それはまさに、俺にとって災厄としか言いようのない出来事だった。 思えば朝からおかしなことだらけだった。 谷口は突然風邪を引いていて、教室内の健康な人間の数は激減していたばかりか、ハルヒまで教室に居なかった。 あいつは真面目な生徒とは言い難いが、それでもSOS団がある限り学校には来るはずだというのに。 国木田とは会話が噛み合わなかった。 更に、いないはずの朝倉が当然のように登場し、俺は決定的にこの世界がおかしくなったことを知ったんだ。 おかし過ぎるが笑えない出来事の数々に少なからずうろたえながらも、本格的におかしくならずに済んでいたのは多分、これだってハルヒがやらかした何かの結果に違いないと思ったからだった。 ハルヒが何を思ってやらかしたかなんて俺には分からない。 そんなことを推測してもっともらしく語ってみせるのは俺の仕事ではなく兄ちゃん演じる「古泉」の仕事だ。 だから俺は、隣りの教室に長門がいないのを確認するなり、すぐさま9組へ向かったのだ。 それが自分へのトドメになるとも知らずに。 「……嘘だろ…」 思わず呟いたのは、9組があるはずの場所になかったからだ。 教室ごと完全に消え失せている。 見間違いじゃない、と思いながらも壁に触れて確かめる俺を、誰が愚かと笑えるだろうか。 俺はふらふらと壁にもたれかかり、そのままずるずると薄汚い非常階段に座り込んだ。 自分の体を支えることさえ、出来なくなった気分だ。 壁の汚れも傷も、見覚えのあるものだというのに、兄ちゃんがいるはずの教室だけが綺麗に消えている。 そんなことが人間の力で、それも一晩で出来るとは思わない。 俺は唇を噛み、溢れそうになる涙を堪えた。 ハルヒは俺から兄ちゃんまで取り上げたいのか? だが、それにしたってそのハルヒ自体がいなくなっているのは妙だろう。 ハルヒのせいじゃないのかもしれない。 …そうだ、ハルヒはこんなことをしない。 断定出来たのは、文化祭後のあの一件以来、少しずつとはいえハルヒとの距離を縮めてきたからだ。 ハルヒは望まない。 たとえ俺と古泉が兄弟だと知っても、それを面白がって問いこそすれ、兄ちゃんを消したりしない。 ましてや、自分がいなくなるなどしない。 だって、そうだろ。 ここにはあいつのSOS団があり、あいつはその活動を心底楽しんでいた。 まさか昨日一晩で何もかもが嫌になり、リセットするなんて考えられない。 世界がおかしくなっちまったんだと、分かっている人間はあとどれくらいいるんだろう。 長門は多分分かっているだろう。 あの終らない八月だって把握していたんだからな。 朝比奈さんはどうだろう。 未来人と言ってもあの方はこれから何があるのか全くご存じないように思われる。 朝比奈さん(大)か誰か、とにかく彼女の上司であるところの存在が彼女に対処法を授けていたならともかく、そうじゃなければ国木田たち同様に世界の改変に巻き込まれちまってるんじゃないだろうか。 だとしたら朝比奈さんのところへ行くのも慎重にした方がいいかもしれない。 なんと言ってもあの方は学校のアイドルだからな。 下手な真似をしてどんな目に遭うか分からん。 ハルヒは多分、気付いていない。 兄ちゃんは……どうだろう。 基本的には普通の人間だから、巻き込まれてるのだろうか。 普通といえば俺の方がよっぽど普通なんだが。 ふと思い出して携帯を取り出し、電話帳に目を走らせる。 ハルヒや兄ちゃんどころか長門の名前さえない。 うろ覚えのまま兄ちゃんの番号をダイアルするが、機械の声が使用されていない番号であることを告げるだけだった。 ついでに時間を確認する。 もう午後の授業が始まるが、まともに授業が受けられるはずもない。 だからと言って授業を放り出したところでどうしようもないだろう。 本当ならすぐさま部室にでも駆け込んで、長門に会いたいところだが、長門だって授業中は授業を真面目に受けているはずだ。 もっともこれは推定であって、授業を受けている長門の姿など、俺は見たことがないのだが。 俺は重い足を引き摺って階段を上り始めた。 今は非常事態なんだから、非常階段を使っても許されるだろう、とぼやけた頭で考えるくらいの余裕が、まだあったんだよな。 この時は、まだ。 最後の頼みの綱である長門さえ変わっちまったことに悄然として俺は家に帰った。 しかも帰りがけに見つけた朝比奈さんに、感激の余り思わず取りすがろうとして失敗したことも痛かった。 朝比奈さんも鶴屋さんも俺を覚えていない。 それどころか今頃、お二人の中で俺は、ブラックリストのトップを、顔写真付きで飾っているに違いない。 兄ちゃんとハルヒについては手がかりの欠片もない。 脳裏を過ぎるのはハルヒが三年前の七夕に書いたというあの文句。 ――「あたしはここにいる。」 どこにいるんだか、今の俺に番地まで細かく教えてくれないものだろうか。 ただの猫と化したシャミセンを抱きかかえ、ベッドの上を転がって、俺は呟いた。 「……兄ちゃん」 帰りに寄った兄ちゃんの部屋はもうずっと空き部屋だと言われた。 長門は宇宙人ではなく、朝比奈さんは未来人ではない。 それなら兄ちゃんも、超能力者ではなくなっているんだろうか。 だとしたら、こっちに転校してくることもなく、まだあの父と一緒に遠くで暮らしているんだろうか。 お袋には悪いが、父親の連絡先を聞いてみよう。 とそこまで考えたところで、ふと思い出した。 兄ちゃんがこの世界に存在してるとしたら、あのアルバムを俺は持っているんじゃないだろうか。 俺はシャミセンを下ろして立ち上がると、本棚の隅に目を走らせた。 アルバムはいつだってそこに、目立たないようにおかれていたはずだ。 しかし、 「――ない」 せめてアルバムだけでもあればよかった。 最後のページから兄ちゃんの写真が消えているくらいは予想していたからな。 それなのに、アルバム自体がない。 これまでのところ、この世界は恐ろしく整合性がとれているように思える。 決して不条理に物がなくなったりする世界ではないはずだ。 そのことからして考えるに、アルバムがないということはつまり、 「…兄ちゃんが、いないってことか……?」 みっともないほど声が震えた。 それが、俺に兄がいないということであればいいと祈った。 兄ちゃん自体が存在しないのではなく、兄がいないということになっているのであればまだいい。 でもそうじゃなかったとしたら? 俺はハルヒの持つ力を、今になってやっと恐ろしいと思った。 そして、それを誰かが意図的に揮えるということの恐怖に背筋を凍らせた。 頭がおかしくなったと言われ、都市伝説にある救急車を呼ばれる覚悟で、俺はお袋に尋ねた。 答えは芳しくないどころか最悪だった。 お袋と親父は確かに再婚だが子供は俺ひとりだったと言われ、しかも俺の父親とは死別だと言われた。 俺に兄などいないと。 意気消沈なんてものじゃなく落ち込んだ俺に、お袋はさっさと寝るように勧め、俺も大人しくそれに従った。 そうするしか、なかった。 最悪の気分で眠って見る夢は最悪のものだったが、それが最悪だったという印象だけ残して消えたのが唯一の幸福だと思うほど、俺は打ちひしがれていた。 翌日、俺が得た収穫といえば、俺の知る長門からのメッセージと、今の長門がどんなに俺の知る長門と違うかと再確認させられたことだけだったと言っても構わない。 時間は限られている。 ヒントはないに等しい。 それでも俺は探さなければならない。 何故なら俺は、どうしたってもう一度会いたいのだ。 兄ちゃんに。 そして、ハルヒにも。 宇宙人の長門にだって会いたい。 朝比奈さんに悲鳴を上げられ、鶴屋さんに警戒されるのももうごめんだ。 そのためにどうすればいいのかは分からない。 ただ、俺はずっとしていたことを続けるだけだ。 ハルヒと兄ちゃんを探す。 兄ちゃんに会った時、兄ちゃんに白い目を向けられたとしたら今度こそ俺は耐えられなくなるかもしれないが、それでも探す。 俺は兄ちゃんの存在を確認したい。 最低限それさえ出来ればいいとさえ、思っている。 この世界は俺の知る世界とは違うが、それでもそうと知らない人間にとって、また大多数の人間にとって、この世界でも前の世界でも居心地の良さ悪さに違いはないのだろう。 だとしたら、その世界で、超能力者である苦しみを負わずに兄ちゃんが生きているのだとしたら、それでいいような気もする。 だから俺は、兄ちゃんが存在するという証明が欲しい。 もちろん、出来るなら――たとえ兄ちゃんにとってこちらの世界の方がよくても――世界を元に戻したい、あるいは、元の世界に戻りたいと思う。 兄ちゃんを、こっそりととはいえ、兄ちゃんと呼べる世界に。 そうして決意を固めたところで、どうしようもない。 夜は訪れ、そして無情にも明けていくものだ。 一日はどうしたって24時間しかなく、それが嫌なら地球から脱出して自転速度の遅い星にでも移り住むしかない。 同時に俺はどうやったって未だ親の金で学校に通わせてもらっているしがない学生であり、いるかどうかも分からないような人間を探して自主休講など許される身でもない。 限界突破寸前の体に鞭打って登校したことがしかし、功を成すとは思わなかった。 谷口によって有用な情報がもたらされるとも。 いつもアホの谷口とか言って悪かったなと、俺は本心から思ったとも。 ああ、反省してる。 谷口がアホでバカなのには変わりはないだろうが面と向かって言うのだけはもうやめてやろうと思うくらいには。 「ハルヒは光陽園学院にいる」。 それだけの情報でも、このくそムカつく世界が輝いて見えるぜ。 もしかすると、と俺は淡い期待を抱く。 兄ちゃんだってそこにいるかもしれない。 いなかったとしたらもう手の打ちようもないに等しいが、それでも俺は足掻き続けてやるさ。 兄ちゃんが俺のために色々と試みてくれたのと同じように、兄ちゃんのためなら俺はなんだって出来る。 そんなことを考えながら、光陽園学院の前、門の見える位置で授業終了を待つ。 他に考えることなどほとんどない。 というか無理だ。 ハルヒに会えれば言うべきことだって見つかるだろう。 これまでだってほとんど直感でやってきたんだ。 俺は今回も直感を信じる。 緊張に顔を強張らせながら終了のチャイムを聞き、俺はハルヒをじっと待った。 そうして、十数分ばかり待ち続けた俺の目に、その姿が飛び込んできた。 光陽園のブレザーを着て不機嫌な顔をしたハルヒと、そして、見慣れない学ラン姿の兄ちゃんだ。 「…よかった……」 何よりもまず、そんな言葉が口から出た。 兄ちゃんがいてくれて、よかった。 これでもう心配はない。 俺にとっての世界を元のようにすることだけに全力を注げる。 あの兄ちゃんは俺の兄ちゃんではなく、ただの古泉だ。 そう思いながら、俺は顔を引き締める。 涙なんて見せられない。 真面目な顔を作り、耐える。 それが出来るのも、この半年ほどの訓練の賜物だろうな。 すぐ目の前にまで近づいた、しかめっ面のハルヒに俺は、 「おい!」 と声を掛けた。 その後のことは多く語るまでもないだろう。 ハルヒに俺が「ジョン・スミス」であることを証明してやり、訳を話すと言って近くの喫茶店に入ったのだ。 歩く間も、そして喫茶店に入ってからも、俺は落ち着けなかった。 何故なら、兄ちゃんが、いや、古泉が、ずっと俺を警戒するような目で見ていたからだ。 この古泉とハルヒはどうやら付き合っているかどうかしているらしい。 それなら突然現れた、気違いじみたことを口走る得体の知れない奴――つまり俺――を、警戒したって不思議じゃない。 そう思うんだが、それでも、嫌だった。 兄ちゃんにそんな目で見られたことはない。 「古泉」の時でさえ、そんなことはなかった。 世界が改変されたのか、それともパラレルワールドなのか、という話を、古泉はした。 その話し方も内容も、兄ちゃんのそれとそっくりだというのに、古泉のそれには投げやりな感じが漂っており、俺を不審がるような色が、いよいよ満ちていた。 それに耐えかねて、だから俺はそんなことを口走ってしまったのだ。 「それから、」 さも、言い忘れていたことがあったように、俺は言った。 「表立っては言えなかったが、俺には兄ちゃんがいたんだ」 それまでに俺の話に登場したのが宇宙人と未来人と超能力者だったからだろう。 ハルヒは目を輝かせながら、 「お兄さん? その人はどんな人なの?」 俺は言葉では答えず、ただ、古泉を見た。 視界が歪むのは、ずっと堪えてきた涙が溢れそうなほどになったからだろう。 涙の向こうの古泉は、どうでも良さそうな顔をしていて、それが余計に俺の涙腺を刺激した。 ぼろっと情けないほど大きな涙が零れる。 「ちょ、ちょっとジョン! いきなりどうしたのよ!」 慌てるハルヒに、俺は涙声で訴えた。 「古泉…っ」 「は?」 いきなり名前を呼ばれた古泉が、怪訝そうな顔をする。 「古泉が…、俺のっ、兄ちゃん、でっ…」 「古泉くんが?」 ハルヒは問うように古泉を見、古泉はただ首を傾げるかどうかしたんだと思う。 それが推測なのは、俺がそれを見ていられなかったからだ。 「十年、ひっく、以上も、会えなくて…っ、やっと、会えたと、思ったのに、のにっ…」 なんで、また引き離されなきゃならないんだ。 それも単純に引き離されるだけならまだいい。 どうやったって会いに行ってやる。 引き止めてみせる。 それなのに、兄弟ということさえ、血の繋がりさえ、なかったことにされるなんて、酷すぎるだろう。 あんまりだ。 泣きながらそんなことを言った俺に、ハルヒはいたって同情的に、 「確かに、それはないわよね。古泉くんは覚えてもないみたいだし」 「はぁ」 と気の抜けた声で古泉が応じるのは、ハルヒに反論はし難いのだがさりとて素直に頷きたくもないからだろう。 兄ちゃんじゃないのに、兄ちゃんと同じところがあるのが嫌だ。 いっそ徹底的に違っていればよかったのに。 「ああもう、泣かないの。ほら、古泉くんも慰めて」 ハルヒが言い、 「はぁ…」 と古泉が答える。 俺は精一杯の矜持で、 「要らん!」 と言ったのだが、次の瞬間、ふわりと俺の頭に何かが触れた。 間違えるはずのない感触。 これは、兄ちゃんの手だ。 小さく顔を上げると、古泉の困惑顔が見え、 「あの、泣かないで…ください…?」 ――余計に涙が止まらなくなったのは言うまでもなく、古泉はハルヒに、 「泣かせてどうするのよ!」 と叱り飛ばされていた。 結局、俺の涙が止まり、俺が落ち着くまで、俺たちは動けなかった。 そうしてやっと動き出そうという段になって、俺は古泉にハルヒの神的能力について詳しいところを伝えていなかったことを思い出した。 努めて他人行儀に、つまりは「古泉」にするようにして話した後、俺は思いついて聞いてみた。 「やったのはハルヒか、他にこの状況を生み出した奴がいるのか。どっちが正解だと思う?」 「あるいは、あなたの言う涼宮さんが本当に神様みたいな力を持っているのであれば、その彼女がしたのかもしれません」 確かに能力的な可能不可能で言うなら、ハルヒ以外に出来る奴はいないように思われる。 だが、この状況をハルヒが望むとは、俺はどうしても思えないのだ。 大体、ハルヒが兄ちゃんだけを近くに置いておく意味が分からん。 俺への嫌がらせか? だがハルヒは俺と兄ちゃんが兄弟だと知らないはずだ。 ハルヒの前で兄ちゃんと殊更に仲良くしてみせたような記憶もない。 「なんにせよ、この状況が涼宮さんによるもので、涼宮さんの側にいるようにされたのが僕だけだとしたら、選ばれて光栄、と言うべきでしょうね」 と古泉は喉で笑った。 なんで光栄なんだよ。 「なぜなら僕は……そうですね。僕は涼宮さんが好きなんですよ」 「……正気か?」 と口に出せたのは、常日頃「古泉」と接する時と兄ちゃんに接する時で態度を使い分け、演技力に磨きをかけていたからだとしか言えない。 あるいは、さっき涙が涸れるまで泣いたのもよかったのかも知れない。 表面上は平静を保ちながらも、内心では俺は酷く狼狽していた。 兄ちゃんが、いや、正確に言うには兄ちゃんでないことは分かっている。 分かっているが、とにかく、今考えることは決まってる。 古泉がハルヒを好きだって? あり得ない。 あるいは、兄ちゃんが超能力なんてものを与えられずにハルヒに出会っていればそれはあり得たことなのかも知れないが、俺の兄ちゃんが超能力者である以上、ハルヒを好きになることなんてあり得ない。 そうやって必死になって否定するほど、俺はその言葉が衝撃だった。 兄ちゃんが俺以外の誰かに好きと言うのは初めてで、その対象がハルヒということに驚いていた。 同時に、嫌で嫌でたまらなかった。 冷静になって考えれば兄ちゃんが誰かを好きになるということは当然のことだというのに、この時の俺には信じられないことでしかなかった。 世界をこんな風にした奴を、心の底から恨んだ。 俺の手から兄ちゃんを取り上げて、ハルヒに与えてしまうような奴なんて、と。 そして、普通に古泉と会話をする仮面の下で誓った。 ここでならただの普通人として暮らしていけるのだろう兄ちゃんには悪いが、俺はどうやったって俺のあの世界を取り戻すと。 だが兄ちゃんだって、こんな世界は本意じゃないはずだ。 だから俺は躊躇いもせずに、緊急脱出プログラムを起動させたのだ。 あれやこれやと慌ただしく、やるべきこと、やらなければならんことがあったことを、事細かに報告する必要はあるまい。 一部の人間を除けば、大抵の人間は繰り返しやくどい表現など好むところではないはずだし、ここまででさえ十分くどくどと無駄に長いんだからな。 だから俺は、俺だけの話をするべきだろう。 12月21日の夜中。 もしかするともう22日に変わっているかもしれない。 病室で長門と会話を終えてもまだ、俺は待っていた。 約束も何もしていない。 それでも、来てくれるはずだと信じて。 そしてやっぱり、俺の期待と信頼を裏切らないのだ。 「遅くなってごめん!」 息せき切って飛び込んできた兄ちゃんはスーツ姿だった。 スーツに見覚えがあるのは俺が何度かクローゼットの片付けをやったからだろう。 俺は不貞腐れた顔を作りながら、 「遅い」 と言った。 兄ちゃんは最初に俺が目を覚ましたときと同じように椅子に腰を下ろし、ポケットから取り出したハンカチで額の汗をぬぐいながら言った。 「機関の方で報告だなんだと処理に追われてたらこんな時間になってたんだ。待たせて悪かったね」 別に、約束してたわけじゃないから構わないといえば構わないんだが。 それでも謝る兄ちゃんへ、俺は体を起こして手を伸ばす。 当然のように抱き止められ、自然と笑みが浮かぶ。 「本当に、」 と兄ちゃんがやっと安心したかのように息を吐きながら言った。 「無事に目が覚めてよかった。もうキョンに会えなくなったらどうしようかと、本気で思ったよ」 「…俺も」 兄ちゃんの考えている意味とは違うのだが、そう思ったことは間違いじゃない。 不思議そうに首を傾げている兄ちゃんに、俺は聞く。 「なあ、ハルヒのこと、好きか?」 ハルヒじゃなくてもいい。 誰か好きな相手って今いるのか? 「……はっ!? 突然何言い出すんだよ! やっぱり頭打ったせいでどこかおかしく…!?」 「待て待て待て、違う。違うからナースコールしようとすんな」 俺は慌てて兄ちゃんの手を止め、へにゃりと笑って兄ちゃんを抱きしめた。 「…よかった」 少なくとも今のところ、兄ちゃんはハルヒにも誰にも恋愛感情なんて抱いていないらしい。 そのことが妙に嬉しかった。 「キョン? なんか、話が見えないどころか話題がどうなってるのかさえ分からない気持ちなんだけど……」 「うん、そうだろうな。その話もするから、でも、その前に、」 と俺は兄ちゃんの胸へ頭をすりつけ、 「頭、撫でてくれ」 「え? うん、いいけど…」 混乱しつつある兄ちゃんの手が、俺の頭に触れる。 柔らかく、優しく撫でる感触は俺の知るそれそのもので、間違いないと分かる。 嬉しくて、涙が出た。 「きょ、キョン!? なんで泣いてるんだ? どこか痛んだとか…」 「兄ちゃんに会えて、よかった。戻ってこれて、よかった。兄ちゃん……」 俺は兄ちゃんに向けて笑みを浮かべ、 「大好き、だからな」 「…っ、」 兄ちゃんは言葉も出ないのか、赤い顔をして俺を抱きしめた。 込められた力が強すぎて痛いくらいだが、文句を言う気になどならない。 多少鬱陶しかろうがなんだろうが、これでこそ俺の兄ちゃんだと、俺も力を込めて抱きしめ返した。 |