気がつけば、一樹とデートに出かけるのも珍しくはなくなっている。 それでも、この日のことがなんとなく記憶にとどめられているのはやっぱり、一樹の気遣いが嬉しかったからなんだろうな。 その日も、いつもと同じように俺は大きめのカバンを手にひとりで家を出て、駅前近くの身障者用トイレに入った。 もちろん、着替えのためだ。 可愛げのかけらもないシャツを脱ぎ、ブラをつけて、キャミソールを被るようにして着た。 ズボンに重ねるように短めのスカートへ足を通し、ズボンを脱げば隠れていたニーソックスが現れる。 ついでに靴もスニーカーから革靴へ代え、白いパーカーを羽織れば着替えは完了だ。 脱いだ服をカバンの中に仕舞いこみ、薄く化粧をしてトイレを出た。 まさかずっと公衆トイレを見張っていたような暇人がいるとも思えないので、堂々と。 我ながら浮き足立ったとしか表現のしようもないような足取りで駅前の待ち合わせ場所に向かう。 そこに立っていた一樹の姿に、思わず顔が綻んだ。 「一樹、お待たせ」 ぽん、と肩を叩くと、一樹も笑顔で振り向いた。 「おはようございます。今日も、可愛いですね」 恥ずかしげもなくそういうセリフを吐くな。 嬉しくないわけじゃないが流石にくすぐったいぞ。 「じゃあ、どう言って欲しいんですか? 希望があるんでしたら僕はそれに合わせますよ」 どう、と言われると困るな。 女の格好をしている時くらい女として褒められたいという欲求は俺も持っているので、全く言われないとなるのは寂しい。 かといって、ああも平然と言われると、一樹を見ていられなくなるくらい恥ずかしくなる。 難しいところだ。 いっそ恥らいながら言ってみたらどうだ? 「恥じらいながら、ですか」 うーん、と考え込んだ一樹は、小さく笑うと、俺の耳元へ唇を寄せ、 「……その……とても、…似合ってる、よ」 耳に慣れない常体の言葉に、俺の顔が赤くなる。 思わず一樹と距離をとると、一樹も少し恥ずかしそうに笑い、 「やっぱりいけませんね。演技はあなたの好むところではないと思っても、すっかりこの状態が定着してしまっていて、素の自分を見せる方がよっぽど恥ずかしく感じられます」 それはつまり、今のが素だというのだろうか。 あの、ちょっと頼りないような、どことなく庇護欲をそそるような話し方と声が、一樹の「本当」なんだろうか。 それが嘘でも本当でも、 「…と、とりあえず、今はまだ…早いみたいだな…」 さらりと褒められた方がよっぽど恥ずかしくなかった。 俺が顔を赤くして言うと、一樹はいつものように微笑み、 「すみません」 と謝った。 別に、謝る必要なんかないのにな。 俺は一樹の腕を取ると、 「今日はどこに行くんだ?」 と聞いた。 どうせ一樹の答えは決まっているんだろう、と思っていると案の定、 「あなたのお好きなところへ」 と言われた。 もう少し自己主張をしたっていいと思うんだが、それを今ここで言ったって無駄だろう。 俺はため息とまではいかないまでも、小さく息を吐き、 「んじゃ、買い物したい」 「いいですね。僕も、ちょっと見たい物があったんですよ」 見たいものって何だよ。 言うまでもなく、俺がこういう格好をして買いに行く物と言えば、女の子向けの物だ。 服やアクセサリー、それから小物類だな。 そういうものをおいてある店に行くのに、一樹が見たがるようなものがあると思えない。 俺が言うと、一樹は悪戯っぽく笑って、 「そういうところにも、ボードゲームは置いてあったりするんですよ」 とウィンクした。 キモイ。 キモイんだが……なんとなく可愛く思えるのが悔しいぞ。 これが惚れた欲目ってやつか。 俺はため息を吐き、一樹と共に歩きだした。 ピンクとか白とか赤で内装を施された店に、躊躇いもなく足を踏み入れることが出来るだけでも、女の子の格好をする価値はあると思う。 それを思うと、いくら女連れ状態であっても堂々と入れ、かつ、しげしげとおいてある商品を見ていられる一樹は凄いな。 一人で来てるとか言うなよ。 「それはありませんよ」 と一樹は笑い、 「あなたとだからこんな店にも入れるんです。それより、これはどうです?」 と一樹が見せたのは、木で出来た小さなゲームのようだった。 白と茶色に分かれた小鳥の駒がいくつか載っていて可愛いが、なんのゲームだ? 盤上に引かれたのは井形のラインだけ。 見覚えがあるような気もするが、さて、なんだろうな。 「まるばつゲームといえば分かるのではないでしょうか」 首を傾げた俺に古泉がそう言い、俺は頷いた。 なるほど、まるばつか。 「可愛いな」 俺が言うと古泉は満足げに笑い、 「これ、買ってきますね」 「ちょっと待て」 まさかと思うがこれを部室に持ち込むつもりか? それは流石にまずいと思うんだが。 まずいというか……野郎二人でやるには可愛らし過ぎるだろう。 「そうですね…。では、これは自宅用ということにしましょう」 お前の部屋に可愛いゲームが置いてあるってのもシュールだがな。 「僕の部屋に来るのはあなたくらいですから、いいでしょう。もし涼宮さんが来たいと仰られたとしても、これくらいの小さなゲームでしたらいくらでも隠し場所はありますし。それから、」 と古泉はゲームの箱を取り上げながら言った。 「たまたま昨日、バイト料が入りまして、懐がいくらか暖かいので、よろしければ僕からあなたへ、何かプレゼントさせてはくださいませんか?」 プレゼント、ねえ? そう言われても、俺はいつだって一樹に奢ってもらったりしてるし、これ以上負担を掛けたくないのだが、その気持ちは嬉しいな。 しかし、受けるわけにはいかないだろう。 「悪いが、プレゼントをもらうのは誕生日とクリスマスだけにしてるんでな。なんでもない日のプレゼントは勘弁してくれ」 「それは残念です」 悲しそうに苦笑した一樹から顔をそらした俺は、棚に並んでいた可愛らしいカップに目を向けた。 「これ、一樹に似てるよな」 と指差すのは、カップに書かれた茶色いうさぎのイラストだ。 垂れ下がった耳がどこか寂しそうで、庇護欲をそそる。 色も、一樹の髪の色とちょっと似ていた。 「似てますか?」 一樹は不本意そうだが、よく似てると思うぞ。 「欲しいけど、置き場がないんだよなー…」 こういう可愛いものが好きな妹の目に付くところに置いておく勇気はないし、そうなると俺の家に隠し場所はなくなってしまう。 というか、隠していたらカップの意味がないだろう。 「あなたさえよければ、僕の部屋に置いていいですよ」 一樹の部屋に俺のカップを置くってのも、なんとなく意味深だな、おい。 「い、いや、そのっ、深い意味があってのことではなくてですね…!」 おたおたと、らしくもなく慌てふためく一樹に俺は小さく吹き出し、 「分かってるって。言ってみただけだろ」 でも、それもいいな。 俺が笑うと、一樹もほっとしたように微笑んだ。 置き場が確保できたので、俺は上機嫌でカップを購入した。 それからゲーセンに行き、一樹が俺のためにかぬいぐるみを取ろうと躍起になるのを笑いながら見たりして過ごした。 戦利品を抱えて帰るのは一樹の部屋で、俺はいそいそとカップを取り出し、洗って干す。 あとでコーヒーを飲む時にでも使おう。 一樹が取ってくれたくまのぬいぐるみを抱えてソファに腰を下ろすと、先に座っていた一樹が小さく笑った。 なんだよ。 「可愛いと思っただけです」 だから、恥ずかしげもなくそんなこと言うなってのに。 一樹を見ていられなくなって、ぬいぐるみに顔を埋めると、赤くなっているだろう耳元で囁かれた。 「どんなあなたも好きですよ」 どうしてそういうことをわざわざ言うんだよ。 「言いたくなったからです。それ以上に理由が必要ですか?」 俺は恨みがましく一樹を睨みつけた後、答えの代わりにそっと口付けた。 嬉しそうに笑った一樹は、テーブルの上に買って来たばかりのゲームを広げながら、 「少し遊びませんか? まだ帰らなくてもいいんでしょう?」 俺は頷いて、愛らしい駒へ手を伸ばした。 結局この日はゲームに興じたり、テレビを見ながら話をしたりして過ごした。 そんな風に普通に過ごせるだけでも嬉しくてたまらないのに、一樹はもうひとつ、俺を喜ばせるようなことを用意していてくれた。 男の格好に着替えて、帰ろうとした俺に、古泉が言った。 「これを受け取ってはくださいませんか?」 言葉と共に差し出されたのは、小さなストラップだった。 クロスをかたどったそれは可愛らしくもあるが、男の俺が持ち歩いても不自然ではない程度のもので、俺はじっと古泉を見つめて尋ねた。 「どうしたんだ?」 「これなら、あなたでも身につけていてくださるでしょう?」 それはそうだが、意図が分からない。 プレゼントは断ると言っただろ? 「プレゼントというには余りにも安物ですから、気にしないでください。それに、それは――そう、僕なりの所有権の主張なんですよ。所有権では響きが悪いですが、言ってみれば僕があなたを愛しているという物証のようなものです」 「…なんでそんなものが必要なんだ?」 俺が問うと、古泉は苦い笑いを浮かべて、 「何が起こるか分かりませんから。僕も――不安になるんですよ。あなたと付き合っているというこれが、僕の妄想なのではないか。あるいは、明日になれば醒める夢なのではないかと、そんなことばかり考えてしまうんです。そうでなければ、あなたが僕を忘れてしまうということがあるかもしれません。記憶喪失なんて、涼宮さんが好みそうなところですからね。そんなことになった時、僕とあなたのことを証明するものが欲しいと思ったんです」 「…そうか」 「僕としては指輪でもいいと思ったんですが、それはまだ早いでしょう?」 「指輪ってお前…!」 思わず文句に似た言葉を吐こうとした口を、寸でのところで閉じる。 むしろ、ちゃんと思い止まったことを褒めてやるべきだろう。 「それでは、これは受け取ってもらえますね?」 「…ま、いいだろ」 これくらいなら、と俺はそれを手に取り、ポケットから取り出した携帯につけていたストラップと付け替えた。 「ありがとな」 「いいえ、こちらこそ、ありがとうございます。受け取っていただけて、嬉しいですよ」 「…今度、お前の分も買いに行こう」 俺が言うと、古泉は驚いたように目を見開き、 「ありがとうございます」 と微笑んだ。 その笑顔に、胸が熱くなる。 ここが玄関先だということも、俺が今男の格好で、精神的にもどちらかというと男に近いと感じていることも、分かっている。 分かっているんだが止められない。 仕方ないだろ。 自分で思ってた以上に、俺はこいつが好きなんだから。 俺はぐいっと古泉の胸倉を掴んで引き寄せると、触れるだけのキスをした。 すぐさまぱっと手を離すと、 「じゃあな」 と言い残して俺は古泉の部屋を飛び出した。 その時古泉がどんな顔をしていたかなんて俺は知りやしない。 自分の赤くなった顔を見せないようにするので精一杯だったからな。 |