どうして、僕のためだなんて言うんだよ。僕は…キョンの側に、いさせて、ほしい、だけなの…に……」 俯いた兄ちゃんの顔は見えない。 だが、その膝の上に、ぱたりと水滴が落ちた。 ――兄ちゃんが、泣いてる? 信じられない思いがした。 兄ちゃんが泣くなんて。 それも、俺が原因で。 驚く俺をよそに、朝比奈さんは最後の一押しとばかりに言った。 「本当にキョンくんのことを思うんだったら、キョンくんがどう考えて、何を選ぶのかも、ちゃんと分かるんじゃないですか。キョンくんが、ずっと不安だったことも分からずに、古泉くんばっかりわがままを言うなんて、酷いです」 「…不安……?」 兄ちゃんが顔を上げた。 目はやはり、涙に濡れていて、やけに艶っぽくなっていた。 その目が、俺を見つめる。 「キョンが、不安を…? どうして…?」 「言わなきゃ、分かんねぇのかよ…」 兄ちゃんにつられたわけじゃないが、俺の目からはまたぞろ涙が零れだす。 呆れと、少しの失望のために。 でも、そんな鈍さを持っているのが兄ちゃんなのかもしれない。 「…ごめん」 謝る兄ちゃんに、俺はぐっと眉をしかめて言った。 「俺、はっ…、兄ちゃんが俺のこと本当は好きじゃないのかも知れないだとか、兄ちゃんが俺を求めるのは体だけなのかも知れないとか、色々考えちまうんだよ…! みっともないくらい、独占欲を持ってるのも、俺だけなんじゃないかって、思うし、それを、知られたら…っ、兄ちゃんに、き、嫌われるんじゃないかって、不安で、たまらなくて…」 しゃくり上げ、呼吸困難にすら陥りそうな俺の背中を、朝比奈さんが優しく撫でてくれる。 繰り返し繰り返し、辛抱強く。 それだけで、普通の男なら惚れ込んでしまいそうなほどに。 でも、俺の好きなのは兄ちゃんで、こうなってもやっぱり兄ちゃんが一番で。 「僕だって、みっともないくらい、キョンが好きだよ。独り占めどころか、部屋に閉じ込めて、誰の目にも触れさせないようにしたいくらい、好きだ。今だって、キョンを抱きしめてる朝比奈さんを、どうにかしてしまいたいくらい、キョンのことばかり考えてる。いつかキョンが誰か僕以上に好きな人を見つけるんじゃないかって、不安で、誰にも奪われたくなくて、キョンを縛り付けたいと思ってしまってる。体が目当てなんてそんなことはなくて、ただ、その、…キョンを、快楽なんてものででも縛れたらなんて不埒なことを、考えてしまってるだけ、で……」 ごめん、と兄ちゃんが呟いた。 朝比奈さんは深いため息を吐き、 「キョンくんも古泉くんも、ちゃんと話し合ってください。普段はよく話してるのに、どうして大事なことはちゃんと話し合えないの?」 と呆れたように言った。 実際、呆れ果てているんだろう。 「頭の中で考えてること、全部吐き出しちゃっても、お互い幻滅なんてしないんでしょう? それなら、言っちゃった方がいいですよ」 そう笑った朝比奈さんは、 「あたしでよければいつでも相談に乗りますし、必要なら古泉くんを懲らしめてあげるくらいのことはやりますから、いつでも言ってくださいね、キョンくん」 と俺の頭を一撫ですると立ち上がり、 「それじゃ、あたしはこれで」 と止める間もなく部屋を出て行った。 慌てて道を開けた兄ちゃんを軽く睨みつけ、 「……今度キョンくんを泣かせたら、古泉くんでも許しませんからね」 という一言を残して。 残された俺と兄ちゃんは、それぞれに泣き濡れた情けない顔を見合わせた。 俺は小さく笑い、 「そこまで兄ちゃんの顔が崩れるのって初めて見たな」 「…相手がキョンだからだよ。それで、結局どういうことだったの?」 困惑も露わに聞いてくる兄ちゃんに、少しだけにじり寄る。 「どういうことだと思った?」 「……最初は、機関が何かしたんだろうって思ったよ。キョンに何か言ったのかって森さんに詰め寄ったら、知らないって返されて、それで慌ててこっちに来たんだ」 「なんで、機関だと思ったんだ?」 首を傾げる俺に、兄ちゃんは苦い笑いを浮かべ、 「…昼前に、キョンを見たんだよ。僕の知らない女性と一緒にいるキョンを。その後に、あんな電話だろ? 機関のエージェントが接触したんだろうと思ったんだ」 朝比奈さん(大)があんな目立つ場所を指定したことには、兄ちゃんにそれ目撃させるという意味もあったのか。 「あれは誰?」 と聞いてくる兄ちゃんに、あっさりとは答えず、 「考えれば分かるんじゃないのか?」 「分からないから聞いてるんだろ」 「…朝比奈さんだ」 「朝比奈さん? ――ああ、じゃあ、今の朝比奈さんよりも未来からきたって言う…?」 「そうだ」 「その朝比奈さんがどうして?」 心底不思議そうな兄ちゃんに、俺はにやっと笑い、 「俺と兄ちゃんが擦れ違ってると、未来人にとっても大変だってことらしいぞ?」 と悪戯っぽく言ってやった。 それから俺たちは長々と話した。 今日の顛末だけでなく、これまでにあった色々なことについて、どう思ったかなど、事細かに。 俺が兄ちゃんと長門の関係に嫉妬していると白状すると兄ちゃんは心底驚き、 「そんな嫉妬されるような関係は微塵もないよ。地球の自転が反対向きになったところであり得ないね」 「……じゃあ聞くが、俺が朝比奈さんの前で、兄ちゃんに対してするように甘ったれた弟キャラのごとき状態をさらしていたとしたら、どう思う?」 「…それは……」 「妬くだろ。俺だって、同じなんだよ。たとえ何もないんだと分かってても、腹の中がもやもやして、そんな風に嫉妬してる自分が余計に嫌いになるんだ」 デフレスパイラルも真っ青な悪循環だと思うが、思っても止められないんだから困るわけだ。 「…ごめんね、気がつけなくて」 そう謝る兄ちゃんに、 「……本当に、兄ちゃんは俺が好きなんだよな? 無理したり嘘吐いたりしてないんだよな?」 「してないよ。してるわけないだろ。……キョンが、好きだよ。何よりも愛してる」 「…なら、信じるから、信じさせてくれ。それから、」 と俺は朝比奈さんに言われていたことを付け足した。 「どうもひとりで溜め込むのが悪いらしいから、朝比奈さんに相談したりするけど、いいよな?」 「……うん、しょうがないよね」 そう言いながらも兄ちゃんはどうも不満げで、 「嫌なのか?」 「…嫌というか……キョンと朝比奈さんが親しくなるのが、面白くないだけ」 ……俺の気持ちを思い知れ、と思った俺は酷くもなんともないはずだ。 |