それはある日曜のことだった。 取り立てて何もない平凡な日曜の朝食風景を思い浮かべてもらえたら、細かくテーブルの色だのその日の献立などを言い立てるよりもよっぽど我が家の状況が伝わるかと思う。 もそもそと寝ぼけながら飯を食っていた俺に、お袋が言ったのだ。 「あんた、ゆっくりしてるけどいいの? 今日は古泉くんとデートだって、昨日の晩、はしゃいでなかった?」 「あ? 古泉とデート……?」 言われてみればそんなことを言った気がする。 いや、間違いなくその予定だ。 それを思い出した途端、俺の顔から血の気が引いたのは、遅刻しそうだと焦ったからじゃない。 古泉を「一樹」ではなく「古泉」と呼んでいることから察せられるかもしれないが、つまりは本日の俺は思い切り男寄りなわけだ。 そんな状態なのに古泉とデートなんて出来るのか、と俺は青くなったのだが、ここでとある一件を思い出す人もあるかもしれない。 そう、あれはまだ古泉と付き合いはじめてそれほど経っていなかった頃のことだ。 今回同様、デート当日に男寄りになっちまった俺は、それを断ろうとして無惨にも失敗。 そればかりか、男の状態で古泉にレイプされちまったのである。 繰り返すが、誰がなんと言おうとあれはレイプである。 だが、その件を思い出して青ざめたのかと言われると、実は違う。 勿論あれも思い出しはしたが、それ以上に俺を青くさせたのは、「古泉とデート出来なかったらどうしよう」ということであった。 ……そこ、笑っていいぞ。 俺だって、笑えるものなら笑い飛ばして忘却の彼方へと追いやりたい。 しかし、俺は少しも笑えなかった。 何故か。 ――本気でそれが心配になったからである。 笑うどころか泣きたい。 このところ、女寄りになっていなくてもあいつを好きだと感じているようだと薄々自覚しつつあったのだが、それにしたって、男だってのに古泉とデートをしたいなんて思うほどになるとは思ってもみなかった。 なんでこうなっちまったのだろうかと悩んだのは一瞬で、責任は郵便ポストが赤い理由と電信柱が高い理由共々、ノシをつけて古泉にプレゼントすると決めた。 では、どうするか。 男としてのプライドがあるので、あいつに、男の時もあいつが好きだなんてことを知られるのはなんとしてでも避けたい。 しかしながら、デートはしたい。 よって結論。 ――女のフリしてデートに行こう。 あいつだって、男の俺とデートするよりは女の俺の方がいいだろう。 恐ろしい前例があるにはあるが、表に出てデートなんぞして過ごすのと、ベッドで不健全に過ごすのとでは違うだろう。 格好と呼び方、それから興味を示すべきものにさえ気をつけてやれば、元々同一人物のやることだし、二重人格じみてはいても二重人格なんかではないので気づかれはしないはずだ。 そう決めたなら後は急いで支度をするだけだ。 時間もあまりないから急ごう。 …と決めたはずだってのに、服を選び化粧品を引っ張り出した辺りで、俺が「女装する」ということに逃避したくなった。 なんで俺が女装。 しかも古泉なんぞとのデートのために。 「……くそ、最悪だ」 唸りながら、俺はスウェットパンツを脱ぎ捨てた。 幸いだったのは、昨日はいて寝たのが男女兼用のボクサーパンツであり、わざわざ女物のひらひらしたショーツにはきかえる必要がなかったことくらいだろうか。 変質者みたいな気分になりながら、レギンスに脚を通し、ぎりぎりの妥協策として選んだ大人しめのキュロットスカートに脚を突っ込む。 めんどくさいので重ね着なんかは一切考えず、Tシャツにロングパーカーだけ重ねてやった。 くすぐったいのでアクセサリーは一切無し。 化粧もごくごく薄いもので済ませた。 集中力の関係か、いつも以上に下手くそな化粧になった気もするがやり直してどうにかなるとも思えないので諦める。 ショルダーバッグには昨日の内に必要なものを詰め込んであったので、それをそのまま掴んで家を飛び出した。 待ち合わせの時刻に間に合うかどうか怪しい、と焦りながら、ショートブーツで出来る限り走ることしばし。 ようやく俺は待ち合わせ場所である駅前にたどり着いた。 呼吸が荒くて苦しい時でも、古泉の姿を探すのに不自由はないものらしい。 嫌味なくらいすらりとした風体で立っていた古泉は、俺を見るなり駆け寄ってきた。 「大丈夫ですか?」 「へー…き、だ……。遅れて悪かったな」 「いえ、ほんの少しですし、気にしないでください。それより、」 と古泉は心配顔で俺の顔を覗き込みながら、抱きしめるような格好で俺の体を支えた。 こういう時、前なら突き飛ばしてたのに今ではこの腕を頼もしく感じるんだから、恋というのは誠に恐ろしい。 「本当に大丈夫ですか? 苦しそうですけど……」 「走って、きたから、そのせいだ…」 「……少し休みましょう」 そう深刻そうに言って、古泉は俺の手を引くと、すぐそばの花壇の縁に座らせた。 「そんなに焦らなくてもよかったんですよ?」 「待たせたく、…なかった、し……、俺が、会いたかったんだよ……」 ぜぇぜぇ言いながら、深く考えもせずに迂闊なことを言った気がする。 しかし、古泉はちょっと驚いたように眉を上げて、 「…ありがとうございます」 と大袈裟なまでに嬉しそうに礼を言った。 「…忘れろ」 「忘れませんし、忘れられません」 「にっ、にやにやし過ぎてハンサムな面が台なしだぞ!?」 顔を真っ赤にして、何を言ってるだろうな、俺は。 短いが軽やかな笑い声を上げた古泉は、 「あなたがにやつかせてるんですよ?」 「俺に責任をおしつけるな」 「もう元気になられたみたいですね」 くすくす笑いながらそう言って、 「今日はどこへ行きましょうか?」 と毎度のことながら律義に尋ねてくるので、 「……じゃあ、映画なんかどうだ?」 映画を選んだのは、単純に、口をきかずに黙り込んでいてもなんら不自然ではないからという理由だ。 黙っていればいくらかでもマシだろうという判断である。 そんな思惑には気付かない様子で、古泉は愛想よく笑い、 「いいですね」 と俺の手を取る。 本当に自然な動作でそうしておいて、古泉は幸せそうに笑って俺を見た。 「なんだよ」 「いえ、ただ…幸せだなと思いまして」 そんな一言だけで体温が跳ね上がる。 報復のように、繋がれた手をきつく掴んだ俺は、そのまま立ち上がり、 「馬鹿みたいににやけてないで、さっさと行くぞ」 「はい」 映画館まで、電車で少し。 その移動の間も繋いだ手を放せなかった。 その暖かさが、優しく包むようなその感触が愛しく感じられるなんて、ああ本当に俺はイカれちまってる。 嘆くようなふりをしながら、俺は古泉と手を繋いだままで映画館に入り、平気な顔でカップル割引なんてものを利用してみた。 「…くすぐったい」 俺が呟くと、古泉は笑って、 「僕は嬉しいですよ。あなたとこうして堂々とデート出来ることも、あなたと手を繋いでいられることも」 「…そう、か」 むず痒い気持ちでいっぱいだってのに、手を離すことも出来ない。 それが嬉しいのは、俺も同じだからだ。 ドキドキしながら見た映画の内容は、ほとんど覚えてない。 だが、古泉とこんな風にいちゃつきながら見たってだけで、このタイトルも忘れられなくなるだろう。 映画を見た後だから、という理由でなく、どこかふわふわして地に足も着かないような心地になりながら映画館を出た俺に、 「お昼はどこにしましょうか?」 と古泉が聞いてくる。 「んー……ファーストフードでいいだろ」 とどこか夢見心地のまま、適当に答えてから、まずったかと思った。 古泉とのデートで俺がそんなもんを要求することなんてないからな。 本来なら、せめて喫茶店、そうじゃなければレストランに行きたいとねだるところだ。 今からでも、と思った俺が古泉を見上げると、古泉は柔らかく微笑んでいてくれた。 え。 「そうですね、たまにはそういうのも、高校生らしくっていいかと」 と言って、手近なそこへと足を向ける。 その間も、手は繋いでいて、なんだかそれが急に、無性に恥かしくなった。 それでも離せないんだから、本当に自分でも自分が分からん。 恥かしくて赤くなり、おまけにまごつく俺に代わって、古泉がセットを注文してくれたばかりか、席まで運ぶこともしてくれる。 俺は今男なのに、そんな風に扱われることが嬉しくて、そのくせ、トレイを持つために手を離されたのがなんだか妙に寂しく感じられる。 どうして、いつの間に、こんな風になっちまってたんだ俺は。 怖いくらい、こいつを好きすぎる。 男の気分が強くてさえこうなんだ。 そうじゃない時なんてどうなってるのか、考えるのも恐ろしい。 困った、と考え込んでいるのもあって、すっかり無口が板につきつつある俺に、古泉はホットコーヒーをすすりながら、 「この後はどうしましょうか」 と聞いてくる。 …そうやって、いつも聞いてくるばかりだが、 「お前は?」 「はい?」 「…行きたいところとか、ないのか?」 じっと上目遣いに伺うと、古泉は優しく笑って、 「僕は、あなたと一緒にいられれば、それで十分なんです」 なんて低く甘く囁くせいで、ぞくんと体の中が震えた。 俺は、少し落ち着いてきたのも忘れたようにまた真っ赤になって、それでも、言われっ放しは悔しくて、 「…っんなの、俺も同じなんだから、わざわざ金を使わなくてもいいのに……」 と言ってやった。 ハンバーガーに挟まったトマトよりも真っ赤になる俺に、古泉は柔らかく、 「…嬉しいことをいってくれますね」 なんて言うから、余計に俺は恥かしくなる。 「う…っ、わ、忘れろ! 今すぐ!」 「忘れられませんよ」 くすくす笑いながら、古泉はそっと俺の手を取り上げ、 「…愛してます」 と目眩がするほど甘ったるく囁き、俺の手の甲に口づけた。 「っ!!」 思わず手を振り解いた俺にも、気を悪くした様子はなく、あくまでにこにこと、 「食べ終わったら、ゆっくり歩いて帰りましょうか。夕食も部屋でとりましょう。二人で作るのも楽しそうです」 と言って、この後の予定を決定した。 そうして、まあ、古泉の言った通りに過ごしたわけだ。 散歩を兼ねてのんびりと古泉の部屋に行くまでの間に、夕食の買い物もして、ちょっとした新婚気分みたいになった脳みそを自分でかち割りたくなったりもしつつ、なんとか正気を保ったままでいられた。 二人で狭いキッチンに苦労しながらも作った夕食はおいしかったし、二人でのんびりとテレビなんか見つつ普通に過ごすのも楽しかった。 料理が…まあ、なんというか、女の子らしい気遣いとか飾りつけなんかからは程遠い、男の料理そのものになっちまったのはまずかったかもしれないが、心配する俺にも関わらず、気にしないらしい古泉に安堵した。 夕食も食べたんだし、帰ったっていいんだろうが、と思いながら、さして気になるわけでもないテレビを眺めていた。 一言で言っちまえば、離れがたかっただけである。 横目で古泉の様子を伺うようにしながら、その実、その端正な横顔に見惚れる。 涼やかな目元も、すっと通った鼻梁も、かっこいいと言うのがいいのか美しいと言った方がいいのか分からないほどだ。 その唇も、綺麗な形をしている。 その柔らかさも、その奥に隠された舌の滑らかさや器用さも知っている。 優越感とも興奮ともつかないものを感じながら、じっと見つめていた俺だったのだが、ふと、あることに気がついた。 気がついちまった。 …いっそ、気付かないままでいたらよかったのにな。 何に気づいたのかと言うと、とても簡単なことだ。 ――今日は一度もキスされていないということに、気付いたのだ。 もしかして、ばれてたのか? いや、ばれてただけならまだいい。 ばれていて、だからキスをされないというんだったら、つまり古泉は女の子の俺しか好きじゃなくて、男の部分なんてどうでもいいってことじゃないのか? …そんなのは、嫌だ。 俺は、俺の全てを好きになってほしいなんてわがままは言いたくない。 だがせめて、男の部分も含めて好きになってほしいとは思う。 これまで生きてきた中では、男の部分の方が強かったんだし、これからもそれがなくなると思えない以上、男の俺も好きになってほしい。 何より、男としてもこんなに古泉が好きなんだ。 それなのに、古泉は好きでいてくれないなんて、悲し過ぎる。 だから俺は、泣きそうな気持ちになりながら、 「……なあ、」 と声をかける。 「…どうしました? 顔色が悪いようですけど……」 心配そうに言ってくれる古泉を睨むように見つめて、 「…なんで、今日はキスもしてくれないんだ…?」 そう尋ねた声すら震えた。 どう答えられるのかと思うと、怖くてたまらなかった。 怯える俺を、古泉は大きく見開いた瞳に映して、 「……して、よかったんですか?」 と訳の分からないことを言った。 「……はぁ?」 なんだよそりゃ。 いつもしてるくせになんでそんなことを言い出すんだ。 「え? だって、今日はあなた、女性よりじゃなくて男性よりでしょう?」 「げ」 ばれてたのか。 というか、そんなさも当然のように言われると俺のこの一日の努力はどうなるって気持ちになるんだが、 「いつ気付いた…?」 「最初から分かりましたよ」 「え」 今度こそ絶句する俺に、古泉はにこやかに、 「一目見て、分かりましたよ。それなのに、あなたが来てくださったのは、僕のため、でしょう? 無理をさせてしまったのは申し訳なくも思いますが、…とても嬉しかったです」 そうとても嬉しそうに言う。 本当は無理をしたわけでもなければ、古泉のために来たわけでもないので、少しばかり申し訳ないような気持ちにもなるのだが、そういうことにしておこう。 「それで、キスしてもいいんですか?」 試すようにじっと見つめてくる古泉に、びくんと体が竦み、顔が熱くなる。 どう答えりゃいいっていうんだ。 男だとばれていた以上、引っ込めるべきか? だがしかし……、したい…し……。 迷った挙句、俺は古泉を見つめ返して、 「…お前、は…?」 と聞くという卑怯な手に出たが、古泉は躊躇いもせず、 「したいです」 と返す。 「…男の俺でも?」 「ええ」 「……だったら、いい…」 そう言って、そろりと目を閉じると、 「ありがとうございます」 という言葉に続けて、唇に柔らかいものが触れた。 ちゅ、と触れて、すぐに離れて行くだけのキスでも、ドキドキする。 それでも、それきりで古泉が離れようとするので、 「…こんなので、いいのか?」 と思わず聞いていた。 「…もっとしても?」 問いながら、見つめてくる目つきがどこか色っぽくて艶かしい。 「ん……」 頷いた俺の唇に、古泉のそれが重ねられる。 滑らかな舌が差し入れられるのを、躊躇うような素振りを見せながら、その実喜んで迎え入れる。 くちゅりと鳴る音すら気持ちいい。 興奮した体の熱を押し付けるように体をすり寄せれば、そのまま強く抱き締められ、キスが深くなる。 口中を支配され、呼気さえ奪われるような激しいキスに朦朧としてくる。 気がつけば俺はソファに押し倒されていた。 いいのかと、古泉は確かめない。 その代わりに、俺も抵抗はしない。 流されたような顔をして、古泉を誘った。 「愛してます」 と古泉が、俺が女らしい時と少しも変わらない熱っぽさで囁くのを聞いても、何一つ返事をしないのは、ちょっとしたプライドの問題だ。 ――男としても惚れ込んでるなんて、知られたくない。 それでも、悦びの声や反応は抑えきれずに、俺は男と女でどう違うんだなんて哲学的な逃避をすることも出来なくなるほどに、欲に溺れる。 喘いで、求めて、食らいつくように愛して、それでも、好きとは言ってやらない。 言いたくない。 ただ、疲れ果てて眠り込む間際に、目が覚めた時、女らしくなれることだけを願った。 |