変わり事



俺がハルヒへの嫌悪感を緩め、多少なりともいい印象を抱くようになったきっかけは、映画撮影のごたごたの中にあった気がする。
ハルヒとけんかをし、ついでに兄ちゃんとも軽い兄弟げんかを楽しんだその翌日、俺が思った以上にへこんでいるハルヒを俺は意外に思ったものだ。
たとえ兄ちゃんが言っていたことであっても、それを鵜呑みにするほど素直に出来ていない俺だから、ハルヒがしょんぼりしていると言われても違和感しか抱かなかったのだが、教室に入って見たハルヒはなるほど確かにしょんぼりしているようだった。
それでもまだ、俺も頭がカッカしていた、というか、冷静に自分を顧みることが出来ていなかったから、それに対してどう思ったわけではない。
だからあくまでもこれはきっかけ、あるいはきっかけとなった可能性のある事例のひとつに過ぎない。
一番大きなきっかけとなったのは、間違いなくアレだ。
文化祭の一日目、ハルヒが上級生のバンドのピンチヒッターとして活躍し、かつ、それが功をなした、あの一件だろう。
ステージ上に立つハルヒと長門を見た時はなんてこったいと頭を抱え込みたくなったものの、結果を見れば俺だってハルヒに賞賛の拍手を送ってやりたくなったくらいだからな。
また、当のバンドメンバーが大いに喜んでいたことも大きい。
そしてハルヒが、人の役に立つ喜びというか、ありがとうと言われるくすぐったいような嬉しさを知ったことこそが、俺にとっては重要であったような気がしている。
そう、これがあったからこそ、俺はハルヒに対する厳しすぎた評価を緩め、さらにはある種の緊張感さえも緩めてしまったんだからな。

それは、文化祭を過ぎて少し経ったある日のことだった。
残暑というには余りにも厳しいそれがいくらかとはいえ緩んできていたこともあって、放課後の部室というのはなかなかに寝心地のいい場所となっていた。
なんだかんだと言いながら、日々俺を襲撃してくる騒動で疲れていた俺は、机に突っ伏して惰眠を貪ることにしたわけだが、それがまずかったとも言える。
一度兄ちゃんが、
「そろそろ起きて帰った方がいいんじゃありませんか?」
と声を掛けていったような気がするんだが、それさえ無視して寝続けたあたり、俺も疲れていたんだろうな。
次に体を揺すられた時、俺の口から漏れたのは、
「ん……兄ちゃ…」
という言葉で、それに対して降って来たのは、
「……あんた、お兄さんなんていたの?」
というハルヒの声だった。
俺は飛び起きるという表現が相応しい勢いで起き上がった。
全く、肝が冷えるとはこのことを言うんだろうな。
俺の顔からは血の気すら引いていたに違いない。
だがハルヒはいつもの好奇心を湛えた目で、
「ねえ、どうなの?」
「い、いや、その……」
なんと言えばいいんだろうな。
上手く誤魔化せればいいんだが、今更聞き間違いだと言ったところで遅いだろう。
それならいっそ、と覚悟を決めて、俺は言った。
「……いる」
「でも、夏休みにあんたの家に行った時は妹ちゃんしかいなかったわよね。たまたま留守だったの?」
「いや、兄ちゃんは別に住んでるんだ。俺ももう、十年以上会ってないから、今どこにいるのかもさっぱりだが」
と俺は嘘を吐いた。
言ってみれば、嘘を吐くにしても春先の、古泉が兄ちゃんだと知らずにいた時の感覚で答えればいいわけだから、思ったよりも楽で、しかも嘘とは思われ辛いようだった。
「なんでそんなことになってんのよ」
「プライバシーの侵害だぞ」
ためしにそう言ってみたのだが、ハルヒが耳を貸すはずがない。
――と思ったのだが。
「……そうね。悪かったわ」
意外にも謝られ、俺は目を見開いた。
これはハルヒの皮を被った何かではなかろうか、とさえ思ったね。
「…何よ、その反応」
「いや、てっきり、お構いなしに聞いてくると思ってたんだが」
「あたしだって、聞いちゃいけないことくらい分かるわよ。勿論、あんたが聞いて欲しいんなら聞いてあげるけど」
そう言われ、俺は考え込んだ。
話を聞いてもらいたいと俺は思っているんだろうか。
誰にも話せずにいた分、誰かに聞いてもらいたいとは思っていた気がする。
だがその相手はハルヒでいいんだろうか。
そう迷いはしたのだが、ハルヒの目と、長い沈黙とに耐えかねたように、俺は口を開いた。
「うちのお袋は一度離婚してんだ。その時、兄ちゃんと俺をそれぞれが引き取ることになって、俺と兄ちゃんは引き離されたんだよ。それ以来、一度も会えなくってな」
「なんでよ。会いに行けばいいじゃない」
「正直なところ、兄ちゃんには会いたくても父親にはまかり間違っても会いたくないんでな。それでも、兄ちゃんと会うには父親と連絡を取る必要があるだろ。それが嫌なんだ」
「分かんない奴ね。そんなに嫌な父親だったの?」
「…最悪だったな」
吐き捨てた俺に、ハルヒは意外そうに眉を上げた。
なんだ?
「あんたがそうやってあからさまに嫌な顔するのも珍しい気がしただけよ」
そうでもないと思うが。
「で、会えない理由ってのはそれだけなの?」
まだある。
お袋にそれを言い出すにはあまりにもうちの家庭が円満なのもその理由だし、それ以上に言い辛い理由もある。
「どういうことよ」
「……実はだな、」
と俺は春のことを思い出しながら言った。
「別れたのがまだ小さい頃だったからか、俺は兄ちゃんを兄ちゃんとしか呼んだことがなく、兄ちゃんの名前すら覚えてないんだ。今更お袋にも聞き辛くてな」
「……あんた、ばかじゃないの?」
そう言われても仕方ないとは思うんだが、実際のところそんなもんではなかろうか。
日々間の抜けたあだ名で呼ばれる俺の本名を覚えている人間が何人いるか考えれば、俺が極々小さい頃に離れ離れになった兄ちゃんの名前を忘れてしまっていることを咎められることはないと思うのだが。
「それでも会いたいって思うのは凄いと思うけど、確かにそれじゃ会い辛いわね…」
それに、と俺は言った。
「会ったところで、兄ちゃんも変わってるだろうと思うと、踏ん切りがつかないんだよ」
実際には、大して変わってなかったんだが、俺の知らない部分は圧倒的に多くなっていた。
今もまだ、兄ちゃんについては分からないことだらけだ。
それを不安に思うこともあるのに、これまでずっとそれを見ないようにしてきたように思う。
…もっと、兄ちゃんを知りたい。
そう思うのに、兄ちゃんに拒絶されるのが怖くて言い出せずにいる。
子供みたいに甘えるだけじゃなく、兄ちゃんを支えていけるようになりたいと思うのに、兄ちゃんの引いた線の中へ踏み込むのが恐ろしい。
そこにいる、俺の知らない兄ちゃんを見ることも、そのことで兄ちゃんに嫌われることも。
だから、聞き分けのいい弟でいようと思った。
兄ちゃんから打ち明けてくれることを信じて。
ただ、同時に分かっていたのは、兄ちゃんが自分の苦しい立場やなんかを吐露するはずがないということだ。
俺に弟として譲れない部分があるように、兄ちゃんにも兄としての矜持があるのは明らかなことで、そうであれば絶対に俺に弱音を吐こうとなんてしてはくれないだろう。
つまり、これ以上俺は兄ちゃんに近づけないことになる。
つらつらとそんなことを考えてしまったからだろうか。
「キョン? 大丈夫?」
ハルヒが心配そうな声でそう言うほど、俺は酷い顔をしていたらしい。
「ああ」
「そんなに悩むんだったら、いっそ会いに行ったらいいのに」
それで拒まれたら俺は当分立ち直れん。
「自分から会いに来たあんたを拒むような兄ならいなかったことにしちゃえばいいじゃない。どうせ今もいないようなもんなんでしょ」
乱暴な極論を振り回すな。
一応未だに兄ちゃんの面影を抱えながら生きてる俺はどうなる。
「別の人をお兄さんだと思えばいいんじゃない? あ、古泉くんとかどう?」
「ぶはっ!」
奇声と共に思わず机に突っ伏した。
こいつ、分かってて言ってんじゃねえだろうな!?
しかしハルヒは不思議そうな顔をして、
「何やってんのよ」
と言っている。
適当に言っただけらしい。
「何で古泉なんだよ…」
顔を上げる気力もなく、机に頭を載せたまま言うと、ハルヒは簡潔に、
「最近、あんたと古泉くんも仲良くなったみたいだし、あんたと古泉くんなら、どう考えても古泉くんの方が年上っぽい落ち着きがあるからよ。それとも、あんた他にお兄さんだと思えるような人がいるわけ?」
「いるわけないだろ。そもそも赤の他人を兄ちゃんの代わりにするっていうのが寒い」
「それなら、そのお兄さんと連絡を取るなり何なりしなさいよ。ぐだぐだ考えてたってどうにもならないんだから」
俺は黙ってハルヒを見上げた。
「…何よ」
「いや」
そのバイタリティと行動力が羨ましいなと思っただけだ。
「羨ましいと思うんだったらあたしの言う通りにしなさいよ。要するにあんたは誰かに背中を押してもらいたいだけなんでしょ」
そうかも知れん。
俺は椅子から立ち上がると、
「今度、やってみる」
ハルヒは満足げに頷き、
「ま、ダメだったら言いなさい。あたしが直談判してあげるから」
「そりゃ、心強いな」
俺は笑いながらそう言い、
「ハルヒ」
「何よ」
「聞いてくれて、ありがとな」
俺が素直に礼を言ったからか、ハルヒは満足げな笑みを浮かべ、
「別に、団員の管理は団長の仕事ってだけよ。精神面も含めてね」
初耳だな、と思いつつそれは口に出さず、俺はハルヒを置いて部室を出た。
俺が起きるまで待っていてくれたハルヒには悪いが、俺は気が急いていたし、ハルヒも気にしないようだったから善しとしよう。
――ハルヒと本当の意味で友人付き合いが出来るようになるかも知れん。
そう言うと自分が毒されたようで嫌な気もするが、それはそれで面白そうだと、今になってやっと思うことが出来た。

急ぎ足で部室棟を出て、校門を出る。
そうして辺りに人影がまばらとなり、かつ俺の声なんぞに耳をそばだてるような人間がいないことを確認してから、俺は携帯を取り出し、兄ちゃんに掛けた。
『もしもし』
コール音は3回響いただけだ。
俺は口の端が吊り上がるのを感じながら、
「兄ちゃん」
と言った。
「今から邪魔していいか?」
『いいけど……涼宮さんのことはちゃんと送って行ったんだろうね?』
俺は答えずに通話を切った。
どうやら兄ちゃんはハルヒに任せて先に帰ったということらしい。
それを薄情と思おうか、それとも結果オーライということにしてあっさり不問に処すべきか考えながら、俺はほとんど走るような調子で坂道を下った。
途中の自転車置き場で自分の自転車を回収すると、軽くペダルをこいで兄ちゃんのマンションへ向かう。
階段を駆け上り、ドアホンを押すと、ラフな格好に着替えた兄ちゃんが顔を出した。
浮かべているのは呆れと困惑の混ざった笑みだ。
「いらっしゃい」
「ん」
勝手知ったるなんとやらで、俺はさっさと上がりこむと、兄ちゃんが落ち着くまでテーブルについて待った。
「それで、」
と兄ちゃんはコーヒーを俺の前に置きながら言った。
「いきなりどうしたんだい? さっきの切り方からして、涼宮さんのことも送りもせずに慌てて来たみたいだけど」
「それは、」
と言い掛けて口ごもったのは、なんと言うべきか悩んだからだ。
「キョン?」
兄ちゃんが首を傾げながら言ってもまだ、言葉が見つからなかった。
どう言えば伝わるんだろうか。
兄ちゃんに甘えるばかりじゃ嫌なんだと、唐突に言ってしまっていいんだろうか。
それとも、兄ちゃんが俺のことをどう思っているのか問うべきなんだろうか。
「…何か大変なことがあった、って顔じゃあないね。どちらかというと……何か悩み事かな?」
兄ちゃんは優しくそう言って、俺の頭を撫でてくれる。
「いいよ。ゆっくり考えて、それから少しずつ話せばいい」
本当に、兄ちゃんは昔と変わってない。
優しくて、俺のことを大事にしてくれて、だが、だからこそ、俺には何があっても辛い顔は見せるまいとする。
それが、寂しいんだと言えば、分かってくれるだろうか。
――すぐに分かってもらえなくても、言葉を尽くそう。
そうしたら、兄ちゃんなら、きっと分かってくれる。
俺は緊張に跳ねる心臓を落ち着かせようと深呼吸をして、口を開いた。
「兄ちゃんに、甘やかされるのは…好きだけど、それだけじゃ嫌なんだ、って、言ったら、……兄ちゃんは、どう、思うんだ?」
声が震えて、言葉は途切れ途切れにしか出てこなかった。
兄ちゃんはまた小首を傾げて、
「それだけじゃ嫌ってことの方向性によるかな。甘やかされるのが嫌っていうなら、寂しいけど我慢するよ。でも、そういう意味じゃないんだろ?」
「…俺は、兄ちゃんに、もっと頼ってもらえるようになりたい。可愛がられるだけの弟じゃ、嫌だ。聞き分けのいい弟でいようと思って、兄ちゃんが触れられたく、なさそうなところは、触れないでいようと思ってた。けど、俺はもっと兄ちゃんが知りたい。兄ちゃんに頼られたいんだ」
そう言うと兄ちゃんは困ったように苦笑して、
「今だって、僕はキョンに頼りすぎてると思うんだけどな」
「家事とか、そういうことじゃなくて、……兄ちゃんが、辛い時も、俺の前では笑ってるのを見るのは、嫌なんだ」
言葉を探しながら、途切れさせながら言う俺に、兄ちゃんは考え込んだ。
「……それは、機関のことやなんかで疲れている時や苦しい時にキョンを頼れって意味でいいのかな?」
俺は頷き、
「俺じゃ頼りないかもしれないけど、ただでさえ『古泉』としてかっこつけてる兄ちゃんに、俺の前でまでそんな風に無理してほしくない」
「心配しなくても、」
と兄ちゃんは笑いながら、俯いてしまっていた俺の頭をぽふんと撫でた。
「キョンの前では十分素の自分でいるよ」
そうは思えないんだが、子供の頃の兄ちゃんもえらく行儀がよかったから、そんなもんなんだろうか。
ありえなくもないが、子供の頃から無理してる可能性もないとは言い切れないのが兄ちゃんだ。
「それにね、キョン、機関のことを話さないのは守秘義務ってのがあるからだよ。仕事だから仕方なくってこと。キョンに心配を掛けたくないって気持ちもあるけど、仕事上のことを気軽に話すような兄ちゃんだったら、キョンも信用できないだろ?」
それはそうかもしれないが…。
「大体ねえ、キョン」
と笑いながら言った声がかなり近くで聞こえ、驚いて顔を上げると同時に抱きしめられた。
一体いつの間に移動したんだ。
「こんな風にして抱きしめたりしてるのに、まだ無理してると思うのかい?」
笑いを含んだ声で言いながら、痛いくらいに抱きしめられる。
そのまま背後から抱え込まれるようにされて、
「重いだろ」
と俺が小さく抗議めいた声を上げると、兄ちゃんは更に抱きしめる力を強くしながら、
「重くなんかないよ。キョンはもうちょっと筋肉をつけてもいいんじゃない?」
知るか。
「こうやって、」
と肩に押し当てられたのは兄ちゃんの頭だろう。
柔らかな髪の感触が頬に触れる。
「抱きしめさせてくれるだけでも、僕は大分楽になるんだよ?」
「俺は抱き枕でもぬいぐるみでもないぞ」
愛玩動物か何かのように頼られても、ちっとも嬉しくない。
「そんな風に思ってるんじゃないって。キョンはキョンだって分かってる。というか、キョンじゃなかったら意味がない」
そこで喋るなよ、くすぐったい。
「でも、逃げずにこんなことをさせてくれるんだね」
「……兄ちゃんがこうしたいんだろ」
だから我慢してるのに、なんなんだ。
「そういう優しいところも好きだよ」
も、ってことは他にも好きなところがあるってことなんだろうか。
「もちろん」
と兄ちゃんは楽しげに言った。
「挙げてったらキリがないくらい、好きだよ。キョンなら怒ってる顔も泣いてる顔も好きだな。少しわがままなところも、面倒見のいいところも」
嬉しいんだが、同時に物凄く恥ずかしい。
返す言葉が見つからずに黙り込むと、追い討ちをかけるように、
「…大好きだよ」
と吹き込まれた耳が、恐ろしく真っ赤になったのは言うまでもない。