忠実事



コンピ研とのシミュレーションゲームでの勝負で反則的手段によって勝ちをもぎ取った日、俺は兄ちゃんの家に上がりこみ、勝利の美酒に酔いしれていた。
――なーんてこと、あるはずがねえ。
俺が兄ちゃんの家に行ったのは単純に、創作料理に失敗したという哀れな理由で黒々と焦げたガスコンロを磨き上げるためだった。
何をどう失敗すればコンロをここまで焦げ付かすことが出来るんだか、俺には全く分からんし、具体的な方法を知りたいとも思わない。
俺が知りたいのはこれを元通りピカピカにする方法だが、地道に磨くしかないんだろうな。
とりあえず、創作料理は当分禁止だ。
「僕の数少ない趣味のひとつなんだけど……」
と訴える兄ちゃんの哀れっぽい声には耳を貸さないでおく。
コンロを焦がしたり、鍋を消し炭にしたり、部屋の中をすすだらけにする時間があるんだったらいっそのこと、あのへぼとしか言いようのないボードゲームの腕を多少なりとも上げてもらいたいところだ。
「いつにもまして容赦がないね」
「俺はだな、」
笑みの形を作った顔をぴきぴきと引き攣らせながら、俺は兄ちゃんに言った。
「片付けも出来ないってのに取り返しがつかないほど汚すという行為が許せないんだ」
というか、以前はどうしてたんだ。
「たまに森さんがチェックに来るから、以前はその時に見つかっては清掃業者を呼ばれてたよ」
機関ってのは訳の分からないところで兄ちゃんを甘やかしているらしい。
そんなところに金を使う余裕があるなら兄ちゃんに完全なる休暇を寄越せと言いたくなる。
そう口にする代わりにため息を吐き、俺はコンロ磨きに精を出すことにした。
とはいえ、こういう単純作業ってのは大抵、口も頭も暇になるものだ。
ガシガシとクレンザーでコンロを磨きながら、俺は兄ちゃんに言った。
「それにしても、今日は結構楽しそうだったな」
「そうかな?」
「違うか?」
ハルヒに幕僚総長って呼ばれて、ノリノリで返事してただろ。
「まあ、ああいう風に別の役柄になりきるのは面白いと思うよ。昔から演劇は好きだしね。これでも、一時期劇団に入ってたんだよ?」
「マジか」
初耳だ。
驚く俺に兄ちゃんは楽しげに笑って、
「小学生の間だけだけどね。子役として舞台に立って、そこそこの評判をもらってたんだ」
「それにしたって、よくあの父親が許したな」
とても演劇なんてやらせてくれるような男じゃなかったはずなんだが。
「もちろん、条件はつけられたよ」
「どんな条件だったんだ?」
「塾の試験で常に上位でいること」
あの父親らしいといえばらしいが、それを見事に遂行した兄ちゃんも兄ちゃんだ。
しかも演劇をしながらだろ。
やっぱり兄ちゃんは凄い、と素直に尊敬の眼差しを向けた俺に、兄ちゃんは苦笑した。
「演劇をしながら、って言っても、子供だったからね。それほど厳しくもなかったし、勉強も同様。どちらも記憶力が要るって点では同じだったし、大して苦痛でもなかったよ」
「でも、なんでそこまでして演劇をしようと思ったんだ?」
まだ小学生だったんだろ?
首を傾げた俺に、兄ちゃんははにかむように笑って、
「そもそも、演劇をしようと思ったのは、キョンのためだよ?」
「俺の?」
しかし、兄ちゃんが小学生に上がる頃にはもう俺は兄ちゃんと引き離されていたはずなのだが、それ以前に何か言ったとでもいうんだろうか。
「キョンは覚えてないだろうけど、幼稚園の頃に、学芸会で劇をやったんだ」
「それはなんとなく覚えてる」
アルバムの写真にも残ってるしな。
確か、桃太郎か何かだったんだと思う。
「よく覚えてるね」
と言いながら思い出し笑いを見せた。
くすくすと小さく声を上げて笑いながら、
「と言っても、場面ごとにキャストを変えてたから、桃太郎が5人も6人もいたんだけどね。たまたま僕は鬼退治のシーンっていう目立つ場面を当てられて、でもその分出番は短かったんだ。やってる間はとにかく必死だから、観客の方なんて見てられなかったんだけど、最後に全員で舞台上に並ぶだろう? その時、キョンが凄くキラキラした目で僕を見てたんだ」
なんとなく、本当になんとなくだが覚えている気がする。
兄ちゃんが凄くかっこよくて、自分まで誇らしいような気持ちになったというだけの朧気な記憶だが、多分その時の記憶だろう。
兄ちゃんは嬉しそうに笑い、
「舞台を下りたらキョンが待ってて、僕を見るなり抱きついてきたんだよ。『兄ちゃんかっこよかったぁ!』って、本当に感激したみたいで」
可愛かったなぁ、と呟く兄ちゃんをじぃっと見ていると、俺の視線に気付いたらしい兄ちゃんが、俺に向かって微笑んだ。
「もちろん、今のキョンも可愛いよ?」
「そんなこと誰も聞いとらん」
そう言って顔を背けたが、照れ隠しだということくらいばれてるんだろうな、くそっ。
俺は兄ちゃんを見ないようにコンロの方へ目をやりながら、
「それだけで演劇をしようと思ったのか?」
「それだけ、ではないな。もちろん、あの父への反発をしてみたかったっていうのも、大きな要因のひとつではあるけれど。―― 一番の理由はね、」と兄ちゃんは殊更に優しく、俺に聞かせるために言っていると強調するような声で言った。
「有名になればキョンに見つけてもらえるかもしれないと思ったからだよ」
「……はっ?」
思わず兄ちゃんを振り返ると、兄ちゃんは苦笑交じりではあったものの、いたって真面目な表情をしていた。
「キョンと引き離された時、父の性格からしてどうやったって会わせてはくれないだろうなと子供心にも思ったんだよ。でも、僕はなんとしてでもキョンに会いたかった。キョンと一緒にいたかったんだ」
「それで、なんで有名になればなんて思うんだよ」
「僕の方はともかく、キョンがいつまで僕を覚えていてくれるか不安だったからね。僕の方でキョンを探せばあの父が黙っているはずはないし、かといってキョンが僕を探してくれる保証はない。それなら、僕が有名になって、僕の名前をキョンが聞いて、思い出してくれないかなと思ってたんだよ。もっとも、」
と兄ちゃんは苦笑して、
「名前も忘れられてたみたいだけど」
まともに反論出来ないのは、俺が見事に兄ちゃんの名前を失念していたせいだ。
「け、けど、兄ちゃんのことは兄ちゃんとして、覚えてたんだぞ。名前だって…、聞き覚えがあるとは、思ったんだ。……一応」
うぅ、我ながら苦しい言い訳だ。
「別に、責めるつもりはないよ。ただちょっと、寂しかったってだけで」
十分責めてんじゃねえか。
「どうしたら、許してくれるんだ?」
俺が聞くと兄ちゃんは少し考え込んだ後、つん、と自分の頬を指先でつついた。
「ここに」
そこに?
「昔みたいにちゅーしてくれたら許してあげる」
……なんだって?
「昔はよくしてただろ。『兄ちゃん大好きー。ちゅー』って」
そんな記憶がないでもないが、それにしてもこの歳になってそれはないだろうというかむしろ兄ちゃんの頭は大丈夫なのか心配になってくる。
「いたって良好。なんなら、この前受けた健康診断の結果でも見るかい?」
要らん。
そしてちゅーなんかせん。
「残念」
と兄ちゃんは肩を竦めておいて、
「僕は一日も忘れなかったのにな…」
とため息を吐いた。
思ったより根に持っているらしい。
仕方ない、と俺もため息を吐く。
俺が兄ちゃんに勝てるはずもないんだ。
いっそさっさと白旗を掲げておいた方が俺の精神衛生にもよかったかもしれない。
俺は泡のついたスポンジをコンロの上に残して、手を水で洗い流した。
タオルで拭くのもそこそこに、カーペットの上に座布団も敷かずに座っていた兄ちゃんの隣りに座る。
「掃除は終ったのかい?」
「一時中断だ」
そう言いながら俺は兄ちゃんの顔に手をやった。
両手で頭を固定してやると、俺がどうするつもりなのか察したらしい兄ちゃんが目を閉じる。
長い睫毛だな、と意味もなく思いながら、締りのない頬へ、俺は苛立ちに尖らせた唇を押し当てた。
次の瞬間、抱きしめられた勢いで床へ倒れこみそうになり、慌てて踏ん張る。
何すんだよ。
「可愛いなぁ! もうっ!」
どこかの女子高生でもあるまいし、もう少しまともな言葉を発してくれよ、兄ちゃん。
「無理だね」
笑顔で断言するな。
「キョンが可愛すぎるのがいけないんだよ」
そう言った兄ちゃんの顔が近づく。
「ちょっ」
と待て、と言うのも間に合わなかった。
「ん?」
と言う兄ちゃんの唇は俺の頬に接したままだ。
思いっきり見ちまった。
いっそ目を閉じてりゃよかったと悔やむほど、はっきりと。
「兄ちゃん…」
抗議してやろうと睨みつけると、兄ちゃんは俺を抱きしめる手を緩めもせずに首を傾げ、
「どうかした?」
「どうかしたもなにもないだろうが!」
いきなり何しやがるっ!
いや、いきなりじゃなければいいというわけではなくてだな、とにかく、了承も得ずにやることじゃないだろう。
「お返しくらいいいだろ。ロシアやアメリカじゃこんなの挨拶だよ」
ここは日本だってことをまず覚えておいてくれ、頼むから。
「……」
兄ちゃんは妙に寂しそうな目で俺を見つめた。
俺は別に悪いことをしたつもりもないのに、罪悪感がこみ上げてくる。
「キョンは、そんなに嫌だった?」
正直、ずるいと思わずにはいられない。
悲しげな目も、間の取り方も、絶妙すぎて、演劇の経験を妙なところで活かしてないかと問い詰めてやりたくなる。
そして、それを絶妙と言っちまう俺がそれに勝てるはずもなく、
「…嫌じゃ、ない」
極力視線を逸らしたところで、これだけ至近距離じゃ意味などないに等しい。
兄ちゃんはにっこりと微笑み、
「よかった。キョンに嫌われたらどうしようかとひやひやしたよ」
俺が兄ちゃんを嫌うなんてことが本当にあり得ると思ってるんだろうか。
俺はとにかくこの妙な空気を何とかしてやろうと、話題を元に戻した。
「それで、演劇の話だけどさ」
「うん?」
「もしかして、それでこっちの任務に回されたのか? ハルヒの望むような姿を演じられるから」
「まあね。もっとも、理由は他にもあったんだよ? それだけじゃない」
つまり兄ちゃんが嫌々ながらハルヒの近くにいることになっちまったのもまた俺のせいってことか。
俺はため息を吐きつつも笑い、
「…なんか、何でも俺のせいみたいだな」
と呟いた。
笑ったのは、兄ちゃんには悪いが、それが嬉しくもあったからだ。
すると兄ちゃんは穏やかに微笑み、
「キョンの『せい』じゃなくて、キョンの『ため』、だよ。キョンのためなら、僕はなんだって出来るんだからね」
と俺の髪へ顔を埋めるようにして、もう一度しっかりと俺を抱きしめた。
物理的にも精神的にもくすぐったい。
とはいえ、兄ちゃんがこういうスキンシップが好きで、それで癒されるというのはよく理解出来ないなりに分かってきたので、突き放すことも出来ない。
コンロ磨きを再開したいといつ言おうかと考え込みながら、俺は小さく息を吐くのだった。