一度家に帰った後、着替えを済ませて家を出た。 抱えているカバンには、明日の着替えと泊まりに行く口実に使った勉強道具が入っている。 本当はもっと早く家を出たかったのだが、お袋と妹に捕まり、少し時間を取られた。 お袋は、いつも泊めてもらって悪いから何か持っていけとうるさいし、妹は妹で行き先やなんかを追及してきていた。 それを適当にあしらってきたのだ。 今日も放課後は一緒にゲームをして過ごしたんだから、もう少し落ち着いてたっていいだろうに、それでも冷静になれないくらい、兄ちゃんに会えることが嬉しい。 エレベーターを待つのももどかしくて階段を駆け上がり、兄ちゃんの部屋の前に立つと、そのままドアを開けた。 ドアフォンを鳴らさなかったのはそれでいいと言われていたからだ。 「ただいま、兄ちゃん」 冗談めかしてそう言うと、台所から、 「お帰り」 と笑いを帯びた声が聞こえてきた。 荷物を放り出して台所に入ると、兄ちゃんが野菜を洗っているところだった。 「今日の晩飯は?」 「オムライスだよ。好きだったろ?」 さて、どうだったかな。 今は特に好きでも嫌いでもないが、小さい頃なら好きだったかもしれない。 何にせよ、 「兄ちゃんが作るんだったら、よっぽど変なものじゃない限り好きだぞ」 と兄ちゃんに抱きついた。 兄ちゃんの肩に頭を押し付けると、兄ちゃんの匂いがする。 「キョンは甘えん坊だね」 からかうように言われても、嫌じゃない。 「兄ちゃんが甘やかすからだろ」 笑いながら言い返すと、 「キョンが可愛いから甘やかしちゃうんだよ」 どっちが先でもいいさ。 重要なのは俺は兄ちゃんに甘やかしてもらいたくて、兄ちゃんは俺を甘やかしたいってことだろ。 需要と供給のバランスが取れていていいじゃないか。 「そういうものなのかな」 くすくす笑いながらそう呟いた兄ちゃんが、思い出したように言った。 「昨日、ちょっとした用があって森さんと会ったんだけどね、」 森さんと? 「心配しなくても、仕事上の連絡事項やなんかがあったってだけだよ」 別に、兄ちゃんを疑ったわけじゃない。 ただ少し、不安になったと言うだけだ。 「それ、妬いたって言うんじゃないのかい?」 「…知らん」 呟きながら、兄ちゃんを抱きしめる力を少し強めると、兄ちゃんが声を立てて笑った。 「妬いてもらえるのも嬉しいから、そう照れなくてもいいよ。…それで、その時森さんが言ってたんだ。最近機嫌がいいですねって」 「…機嫌?」 「どうも、いくらかぴりぴりしてたらしいよ? 自分では気付いてなかったんだけど」 「それって、」 「キョンのことを好きになっちゃって、どうしたらいいのか悩んでたせいだろうね。流石に理由までは見抜かれてなかったけど、指摘された時はヒヤッとしたよ」 「…俺も」 と俺は苦笑しながら、 「ハルヒに、元気になったって言われた。ハルヒに言わせると、少し前まで酷い顔だったらしいぞ」 「僕も気がつかなかったのに、彼女はやっぱり凄いですね」 素直に感嘆する兄ちゃんに、 「朝比奈さんにも、心配されてたらしい。長門はなにも言ってこなかったが、多分見抜かれてたんだろうな…」 と言うと、兄ちゃんはなんとも言いがたい顔をした。 答えに窮したような、笑いを堪えているような、微妙な表情だ。 「兄ちゃん? どうかしたのか?」 「いや、何でもないよ」 と兄ちゃんは小さく笑い、それから、そっとため息を吐いた。 ……一体何なんだ。 「何にせよ、キョンが元気になって、涼宮さんたちの心配の種がなくなったのはいいことだね」 「まあな。それも、兄ちゃんのおかげだ」 言いながら、兄ちゃんの頬にキスすると、兄ちゃんがくすぐったそうに笑った。 「なあ、兄ちゃん、やっぱりこうしていられた方がいいだろ? 隠してた頃より、心配掛けなくて済むし、自分たちも楽だ」 「そうだね」 兄ちゃんの立場や男同士だってことを考えれば、どうしたって、普通の男女交際みたいにデートしたり、堂々と人前で過ごすことだって出来ないだろうが、それでもこうやって一緒にいて、笑っていられるだけで、俺は十分幸せだ。 兄ちゃんを好きになってよかったと、それだけで思う。 「…健気だなぁ、もう」 そう言いながら、兄ちゃんがタオルで手を拭い、振り返った。 冷たくなった手で抱きしめられ、キスされる。 もっとべたべた甘えたい。 ここは兄ちゃんの部屋で、誰かに見られてたりするわけじゃないんだから、いいだろ、別に。 「大好きだよ、キョン」 「俺も」 抱き合ってるだけでも満たされる気がするくらい、兄ちゃんが大好きだ。 「ありがと」 そう言った兄ちゃんが、すまなそうな顔をし、 「ごめん、包丁使うから、テーブルで待っててくれるかな?」 「分かった」 頷いたものの、後ろ髪を引かれる思いを抱くのはしょうがないだろう。 俺は兄ちゃんの姿が見える位置に腰を下ろし、机に突っ伏した。 料理をする兄ちゃんは楽しそうで、見ていても退屈はしないんだが、捨て置かれるのはやっぱり寂しい。 恨みがましい視線を向けていると、段々いい匂いが漂い始めた。 「まだか?」 俺が聞くと、 「まだまだだよ」 「むぅ……」 もう結構待ったと思うのに、まだ出来ないのか。 床に寝そべり、ごろごろと転がっていると、振り返った兄ちゃんが、 「やっぱりキョンって猫みたいだね」 とからかうように、面白がるように言った。 俺は不貞腐れつつ、 「こんなに聞き分けのいい猫なんかいねぇよ」 猫ってのはもっとわがままなもんだ。 あのシャミセンでさえ、言うことを聞かない時は本当に聞かないからな。 「そうなんだ」 そう笑った兄ちゃんに、 「猫みたいだって言うなら、もっとわがまま言うぞ」 拗ねるような調子で言うと、 「いいよ」 とあっさり返された。 「…いいのか?」 「うん。キョンにならどんなわがままを言われても嬉しいし、それに、キョンなら非常識な無茶は言わないだろ?」 よく理解されていると喜ぶべきなのか、それとも見透かされていることを腹立たしく思うべきなのかよく分からないまま、俺はそろそろと体を起こすと兄ちゃんの近くにまで行った。 兄ちゃんが火を使っているから、邪魔にならないように、少し離れた場所に立つ。 「早く食べたい」 「うん、もう少し待っててね」 「…オムライスがじゃなくて、」 ――兄ちゃんが。 次の瞬間兄ちゃんはオムライスに使うトマトケチャップ並に真っ赤になった。 俺はにやにやしながら兄ちゃんに近づくと、軽く背伸びをしてその頬にキスをした。 「待ってるからな」 そう言って元の位置に戻って座ると、兄ちゃんが盛大にため息を吐くのが聞こえたが、それは呆れているものではなかったので、よしとしよう。 |