文化祭



抵抗むなしく、着物に長いレースのエプロンという女給さんスタイルで接客することを余儀なくされた俺は、準備期間だけでも既にぐったりとかなりの体力と気力を削ぎ落とされながら、文化祭当日を迎えていた。
我がクラスは途中で誰かが思い止まることも、路線変更を行うこともなく、当然のようにアブノーマルな喫茶室と化していた。
何故に俺がこんな目に。
いや、ハルヒのせいだということは分かる。
分かるのだが……正直、勘弁してもらいたかった。
そっとため息を吐いたところで、
「大繁盛ですね」
と古泉に声を掛けられた。
振り仰いだ顔は晴れやかな笑みを湛えており、俺の不幸など知らないと言わんばかりだ。
「お前はいいな、気楽で」
「そうでもありませんよ。今年も演劇を、ということになったのはまだ構いませんが去年よりも覚えることが多くて大変ですし、何よりあなたに付きっ切りでいるわけにいかないので、舞台にあがっている間に、あなたに手出しする不届き者が現れでもしたらどうしようかと不安で仕方ありませんから」
そんな思考回路自体が既にかなりお気楽で脳天気なものだといいたくなるのは俺だけだろうか。
もう一度ため息を吐くと、
「僕には笑顔は見せていただけませんか? 一応、お客として来たつもりなんですが」
「…わざわざ見せなくても、お前は何度も見てるだろ」
俺の笑顔も、それ以外の顔も。
大体、そう見たがるようなもんでもないと思うのだが。
「見たいですよ。あなたの表情なら、どんな表情でも。……ああ、でも、そうですね、悲しげな顔はさせたくありません」
小声で、とはいえ人前でそんなことを言う古泉に、
「ばか」
と毒づいて手にしていた銀のトレイで軽く頭をぶってやると、嬉しそうに笑われた。
マゾか。
「違いますよ。こういうのも楽しいと思っただけです」
「だからマゾだろ」
「こういうの、というのはつまり、人前でじゃれること、ですよ。それでもマゾヒスト扱いされてしまうんですか?」
微妙なところだな。
あれをじゃれると表現し、喜んでいるのを見るとマゾだと言いたくなるんだが。
「というか、どうでもいいから早く注文を言え」
「ああ、そうでしたね。いつまでもあなたを引き止めてしまっていては他の方々に袋叩きにされてしまいそうですし」
冗談とも本気ともつかない口調で言った古泉に呆れながら、俺はメニューを一緒になって覗き込む。
「一番高いのにしたらどうだ?」
「ウィンナコーヒーですか?」
仰々しく名乗らせてはあるが、要するにコーヒーにホイップクリームを長細く絞っただけの代物でぼったくり感はピカイチだぞ。
「それくらい気にしませんよ」
くすくすと笑った古泉は、
「それでは、あなたがおすすめしてくださったこともありますし、それをお願いしましょうか」
「あいよ」
古泉相手だからと適当に答えて、さていい加減席を離れるか、と思った時だった。
「こらキョン! いつまでも古泉くんといちゃついてないでさっさと仕事しなさい!」
とハルヒに怒鳴られたのは。
反射的に振り返り、
「だ、誰がいちゃついてるか!」
と返したものの、どうやらそれが余計にまずかったらしい。
とりあえずその場は追及されることもなく、
「違うんだったらさっさとオーダー取って来なさいよ。忙しいんだから」
などとハルヒに文句をもらっただけで済んだのだが、古泉がゆったりとコーヒーを飲み終え、
「そろそろ出番ですので」
と言い置いて退席した後になって、俺は客の一人――前に俺に告白してきたので振った相手だった――に真剣な表情で問われた。
「もしかして、古泉と付き合ってんのか?」
と。
「え…」
どう答えりゃいいんだ。
いや、否定したんでいいんだよな?
しかしまさかこのタイミング、この場でこうストレートに聞いてくる奴がいるとは思わなかった。
――などと困惑していたのがまずかったんだろう。
俺が違うと言うより早く、でしゃばりなハルヒが、
「そうよ」
あっけらかんと、そう答えてしまったのだ。
「ハルヒ!」
「だって事実じゃない。隠してどうすんのよ」
隠しておきたいんだと俺は伝えなかったか?
いや、言ってはなかったかもしれないが、そう考えてることくらい分かるだろう。
付き合いだって短くないんだから。
どう言ってやろうかと思っている間に、他の奴等まで、
「馴れ馴れしいと思ってたらやっぱりそうなのか」
「古泉くんがキョンくんのこと抱きかかえてったりもしてたもんね」
などと騒ぎ始める。
他にも、
「いつの間に付き合いはじめてたんだ?」
「なんであいつなんだ!?」
などと、あれこれ俺に質問しようとする輩まで現れて、俺は追い詰められる寸前で逃亡を図った。
耐えかねたのだ、こんな状況に。
「あっ、キョン! 待ちなさーい!!」
というハルヒの怒声も無視して、走る走る。
着物の裾が滅茶苦茶になるとか、こんな格好での全力疾走は人目を引くとか、そんなこともどうでもよくて、必死に走って走って、無人だった部室に逃げ込んでやっと息を吐けた。
「ハルヒのばかやろー…」
鍵を掛けて閉じこもり、小声で毒づく。
外のざわめきは文化祭ゆえなのだろうが、俺のせいで一部ざわついているかと思うと嫌になる。
膝を抱えて耳を塞ぎ、床に座り込んでいると、不意に鍵が外される音がし、ドアが開いた。
思わず逃げ出しそうになりかけたが、入ってきた奴の姿を確認してほっとした。
「古泉…」
「大変なことになってるみたいですね」
苦笑混じりに言った古泉は鍵を掛け直し、俺の側に腰を下ろした。
綺麗な舞台衣装が汚れるぞ。
「大丈夫ですよ。それより今は、あなたのことです。5組で騒動が起きて、女給さんが一人逃げ出した、と校内中で大騒ぎになっている、と聞いてここまで来たのですが、具体的に何がどうなっているのか、全然分かっていないんです。よろしければ、説明していただけますか?」
俺は小さく頷き返した後、声が震えそうになるのを抑えるために何度か深呼吸をして、口を開いた。
「…お前がいなくなってから、客の一人がお前と付き合ってるのかって聞いてきたんだ。否定しようとしたんだが、驚いてる間にハルヒが肯定しちまって…それで……」
「大騒ぎになって、あなたは逃げ出してきた、というわけですね」
こくりと頷けば、
「どうして逃げたんですか?」
と聞かれた。
詰問調ではない。
優しく、そっと聞かれたのだが、それでも驚かずには要られなかった。
「どうして…って……。言わなくても…分かる、だろ?」
「教えてください」
柔らかな笑みで問われ、俺はしばらく躊躇った後、
「……恥ずかしい、し、それに、どうしたらいいのか分からんだろうが…」
と正直に答えた。
「僕は、もしその場にいられたなら嬉しくてならなかったと思いますけどね」
何だと?
「そうでしょう? そうして堂々とあなたは僕の大切な人で、あなたと付き合っているのは僕なので、ほかの人とは付き合わないと宣言出来るんですから」
そう笑った古泉に、俺は何も言えなくなった。
俺はずっと、オープンにしなくていいと思ってきた。
むしろ、しない方がいいと。
それは、俺が社会的には男であり、結果古泉がゲイだと見られると、将来的にも困ったことになるだろうと思ったからだった。
わざわざ差別されたり、否定される立場に古泉を引きずり込まなくったっていいと、そう、思ってきたのに。
もしかすると、それは俺のエゴに過ぎなかったのだろうか。
ずっと、古泉の想いを、優しさを、踏みつけてきただけだったのか。
戸惑う俺に、優しく微笑みかけ、古泉は言う。
「あなたが何に不安を感じているのか、残念ながら僕には分かりませんが、僕はこのまま、あなたは僕の恋人だと言ってしまいたいんです。…だめですか?」
「お前は……本当に、それでいいのか…?」
「はい。当然でしょう? そうしなければ、いえ、そうしてもなおライバルはいくらでも出現しそうですし、ここで否定してしまえばあなたの側にいるだけでこれまで以上に他の方々に敵視されてしまいそうですから」
「そういうことじゃなくて……その、一応男ってことになってる俺と、噂になっても……いいの、か?」
「それで傷がつくほどいい評判は持ち合わせていませんよ」
事も無げに言った古泉は、
「あなたが躊躇った理由はそれですか?」
「……」
大人しく頷けば、古泉は小さく笑った。
苦笑するように、あるいはくすぐったそうに。
「お気遣いくださり、ありがとうございます。でも、そういう理由ならもう反対させませんよ?」
と言って立ち上がり、
「さあ、教室に戻りましょう」
と俺の手を引いて立たせた。
乱れさせてしまった着物を何とか直し、そのままゆっくりと歩いて教室に戻る。
顔は上げられない。
恥ずかしくて、どんな顔をしていれば皆目見当もつかないからだ。
校内で、古泉と手を繋いで歩いてる、なんて。
そのまま消え入りそうなほど恥ずかしく感じているのに、同時に嬉しくて、幸せで、泣きそうでもあった。
騒然としていた教室は、ハルヒが、
「古泉くん! それにキョンも!」
と声を上げると静かになった。
その静けさが怖い、と思いながら俯いていると、古泉がにこやかに微笑んでいるんだろうと分かる声で、
「僕と彼のことで騒ぎになったそうですね。お騒がせしてしまってすみません」
と誰かに言っていた。
ハルヒに言ったんじゃないかとは思うが、この場にいる全員が聞き入っているんだから、対象者はこの際関係ないのかもしれない。
「いいのよ、別に。あたしの方こそどうも余計なことしちゃったみたいでごめんね」
「いえ、余計なことなんかじゃありませんよ。……彼は僕のもので、僕は彼のものですから。…ね?」
喜色の滲んだ声で古泉が言ったかと思うと、その腕にさらわれるように抱きしめられた。
「うわ…っ」
思わず声を上げ、弾みで上を向いたら、そのまま古泉にキスされた。
ちょっと待て。
誰がそこまでしろと言った。
ぎゃーとかきゃーとかわーとかいう、割れんばかりの喧騒の中そう訴えると、
「出来るだけ劇的な手法を選んでみました」
と返された。
馬鹿だろ。
「馬鹿でもなんでもいいんです。あなたは僕の恋人なんだと知らしめることが出来れば、ね」
恥ずかしいからウィンクはよせ。

全ての収拾がついたのは、結局その日も終ってからで、俺は冷やかしだの祝福だの訳の分からん言葉だのを投げ掛けられながら帰りかけて、足を止めた。
見つけたのは国木田と谷口で、
「面白いものを見せてくれたね」
と国木田に言われた。
「何と言うか…その……すまん」
「別にいいよ。何か害があったわけでもないし」
にこやかに言う国木田の隣りで、谷口は腕組みなんぞしながら考え込み、
「しかし、キョンと古泉がなー…。キョンはてっきりノーマルな奴だと思ってたんだが」
その言葉に、一瞬ずきりと胸が痛んだのは、こいつらにも言ってなかったということを思い出したからだ。
それなりに浅からぬ付き合いをしている友人として、カムアウトするべきだろうか。
……いや、してしまえ。
どうせ今日なら古泉とハルヒのせいで衝撃はたっぷり受けただろうから、そこに少し増やしたところで大きなダメージにはなるまい。
俺は辺りを見回し、誰も聞いていないことを確認して言った。
「そのことなんだがな、お前等…」
ええと、半陰陽ってのは言っても分かり辛いよな。
谷口にも分かる単語って言うと……あれか。
あれは若干屈辱的なんだが仕方あるまい。
「…ふたなり、って、分かるか?」
ああくそ恥ずかしい。
「分かるけど…」
「それがどうしたってんだ?」
首を傾げる二人に、はっきりと告げる。
「俺は、それなんだ。だから…ノーマルといえばノーマルなんだよ、俺は」
「キョンが?」
「はー…」
頼むから証拠を求めてくれるなよ。
見せようも触らせようもないからな。
「別に疑ったりはしないよ。びっくりしてるだけで」
「お前がそこまで真剣な顔で言ってんだから、まず冗談には見えねぇしな」
ありがたい友人だな。
皮肉っぽく思いながら、
「まあ、そういうことだから…街で女の格好した俺に会ってもビビるなよ」
冗談めかして付け足せば谷口が、
「そういや、前に古泉が彼女と歩いてるのを見たが…あれ、まさかお前か!?」
「あ? ……ああ、そういえばそんなこともあったな」
「えらい美人だと思ったのに、お前だったとはな……」
おいこら、そこで悔しがられると腹が立つぞ。
そんな風に話していると、
「お迎えに上がったのですが、帰らないんですか?」
と古泉に声を掛けられた。
「あ、いや、帰る。わざわざ悪いな」
「いえいえ、これくらい当然でしょう?」
そう笑った古泉に小さく文句を言ってから、俺は国木田と谷口に、
「さっき言ったことは他言無用で頼む。面倒なことになるのは御免だからな」
「ああ、うん、分かってるよ」
「おう」
それじゃまた明日な、と別れを告げて、俺は古泉と共に教室を出た。
「国木田氏と谷口氏に、何を話しておられたんです?」
と古泉が聞いてきたのは、人もまばらになってきた帰り道の途中でのことだった。
隠すことでもないので正直に、
「……俺が半陰陽だってことを言っておいた方がいいかと思ってな」
「ああ、なるほど。……無事、受け入れられてよかったですね」
全くだ。
しかし、
「お前のおかげだ。…ありがとな」
「僕は自分のしたいようにしただけですから」
「それでも礼を言っておきたかったんだよ」
そう言ってから、俺は古泉に顔を見られないように逆方向を向いて、小さな声で言った。
「……今度、役所に行って来ることにする」
「…はい?」
「生まれた時から空欄のままの、性別の欄を埋めに、な」
真っ赤になりながら言うと、古泉が俺の手を強く握り締めた。
「僕も一緒に行って、いいですか?」
「何でだよ」
「それは、僕のためなんでしょう? それなら僕が一緒に行ってもいいと思うんですが」
「そりゃ、そうかもしれないが…」
ちらりと伺い見た古泉は、常春みたいな浮かれきった顔をしていて、なんとなくイラッとした。
だから、釘を刺しておきたくて、
「…戸籍上女になっても、男の部分を捨てたりはしないからな」
憤然としながらそう言ってやると、
「ええ、分かってます」
と思った以上にあっさり返されて拍子抜けした。
どれだけ懐が広いんだこいつは…!
――呆れるのと同時に、益々惚れ込んじまったことは、言うまでもない。