思い事



家に帰り、そのまま風呂場へ直行する。
脱衣所の鏡に映った自分の体に、赤い鬱血の痕が点々と続いているのが恥ずかしい。
それでも、それが嬉しくて堪らないこともまた事実だ。
俺はつ、と腹に指を走らせた。
ここにさっき兄ちゃんのが、と思うだけで顔が赤くなる。
……本当に、夢じゃないんだよな?
俺の頭がおかしくなったわけでもないはずだ。
兄ちゃんを好きだと言えて、兄ちゃんにも受け容れられて、…あんなことまでして。
嬉し過ぎて死ぬんじゃないかってくらい、嬉しかった。
風呂に入ってすぐしたことは、頭から冷水を被ることだった。
少し冷静になれ。
落ち着かないと妹かお袋に気付かれる。
妹に見つかった日には、
「おかーさーん、キョンくんがへーん」
とか何とか言われるのはまず間違いない。
それでも、顔が緩むのをどうしても止められない。
額、頬、喉、肩と、兄ちゃんが触れた部分に手を這わせる。
胸、腹、腰、……それから、と思い出すだけで顔が赤くなる。
これから更に恥ずかしいことをすると思うと余計に恥ずかしくなるくせに、それを期待するのは、兄ちゃんがそれを望んでくれることが嬉しいからだけじゃない。
今日、兄ちゃんにされたことが気持ちよかったからというのも理由として大きいところは言い逃れのしようもないところであり、つまり、その、なんだ。
俺も普通に性欲くらい持ち合わせてる男子高校生だということだ。
……その対象が兄ちゃんで、かつ抱かれる側というのもどうかと思わないでもないのだが、この場合重要なのは相手が兄ちゃんだということなんだから、そこには目を瞑ろう。
単純に快楽を追うばかりじゃなく、兄ちゃんとひとつになりたいと思っているんだから、まだマシなはずだしな。
湯船に浸かったまま、兄ちゃんの指が入っていたそこへ、指を押し入れる。
お湯のせいか、それともさっきの行為のせいか、思ったほど抵抗もなく、指は入った。
かすかなむず痒さを感じ、指に感じる締め付けの強さに驚く。
これなら、兄ちゃんが無理をしなかったのも納得出来る。
兄ちゃんを疑うわけじゃないが、一瞬、やっぱり俺となんかしたくないと思われたんじゃないかと思ってしまっていたから、別の理由が見つかったことは精神衛生上かなりありがたいことだった。
というか、
「…本当に狭いな」
ここにあの兄ちゃんのを入れるって、普通に考えると絶対に怪我する気がするんだが、慣らせば平気なのか?
兄ちゃんのためなら――慣らしてみようか。
風呂から上がった時、俺の顔が真っ赤だった理由が、のぼせたせいばかりじゃないことは、言うまでもないだろう。


キョンが帰った後、ひとり分の夕食を作りながら僕はため息を吐いた。
「……やっちゃったよ…!」
ああもうほんとどうするんだ。
絶対もうこれ後に退けないよ。
キョンの心情を思えば、今更キョンを突き放せるはずもなく、それ以上に僕自身がキョンを手離せない。
それくらい、キョンは可愛かった。
潤んだ瞳も、赤くなった頬も、日頃見せているだらしなさの下にどれだけのものを隠してるんだろうかと思わせるくらい、艶かしくて。
それにあの声。
キョンは自覚してるんだろうか。
自分がどれくらい色気のある声を出して、僕を誘っていたかなんて。
分かっていたとしても、声自体は無意識に出しているんだろう。
思い出すだけで血が一点に集まりそうで、慌てて考えを逸らした。
キョンにずっと辛い思いをさせていたんだ、と思うと申し訳ない気持ちになる。
でも、僕から動くことは僕の立場上出来ないことだった。
それに、キョンの考えが変わるかもしれないと、ある種期待にも似た思いを抱いてもいたのだ。
だから、隠し続けて、キョンの思いには気がつかないふりをし続けた。
それは案外難しいことではなかった。
何故なら、それくらいキョンの演技は完璧で、もしあの時、実際にキョンの口から聞いてなかったら、キョンが僕を好きだなんてことは全く信じられなかっただろう。
たとえ、キョンから告白されても、本気と思えなかったに違いない。
――もう弟としてのキョンを可愛がれないのかな。
そう思うと少し惜しい。
けれど、もう我慢しなくていいかと思うと気が楽になることも確かなことだ。
本当に、ここしばらくどんなに辛かったか。
キョンを抱きしめたい、頬にでもいいからキスしたい、触れたい、などと思いながら、ずっと我慢し続けてきた。
自分に許すのは精々、兄として不自然でないレベルの接触で、それはキョンへの恋愛感情を自覚する以前の接触と比べるとずっと少ないものだったから、欲求不満は溜まるばかりで。
……というか、キョン、ごめん。
と僕は心の中で手を合わせた。
僕も、キョンで抜いた。
それもキョンみたいに、手を想像するなんて可愛らしいものじゃなく、欲望に塗れた妄想で抜いてた。
脳内ギャラリーを覗けばとんでもないエロ画像が飛び出してくることはまず間違いなく、僕としてはそのあたりまでゆきりんに覗かれていないことを祈るばかりだ。
……ゆきりん、と言えば、まさかさっきのあれも覗かれていたんだろうか。
ないとは言い切れない。
それでも、彼女の良識を信じたいような気もする。
あれだけ頭の中を覗かれてきた身としては、今更と言う気もするんだが、それでも、キョンのあんな艶やかな姿を僕以外が見たかと思うと、たとえ相手がゆきりんでも許せない気分になる。
その時、携帯が鳴った。
バカに明るい音楽はゆきりん専用の着信音だ。
僕は怖々と携帯を取り上げ、
「もしも…」
『人を覗き魔みたいに言うなーっ!!!』
キィン、と頭に響くような声が飛び出したのへ、僕は思いっきり顔を顰めた。
「実際覗き魔だろ!」
そう反論した僕は間違ってないはずだ。
『いっちゃんなんかむっつりスケベのくせに』
それは自覚してるけど今は関係ないだろ。
『大体ね、今日うまく行ったのだって誰のおかげだと思ってんのよ! 私がどれだけ骨を折ったと思ってんの?』
「……どういうこと?」
『昼間、学校で話したでしょ』
「くだらなく、かつどうでもいいことを長々とね」
おかげで僕は昼食を食いはぐれてしまった。
『一食くらい抜いたって平気でしょ。昼食抜きは私も同じなんだしっ』
「で、あれが何だって言うの?」
『あれ、キョンくんに見せるためにしたんだよ』
「はぁ!?」
何をやってんだよこの宇宙人は。
『そうでもしなきゃ、キョンくんはいっちゃんに告白しなかったでしょ。自分以外に、いっちゃんが素の姿を見せる相手がいる、親しくしてる女の子がいる、って思ったからこそ思い切れたのであって、そうじゃなかったら絶対まだまだ黙ってて、最終的にヤンデレエンドよ』
ヤンデレって何。
ヤンキーの類語か何かかな。
『とーにーかーくーっ、私に感謝しなさいっ!!!』
「……ありがとう?」
『……疑問系ってのがちょっと嫌だけどまあいいわ。許したげる』
それから、とゆきりんはまだ厳しさの残る声で言った。
『ちゃんと、覚悟決めなさいよっ? キョンくんを不安にさせたり、悲しませたりしないように。でも、ちゃんと世界が現状を維持していけるようにってことも考えながら、慎重に行動して』
「分かってるけど……」
『けど何よ?』
「……本当に、よかったんだろうか。こんなことになって」
『もう決まったことをぐじぐじ言ってると頭の中にカビが生えるよ? 今すべきことは腹を決めて、キョンくんを守ってくためにどうするか考えることでしょ!』
そう出来るだけの強さが、僕にあるだろうか。
『ないなら獲得しなさい! キョンくんのためなら、何だって出来るでしょ!?』
「……ああ、そうだね」
ゆきりんの言う通りかもしれない。
キョンのため、と思って色々なことをやってきた。
思えば、本当に小さな頃から僕の行動の原動力と言えばキョンで、キョンを笑顔にするため、キョンの涙を止めるため、キョンに再会するために、とそんなことばかりだった。
そうして、そんな生き方を、僕はむしろ誇りにすら思っていて。
それならこれからも、同じようにしていくだけと、そう言ってしまえるのかもしれない。
「……ありがとう、ゆきりん」
今度こそ、ちゃんとお礼を言うと、電話の向こうでゆきりんが小さく笑ったのが分かった。
『それでいいよ。私は笑ってるキョンくんが一番好きだけど、次に好きなのは落ち着いて笑ってるいっちゃんだから』
「ありがとう。…本当に、色々お世話になって、ごめんね。お詫びに、っていうとなんだか違う気もするけど、……キョンに、ゆきりんのことを伝えても、いいかな?」
『……』
「……あの、ゆきりん…?」
『無理。というか不可能だから止めて』
珍しく、必死の声だった。
「どうして?」
『だって、絶対無理だよ。キョンくん、私には夢持っちゃってるし!』
ああそれはそうかもしれない。
キョンは、朝比奈さんに憧れるのと同じように、ゆきりんには妹や娘に対するような優しい感情を抱いてるようだから。
「でも多分、キョンもゆきりんの笑顔とか見たいと思ってるよ」
『ううん、笑顔は特に無理だと思う。改変した世界で私の笑顔見て、愕然としてたし! ってゆーかさ、いっちゃん、キョンくんったら私が『ゆきりん』って呼んでって言っただけであんなにキョドってたんだよ!? 明らかに無理って分かるよね!?』
「あの時は僕も嫌がられたよ?」
『それは、『いっちゃん』と『兄ちゃん』で響きが似てたせいで恥ずかしかったからでしょ! とにかく、絶対無理だからやめて! キョンくんとぎこちなくなりたくないの!』
人のことはあれだけ唆しておいて、よく言うよ。
「大丈夫だと思うんだけどな」
『嫌ったら嫌!』
「はいはい」
と僕が笑ったところで、いきなりゆきりんが言った。
『あ、もう切るね』
「どうかした?」
『ん、キョンくんがいっちゃんに電話掛けそうだから。じゃね』
「え」
僕が戸惑っている間に電話は切れ、すぐに着信音が響く。
便利さをありがたがるべきなんだか、それともプライバシーが侵害され過ぎてると困惑するべきなんだか分からなくなりながら、僕は電話を取った。
「もしもし」
『あ…兄ちゃん……』
聞こえてきたキョンの声はやけに自信なさげで弱々しかった。
「どうかした? 元気がないね」
『ん、あ……いや…』
困ったようにそう呟いたキョンは少しの間黙り込み、か細い声で呟くように言った。
『……昼間のこと、本当に、夢じゃないんだよな…?』
「ああ、夢じゃないよ」
そう答えながら、不安にさせてごめんとも思う。
僕が煮え切らないから、キョンを不安にさせてしまっているのだと思うと、心苦しい。
それでも、もう決めたから。
キョンのためならなんだってすると。
それに、キョンだって、ずっと悩んで、苦しんでいたんだろう。
一時の気の迷いでなく、僕のことを選んでくれたはずだ。
それなら僕は、それに応えるべきだ。
もし万が一、何かがあったらその時は、僕は、命に代えてもキョンを守ってみせよう。
「キョン」
『ん?』
「…愛してるよ」
電話越しに伝えられるのは、精々それくらいのことで、それでも、出来るだけ僕の思いを込めてそう言った。
『…俺も、愛してる』
キョンが、嬉しそうに笑ったのが分かった。
――願わくば、この幸せが続きますように。
分不相応かもしれないけれど、そう願わずにはいられなかった。