日曜日の朝、僕が目を覚ますと、腕の中に小さな子供が眠っていた。 見覚えのある、純粋無垢な寝顔とスウェット。 ……キョン? まさかと思いつつ否定は出来ない。 昨日眠った時に僕が抱きしめていたのは間違いなくキョンだった。 だから、これが小さくなったキョンだと思うことはそう難しいことではない。 原因? 涼宮さんの気まぐれな能力の発露か、ゆきりんの悪戯だろう。 どちらにせよ、ゆきりんに言えば何とかなるに違いない。 僕はキョン(仮)を起こさないように、そっとベッドから下りると、携帯を持って隣りの部屋に移動した。 その次の瞬間、 「呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃーん!」 とけたたましい声を上げてゆきりんが飛び込んできた。 「……まだ呼んでないよ」 冷ややかに言ってやると、 「もうっ、いっちゃんったらつれないなぁ。せっかく私がキョンくんと遊べそうなチャンスなのに」 うん、今すぐ帰ってくれる? 「い・や」 とゆきりんは涼宮さんみたいなイイ笑顔で言い放ち、ひょいひょいと上がり込んできた。 玄関の鍵を掛け忘れたなんてことがありえない以上、彼女がその宇宙人的能力で開けたんだろうな。 ため息を吐きながら鍵を掛けなおすのは、誰かが突然やってきたら困るからだ。 チェーンまでしっかり掛けなおした後、僕が寝室に戻ると、ゆきりんが眠るキョン(ほぼ間違いないだろう)のほっぺたをつついていた。 「何やってんだよ」 「いやー、ふにふにで気持ちいいなと思って」 「起きちゃうだろ」 「いいじゃん、ちょっとくらい」 「だめ。キョンは自然に起きるまでほっとかないと機嫌悪くなるんだから」 「お兄ちゃんだねー。もう十何年も前のことなのに、覚えてんだ」 「当たり前だろ」 「……多分、当たり前じゃないと思うよ」 呆れきった顔で言ったゆきりんを連れて、台所に戻る。 「お茶くらい入れてくれるよね?」 というゆきりんの脅しに屈して、手荒くコーヒーを入れる。 お茶? 切らしてたんだよ。 「で、キョンがあんなことになってるのはゆきりんのせい? それとも、涼宮さんのせい?」 僕が問うと、ゆきりんはずずーっとコーヒーをすすり、 「にっがぁ〜……」 と嫌そうな顔で呟き、砂糖入れから砂糖をがしがしと移動させた。 それ、絶対甘い。 「私はお茶って言ったのに、コーヒーしかないいっちゃん家が悪いんだよ」 と唇を尖らせた彼女だったが、 「キョンくんがちっちゃくなってるのはハルちゃんのせいだよ。私じゃないから私に当たらないでよ?」 やっと本題を口にした。 「それから、キョンくんは中身までちっちゃくなってるからね?」 「…つまり、小さい頃のキョンに戻ってるってこと?」 「そ」 それって大変じゃないか。 今のキョンには自分の居場所も分からないってことだろう。 目が覚めたら不安になって泣くだけじゃないか。 「一応私も干渉したから、ある程度誤魔化せるはずだけど」 「ある程度って?」 僕が不審の目を向けると、ゆきりんは苦笑しつつ言った。 「そんな怖い顔しないでよ。――まずねー、名前はキョンって呼んだので通じるようにしたよ。次に、ここにいるのはお母さんに預けられたからだってことにしてあるから、そのへんは大丈夫」 「……そういうことが出来るんだったら、どうして中身まで退行しないようにしなかったんだよ」 「だって、そうしたら私がキョンくんと遊べないでしょ?」 しれっとした顔で言ったゆきりんに、僕はため息を吐くしかない。 「つまり、今すぐ戻すつもりなんてないってことだね?」 「よく分かってるねっ、流石はいっちゃん!」 褒められても嬉しくない! キョンが目を覚ましてきたのは、昼と言っても構わないような時間帯だった。 とてとてとおぼつかない足取りで起き出して来たキョンは、部屋の中をぐるっと見回して、いきなりじわりと涙を滲ませた。 「キョン!?」 慌てて駆け寄る僕を睨むように見上げて、 「にぃちゃんどこぉ…?」 と今にも泣き出しそうな声で言った。 まさか、ここです、と言う訳にも行かず、 「えっと、今日は僕がお兄さんの代わりをしますから、泣かないでください。ね?」 「や!」 不機嫌に頬を膨らませて、キョンは僕から顔を逸らした。 仕方がないとはいえ傷つくよ…。 がっくり来ている僕を押し退けるようにして、ゆきりんはキョンを抱え上げると、 「キョンくんかわいーっ!」 と歓声を上げた。 その声の大きさや発言に戸惑うキョンに、 「キョンくん、私はゆきりんだよっ! 一緒に遊ぼうねー!」 と言いながら振り回す。 それに面食らうより早く、キョンはきゃっきゃと声を上げて笑っていた。 ああ、そういえばキョンは小さい頃、抱っこされて振り回されるのが好きだったんだっけ。 年が近いせいでそれが出来なくて、悔しく思ったことを未だに覚えている自分に呆れつつ、 「ゆきりん、怪我はさせないでよ?」 と釘を刺すと、 「分かってるよー!」 と上機嫌に返された。 …本当に聞こえてるんだろうね? 怪しいところだが、それを言ったってしょうがないだろう。 ため息を吐きつつ背を向けた僕にゆきりんが、 「いっちゃんどこ行くの?」 「そろそろお昼だろ。お昼ご飯作るよ」 「よろしく! 私はパスタがいいなー」 「はいはい」 ソースをどうしようか、と考えながら鍋にお湯を沸かし、冷蔵庫を探る。 ……子供向けの方がいいよね? スパゲッティー・ナポリタンでいいか。 たしか、キョンも好きだったはずだし。 子供って何でケチャップ味が好きなんだろう。 料理することを必死に考えるのは、ゆきりんとキョンが楽しそうにしている声をあまり聞いていたくないためだ。 むしゃくしゃする気持ちを玉ねぎにぶつけていると泣けてきた。 誰がなんというと玉ねぎのせいだ。 「うー…目が痛い…」 思わず唸ると、意外にも至近距離で声がした。 「だいじょぶ?」 「え」 涙で前が見えなくなりかけている目をこすって足元を見ると、キョンが僕を見ていた。 キョンはぱっと驚いた顔になると、ゆきりんに向かって、 「おっきいにいちゃん泣いてる!」 と報告した。 しなくっていいんだよそんな報告! ゆきりんはにやにや笑いながら、 「キョンくんがよしよししてあげたら泣きやむと思うよ?」 なんて唆した。 何がしたいんだよ、本当に。 「いっちゃんの理性を試したいってところかな?」 たちが悪いにもほどがあるよ、ゆきりん。 げんなりする僕に、キョンは思いっきり手を伸ばした後、むっと不満な顔をした。 「どうかしたのかい? キョン」 「…しゃがんで」 「いいよ?」 何をしたいのか分からないけど。 僕は包丁を置いてキョンと目の高さを合わせるようにしゃがんだ。 そうすると、キョンが僕の頭を撫でて、 「いたいのいたいのとんでけー」 ……可愛過ぎるんだけど、でも、だからこそ、ちょっと勘弁してもらいたい。 一瞬、本当に理性が吹っ飛ぶかと思ったよ。 「いたくなくなった?」 「え、ええ、ありがとうございます」 思わず敬語になりながらそう言うと、キョンがにこっと笑った。 「おっきいにいちゃん、なんて名前なの?」 「古泉一樹だよ」 反射的にそう答えると、キョンが大きく目を見開いた。 しまった、と思ってももう遅い。 「…にいちゃん?」 驚いていたはずの目がきらきらと輝き、小さな手が僕の髪や顔を撫で回す。 そうやって確かめたのか、 「にいちゃんだぁ…! にいちゃん、おっきくなったの?」 「う、え、まあ、そんなところ…かな…」 正確にはキョンが縮んでるんだけど。 「なんで早く言わないんだよ」 ふくれっ面になったキョンが、次の瞬間には悲しそうな顔になる。 感情と表情の変化が目まぐるしすぎて追いかけるのも大変だ。 「にいちゃんがいなくなったのかと思って、こわくなっただろ…」 「ごめんね。いきなり僕が兄ちゃんだよって言っても、キョンには分からないと思って……」 「…にいちゃんだって、わかんなくて、ごめん」 泣きそうな顔で謝るキョンを、思い切り抱きしめた。 「にいちゃん、いたいって…!」 文句を言いながらも、キョンは嬉しそうだ。 元々、痛いくらい抱きしめられるのが好きだからだろう。 「大好きだよ、キョン」 思わずそう囁くと、キョンは嬉しそうに笑って、 「ぼくも、にいちゃんがだいすきだから」 と僕の頬に触れるだけのキスをしてきた。 「きょ、キョン!?」 慌てる僕にキョンはきょとんとした顔をして、 「どうかした?」 ……ああ、そういえば小さい頃はよく頬にキスしてたんだっけ…。 このキョンには親愛の情を示す以上の意味などない行為なんだと思っても、どぎまぎする。 「こーら! そこのショタコン止まりなさーいっ!」 と僕の頭をゆきりんが軽く叩いてくれなかったらどうなってたか分からない。 「う、ありがとう…」 僕がお礼を言うと、 「犯罪者なんてSOS団には必要ないんだからねっ!」 と涼宮さんの真似をするような調子で言われた。 そのゆきりんへキョンが、 「にいちゃんいじめちゃ、やだ」 と睨みあげた。 可愛いけど、別にいじめられてはいないよ。 ……今は。 「今はもなにも別にいっちゃんをいじめたことなんかないでしょー」 とゆきりんは唇を尖らせているけど、それについてはコメントを差し控えさせてもらいたい。 「にいちゃん、にいちゃんがごはん作るの?」 キラキラした目で僕を見上げながら、キョンが聞いてくる。 「そうだよ。今日はスパゲッティー作るからね。出来るまで、ゆきりんと遊んでてくれるかな?」 「わかった」 言いながらキョンは僕の服をきゅっと握り締め、 「後であそんでくれるよな、にいちゃん」 「もちろん」 僕がそういうだけでぱっと嬉しそうに笑ったキョンがゆきりんのところへ走っていく。 ああもうほんとに可愛いなぁ。 にへらっと笑いながら僕は料理を再開した。 聞こえてくる楽しそうな物音が寂しくないのは、キョンが僕のことをちゃんと認識してくれて、待っててくれるからだろう。 手早く仕上げたスパゲッティーはなかなかの出来映えで、ゆきりんもキョンもおかわりをしてくれた。 「ごちそうさまでした!」 元気よく言ったキョンの頭を撫でて、 「よく食べたね」 と褒めると、嬉しそうにキョンが笑った。 「にいちゃん、あそぼ」 そう言ってくるキョンに僕が逆らえるはずなどなく、片付けもほとんどしないでキョンが疲れて眠るまで遊んだ。 と言っても、僕の部屋に子供向けのおもちゃなんてないので、抱っこしたキョンをぐるぐる回してあげたり、高い高いをしてあげたくらいだったけれど。 僕の手を握ったまま、カーペットの上で大の字になって眠ったキョンの髪を撫でているとゆきりんが、 「んじゃ、可愛いキョンくんも堪能したことだし、そろそろ帰るね」 「って、キョンを戻さずに帰るつもり?」 それは流石にまずいだろ、と慌てる僕に、ゆきりんは笑った。 にやりとかにんまりとか、とにかくそういう意地の悪い笑みだった。 「眠り姫だよ、いっちゃん」 楽しそうにそう言って、さっさと出て行ってしまった。 「眠り姫って……」 その意味するところはひとつしかないだろう。 でも、――と僕はキョンを見つめた。 ぷっくらとしたピンク色の唇はいつもよりずっと小さくて可愛らしい。 それも眠っている相手にキスするなんて、倫理的にどうなんだろう。 だけど、キョンが元に戻ってくれないと困る。 僕はキョンの顔の横に手をつくと、そろっと顔を近づけた。 罪悪感を覚えながら、その唇に軽く自分のそれを触れさせると、キョンが一瞬身動ぎした。 するとその体が少しずつ大きくなっていった。 まるで成長を早送りするように。 僕が見ることが出来なかった、小学生の頃のキョンや、中学生の頃のキョン。 眠っている姿だけだったけれど、それを見れたことが酷く嬉しくて、思わずキョンを抱きしめると、 「ん…っ……兄ちゃん…?」 「おはよう、キョン」 「おはよう…っていうか今何時だ?」 「もう夕方の4時だよ」 「……マジか…?」 困惑するキョンに時計を見せると、 「勿体ねえ…。せっかくの日曜日なのに、何やってんだろ…」 がっくりするキョンも可愛い、と思いながら抱きしめなおすと、 「…で、何で俺は床で寝てるんだ? それともこれは兄ちゃんに押し倒されてんのか?」 「さあ、どっちだろうね?」 そう言いながら僕はキョンに口付けて、 「どんなキョンでも、大好きだよ」 キョンは怪訝な顔をしながらも、 「俺も、兄ちゃんが大好きだぞ。…どんな兄ちゃんでもとは言いかねるが」 俺のことを知らない兄ちゃんは嫌だ、とぼやくキョンが可愛くて、僕はもう一度キョンにキスをした。 |