俺の部屋に、薄いアルバムが1冊ある。 お袋が捨てようとしたのを懇々と説き伏せた挙句、妹と親父には見せないという条件でもらいうけたものだ。 どのページをめくっても、写っているのは同じ人物だ。 生まれてすぐの赤ん坊。 はいはいを始めた頃の姿。 ほっぺたに誕生日ケーキのクリームをつけて笑っている写真もある。 しかし、写真の群れは唐突に終ってしまう。 写っている子供が5歳になるかならないかというところで。 その中に時々混ざって写っているのは、主となる人物よりもほんの少し小さな子供――つまりは俺だ。 俺はアルバムを抱え込み、 「…兄ちゃん」 と呟いた。 俺の妹と俺との年齢差からなんとなく分かるかもしれないが、俺の親父は戸籍上のものだ。 それはお袋が俺を連れて、親父と再婚したためで、妹とも半分しか血が繋がっていないことになる。 そのことをどうこう言うつもりはないが、俺にとってずっと気がかりなのは、名前も思い出せなくなってしまった「兄」のことだった。 お袋が前の父親と離婚する時、ふたりいる子供をそれぞれが引き取ることになった。 俺は前の父親のことをあまり好きじゃなく、お袋のことが大好きだった。 兄はどうだったのか、と今考えると、俺と同じ気持ちだったんじゃないかと思う。 ただ、兄は俺よりずっと聡明で、出来た子供だった。 いつだって俺のことを庇ってくれて、助けてくれるような。 だから、きっと、俺がお袋といれるようにと、譲ってくれたのだと思う。 このアルバムは、俺が兄のことを忘れないための戒めだ。 自分の今の幸せが、兄の犠牲の上にある、そんなことを忘れないための。 「――」 と呼ばれ慣れない名前で呼ばれて、俺は驚いて振り向いた。 長門も朝比奈さんも、ハルヒも帰ってしまった部室にいたのは、当然、古泉だけだった。 自分で名乗った覚えはないが、こいつは俺のことを調べたと言っていた。 それなら、知っていても不思議はないだろう。 だが、古泉は俺のフルネームや名字ではなく、名前で俺を呼んだ。 それも、やけに懐かしがるような響きで。 今、俺の目に映っている古泉の表情も、どこか喜色に満ちていた。 お前、そんなキャラだったか? いや、知り合ってほとんど間もないのにキャラがどうとか言えるとは思ってないが。 「知り合ってほとんど間もない、ね」 と古泉は苦笑を浮かべた。 「兄ちゃんって呼んでくれてたのを、僕の方は忘れてないんだけどな」 「――え」 絶句した俺の頭を古泉がくしゃくしゃと撫でた。 少し乱暴な撫で方には、覚えがあった。 でも、待ってくれ。 嘘だろ。 そうじゃなかったらタチの悪い冗談だ。 俺の事を調べたなら、俺に兄がいることも知っているだろうし、それでわざわざ俺を騙そうとしてるんだろう。 なんでそんなことをするのか分からないが。 そう訴えた俺に古泉は困ったように、 「嘘じゃないよ」 ――嘘じゃないよ。本当だよ。ね、信じて。 そう言ってはぐずる俺を宥めてくれた声を思い出す。 俺が保育園へ行きたくないと言えば、帰ってきたらその分遊んであげると約束して、そう念を押していた。 そんなところまで調べられるものなんだろうか。 俺自身、忘れていたのに。 言われてみると、その独特の薄い髪の色も覚えがあった。 馬鹿丁寧でかえって嫌味ったらしく思えるようなあの口調だって、考えてみたら「父親」そっくりじゃないか。 俺は怖々聞いてみた。 「本、当に……兄ちゃん、なのか…?」 こっくりと頷いた古泉の胸に縋りつく。 涙が勝手にぼろぼろ零れてくる。 慰めるように背中を撫でられると、余計に涙が止まらなくなった。 しばらく泣いて、やっと落ち着いたところで椅子に座りなおすと、やっと言葉が出た。 「会いた、かった…」 「僕も、ずっと会いたかった。こうして再会することは予想もしてなかったけど、何れは会いに行くつもりだったんだよ」 「本当か?」 「もちろん。――それに、涼宮さんの近くに来るのも最初は嫌だったけど、キョンがいるから来たんだよ?」 「……何で兄ちゃんまでそのあだ名で呼ぶんだよ」 名前で呼べばいいだろ。 「ごめん」 と兄ちゃんは笑顔で謝り、 「涼宮さんや他の人の前で呼び間違えると困るだろう? その点、あだ名なら誤魔化しやすいし、あなたと呼ぶよりはずっと親しみが込められる」 人前で呼び間違えたりするほど不器用じゃないだろ。 今まで俺にも気付かせないほど隠してたくせに。 「不器用だよ。最良のことを考えるならこうやって名乗り出たりせずにいるべきだったのに、それさえ我慢出来ないくらいに、辛抱強さも足りないし」 俺がため息を吐くと、兄ちゃんはくすくすと楽しげに笑った。 「その仏頂面。懐かしいなあ」 そう言って頭を撫でられるだけで、それを引っ込めてしまうのもどうかと思うが、その感覚が懐かしかった。 「……それより、なんで兄ちゃんが俺と同じ学年にいるんだよ」 「それは、」 と兄ちゃんは事も無げに言った。 「その方が涼宮さんの監視には都合がいいからに決まってるだろ。戸籍くらい、いくらでも誤魔化せるし」 さらりと問題発言をするなよ。 「細かいことは気にしない。それより、もう少し再会を喜んでもいいんじゃないかな」 そう言って兄ちゃんは笑顔を浮かべ、首を傾げた。 俺はうっと詰まり、恥ずかしいほど取り乱した自分を思い返して、死にたくなった。 いくら十年以上も会ってなかったとはいえ、高校生にもなってぼろ泣きは恥ずかしすぎるだろ。 思わずのた打ち回りたくなった俺の頭を、兄ちゃんはぽふんと撫で、 「可愛かったよ」 「……うるさい…っ」 「じゃあ、もう帰ろうか?」 「え」 反射的に顔を上げて、後悔した。 兄ちゃん、喜びすぎでキモイ。 「嘘だよ。せっかくキョンといられるのに、そんな勿体無いことするはずないだろ」 ぐりぐりと頭を撫でられる。 やめてくれ。 本気で恥ずかしくなる。 俺は不貞腐れながら、 「帰るなら、兄ちゃんもうちに来いよ」 「それは遠慮しておく」 俺は更に眉間の皺を深くしつつ、 「……お袋にまで内緒なのか?」 「出来れば、そうしてもらいたいな」 「…分かった」 不承不承頷いた俺に、兄ちゃんは笑って、 「でも、いつかはお邪魔させてもらいたいな。友達の『古泉』としてでも」 その言葉に、俺は黙って頷いた。 それから、日が暮れるまで兄ちゃんと話した。 これまでどうしてたのかとか、会ってすぐに俺だと気付いたのかとか、そんなことを。 大抵のことには、俺の知りたがりに苦笑しながらも答えてくれた兄ちゃんだったが、機関と、三年前のことについては口が重かった。 俺に心配を掛けたくないと笑って、それ以上何も言ってはくれなかった。 その言葉に嘘偽りはないんだろうし、兄ちゃんにも立場というものがあるということも分かる。 だけど、なんだろうな。 疎外感に胸がむかつく。 「兄ちゃん」 カバンを取り上げて、立ち上がりかけた兄ちゃんに言う。 「他に誰もいない時は、絶対、兄ちゃんって呼ぶからな。ちゃんと返事しろよ」 兄ちゃんは少し黙り込んだ後、面白がるように笑いながら、 「分かった」 と頷いた。 部室を一歩出た途端、 「早く帰りましょう。あまり遅くなると、家の人が心配しますよ」 と兄ちゃんは胡散臭い古泉に戻ってしまったが、俺はすぐには切り替えられず、思わず笑みを見せた。 こんなことでこれから先誤魔化し続けるのか不安に思わないでもないが、俺にだって兄ちゃんと同じ血が流れてるんだ。 少々のことなら大丈夫だろ。 兄ちゃんと再会出来たことだけでも、ハルヒに巻き込まれてよかったと思えた。 家に帰った俺は、部室で1枚だけ撮らせてもらった兄ちゃんの写真をこそこそとプリントアウトし、アルバムの白いページに挟みこんだ。 時間がもう一度繋がって、動き出したような気がした。 |