その日俺が部室に行くと、長門だけがいた。 古泉がなんだか知らんが遅れるというのは聞いていたが、朝比奈さんが俺より遅いというのも珍しい。 そんなことを思いながら荷物を置き、長門へ、 「朝比奈さんは?」 と聞いた。 長門は本から顔を上げもせず、 「掃除当番」 いつものことだが、簡潔な返事だ。 長門と話していると、会話とは言葉のキャッチボールだとかいう言葉に異論を唱えてやりたくなる。 何故なら、長門と言葉のキャッチボールは可能だが、短答式のテストの如く簡単な言葉しか返ってこないのでそれ以上発展のしようがなく、つまりは会話が成り立たないことが多いからだ。 「まだしばらくかかるのか?」 長門なら知っているだろう、と思いながら問うと、案の定、頷きが返ってきた。 それなら、と俺は一度腰を下ろしたパイプ椅子から立ち上がると、窓際の指定席に座っていた長門に近づいた。 それに気付いた長門が顔を上げたところで、俺はその頭を軽く撫でた。 思ったよりも柔らかな髪の感触に俺が笑みを浮かべると、長門はじっと俺を見つめ、 「……お母さん」 と呼んだ。 「なんだ? 有希」 あえて名前を呼んでやると、長門が嬉しそうにしたのが分かった。 表情はほとんど変わらないというのに、なんとなく長門の感情が分かるというのも、長い付き合いの賜物だろうな。 「ありがとう」 「有希は可愛いな」 言いながら、俺は長門の小柄な体を抱きしめる。 俺の背中に回された腕に、ぎゅっと力が込められるのも愛しい。 「…お母さん、いい匂いがする」 「そうか?」 特に何かをつけているわけじゃないから、俺の体臭またはその辺を歩いているうちに付いただけの匂いだと思うんだが、それがいい匂いなのか? 「お母さんの、匂い」 「有希は…」 と長門の髪に顔を寄せ、鼻を鳴らす。 特に匂いはない。 「……無臭?」 「私は人間とは違う」 長門の声がどこか悲しげに響いた。 俺は長門の顔をのぞきこむようにしながら、 「今度、香水でも買いに行くか?」 こくん、と長門が頷く。 「お父さんも一緒に」 「ああ、一樹も誘ってやろう。とりあえず今は、」 と俺は笑みを浮かべ、 「俺の匂いでも移してやろうか?」 冗談のつもりでそう言ったのだが、 「そうして」 と長門が俺の胸の辺りへ頭をすり寄せた。 「……有希」 「…何?」 「俺も一応半分は健全な男子高校生なんだが」 「知っている」 「それならこういうのはまずいと思わないか?」 「これは親子のスキンシップ。よって問題はないと考える」 ……そうかい。 まあ、長門にどうこうしようとは思わないので、娘が甘えてくることを素直に喜ぶとしよう。 俺はブレザーを広げるとその中に長門を入れて抱きしめた。 「こんなもんでいいのか?」 とりあえず多少なりとも匂いは移ると思うんだが。 「いい」 すりっと長門が俺の胸へ頭をすりつける。 「お母さん、大好き」 「俺も有希が大好きだぞ」 なんと言ったって、可愛い娘だからな。 そう小さく笑った時、どさりと音がした。 見るとドアが開いており、古泉が硬直していた。 「どうしたんだ? 古泉」 「……な、何をやってるんですか…」 作り笑顔が引き攣っている。 俺は長門と顔を見合わせると、ふたりで同時に古泉を見、声を揃えて言った。 「親子のスキンシップ」 古泉は何故だか余計に脱力し、俺と長門は揃って首を傾げたのだった。 それからしばらくして、やっと復帰した古泉はどことなく不貞腐れた顔でいつもの席につき、詰まらなさそうに肘をついて言った。 「本当に、長門さんと仲良くなりましたね」 「これだけ懐かれて嫌いになるはずないだろ」 「そうでしょうね。特にあなたは」 と古泉はため息を吐き、 「まさかこんな形で、世の男親と同じ悲哀を味わうことになろうとは思いもしませんでしたよ」 「何言ってんだか」 俺は呆れつつ、長門を解放し、 「ちゃんと今度の土曜はあけておけよ」 と言った。 それを聞きとがめた古泉が、 「土曜とは何の話ですか?」 「お前には後で話す」 余計にむすっとした顔になる古泉を横目で見ながらにやにや笑う俺の心境を一言で言うなら、「面白い」の一言で事足りるだろう。 古泉があからさまに嫉妬して、苛立っているのが見て取れるのが面白いことこの上ない。 だが、長門はちゃんと娘として、父親の心配もしてやるらしい。 古泉に聞こえないよう、小声で、 「お父さんにあんな風に言っても、大丈夫?」 「大丈夫だって。これくらいで妬くような奴は放っときゃいいんだよ」 わざと声を大きくして聞こえよがしに言ってやると、ますます古泉の眉間の皺が深くなるのが分かった。 それでも、朝比奈さんとハルヒがやってくるとすぐに通常仕様の作り笑いに戻ったのは流石だったが。 その日の帰り道のことだ。 いつものように一緒に帰りながら、女三人と分かれるようにして少しハルヒたちから距離を取った俺は、小声で一樹に話しかけた。 「今日、お前の部屋に寄っていいか?」 「構いませんよ。ちゃんと説明してくださるんでしょう?」 表面上は笑顔のまま、その実、結構怒っている声で言う一樹に、俺は苦笑する。 「ああ。だから、いいよな?」 「ええ」 俺が部屋に行くというだけで、少しだけとはいえ怒りを和らげる一樹に俺は苦笑しつつ、ハルヒに見えないようにこっそりと一樹の手を握った。 それはほとんど一瞬で、すぐに放してしまったが、一樹は嬉しそうに、穏やかな笑みを浮かべた。 ハルヒたちと別れ、その足で一樹の部屋へ上がりこむ。 ソファに腰を下ろすと、 「それで、長門さんと何の相談をしてたんです?」 と険しい顔で詰問してきた一樹に、悪辣な笑みを返す。 「その前に、コーヒーくらい出したらどうだ?」 俺らしからぬ図々しい発言に、一樹は一瞬唖然としたようだったが、諦めるように頭を振ると、 「分かりました」 と立ち上がった。 コーヒーを淹れ終るのを待ちながら、俺はじーっと一樹の背中を見ていたのだが、 「……何なんですか?」 と困惑した顔で一樹が振り返った。 「別に?」 しかし、視線だけで気付く勘のよさってのはいいのか悪いのかよく分からんな。 俺といるってのにそんな風に張り詰めてなくてもいいと思うんだが。 「あなたといるから、かもしれませんよ。あなたは油断のならない人ですから」 はぁ? そういうことを言うのか。 それなら、と俺はソファから立ち上がり、一樹を背後から抱きしめた。 「わっ」 と一樹が声を上げたのは、カップを取り落としかけたからだ。 「本当に…何なんです?」 非難するような目を向けるのは勝手だが、口元が緩んでるんじゃあ効果はほとんどないな。 俺は長門が俺にしていたように、一樹の背中に顔をすり寄せながら、 「甘えたいだけ」 「甘えたい…って……」 ぽかんとする一樹の顔を見上げ、俺はその間抜け面に軽くキスをする。 「さっき長門にやった分の愛をくれ、ってところかな」 「…よく分かりませんね」 「お前に愛されて、満たされてるからこそ、長門とか、他の誰かを満たしたいと思うんだろうなってことだ」 「随分と、僕を嬉しがらせるようなことを言ってくれますね」 言いながら一樹は体をひねり、俺を抱きしめた。 「そういうことでしたらいくらでも、甘やかしてあげますよ」 抱きしめられたせいで、くん、と鼻を鳴らすまでもなく、一樹の匂いを感じられた。 どことなく、甘くて優しい匂い。 「長門がな、」 思わず緩んでくる口元を一樹の肩へ隠しながら俺は言う。 「俺に向かって、いい匂いがする、って言ってたんだけど、お前の方がいい匂いだな」 「そう…ですか?」 「うん。好きだな、お前の匂い」 「僕は、あなたの匂いが好きですよ」 そう言った一樹が、俺の髪へ顔を近づけ、首筋にキスをした。 「くすぐったいだろ」 文句を言いながらも、それが実際は誘い文句に近いものであることを、俺自身分かっている。 さざめくような笑い声を立てる俺に、 「今日、あんなことをしていたのはそんな話をしていたからですか?」 「そうだ。大体、長門は俺を母親代わりに思ってるんだから、妬く必要はないだろ?」 「分かっていてもヤキモチを焼いてしまう僕の気持ちも分かっていただきたいんですけどね」 とため息を吐いた一樹に俺は苦笑し、 「それなら、俺がちょっとのことで妬いても怒るなよ」 「怒りませんよ。むしろ、嬉しいですね。あなたが妬いてくださったら、とても」 「…ばか」 小さく毒づくと、唇にキスされた。 触れるだけじゃ足りなくて、首に腕を回せばキスは自然と深くなる。 そうして、そのまま横抱きに抱え上げられてしまえば、後のコースは決まりきっている。 冷め切ったコーヒーを飲みながら、土曜日に長門のために香水を買いに行く計画を話すんだろうさ。 |