憂き世月



密やかに秋の気配が漂いはじめた夜のことだった。
近くの寄り合いに出かけたきりなかなか帰ってこない一樹を案じて、キョンは店仕舞いをしながら静かにその帰りを待っていた。
有希は既に寝かしつけたし、みくるにも休んでいいと伝えた。
ひとりでいればいくらか不安が頭をもたげてきても不思議はないのに、キョンは妙に嬉しそうな顔をしていた。
何かいいことがあったような、それを伝えずにはいられないような、そんな表情だ。
「…早く帰って来いよ」
キョンは小さく呟いて表の方に目を向けた。
もう夜半が近く、出歩く人の影もない。
そんな時間まで、一樹は何をしているのだろうか。
やがて、店の掃除も全て済んだ頃になって、一樹が帰ってきた。
「遅くなりました」
とどこか硬い顔で言った一樹に、キョンは怒った顔を作ろうとしながら、しかしどこか緩んだ表情で、
「本当に遅いぞ。どこに寄り道してたんだ?」
キョンを見慣れていない人間であっても、キョンが怒っていないことは一目瞭然だっただろう。
いつもの一樹なら、苦笑混じりに言い訳染みた事情説明をしたはずだ。
ところが、一樹の口から出たのは、予想もできない一言だった。
「何も聞かずに、別れてくれませんか」
「……はぁ? 今度はなんの冗談だよ」
訝しむキョンに、一樹は畳み掛ける。
「冗談でも何でもありません。……別れてください」
「な、何言い出すんだよ! 俺、何かしたか!?」
キョンは一樹の肩を掴もうとした。
しかし、
「……元々、無理だったんですよ」
キョンの手が、寸前でぴくりと停止した。
信じられない、と言わんばかりに見開かれた視線の先には、恐ろしく冷たい目をした一樹がいた。
「はじめは、あなたみたいな珍しいものを自分の物に出来ればそれでいいかとも思いましたけどね。流石に、飽きがきました。生活も、思ったより面白くありませんし、楽でもないですしね。だから――僕はここを出て行きます」
「…うそ……だろ…」
縋るように、キョンは呟いた。
一樹が本当に嘘をついているのか、それともキョンがそう思いたがっているだけなのかは分からない。
ただ、一樹の目はどこまでも冷淡だった。
「今ならまだ家に戻れるでしょう。そうでなくても、つてはありますし。前は選り好みをしていましたが、もう一度士分に戻れるなら、僕は何でも出来ますよ。ああ、士分に戻らなくてもいいですね。ここから出ていけるなら」
「な…んで……なんで、そんなこと…言うんだよ…」
ぼろ、とキョンの目から涙が零れても、一樹は眉一つ動かさなかった。
「あなたへの興味が失せたからですよ」
「…ぅ……」
きりりと噛み締めたキョンの唇の間から、苦しみをそのまま音にしたような声が漏れた。
その体から力が抜け、がくりと膝をつく。
「…さようなら」
一樹はキョンを助け起こそうともせず、ただそれだけを言って出て行った。
「…ぅ、あ、ああああああぁぁぁぁぁ――…!」
闇夜を裂くようなキョンの悲鳴に、耳すら貸さずに。
とんとん、と軽く階段を踏む音がして、下りてきたのは有希だった。
心配そうな顔をしたみくるもその後ろから下りてくる。
「お母さん…」
「ゆ、き…っ」
有希は涙を流すキョンに近づくと、いつも通りの静かな声で言った。
「――聞いて」

店を出て行った一樹は、ぎゅ、と顔を顰めながらも歩き続けた。
向かう先は、店から少し離れた荒れ寺だ。
今はもう住む人もなく、時折柄の悪い連中が住みついたりする上、本来なら出入りがかなわなくなるはずの夜間の通行を許すもととなっている、厄介な場所である。
手入れのされない竹林がうっそりと茂る辺りに一樹が足を踏み入れると、頭まで闇色の頭巾で隠した男が姿を見せた。
「別れの挨拶は済んだか?」
「ええ。…お待たせしてすみませんね」
皮肉な調子で言った一樹に、男は小さく喉を鳴らした。
「誰も彼もがお前くらい分かりやすければ、俺の仕事もやりやすいんだがな」
一樹は答えない。
代わりに、別の言葉を口にした。
「あの人は、僕が出て行っただけでは満足出来ないんですか」
「人間ってのはそんなもんだろ。自分や、自分の大事なものを脅かす存在にはとことん汚くなれる」
「大事なもののためだからこそ、僕は汚いことはしたくないと思うのですけれど」
「生まれた時からあらゆるものを持ち合わせていたお坊ちゃんの言うことは流石に違うな」
と男はもう一度喉を鳴らした。
その嫌な響きに、一樹は顔を歪めた。
男はそれにさえ笑いながら、
「何にせよ、俺に言ったところで無駄だ。どうしても文句が言いたきゃ、直接あの人のところへいって言うんだな」
と腰に帯びていた刀を抜いた。
一樹は思わず後退りかけたが、踏みとどまる。
まるで、覚悟を決めるように。
「そうそう。そうやって大人しく斬られてくれれば、お前の大事なものには一切手出ししねえからな」
「……約束は、守ってください」
破ったら化けて出てやる、と言わんばかりの迫力で一樹が言うと、男は意外にも神妙に頷いた。
「ああ。こっちも、そこそこの職業意識は持ち合わせているからな。あの人はとりあえず、お前さえ消せば満足らしいし、安心しろよ」
それに同意するように、一樹は目を閉じた。
男の刀が振り上げられる。
その白い刀身に月の光が射し、冷たい光を返した。
容赦のない光と共に、それが振り下ろされると何故か、キンと硬い音がした。
その音に驚いて一樹が目を開けると、目の前に短刀を手にした若い男が立ちはだかっていた。
その男には見覚えがあった。
「あなたは……谷口さん…!?」
それはキョンの友人で、行商やなんかで糊口をしのいでいるという男のはずだった。
しかし、闇に紛れるような服装といい、短刀で刀を押さえている姿といい、とても行商人には見えない。
谷口は、にやりと口の端で笑って見せる余裕さえ見せながら言った。
「怪我はないよな」
「え、ええ、ありませんけど……」
「んじゃ、ちょっと離れてろよ」
そう言われてもすぐには動けずにいた一樹を、誰かが引っ張った。
「え!?」
驚く一樹に笑い掛けるのは、やはりキョンの友人で、谷口と一緒に行動していることが多い、瓦版売りの国木田だった。
彼もまた、谷口と似たような服装をしていたが、その手に持っているのは分銅のついた紐のようだった。
「有希さんに頼まれたんだよ。君のことを守って欲しいってね」
「有希さんが…」
「僕としても、キョンの幸せを応援してあげたいと思ってるからね。悪いけど、今日の午後からずっと、つけさせてもらったよ」
「ずっと…ですか…」
「気が付いてなかったよね? もし、気付かれてたんだったら、僕も廃業を考えるんだけど」
「全く気付きませんでした。でも、あなた方は一体…」
一樹のもっともな問いに、国木田は笑っただけだった。
そこへ、息を切らして駆けつけてきたのはキョンだった。
「い、つきっ!!」
「っ、な、どうしてここに…!」
驚いてそう叫んだ一樹に、キョンは言い放った。
「そんなことはどうでもいい! お前、何考えてんだよ!」
その目にはまだ涙の跡が残っていたが、それ以上に怒りに燃えていた。
「なんで、自分から命を捨てようとするんだよ!」
「……」
一樹は答えられないのか沈黙したままだった。
「わざわざ、お前がいなくなっても俺が悲しまないように、あんな、あんな嘘まで吐いて…っ」
冷たい言葉と視線を思い出したのか、キョンの表情が苦しみに歪む。
「……お前はっ、お腹の子まで、有希と同じような、父なし子にするつもりなのかよ!?」
「――えぇっ!?」
間抜けな声を上げた一樹は、慌てて、
「そ、それは本当ですか!?」
キョンは頷き、
「それが分かったから、それを伝えようと思って、ひとりでお前の帰りを待ってたのに……」
「すみません。…でも、それじゃあ、」
と一樹は苦笑を浮かべた。
困っているのに、どこか嬉しそうな、柔らか味のある笑みだ。
「何があっても、死ねませんね」
「…当たり前だ、ばか」
毒づいて、キョンは一樹を抱きしめた。
そうしている間に、刀の男は谷口と国木田によって地面に組み伏せられていた。
谷口が短刀で刀と対等に渡りあい、それを助けるように、国木田が紐で男の足を絡めとったらしい。
さらにその体を縛り上げながら、
「さて、話を聞かせてもらおうかな」
と国木田は言い、それから一樹へ目を向けた。
「それとも、先に君に話を聞かせてもらった方がいいのかな」
一樹は一瞬躊躇ったが、
「僕から、お話しします。助けていただきましたし、彼にも、」
と一樹はキョンに目を向け、
「…説明しなければならないでしょうから」
一樹はそう言って、話し始めた。

そもそも、今日一樹の帰りが遅くなったのは、寄り合いの帰りに、この男に声を掛けられたからだった。
男は一樹の父の妻――すなわち一樹の義母――の使いだと言った。
わざわざ訪ねてきた上、店ではなく往来で声を掛けたのは、一樹に、
「死んでもらいたいからだ」
と男は言った。
「あんたが生きてると不安なんだとさ。あんたはなんのかんの言って、頭もよければそこそこ武芸も出来て、立ち回りもうまい。そんなあんたがいつまでも生きていると、自分の子供にとって代わるんじゃないかと思うらしい」
「僕は、古泉の家を出て、姓も捨てた身ですよ? 正式に廃嫡にもなりました。それなのに、まだ不安だと?」
「女ってのは馬鹿だよな。しかしまあ、俺としても仕事なんだ。悪いが死んでくれ」
「そう言われて誰が死ぬと言うんです?」
「だろうな」
と男は喉を鳴らして笑った。
「でも、お前の店と家族を消す、と言ったら?」
男の言葉に、一樹の顔が強張った。
「火の始末に失敗したように見せかけて火を掛けるのはそう難しいことじゃない。そうすれば、たとえ生き残ったところで、火を出した罪に問われて、後はお上が全て始末してくれるだろう。お前の家族も含めてな」
「……やめてください」
血を吐くような思いで言った一樹に、男は笑い、
「おかしなもんだな。見世物になってたようなオトコオンナと、気味の悪い連れ子なんてもんが脅しの材料になるとも思わなかったんだが、お前には十分らしい」
「…っ、彼をそんな風に言う必要はないでしょう。やめてください」
苛立ちも露わにそう言った一樹に、男は言った。
「お前に選ばせてやろう。大人しく殺されるのと、家族と共に殺されるの、どちらがいい?」
選択の必要などなかった。
せめて最後の別れをさせて欲しいと言った一樹に男は諾と答え、一樹は店に戻った。
そして、自分が死ぬことでキョンを悲しませることのないように、わざと酷いことを言った。
はじめは、別れると言えばそれでいいと思ったが、想像以上にキョンの意思は固く、あのように悪し様に言わなければならないと思ったのだろう。
それでもキョンはそれを信じなかったのだが。

話し終えた一樹に、キョンは呆れきった顔で、
「お前、ばかだろ」
と言った。
「大体、あんな風に言われたって、はじめは取り乱しても、後で冷静になれば嘘だって分かるし、お前が死んだと知ったら余計に怪しんだはずだ。結果として、お前を殺したのが誰か知ったら、俺は谷口と国木田に依頼することも厭わなかったぞ」
「すみません」
と謝った一樹だったが、
「その、谷口さんと国木田さんについてなのですが、一体何者なんですか?」
キョンはきょとんとした顔をした後、
「…あれ、言ってなかったか?」
「行商人と瓦版売りとしか。でも、あの身のこなしではそれだけではないでしょう」
頷いたキョンは確認するように国木田に目を向けた。
国木田はいつものように笑みを浮かべながら、
「言っちゃっていいよ。彼なら大丈夫だろうから」
「なら自分で言ったらどうなんだ?」
「うーん、名乗れるような職業じゃないと思うんだけどね。キョンが言い辛いなら」
そう言って国木田は一樹に向き直ると、
「表向きの仕事は前から言ってた通り、季節物を適当に商ってるいい加減な行商人と、売れない瓦版売りなんだけどね。それだけで食べていけるわけじゃないし、第一、表向きの仕事は目隠しでしかないんだ」
さらりと言って、国木田は薄く笑うと、
「僕たちの本業は、世の中のゴミみたいな人間の掃除なんだ。そう言えば、どういうことか分かるよね?」
一樹はその顔を引きつらせながら頷いた。
「だから、本当はこういう人助けはやらないんだけど、まあ、有希さんの頼みだったからね。それに、実を言うと、僕らの方も彼に用があったんだ」
と国木田は縛り上げた男に目をやった。
「彼の雇い主の実家には色々と噂があってね、その辺りを聞きたいと思っていたところなんだよ。だから、」
と国木田はキョンに言った。
「今回のことは気にしなくていいよ」
「……すまん。その言葉に甘えさせてもらう」
「いいって」
「そのついで、というのも難なんだが……この先まだ、一樹が狙われる可能性はあるんだよな?」
「…そうだね。ありえないなんて、楽観的なことは言えないと思うよ」
「それなら、これからも、こいつに何かあると分かったら教えてくれないか?」
「それくらい構わないけど……キョン、」
と国木田は苦笑し、
「守ってやってって頼んだって構わないんだよ?」
「…いいのか?」
「うん。キョンには僕も谷口も世話になってるしね。報酬は店に行った時、いくらかおまけしてくれたのでいいから」
「おまけなんかじゃなくて、俺がおごる。いつでもタダにするから、一樹を……守ってやってくれ」
「分かった」
そういうことだから、と国木田は男に言った。
「僕たちは彼を守るつもりだよ。今度彼に手出しをしたらどうなるか、分かってるよね?」
男の表情は頭巾に隠れて見えない。
しかし、間違いなく慄然としているだろう。
それくらい、国木田の言葉には威圧感が込められていた。

僕たちは彼に用があるから、と言った国木田と谷口を残して、キョンと一樹は荒れ寺を出た。
言葉を掛けあぐねているのか、二人とも黙り込んだまま、暗い道を歩く。
もう少しで店に着く、というところで口を開いたのは、一樹だった。
「…本当に……すみませんでした…」
「全くだ」
とキョンは唇を尖らせた。
「俺を悲しませないようにするって言ったのはどこのどいつだよ」
「すみません。……僕の命であなたと有希さんを守れるなら、それでいいと思ってしまったんです」
「思ってしまった、って言うってことは、今はそれが最善じゃないって分かってんだよな?」
一樹は頷き、
「僕もあなたも有希さんも、無事でいられるような道を探すべきだったんですよね」
「その通りだ。…今回は、有希があらかじめ気を効かせておいてくれたからよかったが、そうじゃなかったらと思うだけでも俺は嫌だぞ」
「すみません」
「……俺も、ああいう変なつてはあるんだから、言ってくれれば力になれたのに」
「…そう言えば、どうしてああいう家業の人とお知り合いになったんです?」
「ああ、それは」
とキョンは苦笑し、
「お前、俺と会った時のこと、覚えてるか?」
「え? ええ、もちろん。…行き倒れていた僕をあなたが助けてくださったんですよね」
「谷口も、そうやって拾ったんだ」
「はぁ…」
「あいつの場合はそこそこ酷い怪我をしていたからその世話をしてやっているうちに国木田があいつを探しに来て、それで色々話を聞くうちに、あいつらの裏家業のことも知ったわけだ。まあ、俺もどちらかというと裏に近いような怪しい家業だったしな」
「……谷口さんの世話をしてたんですか」
「それがどうしたんだ?」
「…いえ。少々妬けるなと思いまして」
一樹の言葉にキョンは一瞬目を見開いた後、小さく声を上げて笑った。
「お前って、意外と嫉妬深いよな」
「あなたにだけですよ」
そう一樹が耳元で囁くと、キョンは顔を赤らめ、
「恥ずかしい奴」
と毒づいた。
やっと見えた店の前には、有希とみくるが立っていた。
「…お帰りなさい」
「おふたりとも、ご無事だったんですね。よかったですぅぅ…」
淡々と言った有希と、今にも泣き出しそうなみくるに、一樹とキョンは顔を見合わせて笑った。
「ただいま帰りました」
「心配掛けてすみません、朝比奈さん」
その柔らかな笑みは、有希とみくるの対照的な姿にというよりもむしろ、帰るべき場所に、共にあるべき人とともにいられることによるものだったのだろう。
四人の影はひとつに溶け込むように、小さな店へと吸い込まれていった。