憂き世縁



評判のとある飲み屋には、看板娘が三人いる。
正確には、娘、と言っていいのは一人きりなのだが、ひとりは歳に負けじと若々しく美しいし、もう一人は一番若くて可愛らしいのだが、娘と言っていい性別ではない。
先年までいた正真正銘の看板娘はとうとう嫁いだものの、華やかさはあまりかげったようにも思われない。
相も変わらず賑やかで、華やかな店である。
そこの、割に留守がちな主人の帰りがいささか遅くなり、その妻子である看板娘たちは心配そうにそれを待っていた。
とは言っても、はっきりそうと分かるのは主人の妻であるキョンだけだ。
娘の有希はじっとしているだけで、ぼんやりしているようにしか見えないし、息子の双葉は双葉で辟易している顔にしか見えない。
「母さん、気にせず寝ちまおうよー」
と言う双葉に、キョンはああとかうんとか生返事しか寄越さない。
「…全く……お父さんの帰りが遅いのなんて今に始ったことじゃないだろうに」
ぶつくさ言いながらも、先に寝床に入ろうとしない程度には気にしているらしい。
「…そろそろ」
ぽつりと有希が呟いてしばらくしてから、戸を叩く音がした。
「一樹か?」
確かめるように声を掛けたキョンに、
「はい、遅くなってすみません」
と答える声がする。
ほっとしながらキョンは戸を開き、
「……誰だそいつは」
と一樹の連れを見た。
「ちょっとした拾いものですよ」
そう一樹は答え、連れの顔を上げさせた。
「な……」
キョンが絶句したのにつられて、双葉と有希も戸の外を覗き、驚きに目を見開いた。
その反応に気をよくしたのか、一樹は面白そうに笑って、
「驚いたでしょう?」
「驚くに決まってんだろ!? 一体何なんだ…?」
とキョンが首を捻りながらも見つめ続ける先には、どこかふてぶてしい顔つきながらも、一樹とそっくり同じ顔をした青年がいた。
「誰だ? お前の弟とかそういうのか?」
「違いますよ。多分…ね」
思わせぶりな言葉を呟いて、一樹は青年の背中を押した。
「名無しの権兵衛くんです」
「押すんじゃねえよ!」
「まあまあ」
なだめるような声を出しながら、有無も言わさず店の中に青年を連れ込んだ一樹は、
「お腹が空いているそうなので、何か食べさせてあげられますか?」
「残り物くらいでいいならあるが…」
「とりあえずお願いします」
「おう」
こくんと頷いたキョンがまだどこか驚きを引き摺ったまま動こうとしたところで、双葉が青年に駆け寄り、
「本当にお父さんそっくりだね」
と声を上げた。
不躾なまでにじろじろと見られても、青年は動じない。
反対に見つめ返して、
「お前、男? それとも女?」
と眉を寄せた胡乱気な顔で問うたのに、双葉はむっと眉を寄せて、
「酷いなぁ。私が男に見える?」
「どっちにも見えるから聞いたんだろ。で、どっち?」
尚も問うのには双葉も目を瞬かせ、
「……にーちゃん案外無遠慮だねー……」
と感心した声で呟いた後、にんまりと笑った。
「生まれ育っての性別は男だよ。でも、感覚としては女の子の方が近いかなぁって思って」
「陰間か」
「殴るよ」
じろりと睨みつけた双葉に、青年は苦笑した。
「違うのか?」
「私は体売る気なんてさらさらないもん」
と双葉は膨れ、
「あんまり失礼なこと言うと飯食わせてあげないよ」
「ああ、そりゃ困るな」
そう言う程度には腹が減っているらしい。
「…そんなにお腹空いてんの?」
「二、三日食ってない」
「はー…それでそんなにぼろぼろなんだ?」
「いや、それはちょっとケンカに巻き込まれたりして…」
「…情けねー……」
「相手はもっとぼろくそにしてやった」
「……そういうことにしといてあげるよ」
そう笑って双葉は青年から離れると、一樹に向かって、
「お父さん、この間古着屋に売ろうかどうしようかって言ってたやつ、にーさんにあげていいよね?」
「ええ、どうぞ」
「うん、じゃあちょっと取ってくる」
と言って二階に駆け上がっていった。
有希はキョンが食事の支度をしているのを手伝いに行ったらしく、いつの間にかいなくなっていた。
残された一樹は青年に、どこか胡散臭い笑みを向けながら、
「随分気に入られましたね」
「…俺があんたに似てるからだろ」
「それならもっと冷たいですよ。年頃の女の子ですからね」
「……女の子って…」
複雑に顔を歪める青年に、一樹はしれっとした顔で、
「女の子に見えませんでした?」
「…そりゃ、今のうちはそう見えるだろうよ。けど、後何年かしたら目も当てられなくなるんじゃないか?」
「どうでしょうね」
「…あんたも相当変な奴だな」
「そうですか?」
「そうだろ。…俺みたいなのをいきなり拾って帰って、家に連れ込んだりするし、息子が女装趣味でも平気な顔してやがるし」
「瑣末なことはどうでもいいんです。僕としては、ここで幸せに暮らせればそれで。そうして実際今幸せなんですから、同じ顔のよしみでそのおすそ分けをしたっていいでしょう?」
「…やっぱり変だ」
ぶつくさ言っている間に、厨からはいい匂いが漂ってくる。
「残り物で作ったんで悪いけど、」
と言いながらキョンが持ってきたのは、熱々の雑炊だった。
「一樹も食えよ。寒かっただろ」
「そうですね、ありがたくいただきます」
きちんと綺麗に箸を使って食べる一樹に対して、名前も名乗らない青年はいささか乱雑な箸使いでがっつくように雑炊を食べる。
熱くないのかなんて聞くだけ野暮だ。
「…そんなに腹が減ってたなら、もう少し食べやすいものにしたらよかったか?」
とキョンが呟いたほどの食べっぷりだった。
双葉もそれを驚いたように見つめ、
「姉さんくらい凄いね」
と言って有希に抓られていた。
「んで、名無しのにーさん」
食事を終え、着替えもした青年に、双葉は言う。
「にーさんはどこの人?」
「…今頃聞くのか?」
呆れた声で言って、
「…吉原」
と短く返した。
「へー、吉原」
と眉を上げた双葉は、悪辣な笑みを浮かべ、
「芳町じゃなくて?」
と陰間茶屋が多いことで有名な町の名を上げてからかった。
「お前な…」
「にーさんが先に私を陰間呼ばわりしたくせに」
くすくすと笑って双葉は腕を組むと、
「で、吉原にいたにーさんがなんでこんなところにいるの?」
「ケンカして追い出された」
「…そりゃまたあっさりした返事だね。どうすんの? 人別帳とかまでは動かしてないんでしょ?」
「多分な。まあ、どうにかなるんじゃないか?」
「……うーん…そういう江戸っ子らしい向こう見ずさ加減は嫌いじゃないけど、心配だなぁ」
「お前には関係ないだろ」
「そうなんだけど、ここで放り出して野垂れ死にされても寝覚めが悪いっていうか…んー……」
双葉はちらりと両親の顔色を伺い、それからおずおずと口にした。
「このにーさん、うちに置いちゃだめ?」
それに対してキョンと一樹は顔を見合わせ、困ったような顔で言った。
「それは…別にいいっちゃいいが……」
「まさかあなたから言い出すとは思いませんでしたね」
「んー…だって、ねぇ?」
双葉はちょっと首を傾げ、
「なんかこのにーさん心配なんだもん。お父さんみたいで」
「…双葉、僕のことなんだと思ってるんですか」
「うちで一番頼りない人」
「……酷いです…」
キョンは、情けない声を出す一樹の背中を軽く叩いて、
「ある意味愛されてんだろ」
「それはそうですけどね…」
「で、どうする? お前はいいのか?」
「ええ、構わないと思ってますよ。悪い人ではなさそうですし、もし何かあってもうちのお嬢さん方ならなんの心配も要らないでしょう?」
「だよな。で、」
とキョンは青年を見据え、
「どうする? しばらくうちに住むか? 言っておくがただ飯が食えると思うなよ。うちに住むなら店を手伝ってもらうなり、他所に働きに行ってもらうなりするからな」
「そりゃ…俺としては有り難いけど……本当にいいのか?」
「ああ、構わん」
「じゃあ…世話になります」
そうして、不可思議な同居人が増えることとなった。

「おじさん」
と双葉に呼ばれた青年はぎゅっと眉をしかめ、
「おじさん言うな」
と噛みつくように返したが、双葉はにこりと笑って、
「だって、お父さんの弟って話になってるんでしょ? そしたら私にはおじさんじゃない」
「やめてくれ…」
青年が本当にげんなりした顔で言ったからか、双葉はくすくす笑いながら、
「んじゃあにーさん」
「…なんだよ」
まだ不満げながらもおじさん呼ばわりよりはいいと思ったのか、答えた
「私、今日は一日お父さんと出かけるから、店のことよろしくね。お母さんや姉さんに不必要に近づくようなのは叩きのめして出入り禁止にしていいから」
「またか?」
と怪訝な顔をする青年に、
「そう、また。…ちょっとここんとこ忙しくって。悪いけどよろしくね」
「別に構わんが……どこに行ってるんだ?」
「んー…秘密」
にこっと笑って黙らせて、双葉はそのまま出かけた。
残された青年はと言うとまだ訝るような顔をしていたが、自分も名乗らないままだからか、諦めたようにひとつ息を吐くと、そのまま黙って仕事に戻った。
その日、双葉と一樹が戻ることはなく、ようやく戻ったのは翌朝になってからだった。
「お前ら…本当にどんだけ無警戒なんだよ……」
というのが、居候からの第一声だった。
「んん? どういう意味?」
きょとんとした顔ですっとぼけようとした双葉を睨み、
「いくらなんでも女ばっかのとこに他所の男を置いて一晩開けるってのはないだろ…」
「だってにーさんなら平気だと思って」
からりと笑った双葉に、青年が脱力する。
「ごめんごめん、冗談だよ。本当は……ちょっと帰るに帰れなくなっちゃって」
苦笑して双葉は青年の手を取り、くいと引いた。
「どうした?」
「んー…ちょっと、ね。……詳しいことが知りたいなら、来てくれる? どうせ店を開けるまでは大分あるし…それまでは暇だよね?」
「そりゃそうだが……」
戸惑いながらも手を引かれるまま、二人で店を出た。
そのままゆっくり歩き、人気のない川原に来て草の上に腰を下ろすと、双葉はそっと口を開いた。
「うちって結構変な家なんだよね。見てたら分かるだろうけど」
「そうなのか?」
「…ふぁ?」
「いや…俺も普通ってのをよく知らないから……」
困ったように言った青年に、双葉は思わずぽかんとした後、声を立てて笑い出した。
「そっか、なんか凄いなぁ…。絶対変だと思われてると思ってたのに。もう何月も一緒に暮らしてて、少しも変だと思わなかったわけ? 例えば…お母さんのこととか」
「ん? 何か変なのか?」
「うわ、本当に分かってなかったんだ。凄いなぁ…」
くすくすと笑って、双葉は秘密でもないことを口にする。
「お母さん、時々男の格好してるでしょ?」
「そうだな。…お前と同じような趣味なのかと思ってたんだが…違ったのか?」
「うん」
くっくっと喉を震わせながら、双葉は答える。
「お母さんは、男でもあるし女でもあるんだ」
「……は?」
「いわゆるふたなりってやつ。昔は見世物小屋で看板になってたらしいよ?」
「…冗談だろ……」
「本当。嘘だと思うなら今度見せてもらったらいいよ。前なら見せてくれると思うから」
悪戯っぽく言った双葉に青年は顔を赤らめながらぶんぶんと頭を振り、
「んなこと頼めるか!」
「気にしないと思うけど」
「で? それがお前らの留守に何か関係あるのか?」
「このこと自体はあんまり…かな。ほかにも色々あるんだって」
「ほかにも?」
「うん。…姉さんも、普通じゃなかったんだよ。今は普通だけど」
「…どういう意味だよ」
「昔姉さんは、予知能力…っていうのかな。未来を見通せる力を持ってたんだ。その代わりに凄く病弱で大変だったんだけど……今は普通」
「……なあ、そろそろお前の正気を疑っていいか?」
「まだ早いよ」
と双葉は笑みを深め、
「お父さんは、とある……まあ、旗本か大名かどっちかは言わないでおくけど、そういう身分の家に生まれて、しかも今は名目上跡継ぎってことになってるんだ。だから、時々はそういう仕事があって、屋敷に戻らなきゃならなくって、で、私も一応お父さんの息子として一緒に行ったりするんだ。昨日のもそれ」
「……冗談…じゃ、ないんだろうな」
えらいことを聞いちまった、とため息を吐く青年に、双葉は軽く眉を上げた。
「信じてくれるの?」
「……嘘言ってるかどうかくらい分かる」
「…嬉しいこと言ってくれるなぁ」
双葉はにこっと笑って、少しだけ肩を寄せた。
「…なあ、」
「うん?」
「もしかして、俺を拾ったのって、俺を影武者にしたいとかそういう理由なのか?」
「違うよ」
何を馬鹿なことを言うんだか、とばかりに双葉は笑った。
「影武者っていうか、替え玉なら間に合ってるし、拾ったのはただ単に、にーさんがお父さんそっくりで面白かったからだよ。面倒見たのはあんたがいい奴だから」
「…お前の方がよっぽどいい奴だろ」
照れ臭そうに言われ、双葉は悪戯っぽく笑う。
「んん? だからって私に惚れちゃだめだよ?」
その言葉に青年は面白そうに笑って、
「もう惚れてるって言ったら?」
などと言う。
「んー…どうするかなー……」
と考え込んで見せた双葉は、にっこりと満面の笑みを浮かべて、
「とりあえず、そういうことは仕事とか見つけて、一人前になってから言うってのはどうかな?」
「そうしたら?」
「考えてやるよ」
「約束だかんな?」
「はいはい」
いなすように言った双葉に、青年は小さく唇を笑みの形に歪め、
「じゃあ、その印に……」
と双葉の耳に唇を寄せ、そっと本名を囁いた。
「…んー……じゃあ、受け取ったよってことで、」
と双葉は頬に唇を寄せる。
「…とりあえず、お母さんやお父さんには内緒ってことで、ね?」
「そりゃ、こっちの台詞だって。…知られたらどれだけ怒られるか……」
大袈裟に肩を竦めた青年に、双葉は声を上げて笑った。