ずっと考えていたことを実行する日が来たのは、九月始めの休日のことだった。 事の起こりはあの厄介な夏休みがやっとの思いで終了し、落ち着いて話すことが出来た九月一日。 珍しく部室で兄ちゃんと二人きりになれた俺は、 「夏休みを嫌だと思ったのは生まれて初めてだ」 と零した。 「それはどうして?」 笑顔で問われた俺は、むすっとして答えた。 「それくらい分かるだろ」 俺だって、普通ならこれだけ長い長期休暇であっても、それを物足りないと思うほど好き勝手に過ごす。 ところがこの夏休みは好き勝手に出来なかったんだから、面白くなくて当然だろう。 せっかくの休みなのに兄ちゃんと過ごせたのは夏休みのはじめと八月の後半のみ。 それも全てハルヒ絡みであり、とてもじゃないが兄ちゃんと過ごせたというようには思いがたい。 いっそのこと、休み中にふたりで会っても不思議に思われないくらい「古泉」と親しくしておけばよかったな。 そうすりゃ会えたのに。 それとも、消えちまった一万何千回だかの夏休みの中には、兄ちゃんと楽しく過ごせたのもあったんだろうか。 だとしたらそれで確定出来なかったのが残念なことこの上ないな。 「夏休みといえば、」 と兄ちゃんはトランプを繰っていた手を止めて言った。 「今年もキョンはお祖母ちゃんの家に行ったんだっけね」 「ああ」 親戚大集合な田舎に兄ちゃんの姿がないのが寂しかった、とは口が裂けても言えないがそう思ったのは事実だ。 お袋が離婚するまでは兄ちゃんもいたのに、今となっては兄ちゃんのことを覚えている人間もあまりいないだろう。 ましてや、話題になど出来ず、俺はかなり苛立ちながらもそれを悟られないようにと殊更にはしゃいで過ごしたのだった。 思い返すだけでも嫌になる。 だから、俺は言ったのだ。 「兄ちゃん、今度うちに来いよ。夏休みの分も一緒に過ごしたい」 「キョン、それは…」 困った顔をした兄ちゃんに、最後まで言わせないようにしながら、 「昨日だって別にお袋にばれなかっただろ」 我ながら薄情な母親だと思うが。 「それは、昨日は他にも人がいたからだろ」 「そうじゃなくてもばれないって。お袋とも一切連絡は取ってないんだろ?」 「そうだけど…」 「俺だって、言われなきゃ分からなかったんだから、絶対ばれない」 断言すると、兄ちゃんはため息を吐き、 「キョンは僕を連れてってどうしたいんだよ」 さて、何がしたいんだろうな。 心置きなく一緒に過ごせたら、それで満足出来る気もする。 そうなるとここで今こうしているのと変わりはないな。 「じゃあ、別にキョンの家じゃなくてもいいってことになるんじゃない?」 それは違う。 他の場所だと兄ちゃんも俺も寛げないだろう。 勿論、兄ちゃんの家でいいなら、俺はそれで構わないんだが、兄ちゃんに面倒を掛けるのが心苦しいから、俺の家でと言ったわけだ。 「……どうしても、一緒に過ごしたいの?」 こっくりと俺は頷いた。 兄ちゃんは苦笑しながら俺の頭へ手を伸ばしてきた。 反射的に、その手のひらの下へ頭を滑りこませながら、 「一緒にいられるだけでいいから」 と頼みこむ。 兄ちゃんはわしゃわしゃと俺のいくらか硬めの髪を掻き回しながら、 「しょうがないな」 ぱっと顔を上げると、兄ちゃんが笑った。 「嬉しそうな顔するね」 「嬉しいからな」 そう答えると、頬を両手で挟まれ、むにっと引っ張られた。 痛くはないが、何がしたいんだよ。 「この顔に弱いって、分かっててやってんのかな」 どの顔だ。 「キョンの顔。特に泣きそうな顔と喜んでる顔には勝てる気がしないね」 勝てる気がしないなら、大人しくさっさと負けておけよ。 「今度の土曜日、涼宮さんが何も言い出さなかったら、うちに来るかい?」 返事は言うまでもない。 そうして俺は兄ちゃんの家に行くことになったわけだ。 何か持って行こうかとも思ったのだが、兄ちゃんの家に何があるのか分からないので、手ぶらで行く。 兄ちゃんと俺の仲だから、それくらい構わないだろう。 むしろ、下手に気を遣うと他人行儀に思えて嫌だな。 などと自分の不作法さを正当化しつつ、俺は兄ちゃんに教えられたマンションへ足を踏み入れた。 築十年前後ってところだろうか。 高級マンションでも安アパートでもないところに中途半端さを感じるが、単身住まいならこんなもんだろうな。 面倒なシステムもなく、俺はさっさと兄ちゃんの部屋の前まで行くと、ドアホンを鳴らした。 部屋の中からピンポーンという音が聞こえ、 「はい」 と兄ちゃんの声がした。 それだけでも嬉しく思うのは、これから兄ちゃんがどんな風に生活しているのか知ることが出来ると思うからなんだろうな。 カチャリと音を立ててドアが開き、兄ちゃんが作り物でない笑顔を浮かべた顔を見せた。 「いらっしゃい」 「お邪魔します」 と声を掛け、ドアの中に入った。 単身者用だからか、玄関からしてそんなに大きくはない。 部屋自体も大きくないんだろう。 クーラーで冷やされた冷たい風が感じられた。 きょろきょろと見回していると、兄ちゃんは小さく笑って、 「そんなに気になってた?」 流石にばつが悪い気になったが、 「兄ちゃんがどうしてるか、分からなかったからな」 「普通にしてるよ。四六時中監視されてるとでも思ってたのか?」 ……少しはそう思ってたと言っちまっていいんだろうか。 兄ちゃんは笑いながら俺の頭を撫で、 「キョンが思うほど、窮屈じゃないんだよ。この生活も。そりゃあ、制約がないといえば嘘になるけど、プライバシーくらいは保たれてる」 それより、と兄ちゃんは俺の背中を押し、 「どうせなら座って話そうよ。今日はゆっくり出来るんだから」 俺は頷いて、促されるままに通されたのは食堂も居間も兼ねた台所だった。 カーペットが敷かれた上に、ちゃぶ台とでも言えば丁度いいような低めのテーブルがあり、椅子はない。 座布団の上に座ると、 「コーヒーでいいよね?」 と聞かれ、俺は落ち着かないまま頷いた。 「ここって、何部屋あるんだ?」 「トイレとお風呂をのぞいたら、二部屋だけだよ。ここと、隣りの、寝室だけ。……驚いたかな。あんまりにも狭くて」 驚くというか、もう少し広い部屋に住んでるかと思ってただけなんだが。 「前はそうだったんだけどね、こっちに引っ越すことになった時、この部屋を選んだんだよ。あまり広すぎても手が行き届かないから、これくらいがいいって言ってね」 なるほど、と納得したのは、この部屋の違和感の理由に気がついたからだ。 一応小ぎれいにしてはあるんだが、なんとなく雑然とした印象が拭えない片付け方からして、兄ちゃんは掃除が苦手なんだろう。 だから、これくらいの狭さの方がいいんだろうと推測する。 「それもあるけど、」 と兄ちゃんは苦笑して、 「広い部屋に一人でいるのは、結構寂しいものだよ」 俺は目の前に置かれたコーヒーカップには手をつけず、ぎゅうっと兄ちゃんの手を握った。 何も言わなくても、兄ちゃんには通じるらしい。 「…ありがとう」 と頭を撫でられた。 それからしばらく、兄ちゃんと色々と話した。 ちゃんと休めているのかとか、困っていることはないのかとか、そういう細々としたことが多かった。 兄ちゃんは、 「キョンのそういうところは母さんそっくりだね」 と俺のことをからかいながらも、ちゃんと教えてくれた。 それで俺がどうしたかと言えば、兄ちゃんが不自由しているらしい掃除と洗濯を手伝ったわけだ。 ごちゃごちゃと突っ込まれている本を並べなおし、いっぱいになったままのゴミ箱の中身をゴミ袋にあけた。 色物と一緒に洗われる寸前だった白いシャツを救出したりもしたな。 これでよく、長く一人暮らしがしてこれたものだ。 兄ちゃんは資金が潤沢でなかったらあっという間に日干しになってそうだな。 それくらい、自活していくのに必要な感覚が育ってないように思える。 実家暮らしの俺にそう思われるってことは相当なんだろう。 呆れながら俺が何とか部屋の状態を整えている間、兄ちゃんははっきり言って役に立たないので、昼飯を作ってもらっていた。 本当のところ、兄ちゃんの料理の腕がどの程度なのか分からなかったから心配していたんだが、振舞われたスパゲッティーは結構美味かった。 「口にあったんならいいけど」 と笑った兄ちゃんに、 「自分で作れるなら弁当でも作ってくりゃいいのに。いつも学食とかなんだろ?」 「料理って面倒なんだよ。それも、ひとり分だけを自分のために作るとなるとやる気が出なくってね。…キョンのためなら、毎日作ったっていいんだけど」 とウィンクを飛ばしてきた兄ちゃんに、俺は笑いながら、 「抜かしてろ」 「残念。キョンに毎日お弁当を作る代わりに、うちの掃除でもしてもらえたらと思ったんだけどな」 別に、弁当なんかなくてもそれくらいしに来たっていいぞ。 「ありがとう」 と笑う兄ちゃんの笑顔は優しくて好きだ。 俺もつられて目を細めながら、 「俺で役に立てることがあるならいつでも言えよ。兄ちゃんのためならなんだってするから」 「キョンは、いてくれるだけでも十分なくらいだよ」 なんだそりゃ。 いてくれるだけで十分ってのは役立たずと同義語に思えるのは俺だけか? 「違うからそんな風にひがむんじゃないよ。……キョンがいて、そうやって笑っていてくれるだけで、僕は頑張れると、そう思えるってことなんだから」 言いながら、髪をくしゃくしゃと撫でられた。 照れ隠しに視線をそらし、話題を変えるべく、 「料理は兄ちゃん、掃除とかは俺の方が上手いな」 「そうだね。キョンと同居できたらずっと楽になるだろうな」 その言葉に顔が緩む。 兄ちゃんが俺を認めてくれることが嬉しいし、それ以上にその夢みたいな提案に心が躍る。 「なあ、兄ちゃん」 「何?」 「俺、勉強とか頑張るから、一緒の大学に行こう? それで、一緒に住んで、一緒に通おう。そうしたら確実に、もう4年一緒にいられるだろ?」 それに対する兄ちゃんの返事は沈黙だった。 まあ、考えてみれば俺と兄ちゃんの学力差はかなり開いている上、特進クラスにいる兄ちゃんと文系ですら苦しんでいる俺の進路が一致する可能性などかなり低いのだが、黙り込まれるとへこむぞ。 自分の夢想が恥ずかしくなって顔を伏せた。 すると兄ちゃんが立ち上がり、向かいに座っていた俺を抱きしめた。 驚く俺の耳元で、兄ちゃんの声がする。 「ああ、もう――」 「兄ちゃん?」 「なんだってキョンはこんなに可愛いかなぁ」 もう高一の、それもひとつしか年の違わない弟に向かって可愛いと連呼するのもどうかと思うんだが、揶揄を含んだそれではないらしいので、そう言いたくなるのをぐっと我慢する。 抱きしめられるのも、嬉しいしな。 というか、抱きしめられること以上に、背中に兄ちゃんの体温を感じることによって、兄ちゃんがここにいるとはっきり感じられるのが嬉しいんだろう。 兄ちゃんとこうして一緒にいられることが、俺にとっては未だに夢のように思えてならないのだ。 そうだ。 実現し得ないと思っていた兄ちゃんとの再会も、こうして頻繁に会えるようになることも、実現したじゃないか。 それなら、一緒に暮らすことだって、ただの夢で終るとは限らないだろう。 俺が言うと兄ちゃんは楽しそうに笑いながら、 「そうだね。ただし、そのためにはキョンに、もう少し勉強を頑張ってもらわないとね」 と釘を刺した。 最初の一言で止めておけよ、こういう時は。 夕方までテレビを見たり、兄ちゃんのコレクションだというボードゲームをしたりして過ごした帰り際、俺は絶対に聞かなくてはならないと思っていたことを聞いた。 「…また来てもいいか?」 兄ちゃんも予想していたんだろう。 小さく笑いながら、 「いつでも、と言いたいところだけど、僕も結構留守にすることが多いからね。事前に連絡してくれたらいいよ」 ありがとう、と言うべきだったんだと思う。 だが、その前に口から飛び出してきたのは、 「――兄ちゃん、大好きだ」 というこっ恥ずかしいセリフで、兄ちゃんに顔を見られなくてよかったと思うくらい、顔が真っ赤になった。 ちなみに、兄ちゃんに顔を見られずに済んだのは、ほとんど間髪入れずに兄ちゃんに抱きしめられたからだ。 俺の顔は兄ちゃんの肩に押し当てられ、兄ちゃんの顔も見えない代わりに俺の顔も隠されたというわけだ。 「僕も、キョンが好きだよ」 知ってる、というかそれももう何度目だよ。 「何度言っても言いたくなるんだから、仕方ないだろ」 妙に開き直ったことを言った兄ちゃんに、俺はため息を吐きつつ、 「今度は泊まりに来るからな」 「せめてもう二、三回、遊びに来てからの方がいいんじゃないかい? 余り急ぎすぎると失敗するよ。急がば回れ、って言うだろ」 一々冷静でむかつくな。 兄ちゃんは俺に泊まりに来て欲しくないのか? 「そんなことないって分かってて言ってるんだろ。…キョンの側にいるためなら、どれだけ慎重になっても過ぎることはないと思ってるだけだよ」 「だから…どうして……」 絶句した俺に、兄ちゃんが首を傾げるのが分かった。 「キョン?」 続きを問われても、口になんか出来やしない。 どうして兄ちゃんはここまで俺を嬉しがらせるんだ、なんて、口に出来るかよ! |