曲事



「明日も来るんだよね?」
僕が問うと、キョンは軽く首を振って、
「明日は用があるから来れない。ごめんな、兄ちゃん」
「いや、別に構わないけど…」
なんとなく意外だった。
年末は忙しかったからかほとんどうちに来なかったものの、今年に入ってからはしばらく、暇があるとうちで過ごしていたのに。
もっともそれは、あの合宿の後、ゆきりんに言われたことを踏まえて、僕がキョンを甘えさせようとしていたせいもあるんだけれど。
しかし、キョンにだって付き合いはあるだろう。
気になるのはどことなく表情が暗く、落ち付かない様子だということだが、それだって、キョンのことだから、僕のことを気にしてくれているのかもしれない。
僕は小さく笑って、
「僕のことは気にしないで、行っておいで。誰かと出かけるのかい?」
「あー…まあ、な」
珍しく歯切れが悪い。
これはもしかして、
「もしかして、デートとか?」
「なっ!?」
キョンの顔がぱっと赤くなった。
素直な反応に、胸が騒いだ。
まさか本当にデートだったなんて。
愕然としながらも、僕は、表面上はいつも通りを装いながら、
「へー、キョンも隅に置けないね」
「そんなんじゃねえって!」
「拗ねてないで言ってごらん? 相手は誰だい?」
「言わん」
「言わないと…」
僕はすっとキョンの体に手を回すと、脇腹を思いっきりくすぐった。
「こうだよ」
「っ、ひゃ、や、やめっ、…っあ、に、にぃちゃんっ…! やら、ってぇ…っ!」
思わず手を止めた。
キョン、今の声はヤバイよ。
色んな意味で。
笑いすぎたせいで顔を赤くし、はーはー言ってるキョンを優しく抱きしめて、聞いてみる。
「それで、誰?」
「兄ちゃんにも内緒だ」
不貞腐れた表情でキョンが言った。
「誰にも言わないって約束したからな」
「ふぅん…」
面白くない、と思いつつ僕は明日の予定を頭の中で確認した。
特に何もない。
涼宮さんが癇癪を起こしたりしそうなことも多分起きないだろう。
彼女の明日の予定は精々、近所の子供の家庭教師をやることくらいだったはずだ。
それなら、キョンの後をつけてみようかな。
「兄ちゃん? 何笑ってんだよ」
「なんでもないよ。ただ、キョンの成長が嬉しいだけで」
「そんなんじゃないって言っただろ」
そう言ったキョンの表情がどこか苦かった。
からかい過ぎたかな、と思いつつ僕はキョンを解放した。
それからしばらくしてキョンが帰った後、僕は床にごろりと寝そべり、天井を睨んでいた。
涼宮さんには見せられないような苦い表情をして。
頭の中を占めているのは当然、キョンのことだ。
――キョンがデート、か。
デートじゃないにしても、あの様子からして女性と一緒なのは間違いない。
そんな相手がいるということに驚きながら、どこかで納得もした。
キョンは気立てもいいしルックスだって、本人が思っているよりもずっといい、好感の持てるものだ。
だから女性に好かれても不思議じゃないし、実際キョンに好意を抱いている女性は少なからずいると思う。
ただキョンは自分にはそんなものは縁がないと思っているから、それに気がつかないようだけれど。
「……ずっと、気づかないままでいればよかったのに」
ぽつりと呟いておいて、慌てて飛び起きた。
僕は今、何と言った?
キョンのことを好きだってだけでも、許されるはずがないのに、その好きと言う感情には更に許されるべくもない肉欲まで伴っている。
それだけでも、罪深い僕なのに。
僕は間違いなく、キョンに独占欲を抱いていた。
それも、こんなにも強く、みっともないような欲を。
束縛したい。
キョンには、ずっと僕だけのキョンでいて欲しかった。
キョンと肩を並べて歩ける女性に嫉妬した。
僕に明かせない秘密を持ったキョンに、胸が痛むほどの苦しみを感じた。
どうして僕は、こんなにもキョンを好きになってしまったんだろう。
どうして、ただの兄弟という関係に甘んじていたくないと、分不相応な望みを抱いてしまったんだろう。
どうして、こんなに苦しいのに、それを消してしまえないのだろう。
ため息を吐いた瞬間、携帯が底抜けに明るい音楽を流し始めた。
涼宮さんがいつだったかに作曲した曲をわざわざ僕の携帯の着メロにしたのはゆきりんだ。
それも、自分からの着信専用にして。
彼女がろくに喋らなかった頃から、彼女は何を考えてるんだかよく分からなかったが、流れるようにまくし立てるようになってもなお、彼女は謎のままだ。
「はい?」
気の抜けた声を出すと、電話の向こうから着メロと同じくらい明るい声がした。
『やっほー。煮詰まってるね、いっちゃん』
「だから、頭の中を読まないでくださいと何度お願いしたらいいんですかね」
『気にしない気にしない。それよりさぁ、いっちゃん』
「…何」
思索を邪魔されたせいで、思わず低い声が出たが彼女が怯むはずもなく、むしろ面白がるような調子で、
『うわぁお、不機嫌だね。まあいいんだけど。――明日、一緒に出かけない?』
「明日?」
『そ。ほらほらっ、前に言ってたじゃん。チョコレートアイスクリーム奢ってくれるって。でも、現実問題として私といっちゃんが学校帰りにアイスクリーム屋さんってのは難しいでしょ? だから、明日。だめ?』
「……そうだね」
頷いたのは、そうして彼女と騒いでいた方が思い悩まずに済むと思ったからだ。
『じゃっ、決まりだね。明日、お昼頃に私がいっちゃんのところに誘いに行くから』
「え? いや、僕が迎えに行ってもいいけど…」
『いいって。私も一度いっちゃんの部屋を見てみたいし』
「……見なくても知ってるんだろ」
『あはは、いっちゃん、そうやって呆れ気味に話す時の声はやっぱりキョンくんと似てるんだね!』
「そんなところに類似性を見出されても面白くない」
僕がため息をついた後も彼女はしばらく喋り続けた。
内容はほとんど覚えていないのだが、彼女もそれで別に構わないのだろう。
要するに僕は彼女のストレス発散のはけ口なんだから、とりあえず聞き役としてその時話を聞けばそれで。
小さくため息を吐くと、それを聞いた彼女が小さく笑った。
『ごめんね、迷惑掛けて。でも、聞いてくれるだけでも嬉しいよ』
「いや、別に…」
『というかさー、ほんと、こういう風に軽く話せるのっていっちゃんだけだから、ついつい話し過ぎちゃうんだよね』
「他のTFEI端末とは話さないの?」
『うーん、えみりーも他の宇宙人も好きじゃないんだよね。うかつに弱味を見せると自分の首を絞めそうで。その点いっちゃんなら同じSOS団の仲間だから安心でしょ?』
「そこまで信じてもらえてるのは嬉しいな」
『信じてるよ。だって、いっちゃんだし、キョンくんの大好きなお兄ちゃんだもんね』
「…大好きな、か」
さっきより深いため息を吐いた僕に、ゆきりんは少し躊躇いを見せた後、
『…あの、さ』
「うん?」
『キョンくんのことで考えすぎない方がいいよ? いっそ動いちゃった方がいいと思う。二人とも考えすぎるタイプだし』
「……それは、宇宙人的なアドバイス? それとも、友人として?」
慎重に尋ねた僕に、ゆきりんは笑い、
『両方、だね。立場的なものもあって、私はキョンくんが知られたくないと思ってることまで知っちゃってるわけだし、だからこそこんなことも言えるんだから。でも、キョンくんに嫌われたくないから、ここまででやめておくの。中途半端でごめんね。でも……信じてね?』
「……うん、考えてみるよ」
『口先だけで言わないで、ちゃんと考えてよ? キョンくんとどうしたいのか、どうなりたいのか、どうなるのが一番いいのかってことも』
「そうだね」
それはいずれは考えなければならないことだから、今考えたっていいだろう。
『絶対だからね。……じゃあ、また明日』
ゆきりんはそう念を押した。
「うん、明日」
そうとだけ答えて通話を切った。
天井を再び睨みながら、僕は考える。
キョンとどうしたいのかなんて、考えるまでもなく決まっている。
きちんと思いを告げて、思いを受け容れてもらいたい。
キョンとひとつになりたいとも思うが、キョンに拒まれたらそれは諦めたっていい。
重要なのはキョンと愛し合うということだから。
だから、どうなりたいかと問われれば、恋人同士になりたいとでも答えればいいのだろう。
ただ、どうなるのが一番いいかと聞かれれば、僕には答え難い。
自分にとって一番いいことが何かなら、どうなりたいかということと同じだろう。
けれど、世界のことやキョンのことを考えるなら、それは一番してはいけないことだ。
それらのことを考える時、一番いいことは僕がこの醜悪な思いを隠し通すことだ。
何があってもキョンには気付かれないようにすることだろう。
気付かれたら、終りだ。
キョンは僕を拒まないし、拒めない。
だから、たとえそれがどんなに嫌なことであったとしても、キョンはまるで自分からそれを望んだかのように考えてしまうだろう。
僕への、――兄への思慕を、恋愛感情であると歪んだ形に認識したとしても、不思議ではない。
だからこそ、知られたくない。
それが歪められたものだと分かっていても、キョンに求められたら僕はきっと拒めないだろうから。
そうして、キョンを傷つけてしまうから。
僕は顔を顰めながら体を起こした。
冷たい水でも浴びて頭を冷やしたい。
キョンのことを考えるだけでどうしようもなく熱くなる体を持て余しながら、僕はため息を吐いた。
本当に僕は隠し通せるんだろうか。
時が経つほどにキョンへの思いが募り、隠し通せる自信は失せてくる。
自制心さえ弱々しくなる。
それでも……隠し通さなければならないんだけれど。

翌日、出かける準備をして、僕はゆきりんを待っていた。
昨日キョンが来たところだから、部屋の中は綺麗だ。
これなら彼女を部屋にあげても恥ずかしくはない。
……頭の中まで覗かれている状況で、そんなことを気にしたってしょうがないんだろうけれど。
それでも気にするのは、僕にとって彼女が既に友人としての立ち位置にあるからだろう。
単なる宇宙人ではなく、ちょっと困ったところのある、でもそんなところも含めて好きな、一緒にいて楽しい友人だからこそ、ちゃんと礼を尽くしたいと思うのは別におかしなことじゃないはずだ。
『若干時代錯誤ではあるけどね』
いきなり入ってきたメールに、僕は脱力する。
「だから、頭の中を読むのは止めてよ…」
『どうでもいいけど、ドア開けてくれる? もう部屋の前にいるんだけどな』
メールに一々返信しなくて済むのは便利かもしれないと思いつつ僕は立ち上がり、玄関のドアを開けた。
――そこには、見たことのない女の子が立っていた。
長い髪を頭の両側で結んで、ふわふわしたコートに身を包んだ、可愛らしい女の子だが、そのガラス玉のような目には、見覚えがあり過ぎた。
「ゆ、ゆきりん…?」
「そ!」
にんまりと彼女は笑った。
「ちょっと体を縮めてみたんだけど、どうかなっ? これなら私だって分からないよね?」
「絶対に分からないだろうね。でも、何でわざわざそんなことを?」
僕が問うと、ゆきりんは小学生のような姿には似合わない、悪戯な笑みを浮かべた。
「そりゃもちろん、尾行するなら変装しなきゃってことよ!」
「び、尾行!?」
「いっちゃんだってするつもりだったくせにー。キョンくんが誰と会うのか、気になるんでしょ?」
「それはそうだけど…」
「ついでに、キョンくんに聞いてみたらいいじゃん。誰か好きな人でも出来たのかとか、いっちゃんのことをどう思ってるのかとか」
「……つまり、僕にも変装しろってこと?」
「変装させたげるってこと! 絶対いっちゃんだってばれないようにしてあげるから、私を信じて任せなさいっ!」
とゆきりんはドンと胸を叩いてみせた。
それから僕の部屋に上がった彼女は、
「きれいにしてあるね。流石キョンくん。キョンくんはいいお嫁さんになれそうだよねー」
と妙な感想を言った。
「なんでお嫁さんなんだよ」
「え? 何? もしかしていっちゃんの方がお嫁さんだったりする? 料理上手ってのは確かにそっち系のフラグかも知れないけど、キョンくんといっちゃんだったらキョンくんがお嫁さんじゃないの?」
「意味が分からないよ? なんでそんな話になるのさ」
首を傾げた僕にゆきりんは呆れきった顔をして、
「……ほんと、キョンくんが可哀相になるわ…」
とげんなりしたように呟いた。
「なんでキョンが可哀相になるわけ?」
「だって、いっちゃんって本当に鈍いんだもん。もしかするとキョンくんより鈍いんじゃないの?」
「キョンは別に鈍くないだろ」
「……だーめだこりゃ」
ふぅっとため息を吐いたゆきりんは、
「もう、さっさと出かけた方がよさそうね。実際にキョンくんの口から聞いた方が早いわ」
といきなり僕の服に触れた。
それがぱっと形を変える。
デザインも色も渋い、50代にでもならなければ似合わないようなスーツだ。
「ちょ、ちょっと、ゆきりん?」
「いいから黙っててよ。……顔と髪はどうしようかなー」
呟きながらゆきりんが僕の頬に触れた。
ふっと違和感が走り、造作を変えられたと分かる。
「あ、いい感じ」
とゆきりんは笑っているが、不安にならざるを得ない。
「大丈夫だって。ちょっと年取らせてみただけ」
「は!?」
「うーん、年取ったいっちゃんってこうなのかー。なんか、渋くていいね! ロマンスグレーって感じ?」
ほら、と連れて行かれた鏡の前で、僕は唖然とした。
見事に顔の造作や髪の色が変わっている。
年齢は50代か60代、といったところだろうか。
髪は白いものの方が多い。
年を取るとこうなる、ということなのか。
「これなら絶対にいっちゃんだってばれないでしょ?」
「それはそうだろうけど……」
と呟いた声もいつもとは違う。
見た目相応に年を経た声だ。
悪くはないが違和感が物凄い。
「心配しなくても、後でちゃんと戻してあげるから。早く出かけようよ、おじーちゃん!」
「……そういう役柄でいくわけ」
「そ! ほらほら、早くしないとキョンくんたちに追いつけないよ?」
強引に手を引っ張る彼女に連れられて、僕は家を出た。
向かう先はいつもの駅前だ。
ふたり揃ってここまで見事に外見を変えてしまえば、確かに僕たちだとはばれないだろうが、
「本当にここまでする必要があったのかな…」
道端の車止めに腰を下ろして、チョコレートアイスをを嬉しそうに食べているゆきりんに、僕はそう呟いた。
チョコレートアイスの上にチョコレートソースをたっぷりと掛け、しかも同じチョコレートであるカラースプレーまで下のソースが見えなくなるくらいに掛けるなんて、彼女はよっぽどチョコレートが好きらしい。
「ここまでするから美味しいんじゃない」
「いや、アイスのことじゃなくて」
もちろんそれにも突っ込みを入れたいけど、
「変装のこと。……単純に、ゆきりんが面白がってるだけだろ」
「ばれた?」
「バレバレだよ」
「いいじゃん。いっちゃんだって面白いでしょ?」
「どうだろうね」
こんな体験が出来るっていうのは面白いし、貴重な体験だとも思う。
まあ、ゆきりんを楽しませているだけのような気もするんだけどね。
ちなみに僕たちがいるのはすでに駅前であり、すぐ近くに朝比奈さんもいるのだが、彼女は全く気が付いていないらしい。
当たり前だろうと思うと共に、絶対に気付かれたくないとも思う。
まさか弟が人と会うだけのことにこんなにも嫉妬して、尾行までしてしまうなんて。
「で、待ち合わせの相手は結局朝比奈さんなのかな?」
「そ。つまり心配は要らないって事だよ!」
「心配は要らないって…」
「デートじゃないってこと」
「…それは、そうかもしれないけど……」
でも、キョンは喜んでいるだろう。
「憧れの朝比奈さん」とふたりだけで会って、過ごせるのだから。
そう思うだけで、胸が軋んだ。
「思い込むのは勝手だけど、」
言いながらゆきりんはちらりと僕の顔をうかがい、
「…そういうことは、キョンくんを見てから思ったらどう?」
「……ゆきりんに頭の中を覗くなと言っても無駄なんだろうね…」
「無駄だね。だっていっちゃん面白いもん。顔に出てない分頭の中がぐちゃぐちゃになるくらい考えてるってのは私と似てるよねー。なんていうかさ、ひとりで抱え込んでる分無駄に悩むっていうか、考えすぎて空回りっていうか」
「空回りで悪かったね」
「拗ねないでよ」
とゆきりんは笑い、
「ほら、キョンくんが来たよ」
とアイスで指した。
そちらへ目を向けると、満面の笑みを浮かべて朝比奈さんに駆け寄るキョンの姿が見え、ずきずきと胸が痛む。
「…やっぱり、尾行なんて止めないかい?」
僕が言うとゆきりんは呆れきった顔をし、
「ここで帰ったら意味なんてないでしょ。それに、よく見てよ。キョンくんもみくるんもちょっと変でしょ」
変、と言われてふたりをよく見る。
朝比奈さんはどこか固い表情、キョンはどこかヤケになったようにも見える顔をしていた。
「……あれ?」
首を傾げる僕に、ゆきりんはキョンの真似をして、
「やれやれ」
と肩を竦め、
「さ、追いかけるよ。うまく行きそうだったら、ちゃんとキョンくんに話しかけて聞いてみてね。誰か好きな人でもいるのかとか、お兄ちゃんのことをどう思ってるのかとか」
「どうやって聞けって言うんだよ、そんなこと」
「そこはそれ、いっちゃんの頭の使いようでしょ。ほーらっ、早く行くよ!」
とゆきりんは見かけによらず強い力で僕を引っ張り、さくさくと歩き始めた。
朝比奈さんの足取りはちょこちょこと愛らしいものだから、すぐに追いつく。
そのままデパートに入り、人混みに紛れながらふたりを見ていた。
「ねえねえいっちゃん、」
とゆきりんは僕の袖を引いて言った。
「ちょっと物陰に隠れて、『こちらスネーク』って低い声で言ってみない?」
「何? それ」
「む、知らないの? やだなー、今時そんなんじゃおちおちネットの海も楽しめないよ?」
「いや、というか、それ、今するべき話なの?」
僕はふたりを追いかけるのでかなりいっぱいいっぱいなんだけど。
「ノリが悪いなぁ、いっちゃんは」
ぷぅっと膨れたゆきりんを連れて、ふたりの後を追っていくと、ふたりは地下のお茶売り場でやっと足を止めてくれた。
「……わざわざ行くのがお茶売り場って……確かに、デートじゃないみたいだね」
呆れつつ呟いた僕に、ゆきりんは頷き、
「だから言ったでしょ」
「キョンも、どうせなら自分からどこかへ誘えばいいのに」
「本気でそんなこと思ってないくせに、何言ってんだろうねー」
それは確かに彼女の言う通りだが、憧れの女性と手も繋げないキョンには苦笑するしかない。
まあその奥手なくらいの純粋さが可愛いんだけれど。
「純粋…ねぇ?」
「……何か言いたいことでも?」
僕が問うと、ゆきりんは首を振った。
「べっつにー?」
ただ、と彼女は言った。
「いつまでも可愛いだけの弟だと思ってたら痛い目見るかもよ?」
なんなんだよ、それは。
さっきから思わせぶりなことばっかり言って、何がしたいんだか全く分からない。
「あーほらほら、せっかくキョンくんが暇そうなんだから、話しかける!」
「だからどうしろって…」
「世話が焼けるなあもう」
そう言ったゆきりんは、ぱたぱたっとキョンに駆け寄り、軽くとんっとぶつかった。
「あ、ごめんなさーい」
と言ったゆきりんに、キョンは小さく笑い、
「いや、大丈夫だよ」
「よかったぁ」
笑ったゆきりんが僕に目配せする。
ここでやらなければ、後で酷い目に遭わされそうだ。
「ご迷惑をお掛けしてすみません」
と僕が言うと、キョンは余所行きの笑みで、
「いえ、どうってこともありませんから。……お孫さんですか?」
「ええ」
やっぱり僕だとは気付かないらしい。
僕は笑みを作りつつ、
「若いのに、茶がお好きですか?」
「あ、その……人の買い物に付き合ってるだけなんで、俺は余り詳しくありません」
と苦笑する。
「ああ、デートでしたか」
「そんなんじゃありませんよ」
と笑った顔に嘘はない。
本当にデートではなかったらしい。
「あの人は学校の先輩で、俺は同じ部活のよしみで呼ばれただけです。お茶を買う参考にって言われましたけど、俺じゃさっぱりなんで、困ってたんですよ」
「じゃあ、少しこの年寄りと話でもしませんか?」
「年寄りなんていうほどに見えませんよ」
と笑いながら、話に乗ってくれるらしい。
本当にキョンは優しい。
多分、誰にでも。
「俺の妹が、お孫さんと同じくらいの年頃なんです」
きゃいきゃい言いながら――お姉さん可愛いね! とかなんとか言っているのがかすかに聞こえた――、大胆にも朝比奈さんに絡んでいるゆきりんを微笑ましげに見ながら、キョンが言った。
「妹さんがいらっしゃるんですね。他にご兄弟は?」
キョンは躊躇うように少し黙り込んでいたが、僕が初対面で、しかもこの先会うこともないだろうと踏んだからか、正直に答えた。
「…ひとり、います。兄が」
「お兄さんとは……仲はいいんですか?」
心臓がばくばくと脈を打つ。
心臓病でも患っているような気分だ。
「仲はいいです。自慢の兄で、……大好きなんです」
笑いながらそう言ったのに、キョンの表情にはどこか翳りがあった。
「……大好き、と仰るのに、悲しそうな顔をするんですね」
「え、俺、そんな顔してました!?」
まずいなぁ、と顔をぺたぺた触るキョンは可愛い。
だが、それ以上に、どうしてそんな顔をするのか、その理由が知りたかった。
「お兄さんに困ったことでも?」
「兄に困ったところなんてありませんよ。問題は、俺の方にあるだけで」
そう言ってキョンはどこかが強烈に痛んでいるかのように力なく笑い、
「こんなことを言うと気持ち悪がられるかもしれませんけど、…俺、兄ちゃんが好きなんです。好き過ぎて、困るくらい。…それくらい、兄ちゃんが好きなんですよ」
心臓が止まるかと思った。
驚きと、喜びに。
本当にこれはキョンなんだろうか。
これは現実なんだろうか。
僕の見ている夢や、幻ではないのだろうか。
ぽかんとしている僕に、キョンは苦笑し、
「すみません、初対面の人にこんなとんでもないこと言って。――誰にも言わないでくださいね?」
「え、ええ、それは分かってます」
「でも、なんでこんなに話しちまったんだろ…。ずっと隠し通すつもりでいたのに。…誰でもいいから誰かに打ち明けたいと思ってたからかな…」
ぶつぶつと独り言を言っていたキョンは、不意に顔を上げると僕の顔を見上げた。
そうして、納得したように笑い、
「分かった。…おじいさん、うちの兄と身長がほとんど同じなんだ」
僕が一瞬ぎくりとしたことには気付かず、
「だから、目線の高さが同じで、話しやすかったんだな」
と独りごつ。
その笑顔が可愛くて、僕はつい手を伸ばし、キョンの髪を撫でた。
一瞬身を引こうとしたキョンは、くすぐったそうに目を細め、
「…なんだか、撫で方も兄ちゃんと似てる」
僕はその言葉に動揺しつつも、
「お兄さんとうまく行くといいですね」
と言った。
言わずにはいられなかった。
そんなことになってはいけないと、理性は今も叫んでいるのに。
「…うまく行くなんてことは、ありえないんです」
キョンはそう悲しげに目を伏せた。
「兄弟だとか、男同士だとか、そんなこと以上に、兄ちゃんにはやるべきことがあって、俺のこんな感情は、そのことへの障害にしかなり得ないんですから。だから俺は、隠さなくちゃならないんです。たとえ、そのために自分がおかしくなっても」
僕と同じ考えなのに、どうしても否定したくなった。
だから僕はつい、
「……お兄さんは、そんなことを望む人ですか?」
「いいえ。でも、そうしなければならないんです」
「…すみません。立ち入ったことを聞いてしまって」
「いや、俺の方も変なことをお聞かせしてしまってすみません。おかげで、少し楽になりました」
正直、とキョンは苦笑し、
「もう、限界だったんです。いつ爆発してしまうか自分でも分からなくて、そうなったらどうなるか分からなくて、怖かったんです。でも、これで当分は持ちそうです」
そんなことを考えさせてしまう自分の頭を思いっきり殴ってやりたかった。
忘れていたけれど、キョンはこういう子だった。
相手のために必死に自分を押し殺して、我慢をするような。
手のかからなくていい子だった子供の頃、我慢しすぎて熱を出したこともあったくらい。
幼い頃からそうだったのに、今更それが変っているはずがない。
無理をさせた自分が、許せなかった。
思わず抱きしめたくなるのを堪えながら、僕は言った。
「もし、またいつかどこかで会えたら、また話をしましょう。少しでも、あなたが楽になるように」
キョンはきょとんとした顔で僕を見た後、
「ええ、お願いします」
と柔らかく微笑んだ。
その笑みから、影が消えることはなかったけれど。

ゆきりんと共にデパートから帰りながら、僕は尋ねた。
「…僕は、どうするべきなんだろう…」
「それはいっちゃんが考えることでしょ。でもね、気をつけないと最悪の終りが待ってるよ」
「なんだよ、それ…」
「…例えば、」
とゆきりんは顔を顰め、
「思い余ったキョンくんがいっちゃんを刺し殺すとか」
「……それでキョンが安らげるなら、僕はそれでいいよ」
「バカ言わないの!」
と睨まれた。
本気で言ったのではないと分かっているだろうに、それでもゆきりんは怒らずにいられなかったようだ。
「それで本当にキョンくんが満足すると思うの? 最善の結果だと思うの? そんなこと、あるわけないでしょ。キョンくんの望みはいっちゃんと一緒にいたい、恋人同士になりたいっていう、分かりやすくて可愛いものなんだよ? それくらい叶えようと努力することも出来ないわけ!?」
「そうすることによって、涼宮さんの機嫌を損ねて、世界崩壊を招くのかい?」
「世界とキョンくん、両方守ってみせるくらいの気概を持ちなさいよ。もしもハルちゃんにばれたとしても、ハルちゃんだって……もう、キョンくんもいっちゃんも、ふたりとも大事な仲間だと思ってるに違いないんだから、そう簡単に世界を変えたり消したりなんてしないわよ。……多分だけど」
「…そうかな……」
「そうよ。――キョンくんはハルちゃんに選ばれた。それは確かよ。でもね、それを言うんだったら私もいっちゃんもハルちゃんに選ばれたんだから、もう少し自信を持ったらどうなの?」
「…ああ、そうだったね」
小さく笑うと、ゆきりんも笑みを浮かべた。
「そうやって笑ってるのがいっちゃんの仕事でしょ? キョンくんとのこと、私は応援するから、逃げたりしないでちゃんと向き合いなさいよ」
「そうだね。……本当に、ゆきりんには借りを作ってばっかりだね」
「そう思うんなら、」
と彼女は悪戯っぽく笑い、
「またアイスでも奢ってね!」
「それだけでいいのかい?」
「十分よ。あと、いっちゃんが私と友達でいてくれれば」
そう笑う彼女が哀しくて、僕はそっと彼女の頭を撫でた。

それにしても、僕は本当にどうすればいいんだろう。