大事なものは



俺は、大事なものを身につけたままにすることを少しばかりためらうタイプの人間だ。
そうすることでなくしちまうのが怖くて、大事にしまいこんでしまう。
だが、流石に婚約指輪なんてものをしまいこんだままにしておくのは問題だろうし、何よりもこれは自分でも持ち歩きたいと思った。
だから、極力指にはめて過ごしているのだが、流石に学校に行くのにはめていくことは出来ない。
見咎められても困るし、万が一、持ち物検査なんかで引っかかって取り上げられても困るということで、学校に行く時にはケースに大事にしまっておくことにした。
真っ先に妹に、
「これは俺の大事なものだから、勝手に触ったりするなよ」
と言っておいたことは言うまでもないのだが、妹も心得たもので、
「それくらい分かってるよー」
と可愛くない返事を寄越しておいて、
「もしなくしちゃっても、古泉くんなら平気で新しいの買ってくれそうだけどね」
と笑った。
それには俺も同意するが、
「だからって買ってもらう訳にもいかんだろうが」
「冗談だよー」
きゃっきゃと笑いながら妹は逃げたが、ううむ、なんとなく将来が心配だ。
男を手玉に取って面白がるような女にはなってくれるなよと兄として、かつ、姉として願った。
しかし、婚約指輪というのは案外存在感があるもので、その重みといおうか形といおうか、とにかく、それがあるという意識が何かしら変化をもたらすところもあるようである。
本当に嫁に行くんだと思うと怖いような嬉しいようなふわふわした気持ちになるし、話が現実味を帯びてくるとふわふわしてばかりもいられない。
だから、とせっせと掃除洗濯炊事なんかの家事を手伝うようになった俺に、夕食の支度がてらうちの味の出し方を教え込んでくれていたお袋は心配そうに言った。
「あんた、本当に卒業したらすぐ結婚しちゃうの?」
「ああ、そのつもりだし、お袋もいいって言ってくれただろ?」
「それはそうだけど…」
大学にも行かないで、とお袋はぶつくさ言っているが、
「大学なんて、高校を卒業しておけば、行きたくなれば行けるだろ。それに、俺としては大学まで行ってやりたいことってのが特にないし、それよりも一樹といたいんだ」
そう恥ずかしがりながらも笑って言った俺に、お袋は少し考え、
「結婚したからって、楽しいばかりじゃないことはちゃんと分かってるわよね?」
「そりゃ、分かってるつもりだけど、それでも、したいって思ったんだ」
そう言って俺はお袋に向き直り、
「俺なりに考えた結果だから、安心してくれ」
それで安心出来るならそもそも心配なんかしてないと思うのだが、お袋はとりあえず、
「…そうね」
と頷いてくれた。
そうやって夕食を作ったりしていると、玄関チャイムが鳴った。
どうしようかと一瞬迷ったが、妹がいるから大丈夫だろう。
案の定、
「はーい」
と妹が走っていき、すぐに、
「あー、古泉くんだー!」
嬉しそうに言うのに苦笑していると、お袋がわざわざ、
「行っていいわよ。コーヒーでも出してあげてて」
なんて言ってくれるので、甘えさせてもらうことにする。
さっと手を洗い、コーヒーの用意をしてキッチンを出ると、妹が一樹をリビングにきちんと案内して、ソファを勧めたようで、一樹はもうすっかり慣れた様子でソファに落ち着いていた。
「よう、来たか」
「お邪魔してます」
にこっと微笑んだ一樹に、コーヒーを出してやると、その目がじっと俺の左手に注がれているのに気がついた。
「ん? どうかしたか?」
「いえ…」
と言葉を濁すのにつられて自分の左手を見る。
その薬指には一樹にもらった指輪が……ない。
「……あれ、どこで落としたかな。今日はもしかして指輪入りの晩飯か?」
妹はきゃらきゃら笑いながら、
「えー、あたしが見つけたらあたしのにしちゃうよー?」
なんて言うが、
「指輪はやっても一樹はやらんぞ」
「キョンちゃんったら」
くすくす笑う俺たちにつられたように一樹も笑う。
そうしておいて、
「本当はどこにしまってあるんですか?」
とあっさり聞かれて興が冷めた。
「つまらんな。お見通しか」
「本当になくしたりしたら、あなたはもっと慌ててくれるでしょう? それこそ半狂乱になって探してくれるのでは?」
「……そうだな」
きっとそうなる。
それでも見つからなかったら、それこそべそをかきながら必死になって謝って、捨てないでくれと縋るに決まってる。
俺はシャツのボタンに指をやり、ひとつ、ふたつ、みっつと外す。
露わになった胸元には、銀色のチェーンでつられた大事な婚約指輪があった。
「家事をしてる時はこうすることにしてるんだ。落としてなくしたりしたら嫌だろ? だが、身につけていたいとも思うから…」
「なるほど」
そう頷いておいて、一樹はじっと俺の胸を見つめ、妹に聞かれないようにとばかりに耳を寄せてきた。
「もしかして、誘ってます?」
「…っ、違う!」
ぺしんと音がするような強さで、頭を引っ叩いてやった。
ともあれ、一樹がわざわざやってきたのはそんな馬鹿な話をするためじゃない。
夕食を一緒に食べて親交を深めるついでに、今後の計画をあれこれ話し合うために来てくれたのだ。
「結婚式とか披露宴とか、派手なことはいらん。精々、家族と……そうだな、ハルヒなんかくらいにはきちんとお披露目したいと思わないでもないが、それ以上は不要だ」
と俺が言うと、お袋達は少しばかり残念そうだったが、了解してくれた。
多分、俺があまり見世物みたいになってもよくないと分かってくれたんだろう。
親戚の前で堂々とドレス姿を見せる、なんてのは俺にはまだハードルが高すぎる。
「…せめてもっと女らしくなれたら、それか、子供でも出来たら違うんだろうけどな」
俺はまだ当分、親戚だとか子供の頃からの知合いなんかには、昔からの男のキョンのままだろう。
ぽつりと呟いた俺に、一樹は優しく目を細めて、
「きっとすぐですよ」
と囁いてくれる。
「…そう思うか?」
「ええ」
「……そうだな」
一樹と一緒にいたら、嫌でも女の子になっちまいそうだ。
……いや、きっとなるんだろうな。
それが怖いようでいて、楽しみでもある。
「…で、結婚後はどうするの? うちで同居するくらいの余裕はあるけど……あんたたちが嫌でしょ? 私でも嫌だわ。新婚早々親と一緒なんて。逆の立場だと案外平気なのにね」
平気なのか、と驚きそうになるが、勿論、
「そうだな、流石に新婚早々同居は嫌だ。……一樹、大学はどこ狙いだった?」
「ええと…」
と一樹が挙げたのは、どれもこの辺りから通学圏内に入るようなところだった。
「…もっと遠方の、レベルの高いところを狙うかと思ったんだが……」
「大学のレベルにはあまり興味がないんです。それよりは県内での就職実績や卒業生が気になりますね」
「はあ?」
「勉強はやろうと思えばいくらだって出来ますし、大学に行くことで将来分かりやすく役に立つのはそういうことですから」
さらりと言ったこいつは本当に、どこでどういう知識を得ているんだろうか。
機関のせいばかりじゃないよな、と最近はちょっと分かってきた俺である。
小さくため息を吐いて、
「お前のその妙に自信家なところは、危なっかしくて心配になるな」
「そうですか? …あなたのためならなんだって頑張れるという気がするから、ですよ。自信家なわけではありません。…心配なら、側で見ていてやってはくださいませんか?」
「……ばーか」
んなもん、言われなくても見てるに決まってるだろ。
などと、浮ついた会話をしていたからだろうか。
お袋は聞こえよがしなため息を吐いて、
「この調子だと、孫の顔を見れる日も近いんじゃないかしら?」
などと呟きやがったのだが、俺も負けてはいられない。
しれっとした顔で、
「じゃあ名前でも決めといてくれよ。何人分かは一樹次第だけどな」
と返してやった。
……残念ながら一番ダメージを受けたのは親父だったが。