「世界の曖昧な境界線A」とリンクした作品です











世界の曖昧な境界線B



なんとなく眠れずにいると、窓の外から小さな音が聞こえ始めた。
「…雨か」
呟きながら体を起こし、窓の外を見る。
細い糸のような雨が降り始めていた。
その時思い出したのは、結構前に買った揃いの傘とレインシューズだ。
女物のそれを堂々と身につける機会がなく、ずっと仕舞い込んであったのだが、このまま駄目にしてしまうのも勿体無いだろう。
幸い、妹は眠っていて見つかる心配もない。
俺は女物の服に着替えると、レインシューズを履き、傘をさして家を出た。
夜中、それも雨が降っていると出歩く人間もほとんどいないらしい。
俺は安心して夜の散歩を始めた。
古泉に声を掛けるべきかと思わないでもないのだが、日々なんのかんのと忙しいあいつを更に引っ張り回すこともないだろうと思い、やめた。
後で文句くらい言われるかもしれないが、睡眠を妨げたくなかったと言えば分かってくれるだろう。
そうして、歩く道は、なんとなくいつもと違って見えた。
暗いのに、雨に濡れた路面が街灯の光を受けて艶やかに輝くからだろうか。
それとも、極端に人影がないからだろうか。
見知ったはずの道が、全然知らないそれに思えて、俺はどことなく心が浮き立つのを感じた。
こういう時、恐怖や不安よりも好奇心が先に立つあたり、俺もSOS団員なんだろうな。
そうして歩いていくと、不意に小さな公園に出た。
さて、こんなところに公園があったかな、と思いつつ、足を進めると、きいっと何かが軋むような音がした。
音に引かれて目を向けると、ブランコに腰掛けた子供の姿が見えた。
暗くてそれまで気がつかなかったが、どうやらずっとそこに座っていたらしい。
びしょ濡れになった小学生くらいの子供はブランコをこぐでなく、ただ俯いて地面を見つめていた。
子供らしからぬ視線や、微かに見える髪の色が、どこか古泉を彷彿させた。
元々俺は子供が好きな方だが、そこでつい声を掛けちまったのはやっぱり、そいつが古泉に似ていたからなんだろうな。
「そんなところで何やってるんだ?」
と言うと、そいつは驚いたように顔を上げた。
俺はよいしょとブランコの周りの低い柵を乗り越えると、そいつに近づいた。
「風邪引くぞ」
そう言っても、そいつはむしろ迷惑そうに首を振り、
「大丈夫です。気にしないでください」
と言った。
「気にしないでって言われてもな…」
子供の割にしっかりした敬語を使うところも、丁寧な物腰のくせに鬱陶しそうにするところも古泉と似てる、と思いながら頭を掻いた。
「とりあえず、傘をさし掛けるくらいは許してくれよ」
言いながら、少しだけ子供との距離を詰め、傘をさしかけた。
子供は困惑しているようだったが、逃げ出すつもりはないらしい。
ただし、礼を言うこともなく、ただ黙り込んでいた。
なんというか……沈黙が痛いんだが、こういう時何を言えばいいんだろうな。
古泉ならすぐ思いつくんだろうが、俺の頭じゃちょっと間に合わない。
試しに、
「あー……悩み事か? 少年」
と聞いてみた。
返事は期待していなかったのだが、意外にもそいつは頷いた。
せっかく会話の糸口を掴んだんだ。
放置するわけにもいかんだろう、と俺は、
「そっか。小さいのに大変だな。俺でよかったら話を聞くけど、どうする?」
と尋ねた。
だが、そいつは冷たい声で、
「あなたには関係ないでしょう?」
と言った。
そういうところも出会ったばかりの古泉を思い出させるな。
古泉、まさかお前の隠し子とかじゃないだろうな、おい。
などと考えていることはおくびにも出さず、俺は適当にまくし立てた。
「そりゃそうなんだが、相談ごとってのは下手に事情を知ってる人間よりも、何も知らない第三者にした方がいい時もあるんだぞ。事情通だと話した内容が他に伝わったりすることもあるし、あるいはそいつの都合のいいように考えを曲げられることもあるかもしれない。それくらいなら、何も知らない相手の方がいいと思わないか? 信用出来ないって言うんなら、俺はお前の名前を聞かないし、俺もお前に名乗らない。それなら安心だろ?」
「…どうしてそんなことを言うんですか? あなたには関係ないのに」
まあそうなんだよな。
俺も分かってるから、そう無関係を強調してくれるな。
俺は苦笑しつつ、
「いや…お前、ちょっと似てるんだよ。俺の、」
恋人って言うのはなんとなく恥ずかしいな。
「知り合いに」
躊躇ったせいで生まれた妙な間を打ち消すべく、俺は話し始めた。
「そいつさ、お前みたいに敬語で話すんだ。同級生の俺にも、他のやつにもだぞ。ちょっと変な奴だろ」
返事はないが、目はこっちを向いているから一応聞いているんだろう。
「いつもにこにこ笑ってるくせに、何考えてんだかよく分からなくって、俺には理不尽に思えるようなことでいきなり怒り出したりもするんだ」
というか、あれは妬いてるんだろうな。
妬かれるいわれさえ、俺にはないと思うのだが。
ちょっとスカート丈を短くしただけだぞ。
「知り合ってもう大分経つのに、未だに隠し事ばっかりされてるし、そうじゃなくても胡散臭いのに、余計怪しく思えるんだよな」
あいつの立場を考えれば仕方ないのかもしれないが、それにしたってもう少し本当の姿を見せてくれたっていいと思うんだが、あいつにそれを言ったところで無駄なんだろうな。
「でも、優しいところもあって、いい奴なんだ」
だから好きなんだよな。
「お前、そいつと似てるよ」
何を言ってるのか自分でも分からなくなってきてそう言ったのだが、子供はぽかんとして俺を見つめているだけだった。
「お前、聞いてないだろ」
ハルヒみたいに唇を尖らせて言うと、子供は慌てたように、
「あ、ごめんなさい」
と謝った。
謝って欲しかったんじゃないんだが、しかし、その表情や謝り方がいかにも子供っぽくて可愛かった。
「律儀に謝るなって。俺も途中で何話してるんだか分からなくなってきてたし、それに、俺の方が話を聞いてもらってどうするんだって話だよな」
俺がそう言いながら、子供の柔らかい髪をくしゃくしゃと撫でてやると、子供も小さく笑った。
可愛い。
というか、この守りたいような、構ってやりたくなるような気持ちが、母性本能というものなんだろうか。
俺はつられるように笑みを返しつつ、
「そうやって笑ってろよ。その方が可愛いし、事態だって好転するんじゃないか?」
俺が言った言葉を疑うように首を傾げた子供に、俺は言う。
「さっき話した俺の知り合いも、いつも笑ってるんだけどな、そのせいか、何やってもうまく行く奴なんだ。不可能なんてないんじゃないかと思うくらいにな。だから、笑ってたら大概何とかなるんじゃないか? あ、ただし、人に謝る時と不幸事があった時はのぞけよ。すみませんとか言いながら笑ってるの見るとぶん殴ってやりたくなるからな」
「気をつけます」
「ん、いい返事だ」
それで少年、と俺は子供と目を合わせるべく屈んだ。
「悩み事はどうする? 一人で悩むか? それとも、俺に話すか?」
子供は笑みを浮かべたまま、
「おかしな話だと思うかもしれませんけど、聞いてくれますか?」
「ああ、いいぞ。言っておくが、おかしな話ってのにも俺は慣れてるからな」
そう言ってやると、何がよかったのか、少しばかり子供のまとっていた空気が緩んだような気がした。
そうして、
「お姉さんは、この世界がつい半年ばかりも前に始まったものだとしたら、どう思いますか?」
と問われた俺の気分と言ったらなんとも言い難いものだった。
似てる似てると思っていたが、まさか発言まで古泉と似てるとは思わなかった。
俺は思わず、
「……なあ、そういうの流行ってんのか?」
と尋ねたが、子供は不思議そうに首を傾げるばかりだ。
「いや、さっき言った俺の知り合いも、結構前にそんなことを言ってたから。…でもまあ、」
まさか、このか弱そうな子供まで機関のメンバーだったりはしないだろう。
「……ないな。うん、ない」
と俺は勝手に結論付け、
「――ええと、半年前に世界が始まったんだとしたらどう思うか、だよな?」
「うん」
「…そうだな……。あんまり関係ないと思うんじゃないか?」
「どうしてです? だって、自分の覚えてるものが全部偽物の記憶ってことになっちゃうんですよ?」
「人間の記憶なんて曖昧なものだからな。たとえ世界が始まったのが半年前だろうが三年前だろうが約137億年前だろうが、勝手に思い込んで記憶を作っちまうことはあるし、逆にあったことを忘れたりもするだろ。大事なのは、今、自分が何を覚えていて、それでどうしたいと考えたりするかってことだと思う」
大体、と俺は続ける。
「未来人でもなければタイムマシンを持っているわけでもないわれわれ凡人にとって、過去がいつ始まったかなんて関係ないと思わないか? 自力では行けもしないんだぞ」
子供は驚いたように目を見開きながら、
「じゃあ、お姉さんは怖くないんですか? 自分のこれまでの人生が、全部作られたものだとしても、嫌じゃないんですか?」
「それが作られたものでも、そうじゃなくても、結果として俺が今ここにいることに変わりはないんだろ。だったら、同じじゃないか」
「同じ…」
「人間の知覚できる世界なんて狭いんだ。人間の知らないところで宇宙人が何かしてようが、異世界人が何かしてようが、知らなければない事と同じだろ」
我ながら強引な理論だが、いつぞやに古泉が言っていた「人間原理」というやつを極論化してやると大体こんな感じになるだろう。
矛盾や理論の穴を指摘される前に、と俺は笑ってごまかしながら話題転換を図った。
「そんな哲学的なことで悩んでるくらいなら、いっそ女の子のことで悩めよ。好きな子とかいないのか?」
それに対する返事は、
「お姉さんはいるんですか? 好きな人」
というものだった。
今更だが、お姉さんと呼ばれるのもなんとなくくすぐったいものだな。
そんなことを思いながら、考える。
正直に答えても…まあ、大丈夫だろ。
「あー…うん、いるな。いる。というか、恋人がいるんだ」
すると子供はくすっと笑い、
「さっき話してた人でしょう?」
「当たりだ」
…俺、そんなに分かりやすいか?
「どうでしょう」
と楽しそうに笑われた。
笑顔が可愛いのはいいが、その笑いはどうだろうな。
むぅ、と眉を寄せていると、子供がいきなりブランコから立ち上がった。
「ん? 家に戻るのか?」
「はい」
律儀に育てられたらしい子供はわざわざ俺の方へ向き直ると、
「話を聞いてくれて、ありがとうございました」
と頭を下げた。
「いや、俺の方こそ聞いてもらったし。…家、近いのか? 送って行かなくて大丈夫か?」
「大丈夫ですよ。僕の方こそ、送りましょうか? 女性の一人歩きは危ないですし」
女性、と言っても半分だけなんだが。
というか、こんな子供に女性とか言われるとむず痒いぞ。
「…ありがとな。でも、大丈夫だ。お前の方こそ、気をつけろよ」
言いながら、もう一度だけ、と子供の髪を撫でた。
髪の毛が柔らかくて気持ちいい。
その手を離すと、子供はぺこり、ともう一度頭を下げて走っていった。
風邪を引いてなきゃいいんだが、と思いつつ、俺もそろそろ家に帰るべく、公園を出た。
「……にしても、本当に古泉そっくりだったな」
古泉の子供もあんな感じになるんだろうか。
だとしたら、
「…ちょっと、いいかもしれん……」
思わず緩んでくる口元を抑えながら、俺は小さく呟いたのだった。

なお、これは余談なのだが、どうやら俺は知らない間に別の世界に行っていたらしい。
長門によると俺は二時間ばかり世界から消えており、長門が必死になって探している間にひょっこり帰ってきたというのだが、俺には全くそんな自覚はなかった。
そうなると気になるのがあの子供の正体だ。
俺は子供に名前を聞かなかったことを、少なからず後悔した。
もしかするとあれが、別の世界の古泉だったかもしれないと思っても、確かめられないんだからな。
かっこつけるんじゃなかった。
人間、慣れないことはするもんじゃないな。