暗い暗い闇の中、どこを向いても兄ちゃんの姿が見つからなかった。 兄ちゃんと呼んでも、古泉と呼んでも。 不安で堪らなくなってうずくまる。 すると誰かの足が見えた。 顔を上げると、兄ちゃんの顔が見えた。 「兄ちゃ…」 呼びかけようとして止めたのは、それが兄ちゃんではないと気付いたからだ。 闇に解けるような、黒い学ラン。 それは兄ちゃんではない。 その口が開き、俺が一番嫌いなセリフを吐いた。 「なぜなら僕は……そうですね。僕は涼宮さんが好きなんですよ」 目を覚まして数分が経過してもまだ、俺はベッドの上に上体を起こした体勢のままじっとしていた。 「……悪夢だ」 冬だというのにじっとりと寝汗をかき、湿ったスウェットが気色悪いことこの上ない。 俺はベッドから下り、本棚に手を伸ばす。 そこには薄いアルバムがあり、それを開けば子供の頃の兄ちゃんと俺の写真が何枚も貼られている。 一枚一枚ページをめくり、ひとつも欠けていないことを確認する。 ずっと空白だった最後のページに、北高の制服を着た兄ちゃんの写真を確認して、安堵しながらアルバムを閉じた。 大丈夫。 間違いなくあれは夢で、兄ちゃんは俺の兄ちゃんだ。 自分で思っていた以上に、あの「兄ちゃんではない古泉」の記憶は俺にダメージを与えてくれたらしい。 こうして夜中に目が覚めるのも、何度目だか分からないほどだ。 ベッドに戻ったが脈拍も落ち着かず、もう一度あの悪夢を見ることを恐れてか、眠気もやってこない。 寝返りを繰り返しながら、俺はため息を吐いた。 どうして俺は、あのシーンばかりを繰り返し夢に見るんだろうか。 単純に、学ラン姿の古泉を見るというなら、兄ちゃんが兄ちゃんでなくなったことが嫌で堪らなかったからだろうと思う。 だが、そうじゃない。 俺が嫌なのは――兄ちゃんが兄ちゃんでなくなることよりも遥かに嫌なのは、兄ちゃんが誰かを好きだということなのだ。 兄ちゃんだって、誰かを好きになったりするだろう。 いつか俺より大切な誰かが出来て、嬉しそうにその人の話をするようになるのかもしれない。 今のところ俺にしか見せてくれていないはずの、優しくて柔らかな笑みを浮かべて、誰かと歩く日が来るんだろう。 兄ちゃんだっていつかは結婚して、家庭を持って、子供を得て――。 ズキン、と胸が痛んだ。 視界が歪むのはあくびをしたせいじゃない。 「…そんなのは、嫌だ……」 情けない声はほとんど涙声だ。 顔を隠すように、俺は両手で顔を覆った。 水滴が指先に触れる。 どうしてだか、うまく説明は出来ない。 ただ俺は、兄ちゃんの一番が俺でなくなるのが、堪らなく嫌なのだ。 みっともない独占欲だと思う。 弟だからといって独占出来るとも思ってなんかいない。 それでも、涙は止まらない。 兄ちゃんにはまだ、そう、しばらくでもいいから、俺だけの兄ちゃんでいて欲しい。 身勝手な望みで、兄ちゃんに知られたらそれこそ軽蔑されてしまうんだろうが、それでも思うことは止められない。 だから、隠していようと思った。 こんな、恋愛感情染みた欲なんて――と、そこまで考えて、愕然とした。 恋愛感情、だって? 驚きで涙が止まった代わりに、顔が熱くなる。 見なくても分かる。 俺の顔は今、間違いなく真っ赤になってるんだろう。 おかげで脳内人格会議も大混乱だ。 ありえない、と瞬時に打ち消すのもあれば、恋愛感情だったら兄ちゃんを独占出来るかもしれないと姑息なことを考えるのもある。 たとえ相手が兄ちゃんであっても俺にはソッチ系の趣味など欠片もないのだから恋愛感情だなんて思いたくもない。 兄ちゃんを見ててドキドキしたりするのは俺が兄ちゃんを弟として好きだからであって、その好きの意味するところは兄弟愛以外の何物でもない。 兄ちゃんも、俺によく好きだのなんだのと言うが、それだって兄弟としてだろ。 そもそも、男に愛してると言われて大半の男がそれを本気だと認めるだろうか。 圧倒的大多数の人間は悪い冗談だと思うに違いない。 本気の思いを冗談と思われるなんて、俺なら嫌だ。 ましてや、兄ちゃんに冗談だろうと笑われたりした日には……って、何で俺はこれが恋愛感情だという前提で考えてるんだろうな。 まず間違いなく、恋愛感情じゃないんだから、こんなことを考えたって無駄だろ。 兄ちゃんのことは弟として好きなだけだ。 絶対に、そうだ。 …そうだと思う。 ……多分。 思考は暴走してどうしようもない。 埒が明かないとはこのことだろうと思いながら、俺は無理矢理に布団を被り、目を閉じた。 眠ってしまえ。 どんな悪夢だって現実よりはずっとマシに違いないだろうからな。 そんな訳で、俺は翌日かかってきた中河からの電話に対してあんな対応をしちまったのだ。 普通、いきなり男に「愛してるんだ」と言われてヘテロタイプがどうのとあそこまで語りはしないだろうし、そうでなくてもあんな内容の文章を書きとめ、かつ伝えたりはしないだろう。 それを中河に突っ込まれずに済んだのは、ひとえに、あいつの脳内が桃色に染まる病気にかかっていたからにすぎない。 とまあ、そんな調子だったから、合宿の準備で兄ちゃんが飛び回っていたのを幸いと、年末、俺はほとんど兄ちゃんの部屋に行かなかった。 「古泉」としてならともかく、兄ちゃんとして顔を合わせた時に、平然としていられるだけの自信がなかったのだ。 少なくとも合宿の間は兄ちゃんとふたりになったりすることもないだろうと思ったのだが、それでも若干の不安はあった。 駄々を捏ねる妹を夏のようにあしらえなかったのは、その辺のことも関係していたんだろう。 それなのになんで、と俺はため息を吐いた。 兄ちゃんとふたりで向かい合って話してんだろうなぁ、俺。 「なんだか、妙なため息だったね」 「古泉」としては余りにも柔らかく、かつ兄ちゃんにしては硬質な笑みで兄ちゃんが言った。 「今の状況を嘆いてるようには聞こえなかったけど、何か別に考え事かな?」 「…まあ、そんなところだ」 ここは合宿で泊まることになった鶴屋さんの別荘ではない。 わけの分からないままに取り込まれちまった、怪しげな館だ。 ハルヒは今現在、朝比奈さんと長門を連れて風呂に入っており、俺はその間に先日のハルヒ消失事件について、兄ちゃんに話をしたところだ。 兄ちゃんはハルヒのとんでも能力をよく知っているばかりか、長門についてもなにやら俺の知らないことまで詳しく知っているからか、突拍子もないような話を特に狼狽もせず、穏やかに聞いてくれた。 話し上手で聞き上手ってのは羨ましいな。 そうして兄ちゃんの推測を聞かされ、軽く陰鬱な気分になったのも束の間、話す内容がなくなったことで、俺はこの状況を意識しちまったわけだ。 どうせならここから脱出するまで忘れてりゃよかったのに。 ひとつのベッドに並んで腰を下ろしている、その距離がいつもと微妙に違う。 兄ちゃんは「古泉」としての立場と兄ちゃんとしての立場どちらを優先させるべきか取りかねているんだろうが、俺の方はというと、兄ちゃんとしての距離にまで近づかれると確実に挙動不審になる自信があったから、あえて距離を離していた。 本当に、どうかしていると思う。 あんな目に遭ったんだから、兄ちゃんへの執着が強まるのはむしろ普通のことなのかもしれない。 誰だって、失うかもしれないと意識したものは大事にするだろ。 それと同じだ。 だが、それにしたって分からないのはこうして黙っているだけで心臓が落ち着かなくなることだ。 これまでだって兄ちゃんの部屋でふたりきりになって、特に会話もなく過ごしたことはある。 そんな時にも空気が気まずくなることはなく、むしろその静かで落ち着いた感覚を楽しむのが常だったってのに。 今は本当に落ち着けない。 この状況が異常だというせいもあるんだろう。 だがそれ以上に、どうしようもなく俺は兄ちゃんを意識していた。 何か話せばこの空気が少しはマシになるだろうと思うのに言葉は出てこない。 出てきたところで余計に収集がつかなくなる気がした。 唯一の救いは、兄ちゃんの方は部屋の空気に気を払うような余裕はなく、ここからの脱出方法を考えているらしいことだけだ。 思索に耽る様を演出するかのように、大きめだが形のいい手が軽く顎に押し当てられる。 細められた目が、何を捉えているかは分からないが、見つめるものに意味はないのだろう。 綺麗な肌が、見た目通りに滑らかだと知っている自分の手が、無性に恥ずかしくなる。 「……キョン?」 俺の視線に気付いたのか、兄ちゃんが困ったような笑みを浮かべて俺を見た。 「あんまり見つめられるとくすぐったいよ?」 「う、…ごめん」 「いいけど」 と笑った兄ちゃんの手が伸ばされ、俺の髪に触れた。 くすぐったいのが気持ちいい。 シャミセンみたく目を細めると、兄ちゃんが言った。 「不安にさせるような話をして悪かったね。黙ってたらよかった」 「それは別にいいんだが」 「よくないだろ? 世界改変事件の話からして、キョンも随分怖い目にあったようだし、僕に話すために嫌なことまで思い出させておいて、余計に不安を煽るようなことを言って、ごめんね。僕も、この状況に戸惑っているみたいだ」 怖い目、と言われて俺が思い出すのは繰り返し悪夢に見るあのシーンだが、兄ちゃんが言うのは朝倉に刺されたことだろうな。 「それはもう平気だ」 俺は笑みを作りながら言った。 「それより、なんとか考えよう。ここから脱出する方法を」 「……そうだね」 兄ちゃんが釈然としないなりに頷いてくれて助かった。 俺はさりげなく距離を離し、考える風を装ってなんとか平静を取り戻そうとした。 顔が赤くなっていないのがありがたい。 これもまた半年の演技の賜物なんだろうな。 この場合誰に礼を言うべきなんだろうか、と俺が思ったところで部屋のドアがノックされた。 兄ちゃんと何の気兼ねもなく距離を取れるのがありがたい、と思いながら俺は腰を上げ、ドアを開けた。 そこに立っていた朝比奈さんと短い会話をした俺は、ふたつの意味で困惑した。 ひとつは、ハルヒと朝比奈さんがこの状況を俺たちほど異常と感じておらず、長門に負担を掛けないようにするにはどうすればいいのか、という意味で。 もうひとつは――大抵の正常な男なら思わず奮いつきたくなるような朝比奈さんを見ても、兄ちゃんといる時よりずっと冷静でいられたことに。 こうなるともはや自分の葛藤なんざただの悪あがきにしか思えなくなるのだが、更なる難関がこの先に控えていた。 「キョンと一緒にお風呂に入るってのも、何年ぶりだろうね」 今の状況を忘れたかのように、へらりとした締りのない笑みで兄ちゃんが言った。 テンション上がってないか、おい。 「いやぁ、こんな状況だけど、一緒にお風呂っていうとなんとなく楽しくならない?」 ならん。 ついでに言うと俺のテンションはだだ下がりだ。 「それより、手早く入って出た方がいいんじゃないかな。時間の感覚が場所によって違うとはいえ、あんまり時間を掛けて涼宮さんに不審に思われてもまずいだろうし」 「勝手にしろよ。もう…」 げんなりする俺のシャツのボタンに兄ちゃんがいきなり手を掛けた。 「手伝おうか?」 などと言いながら。 次の瞬間、俺は慌ててその手を振り解き、 「っ、自分で脱ぐ!」 兄ちゃんはぽかんとした顔で俺を見た後、寂しそうに苦笑して、 「ごめん。そうだね、なんとなく、昔のままの感覚でやっちゃったけど、それじゃあキョンは嫌だよね」 「いや……その…」 もごもごと口ごもる俺に優しく笑いかけ、 「じゃあ僕は先に入ってるから、ゆっくりおいで。恥ずかしいんだったら交代で入ってもいいし」 と俺に背を向けた。 まだ脱いでいなかったズボンへ手を掛けるのへ、俺は言い訳のように言った。 「俺も、最近少しおかしいんだ。だから、その、妙に恥ずかしいだけで、兄ちゃんが嫌とかそういうんじゃないから、」 だからそんな風に寂しい顔をしないで欲しい。 「分かってるよ」 と兄ちゃんは軽くこちらを見て、微笑んだ。 その優しい笑顔に、俺までつられて笑みを浮かべる。 兄ちゃんのそんなところが好きだと思う。 同時に、解った。 あるいは、とっくの昔に分かっていたことを受け容れたと言ってもいいだろう。 ――俺は、兄ちゃんが好きなんだ。 多分、弟としてではなく、兄弟愛でもなく、……愛してるんだろう。 だが、解ったからと言って何が出来る? 思考が辿るルートはこの前延々悩んだ時と同じだ。 兄ちゃんに愛していると言ったところで冗談と思われるのが関の山だろう。 そうでなくても、兄ちゃんは俺とハルヒがくっつくのが一番いいと思っているらしい節がある。 その状況下で思いを告げたところで、兄弟としての関係がぎこちなくなるだけだろう。 だから俺はなんとしても隠さなければならない。 あるいは、あの時よりもずっと巧妙に世界が改変される覚悟を決めなければならない。 とりあえず今は保留して、精々弟としての演技をするしかないのだろう。 そんなことを考えながら、胸の痛みに蓋をした。 |