現し事



テストが返って来る時期に憂鬱にならずに済む人種がいるとしたらそれは、よっぽど成績がよい人間か、よっぽど成績に頓着しない人間だろう。
俺はというとそのどちらでもない。
成績は芳しくないが、かといって、成績を上げようと躍起になるほどの執着心もなく、また、完全に無頓着になれるほど器のデカイ人間でもないので、テストが返って来る前の段階からして既に鬱々とした気分になるのが常と言ってもいいような状況なのだが、今回に限ってはそうやって落ち込んだり現実逃避するような暇はほとんどと言っていいほどなかった。
わけの分からない空間に入りこんで巨大カマドウマと対峙したり、合宿だなんだと騒ぐハルヒに振り回されたりしていたからな。
それに、今回の成績については、結果としていいように作用した以上、俺には不平をもらす必要性などどこにもないのだ。
それがどういうことかと言うと、まず、古泉こと、兄ちゃんと俺が人前でどう振舞っていたかを説明する必要がある。
事情が事情でなければ、俺はいくらでも兄ちゃんに懐いていってやりたいくらいだったのだが、そうするわけにもいかないし、第一、高校生にもなって兄ちゃん兄ちゃんと人前で懐くというのも恥ずかしいものがある。
それに、ハルヒに俺と古泉が兄弟であることがばれると、芋づる式に兄ちゃんの年がばれ、更に面倒なことになりかねない、と人前ではこれまで通りの演技をすることになったのだが、俺にそんな演技が出来るのかと聞かれると、俺にもどうだか分からないとしか言いようがなかった。
演技なんざ、幼稚園や小学校の頃に学芸会でちらっとしか用のない役を振られて以来だからな。
それを思い返すと、兄ちゃんは幼稚園児の頃から主役級の役を当てられるくらい、演技が上手かったんだから、血の繋がった兄弟とはいえその能力にはなかなかに開きがあるものだ。
要するに、自分の演技力に自信のなかった俺は、極力ぼろを出さないようにと、兄ちゃんとの接触を避けることにしたわけだ。
ハルヒや朝比奈さんがいるところでは視界にも入れないように気を使い、出来るだけ邪険に扱った。
おそらく俺たちの事情など言うまでもなく分かっているであろう、長門しかいない時はそこまでしなかったものの、やっぱり兄ちゃんと呼ぶわけには行かず、たまに電話で話せると、何度も謝ったりもする日々である。
それでも兄ちゃんは電話の向こうで笑いながら、
『いいんだよ、それで』
と言ってくれる。
「だけど…」
言い募ろうとしたのを遮って、兄ちゃんは本当にすまなさそうに、
『こんな風に、キョンにまで嘘を吐かせてしまっていることの方が、僕は申し訳ないと思うよ。キョンは嘘を吐くのが嫌いだろ?』
そりゃあ、好きではないが、俺だってもういい年だ。
兄ちゃんといた頃ほど純粋でもなければ無垢でもないのだが、兄ちゃんの中では俺は未だにあのアルバムに写っているような小さな弟であるらしい。
『ごめんね、キョン』
「兄ちゃんこそ謝らなくていいって」
けどせめて、もう少し上手く、人前で話したり出来るようになりたいと思った。
そんな風にしているうちに時は巡り、一学期末のテストが返って来る時期となったのだが、俺の後ろの席にいて、俺の哀れな数学のテストを視界に捉えたハルヒは、机に突っ伏さんばかりになっている俺に、冷たい目を向けたわけだ。
「なんなの、その点数」
放っといてくれ。
「放っとけるわけないでしょ。酷すぎるじゃない。あんた、そんなに頭悪かったの?」
俺の頭がいいと思ったことなど一度たりともないだろうに、何を言い出すんだろうな、こいつは。
「今日は放課後皆で買出しにでも行こうかと思ってたけど、これじゃだめね」
とため息を吐いたハルヒは、
「せめて答え合わせくらいは真面目にしなさいよ」
と釘を刺したが、俺がハルヒの忠告を聞くはずもなければ教師の単調な声に耐えられるはずもなく、俺は睡魔に誘惑されるまま眠ったのだった。
その放課後のことである。
授業終了が告げられても眠りこんでいた俺の机の上からテスト用紙を取りあげたハルヒは、
「ほら、ちゃっちゃと起きなさい」
「…って、お前、それをどうするつもりだ!」
まさかどこかに貼り出したりするつもりじゃないだろうな。
「さぁね、どうしてやろうかしら」
と言いながら荷物を掴み、
「ほら、部室に行くわよ。早くしなさい」
悲惨なテストという担保を持ったハルヒに俺が逆らえるはずもなく、「ある晴れた昼下がり」などと歌いたくなるような気分で、俺は部室へ連行されたわけである。
ハルヒが、朝比奈さんが着替えているかどうかを確かめもしなければノックの一つもせずにドアを開けると、どうやら到着したばかりだったらしい兄ちゃんと朝比奈さんと、既に定位置で本を読む長門が見えた。
ハルヒは朝比奈さんへ、
「みくるちゃん、今日は着替えなくていいわよ。出かけるから」
「で、出かけるってどこにですか?」
これまでのハルヒの悪行の数々を思い出さずにはいられないのだろう、朝比奈さんが怯えたような声を上げると、ハルヒは不服そうに、
「何よ、もうちょっと喜びなさい。お茶っ葉のいいのが欲しいって言ってたから買いにいこうって言ってるんだから」
「本当ですか?」
と少し朝比奈さんの顔が綻ぶと、ハルヒは胸を張り、
「あたしが嘘を吐いたことがあると思うの?」
まるで嘘を吐いたことがないかのような発言だが、その言葉からして既に嘘だろう。
それにしても、俺のテストはいつ帰って来るんだろうか。
「ほら、有希も準備しなさい」
ハルヒは上機嫌でそう言っておいて、
「あ、古泉くんはいいわ。ここでキョンと留守番してて」
と、驚くことを言ってのけた。
一瞬、顔が緩みかけるのをぐっと堪える。
出来るだけ不満な顔を作り、
「なんでそうなるんだ」
と言うと、ハルヒは顔を顰め、
「あんたの成績が酷すぎるからでしょ。見てよ、古泉くん、このテスト」
いつも通りの笑みでハルヒの手からテスト用紙を受け取った兄ちゃんは、その笑みをいくらか苦いものに変化させ、
「これはこれは…」
と言葉を濁らせた。
そこまで酷いか。
兄ちゃんのリアクションによって、俺が再び落ち込みモードに入りそうになったところで、ハルヒが言った。
「悪いけど、留守番してる間、キョンの勉強見てやってくれる?」
「なっ!?」
嬉しいが困るぞ、と声を上げた俺をよそに兄ちゃんは、
「僕は構いませんよ」
と俺に目配せした。
頷いていいんだろうか。
しかし、こういう時ハルヒは必ずと言っていいほど俺の意見を無視するのであり、今回もそうなった。
俺の不平不満には一切耳を貸す様子もなく朗らかに、
「じゃあ、行ってくるわね」
と朝比奈さんと長門を連れて、暴風のように飛び出して行った。
部室のドアが悲鳴を上げながら閉まってから、兄ちゃんは苦笑し、
「…涼宮さんに気を使わせてしまいましたね」
と言った。
気を使うなんてこまやかな神経があいつにあるとも思えないのだが。
「僕とあなたの仲が悪いように見えるのを、彼女なりに気にしていたのでしょう。たった五人しかいない団員の中で、ほんの少しでも馴染めない人間がいては団の活動に支障が生じますからね。ふたりにして、少しでも親交を深められるようにということなのだと思いますよ」
なるほど、団の活動が絡むなら、あいつがそういうことをしても不思議はないのかも知れない。
しかし、今言うべきことはそれじゃない。
俺は軽く唇を尖らせながら兄ちゃんの胡散臭い顔を睨み、
「兄ちゃん、敬語」
「ごめん」
謝りながらも笑っているのは、俺が余りにも子供染みたことをしたからなんだろうな。
「それにしても、キョン」
不意に兄ちゃんの声と表情が厳しいものになり、俺はぎくりと体を強張らせた。
「この点数はないだろ」
やっぱりそれか。
俺は微妙に目を逸らしつつ、
「んなこと言われたって…出来ないものはしょうがないだろ」
「出来ないんじゃなくてやらないだけだろ。ほら、さっさと数学のノートと教科書出す。答え合わせもやってないじゃないか」
ぽすん、と頭を叩かれて、俺は仕方なく机の上に勉強道具を広げた。
兄ちゃんと向かい合わせに座らず、隣同士に座るというのも珍しく、なんとなく妙な気分だ。
兄ちゃんに勉強を教わるということ自体も生まれて初めてで、どこかくすぐったい。
くすぐったいと言えば、皮膚の神経において痒みを感じる神経と痛みを感じる神経が同じものであるという説が一般に流布していた時期があったが、最近の研究によると近しい位置にあるだけ、または一部を共用しているだけなどの説が有力となっているそうで、痒み=弱い痛みとする説はどうやら間違いであるらしい。
などと現実逃避を試みようとしたのだが、
「ほら、他所事考えない」
と言いながら、丸めた教科書で頭を軽く叩かれた。
顔に似合わずスパルタ式か。
「飴と鞭は教育の基本だよ。それより、次の問題をさっさと解く」
そう言われても分からないものは分からない。
頭を抱えて悩んだ挙句、
「これはここの公式を持ってきたのでいいのか?」
と聞くと、兄ちゃんは笑った。
なんだ、違ってたのか?
「いや、合ってるけど…」
ならなんで笑うんだよ。
「……顔が近い、よ?」
言われて初めて気がついた。
兄ちゃんの顔が目の前にある。
というか、距離はもはや数センチしかない。
俺は思わず飛び退きながら、
「ひ、人のセリフをとるな!」
と言ったが、顔が真っ赤になっている以上、照れ隠しとしての効力すらない。
兄ちゃんは今度こそ声を上げて笑い、
「ああ、もう、本当にキョンは可愛いなぁ」
と俺のことを抱きしめた。
暑苦しい、と口先だけで文句を言いながらも突き放せないのは、そうされるのが嫌じゃないからだ。
やっぱり俺も、兄ちゃんと別れた時のまま変わっていないのかも知れない。
少なくとも兄ちゃんといる間は、あの小さな子供のまま、甘えたくて仕方がないのを必死に我慢しているだけに思える。
兄ちゃんもそうなんだろうか、と抱きしめられたまま見上げると、柔らかな笑みを向けられた。
それを見ていると、やっぱり兄ちゃんのことが好きだと思う。
ただ、そのままぽんと頭を撫でられ、
「はい、休憩終り」
と告げられた時は、鬼かと思ったが。
それからたっぷりと問題を解かされ、いい加減頭がオーバーヒートするぞ、と思い始めた時になってやっと、兄ちゃんが赤ペンを置いた。
「うん、よく出来ました」
言いながらぐりぐりといささか乱暴に頭を撫でられるのが心地いい。
もっと撫でてほしい、と頭をすり寄せると、兄ちゃんの笑いを帯びた声が降ってきた。
「この調子で勉強したら、成績くらいすぐ上がるんじゃないか? ちょっと教えただけで分かるんだから、理解力はあるんだよ。数学以外も真面目に勉強してごらん」
「んー…」
生返事をしながらも、勉強する気にはならない。
勉強をしたところで意味がないからだ。
何故なら俺は成績を上げることで兄ちゃんと過ごす絶好の機会を失うようなへまなどする気がないのだからな。
本当にハルヒは分かりやすいと思う。
俺と兄ちゃんの仲が悪いと感じたらすぐにこうだからな。
テストで手を抜いた甲斐もあるというものだ。
俺は兄ちゃんに気付かれないよう小さく唇を歪め、内心でハルヒに礼を言った。

勉強を終えた状態のまま机に突っ伏してうとうとする俺の頭を、いつもの向かいの席に戻ってもまだ撫でていた兄ちゃんが手を止めた。
俺の耳にも、遠くから近づいてくる嵐のように騒がしい物音が聞こえてくる。
「時間切れだね」
兄ちゃんが苦笑して手を引っ込めると、俺はため息を吐いた。
「兄ちゃん」
「何?」
「今度、兄ちゃん家に行っていいか? 勉強教わりに」
「……やる気もないくせに、よく言うよ」
と苦笑したところを見ると、どうやら俺のちんけな計略などお見通しらしい。
言葉と共に、つん、と小突かれた額を押さえながら俺は笑い、それからいよいよ近くなってきたハルヒの足音に、顔を引き締めた。
兄ちゃんもいつもの胡散臭さをまとう。
「たっだいまー! あれ? キョン、本当に勉強やったの?」
「お前がしろって言ったんだろうが」
しなくてよかったのかよ。
「真面目にすると思わなかったのよ。それで? 多少は親睦を深められたの?」
やっぱりそういうつもりだったか。
俺は顔を顰めつつ、
「なんでそんなことをせにゃならんのだ」
「同じ団員同士仲良くした方がいいでしょ。でも、ちゃんと勉強するんだったら、あんたたちを追い出して図書室にでも行かせればよかったわね。楽しいことをする場所で楽しくない勉強をしてたらここが居心地悪くなるかも知れないし」
すると兄ちゃんは笑いながら、
「大丈夫ですよ。勉強も楽しいものでしたから。ね?」
ね、と言われても俺にどう答えろというのだ。
むっつりと押し黙った俺とにこやかな兄ちゃんとにそれぞれ視線を向けたハルヒは、
「少しは効果があったみたいね」
どこでどう判断したのか知らないがそう言いきった。
演技については、俺もまだまだ要修行、ということだろうかね。