ハルヒが映画を撮ると言い出した時は、またか、と思っただけだった。 何しろ、春以来俺はハルヒのとんでもない所業に巻き込まれている。 今更映画くらいで驚きはしないさ。 俺が望むのはそこそこの平穏であり、兄ちゃんの無事だ。 映画だなんだと忙しくしてりゃあ閉鎖空間だかなんだかを発生させてる暇なんざないだろ。 俺が言うと兄ちゃんは小さく頷きつつも、 「そう上手く行ってくれればいいんだけどね――」 と嘆息した。 どうでもいいが、ため息を吐くだけでも絵になるってのはどういうことだろうな。 顔がいいからなのか、それとも所作のせいなのか、俺にはよく分からん。 俺にも兄ちゃんと同じ血が流れているはずなのだが、同じ形質が発現しなかったどころか、そもそも受け継がれた遺伝子が全くもって重複しなかったんだろうと思わせるほど、俺と兄ちゃんは似ていない。 言い回しの回りくどさや妙に理屈っぽいところは似てると思わないでもないのだが、少なくとも、外見上の共通点などないに等しい状態だ。 だからこそ、兄弟だとばれずにいるんだが、兄ちゃんがここまで出来がいいと複雑な心境にならざるを得ないな。 それはそうとして、兄ちゃんのため息の理由が気になった。 「撮影が上手くいかないと思うのか?」 「ん……というか、こういう芸術活動となると長門さんの助力は望めないだろう? 僕も、そう得意ではないし、朝比奈さんもご同様。唯一の望みはキョンくらいかと思うけど――」 「無理だ」 と俺は断言した。 俺のどこをどう見れば芸術活動に向いてると思えるんだ。 疑うなら俺の通知表を見るといい。 生まれてこの方、音楽や美術でいい成績を取ったことなど一度もない。 「どちらにせよ、涼宮さんは僕たちの意見を素直に聞き入れる人じゃないだろ。キョンの意見なら多少、聞いてくれそうな気はするけど、それでもつつき方を間違えたらいくらでも反発するだろうし」 言いながら、もうひとつため息だ。 「先月の体育祭みたいな活動だったらまだいくらでも小細工のしようもあるんだけど、涼宮さんの頭の中にある物を真っ当な手段で具体化するってだけだからね」 というか、先月のあれはやっぱり小細工をしてたわけか。 俺が言うと兄ちゃんは悪びれもせず、 「長門さんに少しお願いしただけだよ」 と言ってのけた。 「兄ちゃんと長門って、仲良かったっけ?」 「さて、どうだろう。利害が一致することが多いから、多少接触も多いけど。そもそも彼女が誰かと親しくする姿が想像出来ないな。残念ながら」 全くだ。 長門ももう少し人とコミュニケーションを取れてもいいと思うんだがな。 「僕が思うに――」 と言いかけた兄ちゃんだったが、何故だか口をつぐんだ。 続きを催促するように見上げた俺に、静かに首を振り、 「やっぱり止めておこう。当たっていても外れていても、長門さんに失礼だからね」 こういう紳士的な態度が女子にもてる所以なのかね。 俺は首を傾げつつ、 「それより、兄ちゃんに聞きたいことがある」 「なんだい?」 俺はごちゃごちゃと物が散らかった部屋の中を睥睨しつつ、 「何をどうしたら先週末確かにピカピカに磨き上げたはずのこの部屋がこの有様になるのかってことだ」 ちなみにここは兄ちゃんの部屋であり、先週末というのはほんの四日ばかり前なのだが。 「いやあ」 と兄ちゃんは頭を掻き、 「ちょっとした報告のとりまとめや、調べ物をしていただけなんだけど、気がついたらこうなってて」 笑って言っても誤魔化されんぞ。 使い終わったものを元の場所に戻すくらい簡単だろうが。 「それが結構億劫なんだよね」 俺がこの部屋に来てハウスキーピング的なことをするようになって以来、兄ちゃんのずぼらさに拍車が掛かって来ているような気がするが、それはおそらく気のせいではないのだろう。 兄ちゃんのことを考えるならそろそろ真剣にこの無料奉仕活動を取りやめるべきかと思うのだが、そうやって放置した後、今より酷い有様となったこの部屋を誰が片付けるのかと考えると踏ん切りがつかずにいる次第だ。 俺は諦めて、重要書類だか書き損じだか全く判別のつかない紙を拾い上げる作業を開始した。 そもそも今日兄ちゃんの部屋を訪問したのは掃除をするためではなく、昨日商店街で何やら不穏な活動――ハルヒ曰くスポンサー回り――をしたことと先の全く見えない映画について善後策を協議しつつ、ハルヒに命じられ、かつ部室で完遂させられなかったモデルガンとの格闘を続けるためであったはずなのだが、もはや当初の目的は忘れ去られつつある。 大体、決して器用とは言えない兄ちゃんと俺にモデルガンなんて任すハルヒは間違っていると思うのだが、それを言ったところで無意味なんだろうな。 ハルヒと言えば、と俺はふと思い出して顔を上げた。 兄ちゃんが真剣な顔をして読んでいるのはもう既に穴が開くほど読みつくし、かつ理解出来なかったモデルガンの取説だ。 「兄ちゃん、本当にごめん」 「え? なんのこと?」 と首を傾げる兄ちゃんはあくまでも普段通りだ。 普段通り過ぎてこちらとしては脱力しそうになる。 「いや、俺がハルヒに色々と話しちまったせいで、妙なことになって悪かったと思ったんだが…」 「それについては、部室でも言っただろ。キョンが気にする必要はないよ。むしろ僕は、面白いと思ってるね」 余裕だな。 「もう半年ばかりも近くで涼宮さんを見てるからね。どの程度物事を本気にしているかは分かるつもりだよ。あのキャスティング――というか、役柄に、とりたてて意味はないよ。精々、アイディアを練っている時に思い出した、少しばかり面白い電波ネタを拝借したっていう程度の扱いだと思う」 だといいんだが。 「とにかく、僕が言いたいのは、キョンがそんなに落ち込む必要はないってこと。大体、現実に超能力者や未来人や宇宙人がいると涼宮さんが本気で思ったら、そんなものは映画のネタにならないよ。違うかい?」 超能力者や未来人や宇宙人がありふれた存在ということになったら、確かにそうだろうな。 ありふれたものをあいつがわざわざ自主制作映画なんかに取り込むはずがない。 それで言ったら、そのどれもがフィクションの世界ではありふれたものだと思うのだが、そこは気にしないのが涼宮ハルヒだろう。 「…って、ちょっと待てよ。そうなると、もしハルヒが、本当にそういうのがありふれたものだと認識したらどうなるんだ?」 「世界中にそういうものがあふれることになるね」 「それなら、そういうものに対してハルヒは興味を持たないことにならないか?」 超能力者や未来人が宇宙人がありふれてるなら、あいつはもっと面白いものを探し始めるに違いない。 しかも既にそれらを発見しているのだ。 更なる確信を持って、地底人だが異世界人だかUMAだかを探すに違いない。 それを繰り返して行ったらどうなる。 ちょっとした地獄絵図じゃないか、それは。 「だからこそ、」 と兄ちゃんは微笑を湛えながら言った。 「僕たちは異変を彼女に悟られてはいけないんだよ」 その言葉で、余計に自分の失言が身に堪えたのだが、兄ちゃんは気付かなかったらしい。 結構鈍い、と俺は胸の内で毒づいた。 別に気を遣ってもらいたかったわけでもないんだが、なんとなくそう思った。 何度考えてみても、この頃の涼宮ハルヒってのは凶悪な台風だった。 あるいはハリケーンとか、いっそのこと悪夢と言ってしまってもいいかも知れない。 春先も強引だったといえば強引だったし、夏休み前にコンピ研部長氏の自宅を訪問した際なども、なんて傍若無人な奴だと思ったものだが、この頃のハルヒはどういうわけか、更にそれが酷かった。 朝比奈さんに精神的な傷を負わせ、俺を酷使し、あちこちに迷惑を振りまき、暴君さながらどころか、もはや疫病神だ。 そんな風に振り回されること数日。 俺もいい加減頭にきていたと思うものの、手を上げそうになっちまったのはやっぱり、ハルヒに対する苛立ちというものが、元々あったからなんだろうな。 ハルヒは、自覚していなかったにしても、三年も前から兄ちゃんを苦しませてきた。 兄ちゃんから普通の生活を奪い、あの割と楽天的な兄ちゃんに「自殺してたかもしれません」とまで言わしめるほどの苦しみを与えた。 今も、兄ちゃんは日々をハルヒのために消費しているように見える。 それは俺のひがみでもなんでもなく、兄ちゃんは俺とハルヒなら間違いなくハルヒを優先させるのだろうと、問うまでもなく分かっていた。 だから俺は、ハルヒに向かって拳を振り上げるほどに、頭にきたのだろう。 振り上げた拳を止めたのが兄ちゃんだったこともまた、俺を苛立たせる。 「キョン」 鶴屋邸からの帰り道、咎めるような困ったような調子で兄ちゃんが言ったが、俺は耳を貸さなかった。 ふいっとそっぽを向くだけだ。 隣りでため息を吐かれても、どうとも思わない。 自分が悪いことをしたとは思っていないからだ。 確かに、一応世間一般で言うところの少女という分類にハルヒが入る以上、手を上げようとしたのは決して褒められるようなことじゃないだろう。 だが、殴ってでもあの暴虐を止める人間がいなければどうなる。 あいつはあのままだぞ。 などと自分を正当化しようとしたところでどうしようもないと分かるのは、自分があいつのためを思ってキレたのではなく、日頃の苛立ちや朝比奈さんに対する様々な暴力への義憤的な怒りにかられてあんなことをしようとしたと分かっているからだろう。 だから、兄ちゃんと目を合わせることもできない。 キレたことについて、俺は謝るつもりはない。 それだけのことをあいつはした。 それでも兄ちゃんはハルヒと仲直りしろと言うんだろうが、たとえ兄ちゃんに言われても、聞く気にはならなかった。 「…キョンはもう少し冷静だと思ってたんだけどな」 兄ちゃんに関係ないところでなら俺はいくらでも冷静になれるだろうよ。 兄ちゃんに関してのみ沸点が低くなることは自覚してるんだ。 放っておいてくれ。 と、いじけたような調子で言っても、兄ちゃんはいつものようにスキンシップをはかるでなく、また浮ついたことを言うでもなく、 「閉鎖空間が発生しないかとハラハラさせられたよ」 …いっそのこと閉鎖空間が発生すればいい。 そうすればこれ以上兄ちゃんの話を聞かなくて済む。 「頼むから、明日には仲直りしてくれよ?」 「どうしようと俺の勝手だろ」 少なくとも、俺から歩み寄るつもりにはなれん。 たとえ兄ちゃんの頼みであってもな。 俺と兄ちゃんの白々しい会話は、どこかで見たような黒塗りタクシーに乗り、神社でおかしな光景を見せられてもまだ続いた。 その頃には俺の耳は兄ちゃんの長話を半ば以上拒絶し始めていたが、それがようやく終ったところで俺は口を開いた。 睨みすえるのは当然兄ちゃんだ。 いや、兄ちゃんというよりもむしろ「古泉」と言ってやるべきなのかも知れん。 「――どうでもいいがな、古泉」 辺りに他に人はいない。 つまり、兄ちゃんと呼んでも支障のない状況であり、兄ちゃんもずっと俺をキョンと呼んでいた。 それでも俺は今目の前にいる人間を兄ちゃんと呼びたくなかった。 それに驚いたのか目を見開いたそいつに、俺は言う。 「兄ちゃんの顔で、兄ちゃんの口で、古泉が喋るな!」 虚を突かれたような顔になったそいつの横を通り抜け、石段を下り始めた俺の手が掴まれる。 「放せ」 「…ごめん、キョン」 謝られても振り返る気にならない。 それくらい俺は頭にきていた。 ……それでもその手を振り払えないのは、いささか情けない気もするが。 「本当に、ごめん。やっぱり僕は駄目だね。キョンのことを考えもせずに、あんなことを言っちゃって…」 振り返らなくても、自嘲の笑みが見えた気がした。 「キョンの言う通り、あれは『古泉』として言うべきことだった。兄としてでなく。いつのまにかその線引きを曖昧にしてしまっていたみたいだ。…ごめん。許してもらえないかもしれないけど、謝らせてほしい」 「……兄ちゃんの言うことなら俺が言うことを聞くと思ってそうしたんじゃなかったのか?」 「そんなこと、考えてもみなかったよ。ただ、キョンと二人になれたからついいつもの調子で話しちゃって、でも『古泉』として言っておきたかったことがあったから、それを口にしちゃっただけで」 「……兄ちゃんの粗忽者」 「仰る通り」 「兄ちゃんのばかっ」 「本当に」 「――兄ちゃんの、女っタラシ!」 「……って、それは関係ないだろ。というか、なんで女っタラシってことになるんだよ」 俺は笑いながら兄ちゃんを振り返り、 「兄ちゃんが女っタラシじゃなかったら世の中から女っタラシという言葉が消えるだろ、ってくらい兄ちゃんはそうだと思う」 「そんなことないって。それに、今の状況に全然関係ないだろ、それ」 「ついでに少々行き過ぎたことを言ったっていいだろ、別に」 普段はどうしたって兄ちゃんを罵ったりすることなんて俺には出来ないんだし。 それに、と俺は自然と笑みが浮かんでくるのを感じながら言った。 「兄弟げんかってのも久し振りだな」 「……そうだね」 と兄ちゃんも苦笑する。 そう笑ったのは多分、俺が許したことが分かったからなんだろうな。 その数日後、兄ちゃんは兄ちゃんとしてではなく、古泉として家を訪れた。 俺を呼びに来たのが妹だったってことは、妹が応対したんだろうが、お袋がいるってのにいい度胸だ。 お袋にばれてもよかったんだろうか。 家の外に出て、街灯の弱々しい光の元で古泉の話を聞く。 長々しい話はいつものことだが、なんとなく疲れて見えたのが気になった。 理屈っぽい話も、機関の人間としての話も、虚実入り乱れ過ぎていて話している当人にさえどこが真実なのか分からなくなってしまったような話も――つまりは古泉としてのすべての話が終わっただろう頃合を見計らって、俺は言った。 「兄ちゃん」 「…何?」 間があったのは、まだ古泉としていうべきことがあったからかも知れないがそれならまた後で発言権をやろう。 とりあえず今は俺の話を聞け。 「兄ちゃん、疲れてるだろ」 兄ちゃんは小さく笑い、 「そうかもしれないね。このところの騒動で、機関の方からは何をしてるのかとせっつかれるし、かといって普通の高校生としての業務もなかなかに忙しいから」 「兄ちゃんのクラスは演劇をするんだったっけ?」 「そう。シェイクスピアの『ハムレット』だよ。知ってるかい?」 名前くらいならな。 「シェイクスピアの有名な作品くらいは、一度くらい、読んでおいた方がいいよ。もちろん、実際の劇を観た方がずっといいんだろうけど、それは難しいだろう? 今度やるのはストッパード版で、本来の『ハムレット』とは少し違うけど、その分ギルデンスターン役の僕の出番も増えてるから、観に来ない?」 兄ちゃんが出てるから元々観に行くつもりではあったんだが、そう言われたら断るわけにはいかないだろう。 「是非観に行く。当日熱が出ても、世界がおかしくなってても、絶対観に行く」 それから、と俺は言い足した。 「疲れてどうしようもない時くらい、俺のことを頼ってくれよ? 俺に出来るのは掃除や洗濯と、あとは精々愚痴りに付き合うことくらいだけど、それでよければいくらでもする。だから、もう少し自分の体も大事にしてくれ」 言い終わったかと思うと、抱きすくめられていた。 ここは俺の家のすぐ前であり、近所の家から見える場所、かつ、街灯の下で見えやすいところなのだが、そんなことさえ兄ちゃんは頓着出来なくなっているらしい。 その背中に腕を回し、宥めるようにさすってやると、 「…ごめん、キョン。頼りない兄ちゃんで、ごめん」 兄ちゃんにしては弱々しい声で言われた。 「兄ちゃんは十分頼れるって。頼りないなんてことはない。俺が断言してやる」 「ありがとう…、キョン」 「ハルヒについては俺も考えてみる。このまま兄ちゃんや朝比奈さんに倒れられても困るからな。だから兄ちゃんは俺に任せて、普通の高校生として文化祭を楽しめよ。な?」 完全にそうすることは出来ないのだろうが、そうわかっていてもそう言わずにはいられなかった。 兄ちゃんは頷き、 「そうさせてもらうよ」 と言ってくれた。 どこか力ない笑みを伴ってはいたが、それでもそう明言してくれたことが嬉しかった。 兄ちゃんがちゃんとそう言った以上、約束は守ってくれるだろう。 よしんばそれが守れなくなったとしても、極力守ろうと努力はしてくれるはずだ。 俺は小さく笑い、 「兄ちゃん、俺、古泉は嫌いだけど、兄ちゃんのことは好きだからな」 兄ちゃんは少し体を離し、俺の顔をのぞきこみながら言った。 「…えぇと、ちょっと複雑な気分にならざるを得ないんだけど、どう答えるべきなのかな」 俺が知るか。 というか、わざわざ人の顔を見ようとするな。 余計に恥ずかしくなる。 「……じゃあ、こうしておこう」 兄ちゃんはこつん、と俺の額に自分の額を当てて目を閉じると、 「僕も、キョンが大好きだよ」 至近距離で臆面もなく言いやがった。 こういうところはやっぱり似てないと思うんだが、兄弟に対して好きだのなんだのと言える俺も十分恥ずかしいと思うので、似たもの兄弟と言えなくもないのかもしれない。 |