終の事



兄ちゃんの様子がおかしい。
俺がそんな疑いを持ったのは、春休みに入る少し前のことだった。
学校生活については、ハルヒのせいであちこち振り回されることも特にはなく、とりあえず落ち着きを見せていたのだが、その代償なのか、俺の私生活には暗雲が垂れ込めていた。
兄ちゃんが、俺に隠し事をしている。
そのことは間違いない。
その意味するところは、別に、兄ちゃんが仕事のことやなんかで隠していることがあるという意味じゃない。
俺には言えない付き合いがあるということだ。
本当は、ずっとおかしいと思っていた。
兄ちゃんに、気軽に話せるような友人、それも女友達がいるなんてことはおかしいと。
まだ、彼女がいると言われた方がおかしくない。
兄ちゃんがどう考えているかはともかく、その彼女は付き合ってる気分なんじゃないかと思うのは、別にうがった見方ではないだろう。
それくらい兄ちゃんはかっこいいし、優秀だし、優しいし……。
もしかすると、兄ちゃんもその彼女のことが好きなのかもしれない。
そう思うだけで、泣きたくなった。
俺は男だし弟だから、本当なら兄ちゃんとそういう意味で一緒にはいられない存在だ。
それなのに、兄ちゃんがそうしてくれているのは、兄ちゃんが優しいからなのかもしれないと、一度不安に思ったらもう駄目だった。
それに加えて、あんなことがあったら、と俺は鬱々とした気分でその日のことを思い返した。

兄ちゃんの部屋に泊まりに行ったその日、俺が風呂から上がると、兄ちゃんが電話で誰かと話していた。
かすかに聞こえる声は、女の子特有の明るく高い声だ。
兄ちゃんは優しい笑みを浮かべたり、困惑したり、あるいはげんなりした様子を見せながら、話している。
「あのさ、話すのが楽しいのは分かるけど、ちょっと油断しすぎてない?」
苦笑混じりに口にした言葉は、砕けた口調のそれで、俺は兄ちゃんがそんな話し方で、俺以外の人間と話すのを俺は兄ちゃんとの再会以来、初めて見た。
兄ちゃんは悪戯っぽく笑いながら、
「失礼? どうだろうね。というか、今更じゃない?」
と話し続けつつ、俺に目を向けた。
そうして、そのまま手招きをする。
黙ったままおいで、と指を唇にあてながら。
俺は首を傾げながら兄ちゃんに近づいた。
すると兄ちゃんは、
「じゃあちょっとキョンにかわるね」
と言いながら、携帯を俺の耳に押し当てた。
「え?」
俺が戸惑っていると、数秒の間を空けて、
『――いっ……やああああああああああああ!!!』
ととんでもない絶叫が携帯の向こうから響き渡った。
『い、いっちゃんのばかっ! なんでよりによってキョンくんにかわったりするわけっ!? 信じらんないっ!!』
「え、あ、あの…?」
『っ、やばっ! 切ってなかった!』
ぷつっと通話が切れ、後はツーツーと虚しい音が響くだけだ。
俺はじんじんと痛む耳を押さえながら兄ちゃんに携帯を返し、
「一体なんだったんだ?」
「ふふ、ちょっと仕返しをと思ってね」
兄ちゃんはそう楽しげに笑い、
「いつも大変な目に遭わされてるから、たまにはね」
とよく分からないことを呟いた。
「…で、結局誰だったんだ?」
「あれ? 分からなかった?」
心底不思議そうに兄ちゃんはそう言い、
「ああ、そうか。声の感じが全然違うからね」
と納得した様子で頷いた。
「ひとりで納得してないで説明しろよ」
眉間に皺を寄せながら俺が聞くと、兄ちゃんは少し考え込み、それからニヤッと笑って、
「ゆきりん、だよ」
とだけ答えた。
ゆきりんって誰だよ。
それを追及するより前に、俺は、兄ちゃんがそんな風に素の表情で接し、またいっちゃんなんて呼び名で呼ばせるような相手がいることにショックを受けていた。
その日はそのまま沈み込み、何もせずに寝た。
兄ちゃんに抱きしめられた状態で寝たせいで、兄ちゃんの体温を感じ、なかなか寝付けなかったが。

回想を終えた俺は、もうひとつため息を吐いた。
それに加えて、昨日の兄ちゃんはおかしかった。
メールが届いた、と思ったら、今日街に出かけると決めていた予定をキャンセルするもので、しかも、機関の仕事かと聞いたら、違うと返された。
それなら一体なんだ、と問いかけようとしてやめたのは、もしもあの彼女に会うためだったら嫌だと思ったからだ。
兄ちゃんが俺じゃない誰かを俺より優先させるのかも知れないと思っただけで、目の前が真っ暗になったように思えた。
兄ちゃんが俺のものじゃなくなったら、と考えるだけで怖くなる。
何故なら、俺はもう知ってしまったんだ。
兄ちゃんのぬくもりも、優しさも、熱さも。
それは今更手放せるようなものじゃない。
だから俺は、どうやら誰かと出かけるらしい兄ちゃんを追いかけることに決め、いつもより早く起きたのだ。
こうなると起きれるというのも不思議なものだが、当然なのかもしれない。
何しろ、自分の未来が掛かっているようなもんだからな。
いくらなんでも早すぎるだろうと思いながら家を出たのが7時。
兄ちゃんの住むマンションの入り口が見える位置に陣取ったのもに似たような時間だ。
そう遠いわけじゃないからな。
兄ちゃんに見つからないようにと祈りながら、そのままその場所で待っていると、8時を過ぎたあたりで、兄ちゃんがマンションから出てきた。
服装は至ってラフな格好だ。
古泉として出かける時とは違う。
兄ちゃんとしての格好だろう。
ぐらっと目眩がしたのは、腹の辺りが怒りで煮えくり返ったせいに違いない。
兄ちゃんが、兄ちゃんとして誰かと会う。
相手が友達だと言うならそうかもしれないが、でも、それでも、嫌なものは嫌なんだ。
ムカムカしながら、それでも、兄ちゃんに気付かれないように慎重に、兄ちゃんの後を追う。
兄ちゃんは俺がこうやってついて行ったりしていることなど思ってもみないんだろう。
普段通りに、特に警戒する様子もなく歩いていく。
そうして着いたのは、俺たちがいつも待ち合わせに使う駅前で、そこには長門が立っていた。
「こんにちは」
兄ちゃんが穏やかな笑みで言い、長門が頷く。
それだけ見届けるのが、限界だった。
気がつくと俺は踵を返し、その場から逃れるように走り出していた。
目から涙が溢れそうになるのを必死に堪えながら、兄ちゃんの部屋に上がりこむ。
兄ちゃんの匂いの残るベッドにぼすんと音を立てて横になり、
「…兄ちゃんの、ばかっ」
と毒づいた。
長門があの電話の相手のはずはない。
つまり兄ちゃんは、長門と確実にもう一人は、あんな風に接する相手がいるってことなんだろう。
俺に、嘘を吐いてたんだ。
そのことが何よりショックで、兄ちゃんの枕に顔を押し付けて泣いた。
声を上げて泣くのがどうにも腹立たしく、無理矢理声を殺しながら。
そうするうちに、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
気がつくと、体が暖かかった。
……暖かいはずだ。
兄ちゃんが抱きついていやがる。
人の気も知らないで、すよすよと穏やかに寝てんじゃない。
コツン、と頭を小突いてやると、兄ちゃんが目を開けた。
「んん…キョン、おはよ……」
寝ぼけた声を出す兄ちゃんに、俺は不機嫌な声で返す。
「おはようじゃない」
「…今日も酷い目にあってさ……」
人の話を聞け。
というか、長門と逢引しておいて何が酷い目だ。
口には出さずに苛立つ俺を、兄ちゃんがぎゅっと抱きしめてくる。
「癒して」
にへらっと笑いながら。
俺は、じっと兄ちゃんを睨みつけ、口を開いた。
「……兄ちゃん」
「うん?」
「俺に、嘘吐いてたんだな」
「……え?」
とぼけるな。
「長門と会ってたんだろ」
俺が言うと、兄ちゃんはぎょっとした様子で目を見開いた。
「え、み、見たの?」
「…見た」
「うわ……ちなみにどの辺りで?」
「……駅前だけど」
「…あー……ギリギリセーフ、かな」
「何がだよ!」
あの後更にまずいところに行ったとでも言うのか?
食って掛かる俺に、兄ちゃんは苦笑して、
「いや、そう言うんじゃなくて……。ああでも、こうなったら同じか」
わけが分からん。
「兄ちゃん、最初から最後までしっかり説明しろっ!」
泣きそうになりながら俺がそう怒鳴ると兄ちゃんは、
「……そうだね。丁度いいかも知れない」
と言って携帯を取り出し、どこかへ電話を掛けた。
「あ、もしもし、ゆきりん? 本当に、油断し過ぎだよ。おかげでキョンが大変だから、今すぐこっちに来て。……拒否権? あるわけないだろ。常任理事国でもあるまいし」
目尻からこぼれそうになる涙をぐしぐしと袖で拭っていた俺の頭を、兄ちゃんが撫でる。
「一刻も早く来ないと、キョンに何を吹き込むか分からないよ。急いで来ること。いいね? ――しょうがないな、それでいいよ。宇宙人的能力で来られても困るし」
何を言ってるんだ、と戸惑う俺を、兄ちゃんは優しく抱きしめ、
「全部誤解だから、って口で言っても信じきれないだろ? 証拠もちゃんと見せるから、とりあえず落ち着いて。ね?」
そう言われても、しゃくり上げるのは止められない。
ひっく、としゃっくりでもついたような音が響く。
「何か飲む? 温かいココアでも入れようか」
そう言ってベッドから立ち上がろうとした兄ちゃんの裾を引っ張り、
「いい。…頼むから、側に、」
と口にしたが、その声は情けなく震えていた。
兄ちゃんは俺の手を優しく握り、
「分かった。側にいるよ。……ごめんね、妙な心配かけて」
と言った。
それからしばらくして、ドアフォンが鳴った。
「やっと来た」
ほっとしたように呟いた兄ちゃんが玄関の方へ向かって、
「いいから入ってきて」
と言うと、玄関で鍵の開く音がして、続いてドアが開いた。
部屋の鍵まで渡してるのか、と愕然としていると、姿を見せたのは長門だった。
いつものように感情を感じさせない顔だが、いつもとどこか違っているように思えたのは、俺が普通の状態じゃないからだろうか。
兄ちゃんは困ったように笑いながら、
「説明してくれるよね?」
長門は黙ったまま答えない。
「ゆきりん」
咎めるように兄ちゃんが言うと、長門は兄ちゃんを静かに睨んだ。
「しょうがないだろ。それとも何? このまま僕がキョンに振られて、捨てられてもいいって言うつもり?」
「……そうは言わない。でも」
「大丈夫だって。僕が信じられない?」
「……」
長門の返事は頷きだった。
兄ちゃんはがくっと肩を落とし、
「じゃあ、キョンは? キョンのことは信じられるだろ」
長門は頷いたが、どこか迷っているようにも見えた。
「……言いたくない」
「気持ちは分かるけど、もう無理だろ。大体、こんなことになったのも、ゆきりんが手を抜いたせいなんだから、責任くらい果たしてくれないと」
そう言った兄ちゃんは、俺に向かって、
「キョンも、ちゃんと知りたいんだよね? 本当のことが」
当然、俺は頷き、
「長門、頼む。…教えてくれ」
長門は数十秒考え込んだ後、小さく頷いた。
「…驚かせることになるけど、」
そう言って顔を上げた長門は、いつもの長門じゃなかった。
がっくりきたような表情――そう、それは紛れもなく表情といえる変化だった。
誰が見たって、どう感じているのか分かるような、それこそデフォルメされたアニメのキャラもかくやというような、恐ろしく分かりやすい表情だ。
「私、本当は無口キャラじゃないの! 甘いものとか好きだし、色々なところに行ってみたいとかも思うんだよ。で、一人じゃ行き難いところとか、いっちゃんに付き合ってもらってたの!」
――目眩がしたなんて可愛いもんじゃない。
一瞬意識を飛ばしたと言ってもいいくらいだ。
「な、長門…?」
「びっくりさせてごめんね、キョンくん。いっちゃんとはなんて言うか、その、本当の自分を隠してる仲間と言うか、何と言うかで…、キョンくんが邪推するような関係じゃないんだよ」
兄ちゃんも頷き、
「前から言ってるだろ? 僕がキョンへの思いをどうしたらいいか分からなくて困っていた時に背中を押してもらったって。それから、怪しげなローションと猫耳セットくれたのもゆきりんだよ」
「ぎゃーっ、いっちゃん、わざわざ言わないでよっ!」
真っ赤になって叫ぶ長門。
「言われたら困るようなものを送りつけて、あまつさえ写真を寄越せなんて言う方が悪いんだろ」
憤然と言い放つ兄ちゃん。
SOS団でのふたりしか知らなかったら、我が目を疑うに違いない光景だ。
俺も、自分の頭がおかしくなったんじゃないかと思った。
だがどうやらこれは現実らしい。
ぎゃあぎゃあと言い合っているふたりを見ていれば、そこに恋愛感情なんて欠片もないことが分かる。
仲のいい友達同士がじゃれてるだけにしか見えない。
多少、子供っぽくも見えるが、それは別にどうでもいい。
重要なのは、
「…つまり、兄ちゃんが浮気してたとか、そういうことじゃ、ないんだな?」
俺が聞くと、兄ちゃんは大きく頷き、長門も、
「そうだよ。っていうか、いっちゃんは私の好みじゃないしっ」
と言い切った。
「……よかった」
ほっとして笑うと、
「かーわーいーいーっ!」
と叫んだ長門に抱きしめられた。
「な、長門!?」
「いやん、どうせならゆきりんって呼んでよ!」
遠慮の欠片もなく俺をベッドの上に押し倒してきた長門を、兄ちゃんが引き剥がしてくれた。
「いくらお世話になったあなたでも、そんな暴挙は許しませんよ…」
声にすら怒気をはらませて言った兄ちゃんの顔は、父親そっくりで正直怖かった。
怖いんだが、……少しだけドキドキしたなんてことは、口が裂けても言えん。
「もうっ、いっちゃんのケチ!」
「ケチで結構!」
「じゃあむっつりスケベ!」
などと感情も露わに言う長門に、俺は苦笑するしかない。
驚かされはしたが、長門がこんな風に感情を持っているということはいいことだろう。
…俺が受け入れるにはまだ少し掛かりそうではあるが。
何にせよ、浮気じゃなくてよかった、と俺は心底ほっとした。