兄ちゃんは、弟である俺まで胸を張れるくらいにはいい兄ちゃんだと思う。 多少抜けているところやだらしのないところもあるが、それだって、愛嬌と見られるだろう。 完璧すぎる人間は嫌われるというから、それくらいで丁度いいに違いない。 運動神経もよく、成績も優秀、顔もよくて性格もいいと言ったら、どれだけ神様に贔屓されてんだと聞きたくなるくらいだ。 そんな兄ちゃんを、出来がいいとは言いかねる俺が、羨ましいと思わないわけじゃない。 ただ、それ以上に兄ちゃんのことが好きで、誇らしいと思うから、羨望が強くならないんだろう。 だから、俺が九組の演劇を最初から最後まで観ていられなかったのは、兄ちゃんをひがんだからじゃない。 観客の多くが女子で、きゃあきゃあ言いながら、あるいはうっとりした目で、兄ちゃんを見ていたのが、嫌だっただけだ。 「……俺の兄ちゃんなのに」 誰にも聞こえないように、ぼそりと呟いた。 そもそも、今日の文化祭にしろ先月の体育祭にしろ、イベントとなると兄ちゃんはやけに目立っている気がする。 その度にファンが増えているのは、俺の思い違いでも気のせいでもあるまい。 今頃視聴覚室で映写されているだろうメタクソ映画を観に行く女生徒がいたら、それはまず間違いなく兄ちゃん目当てだろうよ。 ああ、くそ、面白くない。 講堂の方から聞こえてくる吹奏楽に引かれるまま、そちらへ行ってしまおうか。 確か今やってるので兄ちゃんの出番も終っちまうはずなのだが、昨日チラッと見た分と合わせりゃ、通しで観たのと同じくらいにはなってるから構わんだろう。 苛立ちのまま足を速め、講堂へ向かう。 大体、とむしゃくしゃする思いを言語化することで整理したいのか、俺は胸の内で呟き続ける。 兄ちゃんは昔っからそうだった。 かっこつけってわけでもなく、演じているわけでもないのだが、親や大人から見ていい子でいるような奴って、たまにいるだろ。 あのタイプだったんだ。 だからと言って煙たがられるのではなく、きちんとしているが故に頼られる感じだったのを覚えてる。 それもあって、未だに品行方正な優等生なんてものが務まるんだろうな。 「古泉」は普段の兄ちゃんより少しやりすぎているようにしか見えないしな。 それなのに、どうしてああも胡散臭く見えるのか不思議な気もするが、胡散臭いと感じるのは俺がアレは演技だと分かっているからなのかも知れん。 そうでなければ、同級生相手に敬語を使うなんてキャラ付け自体が相当胡散臭いものだからだろう。 機関も無茶言うよな。 ――機関と言えば、気になることがある。 先日顔を合わせた森さんたちのほかにどれだけの人間がいて、かつ兄ちゃんのことをなんだと思っているのか、ということだ。 兄ちゃんはあの通り、比較的真面目な性格だから、使命感及び義務感の下、機関の指示を大人しく聞いて動いているんだろうが、その結果としてどうなっているかといえば、ハルヒが何かやらかしたりする毎にふらふらになるほど疲労困憊している。 そうでなくとも、報告だなんだと忙しくしていることが多いことに、俺も気がついていた。 それを兄ちゃんに言ったところで、笑って誤魔化されるだけなんだろうが、兄ちゃんのそういう性格に付け込んであれやこれやと押し付けているんだとしたら許せん。 兄ちゃんも、機関の言うことをほいほいと聞かなきゃいいのに。 そんなことをぐだぐだと考えながら歩いていると、 「キョン」 と肩を叩かれた。 「眉間に皺寄せて何やってんだ、お前」 「谷口、なんか用か?」 「いや、暇そうだから、」 俺は最後まで言わせずに言った。 「ナンパなら付き合わんぞ」 というか、昨日も成功しなかったんだから大人しくしてろ。 普通の高校生であることを噛み締めながら普通に過ごせ。 「お前、何イラついてんだ?」 「うるさい」 肩を竦めた谷口の横で国木田も、 「ほんと、キョンにしては珍しいよね。何かあった?」 「…別に」 たとえ古泉と俺の関係を言っていたとしても口にしがたいことを考えていた俺としてはそう言うしかなかったのだが、何を思ったのか、谷口がしたり顔で、 「ははーん」 「なんだ、谷口。気色悪い」 「さてはお前、女子に振られるかどうかしたんだろ」 「お前と一緒にするな」 「隠すなって。どんな子だ」 「だから、違うと言ってるだろうが」 肩を組もうとするな、肩を。 俺と谷口が揉み合っているのを止めもせず、国木田がいつもの調子で言った。 「二年の校舎の方で何か面白いことをやってるらしいんだけど、キョンも行かないかな」 何か面白いこと、ね。 えらく曖昧な情報だが、このくさくさした気分が多少は晴れるかも知れないから、一緒に行くとしようか。 ついでに朝比奈さんと鶴屋さんの教室の前でも通って、お二人の艶姿をもう一度拝めれば御の字だ。 俺が頷こうとした時、 「お楽しみ中すみません」 といきなり背後から声を掛けられた。 そしてそんな声の掛け方をする人間は他にいないだろう。 「古泉? お前、自分のクラスの出し物は終ったのか?」 「ええ、たった今終りました」 その言葉に間違いがないことを示すかのように、古泉はまだ舞台衣装のままだった。 暑くないんだろうか。 「結構暑いですよ。着てみたいんでしたら、後ほどお貸ししますが」 要らん。 それで、一体何の用だ? 「なんと言うか……ちょっと、構いませんか?」 国木田や谷口の前では話しづらいこと、というとハルヒ関係か? それとも「古泉」ではなく兄ちゃんとして言いたいことがあるんだろうか。 俺は国木田と谷口に、 「すまん、お前等だけで行ってくれ」 と言うと、兄ちゃんと共にその場を離れようとした。 それとほとんど同時に、 「古泉くん、見つけた!」 と女子の声がした。 ぎょっとして振り向こうとした俺の手を兄ちゃんが掴んで走り出す。 「わっ、ちょ、なんだ…!?」 思わず声を上げた俺に兄ちゃんは、 「すみません、ちょっと走ってください!」 訳が分からないままに俺は走らされた。 時々背後を見ると、追いかけてくる女生徒数人が見えたり、見えなかったりした。 あちこち走り回った挙句、最終的に逃げ込んだのは部室で、鍵を掛けてやっと落ち着くことが出来た。 「はー…っ」 パイプ椅子に身を投げ出した俺が、ため息だかなんだか分からないものを吐き出すと、兄ちゃんも暑かったのか、頭に撒いていた布を外し、長机の上に放った。 「一体なんなんだよ…」 「ごめん、こんなことになるつもりじゃなかったんだけど」 と兄ちゃんは苦笑しながら、椅子に腰を下ろした。 額には汗が滲んでいる。 「僕としては単純に、あと少ししかない残りの文化祭をキョンと過ごしたかっただけなんだけど、見ての通り、追い掛け回されて困ってたんだ」 「あの女子はなんだよ」 「いや…一緒に写真が撮りたいとか言ってくるのを断って逃げてきたんだけど」 「写真って、兄ちゃん、」 それくらい許してやれよ。 あんだけ逃げるからファンサービスとして、もっととんでもないことを要求されたのかと思っただろうが。 「一分一秒も惜しかったんだよ。早く、キョンの側に行きたくて」 兄ちゃんの言葉がくすぐったい。 恥ずかしさを誤魔化そうと視線をそらすと、兄ちゃんが申し訳無さそうに、 「結果としてこんなことになってごめん。キョンは友達と一緒にどこか行くつもりだったんだろ? 邪魔した上に結局こんなところに逃げ込むことになって、本当にごめん」 別に、あいつらのことはどうでもいいんだが。 「…というか、本当は、わざと邪魔しました。ごめん」 降参、とでも言うように両手を挙げて、兄ちゃんは言った。 わざとってなんだそりゃ。 「んー…」 言い辛いのか、それとも単純に疲れているのか、兄ちゃんは机に顔を伏せながら言った。 「キョンと仲良くしてるキョンの友達を見たら、ちょっと羨ましくなってね。僕の弟なのに、と思ったらあんなことしてた」 道理で兄ちゃんらしくない強引さだと思った、と呆れながらも嬉しいのは、兄ちゃんも俺と同じことを考えていたからだろう。 「兄ちゃんでも、そんなこと思うのか」 「思うよ。キョンは僕の自慢の弟だからね。涼宮さんに気に入られて、長門さんに懐かれて、朝比奈さんに頼られて、……みんなに好かれてる姿を見るのは嬉しいけど、寂しい」 拗ねたように顔を上げない兄ちゃんに口元を緩めながら、俺は兄ちゃんの髪に触れた。 いつもとは逆に、俺の方が兄ちゃんの頭を撫でる。 「俺も、いつも思ってた」 「本当に?」 「ああ。俺の兄ちゃんなのに、俺よりもよっぽど堂々と兄ちゃんの近くに行ける女子が羨ましい。それから、」 と俺はちょっとした嫌味のつもりで言った。 「兄ちゃんがいつまで経っても教えてくれない、兄ちゃんが隠してるようなことを知ってる、機関の人間も羨ましい」 「キョン、それは…」 困ったような顔をした兄ちゃんに、俺は小さく笑い、 「まだ無理なんだろ。ちゃんと、待つつもりでいるから。兄ちゃんがいいと思ったら、色々教えてくれ」 兄ちゃんに嫌われたくないから、俺は聞き分けのいい弟でいるから。 「……ああ」 「とりあえず今は、」 と俺は兄ちゃんの頭から手を離し、 「ここを出て、一度九組に戻ろうぜ。着替えてから、一緒に観て回ろう」 もしかすると、気の早いところは片付けを始めているかもしれないが、そうであれば食べ物関係のところなんかは安売りに入ってるだろう。 俺が言うと兄ちゃんはくしゃりと笑い、 「そうだね。そうしよう」 と腰を上げた。 「ありがとう、キョン」 そのありがとうは何に対して言ったものなのか俺にはよく分からなかったが、 「どういたしまして?」 ととりあえず言っておいた。 兄ちゃんと一緒にあちこち歩いて回って思ったことは、顔の造作がいいと得だなということである。 俺は兄ちゃんが持たされたあれやこれやの「おまけ」を睥睨しつつ眉間に皺を寄せ、 「…やっぱり兄ちゃんは女っタラシだ」 と呟いたのだった。 |