海は青く、砂は白く、更に言うなら朝比奈さんの水着姿だって、一生涯まぶたに焼き付けておきたいくらい素晴らしかったと言うのに、どうして今はこんなことになっているんだろうな。 俺の眼前に広がるのは、ある意味素晴らしい光景だった。 上機嫌で笑っているハルヒに、天使のような寝顔を披露する朝比奈さん、それから、誤作動でも起こしてるんじゃないかと心配になりそうな勢いで酒をかっくらっている長門なんて、とてもじゃないがまともに見れたものじゃないだろう。 かく言う俺もそこそこ酒が回った酩酊状態であり、そう分かっていながらもついグラスに手を伸ばしてしまうのは、酒の依存性によるものなんだろうか。 それとも絶妙なタイミングで酒を注ぐ森さんがいけないのだろうか。 「もうやめておいた方がいいですよ」 伸ばした手を止めたのは、言うまでもなく兄ちゃんだったが、言葉の割に手に込められた力が強い。 「…痛いから放せ」 俺が言うと兄ちゃんはいくらか手の力を緩めつつも放そうとはしなかった。 「ほら、もう寝た方がいいですよ。立ってください」 「やだ」 駄々っ子か、とセルフツッコミを入れられるような理性は残っていない。 俺は酔っ払ってるんだ、酔っ払いなら少々の暴挙に出たっていいだろ。 なかなか焦点のあわない目で兄ちゃんを睨みあげると、困惑顔が見えた。 俺の目も、そんなもんばっかり鮮明に映さなくていいと思うんだがな。 「大分酔いも回ってるんでしょう? せめて、呑むのはやめてください」 「やだっ」 兄ちゃんのいうことは聞いても「古泉」のいうことなんて聞くもんか。 ぷいっと顔を背けると、兄ちゃんがため息を吐くのが聞こえた。 それだけで気分が重くなる。 ……兄ちゃんに嫌われた? 怖くなって見上げると、それを見透かしたように笑われた。 それからさりげなく、背中を撫でられる。 頭じゃなかったのは、そうするとハルヒに見られるからなんだろう。 「部屋に行きますよね?」 大人しく頷こうとした瞬間、 「古泉くんっ、さっきから全然呑んでないじゃないの! ほら、キョンの相手なんかしてないでもっとちゃんと呑みなさーい!」 ぴし、と音がしたのは、俺の理性にひびが入ったからだろうか。 こんな状況下であってもハルヒには逆らえないのか、兄ちゃんは困惑顔のままグラスを取り、そこになみなみとハルヒの酒を受けた。 「いただきます」 と呑もうとしたのを、兄ちゃんの手から奪いとる。 遠心力に負けたのか、慣性の法則のせいか、グラスから酒が少し零れて、服が濡れたが構うもんか。 それをぐいっと飲み干した俺を、唖然として見ているハルヒと兄ちゃんを見比べて、俺は小さく笑った。 叩きつけるようにグラスをテーブルに置き、兄ちゃんに飛びつくと、兄ちゃんが青褪めたような気がした。 「ハルヒにはっ、やらん」 絶対、何があっても、やるもんか。 べ、と舌を出すとハルヒが怒りに顔を赤くして、俺とは反対側から兄ちゃんに抱きついた。 「キョンばっかりずるい! あたしも古泉くんと遊ぶ!」 「だめだ!」 「いーでしょ、ちょっとくらい。部室ではいっつも遊んでるんだから」 「だめったらだめなんだ!」 ぎゅうぎゅうと兄ちゃんを抱きしめて首を振ると、上から兄ちゃんの困りきった声が降ってきた。 「あ、あの、おふたりとも落ち着いて……」 「やだ!」 「嫌!」 嬉しくもないが俺とハルヒの声が重なった。 ほとほと困り果てている兄ちゃんに罪悪感を覚えないと言えば嘘になるが、それ以上に大事なのはこのライバルをいかにして追いやるかである。 「古泉はっ、俺のなんだ!!」 それでもまだ兄ちゃんと呼ばずにいた俺を褒めてやってくれ。 「あんたも古泉くんも団員である以上あたしのなの!」 「うるさいっ! ハルヒにだけは何があっても絶対にやらんっ」 他の人間ならいいというわけでもないが、ハルヒには何があっても嫌だ。 兄ちゃんの人生を歪めたのはハルヒなのに。 これ以上兄ちゃんに迷惑を掛けるなと、出来ることなら叫んでやりたい。 だがそうすることが出来ない以上、俺が兄ちゃんをハルヒの魔手から守るためには、子供のように理屈もへったくれもなく主張し続けるしかないのだろう。 頭の上でため息の音がする、と思ったら、ぽふん、と頭を撫でられた。 気持ちいい、兄ちゃんの手だ。 思わず目を細めると、兄ちゃんがハルヒに向かって、 「どうやら、大分酔っ払っているようですので、部屋へお連れしますね」 と言うのが聞こえた。 反論しようと見開こうとした目を、優しく押さえられ、同時に鼻筋をなぞるように指先で撫でられる。 う、それは止めてほしい。 本気で眠くなる。 「ちゃんと戻ってきてよね」 ハルヒが不満そうに言うのへ兄ちゃんはいつものように如才なく、 「畏まりました」 と大仰に答えると、俺の肩へ腕を回した。 俺はもう抵抗も出来ずに兄ちゃんにへばりつくような形で、食堂を離れる。 「ぅうん……兄ちゃん…」 「はいはい」 なおざりな返事が嫌で、ぐいぐいと頭を押し付けると、頭を撫でられた。 撫でてほしかったわけじゃないんだが、撫でられるのも嬉しいからまあいいか。 兄ちゃんは俺を部屋へ連れて行くと、そのままベッドへ寝かせた。 わざわざ布団まできちんと掛けるあたり、微妙に神経質なんだよな。 字はあんなに雑なくせに。 「おやすみ、キョン」 と言って立ち上がりかけた兄ちゃんの手を掴む。 「兄ちゃん、も、一緒に、寝よ」 下手をすると、もうこんな機会はないだろう。 いや、ハルヒがまた合宿を企画して、そこがここのように部屋数が多くなければ、男同士ということで同室になる可能性は高くなるが、それでも、そんないつになるか分からない不確実なものに期待を抱けるほど、俺は楽天的じゃない。 なんのかんの言って、兄ちゃんはうちに泊まりに来てくれるつもりも、俺を兄ちゃんの部屋に行かせてくれるつもりもないように見えるしな。 「そんなことはないんだけど…」 嘘くさい。 それにそうじゃなかったとしても、今回は引き下がらないぞ。 「俺が寝るまででもいいから。な?」 「……困った子だなぁ」 言いながらも兄ちゃんの表情は柔らかかった。 「少しだけだよ」 と念を押した兄ちゃんに頷いて、俺は布団を持ちあげた。 出来た隙間にすっと入ってきた兄ちゃんを抱きしめる。 「おやすみ、兄ちゃん」 「おやすみ。……それから、ありがとう」 ありがとうと言われるようなことをした覚えはない。 むしろ、怒られるんじゃないかと思っていたのだが。 「怒ったりしないって」 と兄ちゃんは苦笑した。 「涼宮さんから僕を守りたかったんだろ?」 俺は頷いた。 頷いたが……なんだろう、どうにも恥ずかしい気分になってくる。 「ありがとう、キョン」 もう一度言って、兄ちゃんは俺を抱きしめた。 嬉しい。 このまま眠らずにいたら、兄ちゃんは食堂に戻らなくて済むんだろうか。 そう思って目を開けておこうとするのに、酒のせいかまぶたは重いし、兄ちゃんは兄ちゃんで俺を眠らせるためにかまたもや鼻筋をなぞりだす。 だからそれされると眠くなるんだって――…。 目を覚ました俺は、昨日の記憶が恐ろしく曖昧になっていることに恐怖を感じた。 何やらとんでもないことをやってしまったような気がするのだが、大丈夫だったんだろうか。 ひとり百面相などしていると、ドアがノックされた。 起こしにきたのがハルヒであったなら何があろうと早急に起き上がらなくては、と思ったのだが、聞こえてきたのは、 「起きてますか?」 という兄ちゃんの声だった。 それなら急いで起きなくてもいいだろう、と布団の中でぐずついていると、ドアが開いた。 「おはようございます。朝食の時間が近いですよ」 言いながら入ってきた兄ちゃんに、俺は薄っすらと目を開けながら、 「…おはよ……」 と言った。 いいのか悪いのか、噂に聞く二日酔いの症状はない。 いたっていつも通りだ。 それだけに、昨日の記憶がないのが気になるが。 「兄ちゃん、」 と俺は古泉がちゃんとドアを閉めたのを確認してから言った。 「どうかした?」 「…昨日、あれからどうなったんだ?」 「まず、あれからっていうのはどれからかな」 俺が覚えているのは、酒をラッパ飲みしていたハルヒが多丸圭一さんに失礼なことを仕出かしていたことと、長門が水のみ人形のように酒を飲んでいたことと朝比奈さんが酔い潰れて愛らしく眠っていたことくらいだ。 「それはまた……実に都合よく、自分にとって都合の悪いところだけ忘れたものだね」 そんなことを言われるようなことをやらかしちまったのか。 「だから呑み過ぎだって言ったのに」 呆れながら兄ちゃんはベッドに腰を下ろした。 「涼宮さんと一緒になって僕を取りあったのも忘れた?」 「な、なんだそりゃ!?」 というか、まずいだろう、それは。 俺と兄ちゃんが兄弟だと知らない人間からしたら、ホモにしか思えないんじゃないのか。 「かもしれないね。まあ、涼宮さんの方もどうやら昨日の記憶がないらしいから、まだいいんだけど」 他にも何かやったんだろうか。 青褪める俺に、兄ちゃんはくすくすと意地悪に笑いながら、 「小さい頃みたいに駄々をこねてみたり、僕のグラスを取り上げて呑んだりもしてたよ」 なんと言うか、穴があったら入りたいってのはこういう気持ちなんだろうな。 理性のありがたみをひしひしと感じるったらないね。 「極めつけは、」 と兄ちゃんは刺さなくていいトドメを刺すつもりか、 「僕と一緒に寝たいって言って、僕をこのベッドに引きずり込んだことかな」 それは、なんとなく覚えてるな。 くっ……、いっそのこときれいさっぱり忘れていればよかったのに、なまじっか記憶があると、他のと一緒に否定することも出来ないではないか。 「キョンは相変わらず鼻筋を撫でられると弱いね」 人を猫扱いしないでくれ。 それに、鼻筋を撫でられると弱いって何のことだ。 「うん? 忘れたの? キョンは昔っから、ここをこう、」 と兄ちゃんの指が俺の鼻筋を下から上へとなぞった。 頭を撫でられる感覚に似てるかもしれないな、これは。 「撫でられるとすぐ寝てたんだよ。眠れないってぐずっててもね。昨日もぐずってたから試してみたんだけど、しっかり効いたね」 そんなくだらない情報はさっさと忘れて欲しかった。 というか、これだけ大きく育った男相手にぐずるという言葉を使うのはどうなんだろうか。 余り適切とも思えないのだが。 「大きくなろうとなるまいと、キョンは僕の弟だろ。違う?」 それは確かにその通りだ。 しかし、なんとなく落ち着かないのは、兄ちゃんがやけに上機嫌だからだろう。 「上機嫌にもなるよ。まさか、キョンがあんなにも僕を好きとは思ってもみなかったし」 待て待て待て、なんだそりゃ。 そんなこっ恥ずかしいことを俺が言ったと言うのか。 「直接は言われてないけど、ある意味、直接言うよりも直接的な表現だったと思うよ」 ぐあ、死にてえ。 もう酒なんか飲むもんか。 「そう嘆かなくても、」 と兄ちゃんは俺の寝癖がくっきりとついて酷いことになっているだろう頭を撫で、 「僕も、キョンのことは大好きだよ」 そういうことを恥ずかしげもなく言える兄ちゃんを見ていると、どのへんに血のつながりがあるのかと頭を抱えて悩みたくなった。 なお、酒を飲まないと誓った俺だったが、結局その日の晩も宴の喧騒に乗せられたのか、かなりの酒を飲んでしまい、前日以上の酔いと初の二日酔いに苦しめられたのだった。 その時兄ちゃんは別に何も言わなかったが、あの微妙な表情からして、おそらくまた何かやっちまったんだろうな、俺もハルヒも。 しかし、改めてそれを聞くような勇気が俺にあるはずもなく、真相は酩酊しなかったであろう兄ちゃんたちのみが知っているのであった。 えぇい、酒なんか二度と飲むものか。 |