「双葉!」 と呼ばれて、 「はぁい」 と明るく答えたのは、薄紅色の小袖を着た、愛らしい子供だった。 子供と言うよりも少女といった方が相応しいようになった双葉に、母親であるキョンは深いため息を吐いた。 「お母さんどうかした?」 「どうかしたじゃねぇって…」 キョンは心底呆れきった顔で、 「お前、いつになったらもう少しまともな格好してくれるんだよ」 「え、だめ?」 「だめとかじゃなくて、お前ももう八つなんだから、分かるだろ」 「お母さんに言われたくはないなー…」 「……」 返す言葉を失って沈黙したキョンは、三十路を前にした今になっても、相変わらずとしか言いようのない姿だった。 お歯黒もせず、丸髷も結わず、日によっては未だに男の格好で店に立つ始末で、夫である一樹も、もはや気にしてはいないようだ。 妻と子のやりとりを側で聞いていた一樹はくすくすと笑いながら、 「別に少しくらい構わないと思いますよ? 店から出さなければさらわれる心配だってないでしょうし」 「お前がそうやって甘やかすから双葉が付け上がるんだろ」 八つ当たりでもするかのように言ったキョンは、女物の小袖の袖をまくりながら腕を組んだ。 キセルでも持っていれば似合いそうな姿に、一樹はただでさえ笑みに崩れた顔を更に蕩けさせ、 「どうしてあなたは年を取るほどに魅力的になるのでしょうね」 「殴るぞ。老けたのはお前も同じだろうが」 苛立たしげに言ったキョンに一樹は、 「そういう意味じゃありませんよ。ほら、普通なら出会った頃の――二十歳くらいの頃が、一番華やかな頃じゃないですか。それなのにあなたは、年々綺麗になっていくので、僕は日々あなたに魅せられてばかりですよ」 「ばか」 と言いながらもキョンの頬がかすかに赤く染まっている。 それさえ愛らしく見えるのか、一樹はため息を吐いた。 「本当にいつも心配になりますよ。誰か不埒な輩があなたに手出ししないかと」 「俺みたいなのにちょっかい出す物好きはお前くらいだろ」 「それならどんなに気が楽か分かりませんよ。……ねえ、せめてもう少し大人しくしてくださいませんか?」 「十分大人しくしてるだろうが」 「服装ですよ。そんな、いつまでも未婚の娘みたいな格好でなくても……それだから双葉に何も言えないんでしょう?」 「…ほっとけ。有希と共用出来た方が家計に優しいんだよ」 「困った人ですね」 そう肩を竦めながらも、本気で咎めるつもりはないのだろう。 一樹は小さく微笑んで、キョンの耳に、 「…もし何かあったら、僕は許しませんからね。相手は勿論のこと、あなたのことも」 と吹き込んだ。 ざっと青褪めたキョンは、 「どうするつもりだよ」 「そうですねぇ。相手は良くて半殺しとして、あなたは……僕と二人きりで旅に出る、というのはどうです?」 「…はぁ?」 「行き先は、そうですね。草津か熱海か……。二人っきりで、邪魔の入らないところに行って………、ね?」 かぁっと赤くなったキョンは、 「お、お前って奴は、子供の前でくらいそういうことを言うのをやめろって何度言えば分かるんだ!?」 と怒鳴ったが、 「双葉ならもうとっくに逃げ出してますよ」 一樹の指摘した通り、双葉は既に逃げ出し、店の二階にある住居に行っていた。 「姉さん、入るよ」 言いながら双葉が襖を開けると、敷かれた布団で有希が横になっていた。 眠ってはいなかったらしく、うつ伏せになって本を開いていた。 「具合はどう?」 「大丈夫…」 そう答えた声はかすれている。 双葉は痛ましげに眉を寄せ、 「…姉さんには、自分の未来は見えないの?」 「見ない。……見ても、つまらないだけ」 「……そうなんだ。でも、どうやったら体がもっと丈夫になるのかとか、分からないの?」 「…大丈夫。これでも、良くなってきている。お母さんとお父さんと双葉のおかげ」 薄く微笑んだ有希は体を起こし、 「だから、双葉が悲しむ必要はない」 と双葉を抱きしめた。 「姉さん……」 「自分の未来は見ないけど、双葉の未来は見る。大変なことはあっても、双葉はいつも幸せそうだから、きっと、私も大丈夫」 「……そうだね。姉さんに何かあったりしたら、そんなことにはならないだろうし…」 そう小さく笑った双葉の髪を撫で、 「だから、心配しないで笑ってて。私は双葉の笑顔が好き」 「…うん」 答えながら双葉はにっこりと笑みを見せた。 有希も笑みを返しながら、 「そろそろみくるが帰ってくる」 「分かった。迎えに行って来るね」 双葉はそう言って階段を駆け下りると、 「こら、待てっ、双葉!」 というキョンの制止も聞かず店を飛び出した。 ぱたぱたとはしたなく駆ける双葉へ、どうやら店の常連らしいのが、 「珍しいな、双葉」 「またキョンを泣かせてるんだろ」 「今晩も行くからな」 好き勝手に声を掛けるのへ、双葉は父親そっくりの愛想笑いで、 「うるっさいよ!」 「私は悪くないもん」 「ありがと!」 などと返した。 そうして走っていく先に、ハルヒとみくるの姿を見つけた双葉は、 「みくる姉さん! ハルヒ姉さん!」 と駆け寄ろうとして、人にぶつかった。 小さな体がころんと地面に転がる。 まずいのは、相手が侍だったことだろう。 「すみません」 と青褪めながら謝った双葉へ、 「どこを見て走ってるんだ」 と顔を顰めた侍は、面倒そうにしながらも双葉を助け起こし、 「……お前は…、もしかして古泉一樹の子供か?」 「え? そうだけど……おじさんは?」 おじさん、と言われ渋い顔になった侍だったが、 「名乗るほどのもんじゃない。お前の母親の知り合いに借りがあるんでな」 「お母さんの知り合い?」 それって結構多いと思うんだけど誰だろう、と首を傾げた双葉に、侍は酷薄な笑みを浮かべ、 「お前があの時の子供か…。なるほどな。俺も年を取るわけだ」 と独りごちた。 そこへみくるがハルヒと共に駆け寄ってきた。 「双葉ちゃん、大丈夫ですか?」 「何やってんのよ」 双葉は苦笑して、 「大丈夫だよ。驚かせてごめんなさい」 「無事ならいいんです」 と微笑んだみくるとは対照的に、ハルヒは眉を寄せて侍を睨みつけ、 「あんた何? 言っておくけど、双葉にちょっかい出したら許さないわよ」 侍はハルヒ以上に不機嫌な顔になると、 「誰がこんな子供に手を出すか。大体、」 と言葉を切り、 「これは男だろう」 とげんなりと言った。 ハルヒはその言葉ににやっと笑い、みくるは素直に驚いた。 当の双葉はと言うと、面白そうに笑いながら、 「へぇ、やるね、お武家様。大抵の人は分からないのに」 「職業柄、変装を見破る必要があるんでな」 しかし、と侍は品定めでもするように双葉をとっくと見遣った後、 「見事なもんだな。声変わり前だからと言うのもあるんだろうが」 「ありがと」 と笑った顔は本当に少女と見紛うばかりの愛らしさだった。 侍はふっと目を細めたが、 「…ああ、そうだ。ここで会ったなら言伝を頼んでもいいだろう。店に近づくとどんな目に遭わされるか分からんからな」 と呟き、 「お前の姉の……なんと言った?」 「有希姉さんのこと?」 「ああ、それだ。……気をつけてやれ。朝倉家の人間が噂を聞きつけて狙ってるらしいぞ」 「噂って…」 どんなのだろう、と首を傾げる双葉に、 「人形のように綺麗な娘がいると評判だろう?」 「有希姉さんは確かに綺麗だけど、それで言ったらお母さんもみくる姉さんも美人なのに、何で有希姉さんなんだろう…」 「知らん。好みの問題だろう。というか、お前の母親は……いや、なんでもない」 双葉とハルヒに睨みつけられて、侍は思い切り目を逸らした。 「とにかく、朝倉家から何か言ってきてもうまく逃れられるよう用心だけはしておいた方がいいだろうな。何しろ朝倉家はその辺の貧乏旗本とは違うからな」 「…ありがと。で、なんでおじさんはそんなこと知ってんだ?」 「……職業柄、と言っておこうか。まあ、無駄な忠告かも知れんが」 と笑い、双葉たちに背を向けた。 「これで借りを返したとは思えんからな。何かあったらまたその時に」 そう言い残して。 「うん、その時はお願いします」 そう返した双葉にハルヒは、 「信用していいの? あんな陰険そうな男」 「うーん…なんていうか、大丈夫そうだから」 「…あんた、そういう感覚で人を判断するところはキョンそっくりね」 呆れたように言ったハルヒは、 「でもまあ、キョンはそれでちゃんと判断出来てるし、あんたもそうだって信じたいわ」 「信じてよ。…それより、早く店に戻らないと。お母さんに拳骨貰っちゃいそう」 「それ以上に有希のことが心配なんでしょ」 とハルヒが指摘すると、双葉は小さく笑って駆け出した。 みくるは心配そうな顔で、 「でも本当に、今の方は誰だったんでしょうか?」 「さあ? キョンも変なところで顔が広いし、妙な連中に恩を売ってたりもするから、その絡みじゃないの?」 ハルヒはあっさりと言ったが、双葉に話を聞いたキョンは首を傾げ、 「そんな奴におぼえはないが…」 「お母さんの知り合いに借りがある、って言ってたからお母さんは直接知らないのかもね」 と双葉は事も無げに言った後、 「それより、朝倉家ってどんなの?」 と一樹に尋ねた。 「朝倉なら、家格は古泉と大して変わりませんよ。ただ、少しばかり妙な噂があるにはありますが」 「妙な噂って?」 一樹は少し躊躇いを見せたが、 「…娘が不可思議な力を持っている、と」 「不可思議な力…?」 「どんな遠くのことも分かる、千里眼だ、とか」 「……嘘だ、とは言えないんだよね、うちの場合」 と双葉は苦笑した。 「本当に千里眼だとしたら、姉さんのことを知ってたとしても不思議じゃないし、姉さんのことを欲しがってもおかしくはないよね」 「そうですね。まあ、気休め程度ですが、手は打っておきましょうか」 と一樹は立ち上がり、キョンに向かって、 「古泉の家へ少し行って来ようと思います。留守番をお願いしますね」 「ああ、お父様によろしく」 皮肉っぽく言ったキョンに苦笑を返し、一樹は服装を改めに二階へ上がっていった。 キョンは軽く伸びをして、 「それじゃ、俺たちはとりあえずいつも通りに店を開けるとするか」 「お母さんは心配じゃないの?」 そう尋ねた双葉にキョンは笑って、 「お父さんを信じてやれよ。あれでも一応の跡継ぎとして忙しくしてるんだし」 「お父さん見てるとそうは思えないけどね」 いつ見てもお母さんといちゃついてるから、と小さく呟いた双葉は、 「大体、大身旗本の跡取り息子がこんなところで酒売ってるってどうなの?」 「本来ならかなりまずいだろうが、今更だしな」 とキョンは昔を思い出すように目を細め、 「弟さんが亡くなったせいで家督を継ぐ可能性が出てきちまった時、連れ戻されそうになったあいつが、なんとか父親に飲ませた条件だったんだよな…。切羽詰ってたからって認めた方も認めた方だが、よく言い出せたもんだ」 「…ちなみに、その時お母さんはどうしたの?」 「古泉の家に戻るんだったらお前ひとりで戻れって追い出した」 「うわ……可哀相なお父さん…」 「だって、なあ?」 キョンは頭を掻きながら、 「俺に、旗本の奥方なんで出来ると思うか?」 「間違いなく無理だね」 間髪入れずに放たれた双葉の言葉に、ハルヒまでもが頷くのを見ながら、キョンが、 「だから、お父さんは無理矢理にでも条件を飲ませて、ここと古泉の家の往復をしてるわけだ」 と話を締めようとした時、階段を転げ落ちるような勢いで一樹が駆け下りてきた。 「た、大変です…!」 「どうした?」 「有希が、いません…!」 「――なんだと!?」 慌ててキョンが駆け上がっていくのを見ながら、双葉は一樹に、 「姉さんがいないって…なんで……」 「彼女が何の考えもなしに動くとは思えませんから……おそらく、何か見えたのでしょう」 「それにしたって……」 「……どうします、双葉。有希を信じて待ちますか? それとも、……動きますか?」 悔しそうにぎゅっと唇を噛んだ双葉は、 「――置き手紙も何もなかったの?」 「ええ」 「…それなら多分、探さないでくれってことだよね…」 「……そうでしょうね」 「……私、信じるよ。姉さんを信じる」 「…分かりました。僕は一応古泉へ行ってきます。もしもに備えて」 「うん、お願い」 そう言ったものの、双葉の手はかたかたと震えていた。 みくるはそっとその手を握り、 「大丈夫ですよ。…有希さんですから」 「…そうだよね……」 双葉はそう頷きながらも悲しげな表情だけは拭えなかった。 有希は、朝倉の名を掲げた、大きな屋敷の前にいた。 ほんのりと頬が紅潮しているのは、体調が悪いまま長時間歩いたせいだろう。 その有希が取次ぎを願い出るより早く、戸が開き、女中らしい女性が姿を見せた。 柔らかな笑みを浮かべた彼女は、 「有希さんですね?」 有希はこくんと頷いた。 「私は涼子様付きのもので、喜緑 江美里と申します。わざわざいらしていただいてすみません。どうぞ、こちらへ」 表情さえ消した有希はまるきり人形そのもののように、江美里の後をついていった。 広い屋敷の中を、わざとさ迷うように進んだ江美里は、一番奥まった部屋に有希を通した。 余計に歩かされたことに何も言わず、ただ頬の赤味だけを増しながら、有希はその部屋に足を踏み入れた。 小さな坪庭に面したその部屋には、障子に紙ではなくガラスが使われているのか、明るい日差しが注いでいた。 それでもなお、そこの主の顔色は青白く、弱々しく見えた。 だが、病に苦しむものが多く持つはずの悲壮感や絶望感は欠片もなく、むしろ胸を張った少女は、布団から上体を起こし、にっこりと微笑んだ。 「初めまして、ね。有希さん」 有希は答えない。 眉を寄せることさえせず、彼女の言葉が耳に届かなかったかのようにさえ見えた。 「ふふっ、怒ってるのね。怖いなぁ。――知ってると思うけど、一応名乗るわね。あたしは朝倉 涼子よ」 歌うように言った涼子は、 「本当に未来が見えるのね。あなたが来てくれないならあなたのご両親のお店を無くしちゃおうと算段しただけで来てくれるなんて、嬉しいわ。あたしはこの通り、出歩くことなんて出来ないから、あなたを迎えにいけないでしょ? どうしようかって困ってたのよ」 と、有希が答えないのも気にせず、江美里についてはまるでいないものであるかのように喋り続けた。 「ねえ、分かってるんでしょ? あたしがどうしたいか。あなたがどうするべきか。――あたしは今起こっていることはなんでも分かるけど、未来までは見えない。だから、あなたが欲しいの。あなたを、あたしにちょうだい?」 「嫌」 一言で有希は答えた。 まるでそれ以上口をきくのも嫌だと言うように。 一瞬、驚きに目を見開いた涼子はくすくすと笑い、 「そう? じゃあ、あなたの家族がどうなってもいいのね。あんなお店を潰すくらい簡単よ。たとえ背後に古泉家があってもね」 江美里、と命じようとした涼子に、有希はもう一度だけ口を開いた。 「力はあげる」 「……どういうこと?」 有希はもう口を開かず、ただすっと手を伸ばした。 涼子に向かって。 何をするつもりかと警戒する江美里をよそに、有希の唇がかすかに動き、言葉とも思えないようなものを紡いだ。 次の瞬間、涼子が布団の上に倒れ伏し、 「涼子様!」 慌てて駆け寄る江美里を見もせず、有希は涼子に背を向けた。 涼子は苦しげに顔を歪めながら、 「なんて…こと……。こんなものを、抱えて、見て……どうしてあなたは平気でいられたの…?」 有希は振り返りもせず、 「お母さんがいてくれたから」 とだけ言い残して部屋を出た。 その足取りはいくらか軽く、体調も良さそうに見えた。 まるで、体に負荷を与えていた何もかもを押し付けたかのように。 「待ちなさい!」 江美里が叫び、人を呼ぶ。 「彼女を逃がしてはなりません!」 有希がため息を吐きかけたところに、 「助けはいるか?」 と声が掛けられた。 いつの間に現れたのか、庭にはあの侍が立っていた。 有希はその素性も尋ねず、小さく頷いた。 「分かった」 侍はどこから湧いてきたのかと思うほどの大人数に囲まれても動じる様子はなく、腰に帯びていた刀を抜いた。 「走れるだろうな?」 「大丈夫」 「よし」 不敵に笑った侍が駆け出し、刀を振るう。 しかし、血は噴出さなかった。 「……切らないの?」 侍の後ろについて走りながら有希が問うと、 「切るまでもない。第一、切ると刀が傷むだろう」 不遜なことを言い放つくらいには、侍は強かった。 屋敷の中を駆け、門横の戸口にいた門番をのした侍は刀を仕舞って表に出た。 「とりあえず、これでいいだろう。屋敷の中ならともかく、表まではそうそう追っては来られないはずだ」 「…ありがとう」 「いや、……これで借りは返したってことにしてもらえるとありがたいんだが――どうだ、国木田」 声をかけられた国木田は朝倉家の塀の上からすとんと下りて来ると、 「そうだね。今日は大活躍だったから、許してあげようか」 「……」 黙ってため息を吐いた侍に、 「何か言いたいことでもあるの?」 「…いや」 「ならいいんだけど」 それより、と国木田は有希に向き直り、 「危なかったら手を出そうと思ったんだけど、大丈夫だったみたいで何よりだよ」 「彼のおかげ」 「ああ、いいんだよこんなの。適当に使っておけば」 国木田はそうさらりと言い放ち、 「どうやら、君のお父さんも動いてくれたみたいだから、これ以上朝倉家は動けないだろうね。それも、彼女がどうなるかによるんだろうけど」 有希は少し辛そうに眉を寄せた後、侍に向かって言った。 「お礼がしたい。今度、うちの店へ来て」 「悪いが、入店禁止を喰らってるんでな。遠慮させてもらおう」 侍の言葉に、国木田は苦笑して、 「別に、キョンと一樹くんにばれない自信があるなら行ったって大丈夫だと思うけどね」 「そもそもあの店に近づくのを禁止したのはお前だろう」 「うん。でもまあ心も入れ替えたみたいだし、有希さんがここまで言ってるんだから受けない方が失礼だよ」 「心を入れ替えるも何も、俺は元々私怨で動いたんじゃないと知っているだろう」 憤然と言い放った侍に、 「そうだね。仕事を選ぶような誇りも持ち合わせてなかっただけで」 との一言で国木田は侍を黙らせた。 渋い顔をした侍に有希は、 「…是非来て」 「……そのうちにな」 こくん、と頷いた有希が歩き出すと、侍が、 「ああ待て。途中まで送っていく」 「いい」 「いいと言っても、もう木戸が閉められた頃だろう。ひとりで出歩いていたら危ないぞ」 「……」 国木田はいつものように柔らかく笑いながら、 「そんなのでも一応役に立たないこともないでもないから、使ってやってよ。そいつなら木戸をこっそり通るくらい、簡単だし」 「…分かった」 不承不承頷いた様子の有希と侍が歩き去った後、国木田は軽く伸びをして呟いた。 「さて、僕は仕上げと行こうかな」 その姿は再び朝倉家の屋敷の中に消えた。 「ただいま」 とひとりで店に姿を現した有希に、 「姉さん! よかったぁ!」 と双葉が抱きついた。 「調子悪かったくせに、何でひとりで出て行くんだよぉ…!」 「もう大丈夫」 有希は微笑みながら、今にも泣き出しそうになっている双葉を抱きしめた。 もう店仕舞いの時間で、片付けをしていたキョンも手を止め、 「お帰り」 「…ただいま。……それと、ごめんなさい」 「全く、双葉で手一杯なのに、お前まで心配掛けるなよ。黙ってどこまで行ってたんだ?」 「……朝倉 涼子に会いに行っていた」 「やっぱりか」 ため息を吐いたキョンは有希の顔をのぞきこみ、 「…顔色が随分いいな。無理しただろうに」 「大丈夫。…余計な力をあげたから」 「…どういうことだ?」 有希は少し考え込んだ後、口を開いた。 「未来が見えるということは未来の技術も分かる。私は未来が見えるという能力を人に譲渡する方法を見つけていた。これまでそれをしなかったのは、この能力が心身に大きな負荷をかけるから。生まれつき力を持っていた私と違い、新たに力を与えられた相手はおそらく力を制御しきれない。体調も悪くなる。だから、しなかった。でも、」 双葉の様子をうかがうように、有希は一度言葉を切った。 だが、双葉は怯える様子もなく、大人しく話を聞いている。 「……朝倉 涼子は力を望んでいた。私自身が彼女の側に留まるか、私の力を譲渡しなければ、お母さんやお父さんや双葉の身が危険だった。だから、私は彼女に力を譲渡した」 「大丈夫なのか? 力を乱用されたりするんじゃ…」 心配そうに言ったキョンに、有希は首を振った。 「確かに、彼女は私欲のために力を使うことをためらったりはしない。けれど、彼女の脆弱な体にはあの力は大き過ぎる。おそらく、制御しきれない。……可哀相だけれど…私は、私の家族の方が大事」 「……そうか」 キョンはぽんと有希の頭を撫で、 「辛かったな」 「……」 黙ったまま有希は頷き、キョンに抱きしめられるままそっとその胸に頬を押し当て、 「…あんな力、私は欲しくなかった。要らなかった。彼女には悪いけれど……普通になれて、嬉しい」 「ああ、俺も嬉しい」 そう笑ったキョンは、 「お前が普通になったからじゃないぞ? お前がもう苦しまなくていいのが、嬉しいんだ」 と有希を抱きしめた。 「ありがとう…。大好き……」 目じりに涙を浮かべた有希に双葉が、 「姉さん、私のことは?」 「大好き。皆、好き…」 三人の様子を見ていたみくるは目を細めながら、 「よかったら、後はあたしに任せて上に上がっちゃってください」 「いや、悪いですよ。朝比奈さん一人に、そんな…」 と言うキョンを指一本で黙らせて、 「大丈夫です。あたしも、片づけくらいひとりで出来るんですから」 「……すみません。それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらいますね」 苦笑混じりにそう言ったキョンが有希と双葉の手を引いて二階へ上がると、みくるは、 「……あたしもいつか、キョンくんと若様みたいな家庭を持ちたいなぁ」 と小さく呟いた。 翌朝早朝に戻った一樹は有希の無事にほっとしながら、 「朝倉家では娘の病状が悪化したとかで大騒ぎになっているようですよ。その騒動に紛れてか、何か公になるとまずい代物を盗まれたとかいう話も出てきています。これから大変そうですね」 とキョンへ一応の報告をした。 キョンは、子供には見せられないような、人の悪い笑みを浮かべ、 「まあ、自業自得だな」 「そうですね。うちの方からもいくらか圧力を掛けさせますから、精々娘の能力とやらで貯め込んだものを吐き出していただきましょうか」 「悪い奴だな」 「僕がですか? そんなことはありませんよ」 と一樹は薄く笑い、 「ただ、ほんの少し子煩悩なだけです。可愛いうちの子供たちに手出ししたらどうなるのか、よく知ってもらわないと、ね」 「怖いな」 そう笑いながらキョンは一樹に口付け、 「頼りにしてるからな?」 と囁いた。 |